本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
翌朝、わたしは朝食の皿を前に真剣な顔をしていた。
ベーコン。ソーセージ。スクランブルエッグ。焼いたトマト。トースト。マーマレード。かぼちゃジュース。
どれもおいしそうだ。実際おいしい。
だが問題はそこではない。
地下の秘密の部屋には、空腹のバジリスクがいる。
ベーコン三枚で足りる相手ではない気がした。
というか、絶対に足りない。
「……マイン」
「うん」
「どうして朝食を睨んでいるんだ」
「考え事」
「ろくでもない方だな」
「失礼な」
向かいのドラコが、バターを塗ったパンをかじりながら言った。
最近わたしにナメクジを大量供給させられた人とは思えない落ち着きである。人間、回復するものだなあと感心する一方で、もう少し懲りてもいいのではと思わなくもない。
「今度は何をしでかすつもりだ」
「しでかす前提なのやめて」
「最近の実績が強すぎる」
反論できない。
わたしは小さく咳払いをした。
「ところでお兄さま」
「なんだ」
「クィディッチ選手ってすごくお腹空く?」
「は?」
「すごく肉食べる?」
「話の飛び方が不気味なんだが」
でもこっちとしては切実なのだ。巨大蛇の食事量の目安が分からない。クィディッチ選手とバジリスクでは比較対象としてかなり問題があるのは分かっているが、今のわたしの手元には他に基準がなかった。
「……まあ、練習の後は腹が減る」
「どのくらい?」
「人による」
「丸鶏一羽とか?」
「何の話だ?」
ドラコが本気で嫌そうな顔をした。
その隣でアストリアがスプーンを止めている。聞いてはいけない会話だと判断した顔である。正しい。
わたしはトーストを置いた。
だめだ。朝食の場で解決できる問題ではない。
そもそも、ここから丸鶏を持ち出したら普通に怒られる。
午前の授業が終わる頃には、わたしの頭の中ではもう結論が出ていた。
──厨房に行こう。
ホグワーツの厨房の場所は、本好きとしての探究心から前に調べてあった。城の構造は知っておいて損がないし、おいしい匂いの発生源は把握する価値がある。梨の絵をくすぐると扉になる、という情報を得たときは、設計者の遊び心に少しだけ感心したものだ。
昼休み。
廊下の角を二つ曲がり、人気のない地下へ降りる。
果物の絵が並んだ壁の前で、わたしは梨の脇腹をそっとくすぐった。
絵の中の梨がくすくす笑って身をよじり、そのまま真鍮の取っ手に変わる。
何度見ても不思議だ。ちょっとかわいい。
扉を開けると、あたたかな熱気と、おいしそうな匂いが一気に押し寄せてきた。
「まあ!」
「お客様です!」
「スリザリンのお嬢様!」
「なにかご入用ですか?」
小さな声がいくつも上がり、ずらりと並んだ家事妖精たちが、いっせいにこちらを向いた。
圧がすごい。
わたしは一瞬たじろいだが、ここで引いては空腹のバジリスクがさらに不機嫌になる。がんばれ、わたし。
「えっと……肉が欲しいの」
「はい!」
「どのようなお料理を?」
「料理というか、その……もう少し素材に近い感じで」
「素材」
家事妖精たちが一斉に首をかしげた。
「大きめの生き物……じゃなくて、大きめの肉食の何かが食べられそうなもの」
「大きめの肉食」
「研究用です」
便利な言葉だ。
大抵の無茶は研究用で押し切れる。
もちろん万能ではないが、今はかなり効いた。
妖精たちは顔を見合わせ、数秒後には猛烈な勢いで動き出した。
まな板の上に肉の塊が並び、包丁が走り、紙包みが用意され、紐が結ばれる。仕事が早い。プロ集団だ。しかも誰も細かく聞いてこない。ありがたい。
「鶏肉、牛肉、羊肉、どれになさいますか?」
「えっ」
「あるいは全部」
「全部で」
つい言ってしまった。
