クリスマス休暇の終わり頃、トムは『トム・リドルの日記』の初稿を書き上げた。
トムは書ける範囲で、自分がヴォルデモートになるまでのほとんど全部を書いた。
問題は、トムがヴォルデモートの人生すべてを知っているわけではないことだった。
「僕はあくまで、十六歳の時点で日記に残された記憶だからね」
休暇明けの図書室で、トムはそう言った。
「ところで、OWL試験対策もあるのに大丈夫?」
トムは積み重なった本の山を見た。
わたしの前には、変身術の参考書と魔法史のノートと魔法薬学の教科書が積まれていた。
今年はOWL試験がある。わたしは12科目選んだ。
もちろん、勉強しなければならない。
その一方で、ドラコとフェリックス・フェリシスを作り、たまにスラグホーン先生に進捗を報告する必要があった。
さらに『トム・リドルの日記』の出版準備もある。フェルディナンドには他の編集者に任せるように言われたが、わたしはそんなことをしたくなかった。
タイムターナーを駆使して時間を増やしてどうにかすることにしていた。
「ヴォルデモートの記憶はどこまで知っているの?」
「全部は知らない」
トムが原稿から顔を上げて言った。
「全部共有しているわけじゃない。ただ……強い感情を伴う記憶は、勝手に流れ込んできたことが何度かある」
「強い感情?」
「人を殺した時とか」
さらりと言わないでほしい。
向かいで薬草学のノートをまとめていたハリーが顔を上げた。ぎょっとした顔をしている。
「それ、もっと早く言うべき情報じゃないか? ヴォルデモートが誰を殺したのかすぐ分かったのに」
「聞かれなかったからね」
「トム、そういうところだぞ」
「何が?」
ハリーが顔をしかめた。
わたしも同感だった。
とはいえ、そのおかげでトム本人の記憶とヴォルデモート側の記憶を合わせることができた。
ダンブルドア先生も、昔からヴォルデモートについて調べていた。
それも、わたしが想像していたよりずっと昔から。
ホグワーツへ入学する前のトムを知る孤児院の職員。
トムの母親を知る人。
ゴーント家について知る人。
ホグワーツ時代のトムを覚えている人。
先生は長い年月をかけて、彼らの記憶を集めていた。
校長室の憂いの篩には、トム・リドルという人間を取り囲む断片がいくつも残されている。
「これを使えば、本の不足部分をかなり補えるじゃないか」
ハリーは言った。
わたしは首を振った。
「それだけじゃ駄目だよ」
「どうして?」
「だって、それ全部過去の記憶でしょ?」
わたしは羽根ペンを置いた。
「本に載せるなら、生きている人の話を聞きたい」
記憶は便利だ。
嘘をつきにくい。
当時の光景まで見ることができる。録画した映像のようなものだ。
でも、本は記録だけではない。
今、その人が過去をどう思っているのか。
何を悔やんでいるのか。
何を覚えているのか。
そこまで書いて初めて、人の話になる。
ダンブルドア先生はしばらくわたしを見て、それから笑った。
「なるほど。では、一人、君たちが直接話を聞くべき人物がおる」
「誰か聞かなくても誰か分かるな」
ハリーは同意を求めるようにわたしを見た。
スラグホーン先生のことに違いなかった。
*
「ノーだ」
スラグホーン先生は扉を開けるなり言った。
「まだ何も言ってませんよ」
「分かっておる」
スラグホーン先生は椅子の背へ身体を預けた。
テーブルには台湾の留学生からもらったらしいパイナップルケーキが置かれている。
相変わらずいいものを食べている。
「君が来る理由など一つしかないではないか」
「OWL試験の勉強を教えていただきに来たんです」
「信じないぞ」
「失礼ですね」
「君は質問する前に本を三冊読んでくるタイプだろう。今日は何も持ってない」
その通りだった。
仕方がないので本題に入る。
「新しくジェドゥソール先生が書く『トム・リドルの日記』に、先生の証言を載せたいんです」
「やっぱり彼はそうだったのか。断る」
返事は早かった。
「まだ掲載内容も説明してません」
「聞かん」
「先生がホグワーツ時代のトムをどう見ていたかだけでも」
「知らん知らん。私はもう何も覚えておらんよ」
「先生、トムをお気に入りの生徒としてスラグ・クラブに入れていましたよね」
「昔の話だ!」
絶対に覚えている気がする。
その日は追い返された。
翌日、わたしはハリーを連れていった。ロンによると、ハリーは特にスラグホーン先生のお気に入りの生徒らしい。
「先生」
「断るぞ、ハリー」
「まだ何も──」
「昨日と同じだ!」
ハリーでも駄目だった。
三日後、また行った。
四日後も行った。
五日後には、スラグホーン先生が部屋の扉を開けた瞬間に閉めようとしたので、わたしは靴を挟んだ。
「痛いです! 暴行で訴えます!」
「それは君が挟んだからだろう!」
「先生がすぐに閉めるからです」
「帰りたまえ!」
「証言をいただければ帰ります」
「脅迫ではないか!」
