本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

131 / 153
115話 トム・リドルの日記

 

 トムが闇の帝王の記憶だった。

 本人の口から明かされた事実は、ビブリオバトルが終わっても図書室に居座り続けていた。

 

 誰も大声では話さない。

 

 けれど、全員がトムを見ていた。

 

 秘密を聞いた人間は、聞く前の顔には戻れないらしい。特にロンは、何度も口を開きかけては、隣にいたアーニーに肘で止められていた。

 

 よく耐えている。

 

 わたしなら、あれだけ巨大な秘密を抱えたまま黙っているのは無理だ。

 

「ジェドゥソール先生」

 

 アーニーから話を聞きつけたらしいパドマが羽ペンを持ったまま言った。

 トムの顔が、見るからに険しくなった。

 

「何だ」

 

「記事にしてもいいですか?」

 

「よくない」

 

 返事が速い。

 

「まだ見出しも言っていないです」

 

「聞く必要がない」

 

「『闇の帝王、正体はホグワーツの元生徒』」

 

「駄目だ」

 

「『名前を失った少年』」

 

「駄目だ」

 

「『トム・リドルとは何者か』」

 

 トムが杖を抜いた。

 パドマは羽ペンを置いた。

 

「分かりました。まだ記事にはしません」

 

「最初からそう言っている」

 

「でも、マインは本にするつもりでしょう?」

 

 二人の視線がこちらへ向いた。

 わたしは頷いた。

 

「うん」

 

「なぜ当然のように頷くんだ」

 

「だって、それが一番いい方法だから」

 

 闇の帝王は、名前を呼ぶことさえ恐れられている。

 ならば、その正体を本にしてしまえばいい。

 

 ヴォルデモート卿という巨大な怪物ではなく、トム・リドルという一人の人間だったと、魔法界中に知らせる。

 生まれた場所も、学校で何をしたのかも、どんな本を読み、何を恐れ、なぜ自分の名前を捨てたのかも。

 全部書けばいい。

 

「本の題名はまだ決めてないけど」

 

「決めなくていい」

 

「著者名はトム・リドル?」

 

「その名を出すな」

 

 低い声だった。

 怒っているというより、何かを押し殺している。

 

「リドルって名前が嫌いなの?」

 

「嫌いという言葉で片づけるな。君が想像する以上に複雑なんだ」

 

 トムは机の上に置かれた本を閉じた。

 

「僕はその名を捨てた。二度と使わないために、別の名を作ったんだ。せめて、出版されるまで、記事にはするな」

 

 トムはパドマへ言った。

 

「出版を認めたんですか?」

 

「認めていない。ただ、出版されたら記事に書かれても変わらない」

 

「それはそうでしょうね」

 

 パドマは考えるように羽ペンの軸を指で回した。

 

「出版が中止になった場合は?」

 

「永久に書くな」

 

「それなら、出版が絶対条件ということですね?」

 

 トムの眉間に皺が寄った。

 

「君はなぜ、ここで条件を確認するんだ」

 

「新聞記者だからです」

 

 パドマは平然としていた。

 

「出版前には書かない。本人の許可なく記事にはしない。その代わり、出版されたら絶対に記事にする。これならどうですか?」

 

「……構わない」

 

「約束しましょう」

 

 パドマが羽ペンを置く。

 トムは、今すぐ周囲を全て燃やしたいような顔をしていた。

 

 わたしは気持ちが分からなくもなかった。

 自分の過去を本にされるのは、きっと恥ずかしい。

 けれど、恥ずかしいからといって、本を出さない理由にはならない。

 

     

 

 

 翌日、わたしはハリーとトムと一緒に校長室へ向かった。

 ダンブルドア先生に出版計画を説明すると、先生は指を組み、しばらく目を閉じていた。

 

「つまり君は、ヴォルデモート卿の過去を本にし、その正体を世に広めようと考えておるのじゃな」

 

「うん。みんなが怖がっているのは、正体が分からないからだと思うの。何を考えているか分からなくて、名前も呼べなくて、どこにいるかも分からない。だから、全部分かるようにすればいい」

 

「本人の許可は?」

 

「まだ」

 

「僕は認めない」

 

 隣でトムが言った。

 ダンブルドア先生は、少しだけ口元を緩めた。

 

「それは困ったのう」

 

「困っている顔には見えませんね」

 