言ってから、地下の巨大蛇が好き嫌いをするとは思えないし、むしろ選択肢がある方がいいかもしれないと思い直した。これは合理的判断である。食いしん坊ではない。
やがて、ずっしり重い包みが三つ、わたしの前に置かれた。
見た目からしてかなり本気の量だ。
「ありがとうございます」
「研究がうまくいきますように!」
「必要ならまた呼んでくださいませ!」
送り出される勢いが強すぎて、わたしは半ば押し出されるように厨房を出た。
問題はここからだった。
重い。
すごく重い。
しかも中身が中身なので、落としたくない。廊下に肉汁を垂らしたら、それはもうただの怪しい事件現場である。
わたしは深呼吸を一つして、杖を構えた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
魔力の水滴。ほんの少し。蛇口はひねらない。
包みが三つ、床からふわっと浮いた。
「できた」
思わず小声で呟く。
先生は飛ばない。別のものが天井にも行かない。肉だけが、ちゃんと肉だけが浮いている。
すごい。わたし、えらい。
そのまま廊下をゆっくり進む。肉三包みがわたしの後ろをついてくる光景は客観的にかなり不穏だが、少なくとも制御は完璧だった。うれしい。
途中で二年生くらいの女子生徒とすれ違い、ものすごく変なものを見る目をされた。
仕方ない。
女子トイレへ肉を運ぶ一年生は、どう考えても不審である。
三階の女子トイレに入ると、マートルが鏡の前でぶつぶつ言っていた。
わたしを見るなり、彼女は目を見開いた。
「また来たの!?」
「来たよ」
「しかも何その包み」
「ご飯」
「誰の!?」
ごもっともである。
わたしは答える代わりに、一番端の洗面台へ向かった。蛇の刻印のある蛇口に視線を落とし、喉の奥をひやりとさせる。
『開け』
ごご、と音がして入口が開く。
マートルが悲鳴を上げた。
「また開いたあああああ! そこ何なのよほんとに!!」
「あとで説明する」
「前もそう言った!」
そういえばそうだった。
だが今は説明より給餌が優先だ。
包みを浮かせたまま、わたしは穴へ滑り込んだ。
前回よりは少し慣れたものの、やはり快適とは言い難い。暗い。冷たい。ぬめる。書庫の入口としては減点が大きい。改善の余地しかない。
下に着くと、湿った空気の向こうから、すぐに気配がした。
ずる、ずる、と重い音。
前回と同じ、巨大な質量が床を擦る音だ。
『遅い』
聞き取れた。
前より少し、分かる気がする。たぶん昨日、必死で片言を返したせいだ。
『ごめん。遅くなった』
そう返すと、暗がりの中で金属みたいな鱗が動いた。
わたしは今日、ちゃんと視線を逸らしている。顔は見ない。見ないったら見ない。鏡越しでも試したくない。書庫化計画の前に石像になるのは困る。
『肉、持ってきた』
『……肉!』
声音が変わった。
空気まで変わった気がした。
巨大な頭が少し持ち上がる。音だけで分かる。すごい圧だ。
わたしは包みをそっと床へ降ろした。
『食べていいよ』
『これで全部か』
次の瞬間、包みの一つがばりっと裂けた。
食べる音はあまり詳細に表現したくない。
ただ、非常に勢いがよく、迷いがなく、長年の飢えがこもっていたことだけは確かだ。
しばらく、部屋には咀嚼音だけが響いた。
わたしはそのあいだ、少し離れた場所から石壁と床を観察した。
やはり広い。
広さだけなら申し分ない。湿気はあるが、思っていたより床の高低差がある。つまり、場所によっては本棚を置ける可能性がある。
右手の壁際は少し高くなっている。あそこなら床上げしやすいかもしれない。中央は閲覧用には広すぎるが、机をいくつか置くにはちょうどいい。問題は照明と搬入経路と換気で──
『おい』
低い声で呼ばれ、わたしは思考から戻った。
『はい』
『まだあるか』
『あるよ』
残りの包みも少しずつ前へ出す。
今度は最初より丁寧に、包み紙を開いてから置いた。食べやすい方がいいだろう。書庫の番人とは良好な関係を築くべきである。
『君、名前ある?』
食事中に聞くことではない気もしたが、今後の書庫化計画を考えると「巨大蛇」では不便だ。
返ってきた音は長く低く、わたしの耳にはうまく拾えなかった。固有名詞は難しい。
わたしは少し考えて、知る限りで一番偉大で、暗い地下の巨大蛇に似合いそうな名前を選ぶことにした。
『……アルドゥスって呼んでもいい?』
『わかった』
あっさり受理された。
商業印刷の父と言われるアルドゥス・マヌティウスから名前を取った。新しい秘密書庫の番人にはぴったりだ。
『わたしはローゼマイン』
『わかった』
アルドゥスはもぐもぐしながら頷いた。
アルドゥスは二つ目の包みも平らげ、ようやく少し落ち着いたらしかった。
さっきまで部屋を満たしていた切迫感が、ほんの少しだけ薄れている。
『あのね、相談があるんだけど』
『なんだ』
『この部屋、書庫にしない?』
沈黙。
すごく重い沈黙だった。
さっきまで肉を食べていた古代の巨大蛇が、いま何を言われたのか測りかねている気配がひしひしと伝わってくる。
『しょこ』
『本を置くの。たくさん』
『……なぜ』
『本がないから』
シンプルである。
真理でもある。
『ここは★★★の継承者の部屋だ』
『うん、なんて?』
上手く言葉が聞き取れずに聞き返す。
固有名詞はよく聞き取れない。もしかして、サラザール・スリザリンのことかな?
『前の人間のことだ。本を置く場所ではない』
『今はね』
わたしはきっぱり言った。
『でも空いてる。広い。静か。あなたがいる。これだけ条件が揃ってるのに本がないの、もったいないよ』
『もったいない』
アルドゥスがその単語を噛むように繰り返した。
たぶん意味を考えているのだと思う。
『それに、わたししか開けられないなら安全でしょ』
『本は食わん』
『そこは信じてる』
『人も、許しなくば食わん』
『それはかなり大事な情報だね』
ちょっと安心した。
ちょっとだけだが。
アルドゥスは最後の包みをのみ込んでから、長い体をずるりと動かした。
その音にびくっとしつつも、わたしは逃げなかった。逃げたらたぶん話が進まない。
巨大な尻尾の先が、部屋の右奥を示した。
『あそこは高い。水がたまらん』
『ほんと?』
ルーモスの光を向けると、たしかに少し床が上がっている場所があった。壁際に広い帯状の空間があり、他より乾いて見える。
完璧ではない。でもかなりいい。かなりいいぞ。
『そこ、本棚置けそう』
『ほんだな』
『本を並べる棚』
『……お前は本の話になるとよく喋る』
その通りである。
わたしは思わず前のめりになった。危うくアルドゥスの顔の方を見そうになって、慌てて視線を床へ戻す。
「机も置けるかな。いや、先に棚か。湿気対策もしないと。あと入口がトイレなのはやっぱり嫌だけど、秘密性は高いんだよね……」
蛇語をやめて一人で唸っていると、アルドゥスがまた声をかけた。
『おい』
『はい』
『今のうちに言っておく』
『うん』
『鳥は連れてくるな』
『え?』
『うるさい』
急に言われたことに驚く。
でも少し分かる。静かな地下に本を置くなら、たしかにばさばさ鳴く生き物は向いていない。
バジリスクの天敵はニワトリだったから、そのことを言っているのかな。
『わかった。来ても静かな利用者だけにする』
『りようしゃ』
『本を読む人』
『お前だけで十分うるさい』
ひどい。
だが否定しづらい。
帰る頃には、わたしのローブの裾はまた少し湿っていたが、昨日ほどの絶望はなかった。
代わりに、頭の中には棚の寸法と机の配置と照明の案が詰まっている。
これは一歩前進だ。たぶん。
女子トイレへ戻ると、マートルが天井近くでぐるぐる回っていた。
「どうだったの!?」
「ご飯は食べてもらえた」
「誰に!?」
「アルドゥス」