「実を言えば、ちょうど君たちに見せたいものがあった」

 

 先生は席を立った。

 部屋の奥から、石でできた浅い水盤を運んでくる。

 憂いの篩だった。

 

 銀色の記憶が、水面の上でゆっくり渦を巻いている。

 トムの顔から、露骨に嫌そうな表情が消えた。

 代わりに、警戒が浮かんだ。

 

「誰の記憶ですか」

 

「わしのじゃよ」

 

「いつの?」

 

「君と初めて会った日じゃ」

 

「帰ります」

 

 トムが立ち上がった。

 ダンブルドア先生が杖を一振りすると、校長室の扉がひとりでに閉まった。

 

「せっかく三人そろっておるのじゃ。皆で見た方が楽しい」

 

「楽しいという目的で他人の過去を見せないでください」

 

「資料として必要だよ」

 

 わたしが言うと、トムはこちらを見た。

 

「君は僕の味方をする気がないのか」

 

「昔のトムを見てみたい」

 

「聞いた僕が馬鹿だった」

 

 ハリーが憂いの篩を覗き込む。

 

「これ、本当に見るのか?」

 

「もちろん」

 

 ダンブルドア先生が、銀色の水面へ杖先を触れさせた。

 記憶が大きく波打つ。

 

「この時のトムは、まだ自分が魔法使いであることを知らなかった」

 

「説明はいりません」

 

「わしを医者だと思っておったようでな」

 

「やめろ」

 

「そして、このあと戸棚が燃える」

 

「先の展開まで言うな!」

 

 トムが初めて、年相応に声を荒らげた。

 ダンブルドア先生は楽しそうだった。

 完全に、孫の幼い頃の記録を見せたがるおじいちゃんだった。

 本人が嫌がっているところまで含めて楽しんでいる。

 

「行こうか」

 

 先生に促され、わたしたちは銀色の水面へ顔を近づけた。

 足元が抜けた。

 

     

 

 

 次に立っていたのは、薄暗い部屋だった。

 窓は細く、外から差し込む光も灰色がかっている。

 壁際には簡素なベッドが並び、空気には古い石鹸と湿った布の匂いが染みついていた。

 

 その一番奥のベッドに、黒髪の少年が座っていた。

 まだ幼いトム・リドル。

 細い身体をまっすぐに伸ばし、訪ねてきたダンブルドア先生を睨んでいる。

 

 子どもなのに、可愛げがない。

 現在のトムを見る。

 

「何だ」

 

「昔からトムだね」

 

「どういう意味だ」

 

「そのままの意味だよ」

 

 記憶の中のトムは、魔法使いだと聞かされても驚かなかった。

 むしろ、ようやく世界が自分の正しさを認めたという顔をした。

 

 動物を意のままにできること。

 人を傷つけられること。

 

 話すたびに、ハリーの表情が固くなる。

 

 ダンブルドア先生は何も言わなかった。

 さっきまであれほど嬉しそうに先の展開を説明していたのに、記憶の中の少年が戦利品を隠した箱を見せた瞬間から、口を閉ざしていた。

 

 戸棚が炎に包まれた。

 記憶の中のトムが立ち上がる。

 初めて、怯えた顔をした。

 

 現在のトムは、その顔を見なかった。

 

 火が消え、盗んだ品物を持ち主へ返すよう命じられる。

 少年は頷いた。

 しかし、反省しているようには見えなかった。

 自分より強い相手を見つけた。

 

 その事実だけを理解した顔だった。

 

「先生、僕は蛇とも話せるんだ」

 

 記憶の方のダンブルドアの表情が一瞬固まった。

 

「これも魔法使いなら普通のことなの?」

 

 記憶が薄れていく。

 灰色の部屋も、細いベッドも、十一歳のトムも銀色の霧へ溶けた。

 

 

     

 

 

 校長室へ戻ると、トムは憂いの篩から一番遠い椅子へ座った。

 

「満足したのか?」

 

「そうだね。トムがどんな子どもだったのか分かった」

 

 わたしは答えた。

 

「孤児院の名前も書いていい?」

 

「駄目だ」

 

「戸棚に戦利品を隠していたことは?」

 

「論外だ」

 

 ダンブルドア先生が、机の向こうで髭を撫でている。

 

「わしとしては、あの戸棚は重要な場面じゃと思うが」

 