「誰よそれ!!」
説明が面倒だったので、わたしはとりあえず洗面台の縁に腰かけた。
息をつく。ついでに、髪についた水滴だけを魔法で小さく乾かす。
ぱち、と音がして、水滴だけが消えた。
その夜、わたしはベッドに戻るなり日記を開いた。
『生きて帰ってきたよ』
『そうだろうね』
『“そうだろうね”じゃないよ。ちゃんとご飯を持っていったの』
『へえ』
『アルドゥスって名前をつけた』
『……名付けもしてるのか』
『あと、右奥が少し高くて乾いてる。棚を置くならあそこが第一候補』
『君は本当に書庫にする気なんだね』
『もちろん』
羽ペンが止まらない。
『第一段階は番人の給餌。アルドゥスへの定期的なご飯だね。第二段階は環境整備。水道管とつながっていて濡れやすいところが多いから、それをどうにかする。第三段階で棚。第四段階で蔵書搬入』
『まるで長年の事業計画みたいだ』
『本気だからね』
『知ってるよ』
少し間をおいて、トムの文字が続いた。
『でも、ひとつ問題がある』
『なに?』
『君、どこからそんなに本を持ち込むつもりなんだい』
そこで、わたしの羽ペンはぴたりと止まった。
……たしかに。
秘密の部屋を書庫にする計画は完璧だと思っていた。
番人もいる。場所もある。あとは本棚と本だけだ。
でも肝心の本を、どこから、どうやって、誰にも怪しまれずに運ぶのか。
わたしは日記を見つめたまま、しばらく固まった。
『図書室の本は動かせないし、私の本は書庫化するほどはないし』
わたしはベッドに倒れ込んだ。
毛布の上で天井を見つめる。
アルドゥスの給餌は成功した。
魔力制御も少しだけ良くなった。
でも、本がない。
結局そこに戻るのか、と自分でも思う。
『……やっぱり本を増やすのが一番難しいかもしれない』
『そうだよね。書庫化は諦めたほうがいいかもしれない』
日記の文字が、妙に楽しそうに見えてむっとした。
ちょっと腹が立ったので、その日は返事を書かずに閉じた。
けれど目を閉じても、頭の中ではすでに次のことを考えていた。
棚をどうするか。
湿気をどう防ぐか。
そして、誰にもバレずに本をどう運ぶか。
*
秘密の部屋を将来有望な地下書庫として認定してから、わたしの生活は少しだけ忙しくなった。
授業。読書。たまにトムと相談。魔力制御の練習。日記に魔力を定期的に注ぐと魔力制御がしやすくなることに気づいてからは毎日日記に魔力供給するようになった。トムも最近は魔力をお願いするぐらいになっている。
巨大蛇への給餌は骨が折れた。アルドゥスは一回肉を食べたくらいで永久に満足する生き物ではなかった。世の中、そんなに都合よくできていない。
『腹が減った』
『昨日もたくさん食べてたよね?』
『昨日は昨日だ』
これが二回目に肉を持っていった時の会話である。
理不尽だが、巨大蛇に「燃費が悪いね」と言う勇気はまだなかった。
幸い、厨房のハウスエルフたちは「研究用です」でだいたい納得してくれる。
ほんとうにありがたい。ホグワーツの教育は、たぶん家事妖精たちの善意の上に成り立っている。
魔力制御の方も、少しずつましになっていた。
水滴。蛇口はひねらない。先生は飛ばさない。人間も洗わない。
この四つを胸に刻んだ結果、わたしは今のところ、フリットウィック先生を再び天井へ送ることもなく、ドラコを洗濯機にかけることもなく過ごせている。大きな成長である。自分で言うけど、かなりえらい。
図書室に通う頻度も増えた。
ホグワーツの図書室は羊皮紙とインクの匂いもする。棚は高く、机は広く、椅子は長時間座るには少し固いが、それすら「読書にふさわしい試練」と思えば気にならない。つまり最高だ。
だからわたしは、その日の放課後も当然のように図書室にいた。
ハーマイオニーが少し離れた席で課題を広げ、何人かの上級生が参考書をめくっている。窓の外はもう薄暗くなりかけていて、机の上のランプが羊皮紙をやわらかく照らしていた。マダム・ピンスはいつものように棚のあいだを亡霊みたいに滑っていて、「本を粗末にする者は許さない」という図書館の化身みたいな顔をしている。大変信頼できる。
そんな中、わたしは机の上にこっそり材料を広げていた。
厚手の羊皮紙。定規。緑のインクと細い羽ペン。
そして、参考資料として開かれた『中世魔法建築における隠し部屋の作法』と『湿気に強い保管呪文・初歩編』。
傍目には真面目な調べものに見える。
実際、真面目な調べものではある。
ただ、机の中央でわたしが今から作ろうとしているものが、たぶん少しだけ図書室の想定用途から外れているだけだ。
「……よし」
小さく呟いて、まずは下書き用の羊皮紙に文字の配置を考える。
中央に大きく、見やすく、しかし威圧的すぎず、品格を保ちつつ。
秘密の部屋は歴史ある場所である。勝手に書庫化を進めるにしても、あまり安っぽい看板はよくない。第一印象は大事だ。
羽ペンを持ったまま、わたしは思わず鼻歌を漏らした。
ふん、ふふん、ふんふふん。
秘密の部屋。
書庫予定地。
棚を置く。湿気対策をする。照明も工夫する。できれば閲覧机もほしい。
考えるだけで楽しい。楽しいと鼻歌も出る。
「……マイン」
すぐ近くで、呆れた声がした。
顔を上げると、ハーマイオニーが本から目だけこちらへ向けていた。
「図書室で鼻歌はやめた方がいいと思うわよ」
「そんなに大きかった?」
「かなり」
「ごめんなさい」
素直に謝る。図書室ではマナーを守るべきだ。これは本好きの基本である。
ただ、心の中の鼻歌までは止められない。
わたしは気を取り直して、下書きに文字を書きはじめた。
秘密の部屋
ここまでは迷いがない。問題はその下だ。
書庫化計画進行中
うーん、少しかたい。
地下書庫予定地
事務的すぎる。
関係者以外立入禁止
格好いいけど、まだ関係者がわたししかいない。
秘密の部屋 書庫準備中
「これだ」
また声が出た。ハーマイオニーが顔を上げる前に、わたしはあわてて口を押さえる。
完璧ではないだろうか。
簡潔で必要な情報が過不足なく入っている。
何より、未来への希望がある。
わたしは羊皮紙を机の中央へ置き、定規で慎重に枠線を引いた。縁取りは緑。やはりスリザリンゆかりの部屋なのだから、それらしい色味はほしい。ただし悪趣味にはしない。ここ重要。
端に小さく蛇の模様も入れることにした。
左右対称にしたかったのだが、左側を描いたところで右側の線が少し面倒になり、途中から簡略化した。芸術は勢いである。
そして、中央に丁寧に文字を書く。
秘密の部屋 書庫準備中
うん。
よい。
思わず少し離して眺める。
字もきれいだし、余白も美しい。無駄に飾り立てていないところに品がある。仮設看板としてはかなり高水準なのではないだろうか。
「……あなた、何を作っているの?」
気づけば、ハーマイオニーがいつの間にか立っていた。
「ぎゃっ」
「ぎゃっ、じゃないわよ」
わたしは反射で紙を胸に抱え込んだ。
だめだ。見せられない。今の段階ではまだ早い。秘密の部屋は秘密であるべきだし、その秘密の部屋の準備看板を図書室で作っていることがバレるのも、かなりどうかと思う。
ハーマイオニーは呆れたように息をつき、机の上に広がった本を一冊拾い上げた。
「あなた、最近こういう“隠し部屋”とか“古い水場”とか“使われていない場所”の本ばかり読んでるでしょう」
「たまたまだよ」
「たまたまで『中世魔法建築における隠し部屋の作法』は読まないと思う」
「……本好きの好奇心だよ」
「その便利な言い訳、いつか破綻するわよ」
鋭い。
さすがハーマイオニーである。
わたしは看板を机に伏せて、咳払いをした。
「これはまだ試作だから」
「本当に何の試作なの」
「将来への備えかな」
「余計に分からないわ」