「あなたは黙っていてください」

 

 ハリーは笑いそうになったらしく、咳払いをした。

 トムに睨まれ、窓の方を見る。

 

「しかし、これは始まりにすぎん」

 

 ダンブルドア先生が言った。

 

「本にするならば、わしの記憶だけでは足りぬ。本人にしか語れぬことがある」

 

「語るつもりはありません」

 

「マートル・ワレンのこともかね?」

 

 トムの指が、椅子の肘掛けの上で止まった。

 ハリーが先生を見る。

 

「マートル? 嘆きのマートル?」

 

「秘密の部屋で死んだ生徒じゃ」

 

「トムと何の関係が……もしかして」

 

 トムは答えなかった。

 ダンブルドア先生も、それ以上は話さない。

 ただトムを見ていた。

 

「先生は知っていたんですか?」

 

 わたしが尋ねると、先生は首を横に振った。

 

「確証はない。じゃが、マートルの生家と、ウール孤児院はそう遠くない」

 

 ハリーがトムへ向き直った。

 

「知り合いだったのか?」

 

「違う」

 

「じゃあ、どうして――」

 

「知り合いではなかった」

 

 トムは低い声で繰り返した。

 窓の外では、雪が降り始めていた。

 黒い校長室の窓を、白い粒が斜めに横切っていく。

 

「彼女の家は、孤児院から歩いて行ける場所にあった。裕福な家ではなかったが、孤児院よりはましだった。僕は何度か見かけたことがある」

 

「マートルも君を見たことがあった?」

 

「ああ」

 

 トムは自分の手元を見ていた。

 

「孤児院の子どもは、近所では珍しくなかった。僕たちは決まった時間に外へ出された。どこへ行っても、孤児院の子だと分かった」

 

 トムが、そんなふうに自分を語るのは初めてだった。

 いつもなら、他人の話をするように切り離す。

 けれど今は、その頃の自分を消しきれずにいるようだった。

 

「僕は自分が孤児院生まれだと知られるのが嫌だった。だから、それを知るマートルを孤立させたかった。そんなに難しいことじゃなかった。少し下級生に促すだけで、マートルはすぐに虐められた」

 

 ハリーの呼吸が止まる。

 トムは淡々と続けた。

 

「あの日、彼女は女子トイレの個室の中で泣いていた。オリーブ・ホーンビーに眼鏡のことをからかわれたからだ。オリーブ・ホーンビーが彼女を虐めていたのは僕がそう仕向けたからだった。彼女は僕が誰かと話している声を聞いて、出てきた」

 

「誰かって、バジリスク?」

 

「ああ」

 

「蛇語を聞かれたから殺したのか?」

 

「違う」

 

 トムは顔を上げた。

 

「彼女は死ぬ前に、僕を見てこう言った」

 

 その声には、怒りも悲しみもなかった。

 だから余計に、言葉だけがはっきり聞こえた。

 

「やっぱりあなた、あの孤児院にいたトムでしょう、と」

 

 ハリーが何も言えなくなる。

 わたしはようやく分かった。

 

 秘密の部屋を見られたからではない。

 スリザリンの後継者が、マグルの孤児院で育った少年だと知られたからだ。

 

「それで殺したの?」

 

 わたしは尋ねた。

 トムの視線がこちらへ来る。

 

「そうだ」

 

 簡単な答えだった。

 まるで、古い本の誤植を認めるように。

 

「彼女が死ねば、秘密の部屋の犠牲者になる。誰も、孤児院の少年と彼女につながりがあったとは考えない」

 

「ハグリッドに罪を着せたのはどうしてじゃ」

 

「ハグリッドに罪を着せたのか?」

 

 ハリーの声が震えていた。

 

「必要だった」

 

「必要?」

 

「学校を閉鎖されるわけにはいかなかった。僕には、戻る家がなかった」

 

「だから関係ない人間を犯人にしたのか」

 

「ハリー、ハグリッドが飼っていた蜘蛛はアクロマンチュラだ。魔法界で飼育は禁止されている危険な生き物だよ。誰も殺さなかったとはいえ、退学処分になるのは正しい処分だ」

 

「でも濡れ衣じゃないか!」

 

 ハリーが椅子を蹴って立ち上がった。

 トムは動かなかった。

 

「アズカバンには送られなかった」

 

「そういう話じゃない!」

 

「では、どういう話だ?」

 

「人を殺して、別の人に罪を着せて、自分だけ学校に残ったんだろ!」

 

「そうだ」

 

 トムは否定しなかった。

 言い訳もしなかった。

 

 その方が、ハリーには腹立たしかったらしい。

 

 拳を握り、何か言おうとして、結局椅子へ座り直した。

 ダンブルドア先生は二人を止めなかった。

 

 わたしは膝の上で手を組んだ。

 

「その話も本に書こうよ」

 

 トムの目が細くなる。

 

「何だと?」

 

「マートルを殺したこと。孤児院の近くに住んでいて、あなたの昔の名前を知っていたこと。秘密を守るためにバジリスクを使ったこと。ハグリッドに罪を着せたこと」

 

「僕が話した意味を理解していないのか」

 

「理解してるよ」

 

「なら、なぜ書く」

 

「知られたくないから隠した結果、ヴォルデモートになったんでしょう?」

 

 トムの唇がわずかに動いた。

 

「違う」

 

「何が?」

 

「そんな単純な話ではない」

 

「じゃあ、単純じゃないところまで書けばいい」

 

「君は――」

 

「トムが話さなかったら、ダンブルドア先生の記憶だけで本を作ることになるよ」

 

 先生が穏やかに頷いた。

 

「できる限り協力しよう」

 

「あなたは少し黙っていろ!」

 

 トムがとうとう怒鳴った。

 壁の銀器が震え、フォークスが止まり木の上で羽を膨らませる。

 ダンブルドア先生は少しも動じなかった。

 

「トム」

 

 わたしは呼んだ。

 

「本は出させない」

 

「どうやって?」

 

「君を止める」

 

「わたしを殺すの?」

 

 トムは答えなかった。

 

「昔と同じだね」

 

「何が言いたい」

 

「知られたくないものを、なくせばいいと思ってる」

 

 トムの杖を握る手に力が入った。

 ハリーが立ち上がりかけたが、ダンブルドア先生が片手で制した。

 

 トムは杖を抜かなかった。

 長いあいだ、こちらを見ていた。

 やがて、椅子の背へ身体を預ける。

 

「だから嫌なんだ」

 

 怒鳴るより小さな声だった。

 

「何が?」

 

「この本を出すことがだ」

 

 トムは窓へ顔を向けた。

 雪の向こうに、黒い森が見える。

 

「ヴォルデモートのことなら、好きに書けばいい。殺した人数も、使った魔術も、恐れられた名前も。だが、リドルという名で書けば、そこにいるのは闇の帝王ではない」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

「孤児院で育ち、他人に知られることを恐れ、泣いていた少女一人の口も塞がなければ、自分を守れなかったただの少年だ」

 

 トムは自分で言った言葉に耐えるように、目を閉じた。

 

「だから僕は、その名を捨てたんだ」

 

 机の上で、銀色の記憶が静かに渦を巻いていた。

 トムは窓の外を見たまま、こちらを振り返らない。

 

 わたしは何と返せばいいのか分からなかった。

 知られたくない過去を本にするのだから、嫌がるのは当然だ。それでも出した方がいいと思う気持ちは変わらない。

 でも、嫌がっている本人に向かって、ヴォルデモートを倒すために必要だから出そうとは言いにくくなってしまった。

 

「君が恐れていることは分かる、トム」

 

 ダンブルドア先生が言った。

 

「あなたに分かるとは思えませんね」

 

「既に自分の過去を世間へ公表した老人の言葉としてもかね?」

 

 トムがようやく窓から顔を戻した。

 ダンブルドア先生の自伝には、グリンデルバルドとの関係だけではなく、妹のアリアナや、弟との確執についても書かれていた。

 

「あなたの場合は、すでに名誉も地位もある」

 

「だから失うものが多かったとも言える」

 

「同情してほしいんですか?」

 

「いいや。君に同情する資格がわしにあるとも思っておらん」

 

 ダンブルドア先生は、憂いの篩の縁に指を置いた。

 

「ただ、秘密は守り続けるほど、自分より大きくなる。わしも長いあいだ、過去を語らなかった。それで過去が消えたことは一度もなかった」

 

「僕とあなたを同じにしないでください」

 

「同じではないよ。わしは妹を守れなかった。君は、自分を知る少女を殺してしまった」

 