そうだよね。
だが、地下書庫計画はまだ説明できない。秘密の部屋と、バジリスクのアルドゥスと、湿気対策と、将来的な蔵書搬入について正直に語ったら、たぶん止められる。というか、止められて当然である。
彼女が去ったあと、わたしはそっと息を吐いた。
夜になり、いつものように日記を開いた。
『トム、秘密の部屋に準備中の看板を置こうと思ってて』
『建設現場かな?』
『心の持ち様だよ』
真面目に言っているのに、トムはあからさまに呆れた気配を返してくる。失礼である。書庫づくりには雰囲気が大事なのだ。まだ棚も机も本も何もないけれど、看板があれば少なくとも「何かが始まっている感」は出る。たぶん。
『マイン、君に一つ良い知らせがあるんだ』
『なに?』
『最近くれる魔力のおかげか、実体化できるようになった』
「ええ?」
思わず変な声が出た。
話をよく聞くと、わたしが日記に流し込んでいる魔力のおかげで、トムは少しの間だけ日記の外に出て動けるようになったらしい。少しの間、というのがどれくらいなのかと思ったら、今のところ二、三十分程度。長くはないけれど、かなり十分では?
いや、ちょっと待ってほしい。
わたしは別にいいけど、トムって一体何者なんだ?
日記に話しかけたら返事をしてくる時点でだいぶおかしいのに、実体化まで始めるのはもう怪談とか呪具とかそういう領域ではないのだろうか。普通、日記は文字を書くものであって、外に出てきて歩いたりしない。
『じゃあ図書室作るの手伝ってよ。わたしじゃ体力的に本棚の組み立てとかできないから』
『魔法族出身とは思えない発言だけど君ほんとにマルフォイ家だよね?』
『……言われてみればそうだね』
そうだった。本棚って、もしかして木材を切って釘を打って汗だくで作るものじゃなくて、魔法でどうにかなるのでは?
いや、でもわたしの知ってる魔法はまだ初心者レベルだ。棚を美しく整然と出現させる呪文なんてまだ知らない。知っていたら今ごろ談話室の隅に自分専用の本棚を生やしている。
『図書室で棚を作る魔法がないか探してみる。あと実体化するなら秘密の部屋だけにしないと、女子寮だと男子禁制だからまずいし』
『書庫化計画に付き合わされる未来しか見えないんだが』
ばれた?
翌日、授業が終わったあと、わたしは日記を抱えて秘密の部屋へ向かった。使われていない女子トイレは相変わらず薄暗く、じめっとしていて、書庫予定地の入口としては百点満点で不満だった。だから今日も軽くスコージファイをかける。入口は清潔であるべきだ。本は湿気と汚れの敵なのだから。
蛇の刻印のある蛇口に向かって、わたしは慣れない蛇語で開くよう命じた。石の洗面台が低い音を立てて動き、暗い穴が口を開く。
秘密の部屋に着くと、わたしはまず日記を胸の前に抱え直した。ほんの少し緊張する。だって、日記の中の人格が実体化するって、よく考えなくてもかなり変だ。怖くないと言えば嘘になる。いや、怖いというより、妙な居心地の悪さの方が近いかもしれない。
『じゃあ、やってみて』
日記の頁がひとりでにめくれた。インクの文字がじわりと滲んだように揺れ、黒い靄になって浮かび上がる。それが人の輪郭を取り、少しずつ形を持っていく。
細い指先、長い脚、黒い髪、妙に整った顔立ち。
トムは、いつか日記越しに見せられた記憶の中のままの姿で、わたしの前に現れた。
ただし、完全に生身というわけではない。輪郭はうっすら透けていて、光の加減では向こうの石壁が見える。幽霊とも違う。ホログラム、という言葉がいちばん近かった。存在感はあるのに、現実感だけが少し薄い。
……なんというか、あれだ。
正直、インターネットで知り合った人物が急に目の前に現れたみたいな気まずさがあった。
向こうはいつも通りの口調で話してくるし、こっちも会話には慣れている。でも、だからといって実際に目の前に立たれると別問題である。距離感がわからない。日記の中にいた時はただの「喋る厄介な本」だったのに、こうして人の姿を取られると途端に厄介な友達になる。
「君、実際見るとかなり小さいな」
開口一番、それだった。
「失礼だな!」
「事実だろう」
「事実でも言っていいことと悪いことがあるの」
「君は自分で思っている以上に小さい。というか、この空間に立つと余計にそう見える」
「言い直しても失礼さは薄まらないよ!」
むっとして睨み上げると、トムは心底おかしそうに口元をゆるめた。感じが悪い。顔が良いのがなおさら腹立たしい。わたしが石床に乗せた日記と、わたし本人を見比べているあたり、たぶん本気でサイズ感を測っている。
「それより、ほんとに触れるの?」
「試してみればいい」
トムはそう言って、足元に落ちていた小さな石片を拾い上げた。石はちゃんと彼の指先に収まっている。うっすら透けているのに、物体には干渉できるらしい。なんで? ますます何者なんだ、この人。
「ということは、本も運べる?」
「話の流れが露骨すぎるな」
「棚も動かせる?」
「君、最初からそれが目的だっただろう」
「ちょっと何言ってるかわからない」
「白々しいにも程がある」
わたしは咳払いをして、秘密の部屋を見渡した。広い。とにかく広い。じめじめした石造りの空間に、蛇の彫刻、長い通路、無駄に威圧感のある壁面。雰囲気だけなら古代の秘術か王家の墓所だが、わたしにはもう書庫にしか見えなかった。
「見て、ここ。奥の壁際なら棚が並べられると思うんだよね。手前は閲覧スペース。バジリスクの通り道とは分けたいし」
「もうだいぶ具体的に考えてるな……」
「あと入口近くには“準備中”の看板。出来上がったら書庫の看板を立てよう」
「本気で言ってるのか?」
「大事でしょ」
「何に?」
「士気に」
トムは黙ってわたしを見た。すごく嫌そうな顔だった。だが、その嫌そうな顔のまま石壁に手を当て、天井の高さや通路の幅を確認するように視線を動かす。完全にやる気がない態度なのに、観察だけは妙に真面目だ。
「……棚を並べるなら、壁際だけじゃ足りない。湿気の少ない場所を選ばないと紙が傷むし、導線も悪い。中央に島型で配置した方が収まりはいいだろうな」
わたしは目を瞬かせた。
「トム、意外と乗り気?」
「違う。無駄が多い計画に腹が立っただけだ」
「つまり改善案を出してくれるってことだね」
「解釈が前向きすぎる」
「書庫管理者の素質あるよ」
「ない」
即答だった。
でも、わたしは見逃さなかった。彼がさっきから空間の使い方をかなり真面目に考えていることを。嫌々だろうと何だろうと、頭のいい人は整理整頓の話になると妙に本気になることがある。たぶんトムもそういう類だ。
わたしはにっこり笑った。
「じゃあ、今日はまず清掃と配置確認から始めようか」
「さらっと労働に移行するな」
「二、三十分しかないんでしょ? 時間は大事だよ」
「僕は君に魔力供給の成果を報告しただけなんだが」
「うん」
「なぜこうなった」
「友達なんだから、それくらい手伝ってよ」
「ずいぶん都合のいい友達関係だな」
「便利な友達は貴重なんだよ」
「最低だな」
トムは露骨に顔をしかめた。その顔が思ったより面白くて笑ってしまう。
秘密の部屋はまだ暗く、広く、湿っていて、書庫にはほど遠い。 それでも、わたしの前には本を運べる頼りがいのある友達がいる。本人は絶対に認めないだろうけれど、そういうことにしておく。
書庫づくりには、そのくらいの図太さが必要なのだ。
「トム、そこ持って」
「命令するな」
「じゃあお願い」
「内容は変わっていない。君の杖を貸せ」
「看板持つぐらいしてよ」
「……本当に君は」
ぶつぶつ言いながらも、トムはわたしが作ったばかりの看板を持ち上げる。
秘密の部屋書庫化計画は、今日から本格始動である。