 トムの目が鋭くなる。

 ダンブルドア先生は視線を逸らさなかった。

 

「違うからこそ、同じ方法で救われるとは言わん。しかし、隠し続ければ救われるとも思わん」

 

「救われたいと言った覚えはない」

 

「ならば、何を望んでおる?」

 

「ヴォルデモートを殺すことです」

 

 迷いのない答えだった。

 ハリーがトムを見る。

 わたしは膝の上に置いていた手へ力を入れた。

 

 ダンブルドア先生は、予想していたように頷いた。

 

「そのためには、君も死なねばならん」

 

 聞き間違いだと思った。

 先生の声は穏やかだった。

 だから、一瞬だけ意味が入ってこなかった。

 

「……先生? なんでそんなこと言うんですか」

 

 わたしが聞くと、先生はわたしを見た。

 

「トムは、ヴォルデモート卿から切り離された魂の一部じゃ。彼が存在する限り、ヴォルデモート卿の魂もまた、この世につなぎ留められる」

 

「でも、トムはもう別の人でしょう?」

 

「人格は違うかもしれん。経験も、選んだ道も違う。じゃが、魂の由来までは変わらん」

 

「何か方法があるはずだよ。まだ全部調べてないから、ないって決めるのは早いよ」

 

 立ち上がろうとしたが、椅子の脚にローブの裾を引っかけた。

 机へ手をつく。

 指先が冷たかった。

 

「トムは知ってたの?」

 

 トムは答えなかった。

 

「知ってたんだ」

 

 知っていたから、闇の魔術に対する防衛術の正式な教師になることを望まなかった。

 ビブリオバトルで、自分の正体を話した。

 闇の帝王の記憶だと、全員の前で明かした。

 

 秘密を知られることをあれほど嫌がるトムが、自分から話した。

 

「だから話したの?」

 

「必要だったから話した」

 

「自分が死ぬ前に?」

 

 トムの眉がわずかに動いた。

 それで十分だった。

 

「やっぱり、死のうとしてたんだ」

 

 自分の声がひどく遠く聞こえた。

 立っているのに、床がなくなったようだった。

 

「マイン、座って」

 

 ハリーが椅子を引いた。

 

「座ってる場合じゃないよ」

 

「顔が真っ青だ」

 

「トムが死ぬんだよ!」

 

「まだ死んでいない」

 

 トムが言った。

 

「そういう問題じゃない!」

 

 思ったより大きな声が出た。

 フォークスが止まり木の上で首を傾げる。壁に並んだ歴代校長の肖像画が、寝たふりをしながらこちらを窺っていた。

 

「何で言わなかったの?」

 

「言えば、君が邪魔をする」

 

「するよ! 絶対に死なせない!」

 

「だから言わなかった」

 

 落ち着き払ったトムの顔を見ていると腹が立った。

 この人は、自分が死ぬ話をしているのに、どうしてそんな顔ができるのだろう。

 

「いつから知ってたの?」

 

「最初からだ。あの男から離れた瞬間に、こういう未来が来る可能性もあるとは思っていた」

 

「それからずっと?」

 

「ああ」

 

「ずるいよ」

 

「何がだ」

 

「わたしだけ、これからも一緒に本を読めると思ってた」

 

 口に出した途端、胸の奥が苦しくなった。

 トムは、困ったような顔をした。

 ほんの一瞬だった。

 すぐにいつもの無表情へ戻った。

 

「君は、少し前から僕が闇の帝王の魂だと知っていただろう」

 

「闇の帝王の魂だと、死んでいいの?」

 

「僕が残れば、あれも残る」

 

「だからって、トムまでヴォルデモートと一緒にしなくていいでしょう!」

 

「一緒なんだよ」

 

 トムの声が低くなる。

 

「僕がどれほど違う選択をしても、どれほどあれを憎んでも、僕があれの魂である事実は変わらない」

 

「それは――」

 

「ヴォルデモートを完全に殺すなら、僕も死ななければならないんだ!」

 

 反論が出てこなかった。

 出てこないことが悔しい。

 

 わたしは本を読めば、大抵のことは答えが見つかると思っていた。

 けれど、トムを救う答えはどこにもなかった。

 

「二人とも、落ち着きたまえ」

 

 ダンブルドア先生の声が入った。

 今は先生の穏やかな声まで腹立たしかった。

 

「先生はいつから知っていたんですか?」

 

「可能性としては、トムの正体を知った時からじゃ」

 

「じゃあ、どうして黙ってたんですか?」

 

「わしが告げるまでもなく、トムがそれを知っていたからのう」

 

 ダンブルドア先生は、机の向こうに座り直した。

 

「しかし、これは決定した未来ではない」

 

「さっき死ななくてはいけないと言ってたのに」

 

「今ある方法で、ヴォルデモート卿を確実に滅ぼすならば、という話じゃ」

 

「ほかの方法を探してもいいんだよね?」

 

「もちろんじゃ」

 

「わたしは探す」

 

「君ならそう言うと思っておった」

 

 先生は少し疲れた顔をした。

 わたしはトムへ向き直った。

 

「死ぬって決めないで」

 

 トムは眉間を押さえた。

 

「どうしようもないことなんだよ」

 

「でも、トムは何も残らないまま消えるのも嫌だったんじゃないか?」

 

 ハリーが口を挟み、トムの目がハリーへ向いた。

 

「ヴォルデモートと一緒に消えれば、それで満足なのか?」

 

 トムは答えない。

 ハリーは続けた。

 

「魔法界には、闇の帝王が死んだという話だけが残る。君が存在したことも、僕たちと一緒に戦ったことも、誰も知らない」

 

「それで構わない」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、どうしてリドルという名前を本にされるのが嫌なんだ?」

 

 トムの顔が変わった。

 ハリーは杖を向けられる前に、椅子を少し後ろへ引いた。

 

「忘れられて構わないなら、何を書かれても同じだろ。違うのか?」

 

「僕が嫌なのは、過去を勝手に――」

 

「過去だけじゃない」

 

 わたしは言った。

 

「今のトムのことも書くよ」

 

「聞いていない」

 

「今決めたから」

 

「決めるな」

 

「闇の帝王の過去だけじゃ、ヴォルデモートの伝記になる。でも、トムが別の道を選んだことまで書けば、ヴォルデモートが絶対の存在じゃなかったと証明できる」

 

 同じ魂でも、同じ人間にはならなかった。

 育った時間も、読んだ本も、そばにいた人も違えば、別の選択ができる。

 トム自身が、その証拠だった。

 

「トムがマートルを殺したことは書く。ハグリッドに罪を着せたことも書く。そのあと何をしたかも書けばいい」

 

「死ぬかもしれないなら、なおさら書いた方がいいんじゃないのか」

 

 ハリーは畳み掛けるように言った。

 トムの表情から、わずかな怒りが引いていく。

 

「死後の名誉に興味はない」

 

「名誉のためじゃないよ」

 

 わたしは言った。

 

「では、何のためだ」

 

「ヴォルデモートに、トムの人生まで奪わせないためだよ」

 

 トムが何も言わなくなる。

 

「このまま死んだら、トムは闇の帝王の分霊箱だった、で終わる。でも、それだけじゃないでしょう?」

 

「魂の一部であることは事実だ」

 

「本を読んだことも事実。わたしたちを助けたことも、闇の帝王を倒そうとしたことも事実だよ」

 

「都合のよい部分だけを書けば、偽善になる」

 

「悪いことも書くって言ったよ」

 

 トムは机の上にある憂いの篩へ目を落とす。

 

 そこには、十一歳のトムが残っている。

 孤児院の狭い部屋で、自分は特別だと信じていた少年。

 誰にも弱みを見せず、奪ったものを箱へ隠していた。

 

「分かった。本を出せばいい」

 

「本当に?」

 

「その代わり、僕が全部書く。他人に感情を勝手に推測されたくない」

 

「それでいいよ。題名は?」

 

 トムは自分の黒い日記帳に目をやった。

 

「『トム・リドルの日記』だ」

 

「良い題名だね」

 

「それから、少し記憶の整理が必要だ。君たちに昔話を聞いてほしい」

 

「もちろん。トムが覚えてる最初の記憶は?」

 

 わたしが尋ねる。

 トムは椅子の背へ身体を預け、遠くを見るように目を細めた。

 

「あれは、雪の日だった」

 

 校長室の肖像画たちが傾聴するように耳を傾けた。

 

「孤児院の窓が、凍っていた」

 

 トムはゆっくりと語り始めた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。