「いいえ、これは交渉です。羽ペン通信に何を書かれてもいいんですか? わたしはパドマととっても仲が良いんです」
わたしが微笑むと、スラグホーン先生は大きなため息をついた。
「これだからスリザリン生は……」
六回目の訪問で、スラグホーン先生はとうとうわたしを部屋へ入れた。
ただし証言するとは言っていない。
「君は本当にしつこいな」
「出版社なので」
「出版社は普通、教授の部屋へ毎日押しかけたりせん」
「押しかけるものだと思いますよ? 取材ですから」
「それを世間では押しかけ取材と言うんだ」
わたしは椅子へ座った。
「先生」
「何だね」
「黙れば、闇の帝王の言葉だけが残りますよ」
スラグホーン先生の顔から、わずかに笑みが消えた。
「トムは自分のことを書きます。自分が何を考えていたのか。誰を憎んでいたのか。何を望んだのか。全部」
「……そうか」
「でも、トムが自分をどう見ていたかだけでは、トム・リドルという人間の全部にはならないと思います」
スラグホーン先生は答えなかった。
「先生が覚えているトムもいたはずです」
「それは……」
「先生が話さなければ、そのトムは本の中に残りません」
しばらく待った。
それでも、先生は首を横に振った。
「すまん」
小さな声だった。
「私は、話したくない」
その日は、それ以上何も言えなかった。
*
「僕が行こうか」
トムが言ったのは、その日の夜だった。
談話室の隅で、わたしはフェリックス・フェリシスの調合記録を見直していた。
隣ではドラコが温度変化の表を書いている。
「どこに?」
「スラグホーン先生のところ」
わたしは顔を上げた。
「大丈夫?」
「君が六回行って駄目だったんだろう?」
「六回じゃないよ。七回」
「増えてるじゃないか」
ドラコが呆れたように言った。
トムは少しだけ笑った。
「なら、なおさら僕が行った方がいい」
翌日の夕方。
わたしたち三人は、スラグホーン先生の部屋にいた。
わたしとハリーは少し離れた場所に座っていた。
トムが正面にいる。
スラグホーン先生は、最初から一度も椅子に腰を下ろしていなかった。
「……トム」
「お久しぶりです、先生」
トムは昔と変わらない礼儀正しい笑みを浮かべた。
だからこそ、スラグホーン先生の顔が引きつった。
きっとこの笑顔を、何度も見たことがあるのだ。
「本当に……君なのかね」
「正確には、十六歳の僕の記憶です。分霊箱の一つでもありますが」
スラグホーン先生が口元を押さえた。
「そんなものまで作っていたのか、君は」
「若かったので」
「十六歳は普通、自分の魂を日記へ入れたりせん!」
「それについては反省しています」
先生はしばらくトムを見つめていた。
昔の教え子と、現在の姿を重ねているようだった。
やがて、トムが言った。
「分霊箱について詳しく教えてくださったのは、先生でしたよね」
スラグホーン先生の肩が跳ねた。
「何の話だ」
「覚えているでしょう」
「知らん」
「先生」
「知らんと言っている!」
声が裏返った。
トムは目を伏せた。
「七つに分けたらどうなるかと、僕は聞きました」
スラグホーン先生の顔から血の気が引いた。
「やめろ」
「僕は既に人を殺していました」
「やめてくれ」
トムは話をやめなかった。
「その時点で魂を割っていた」
「トム」
「その魂が入れられたのが、僕です」
スラグホーン先生が動かなくなった。
トムは自分の胸へ手を当てた。
「先生のせいではないんです。僕は先生に聞いた時点で分霊箱を作っていましたから」
しばらく誰も話さなかった。
暖炉の火が小さく鳴った。
スラグホーン先生はゆっくりと椅子へ座った。
急に、ずっと年を取った人のように見えた。
「私は……」
声が震えていた。
「私は、君が知りたいと言ったから答えただけだった」
「分かっています」
「君は優秀な生徒だった」
スラグホーン先生はトムを見た。
「本当に優秀だった」
トムは何も言わなかった。
「どんな大人になるのだろうと思っていたよ」
先生の顔に、ほんの一瞬だけ昔を懐かしむような笑みが浮かんだ。
「魔法省へ行くのか。学者になるのか。あるいはホグワーツへ戻ってくるのか。君ほどの才能なら、何だってできると思っていた」
「……はい」
「少々闇の魔術に興味を持ちすぎているとは思っていた。それでも、若い頃にはそういうものへ惹かれることもある。いずれ分別を身につけるだろうと」
そこで、笑みが消えた。
「世界を良くする人間になると思っていた」
トムが顔を上げた。
先生は目を逸らさなかった。
「まさか、人を何度も殺すとは思わなかった」
トムの指が膝の上でゆっくり組まれた。
「魂を二度も三度も……何度も引き裂くようなことをするとは、思わなかった」
「先生のせいではありません」
「だが、私は教えた」
「僕が聞いたんです」
「答えるべきではなかった!」
スラグホーン先生の声が部屋に響いた。
「分霊箱についてなど、知らぬふりをすればよかった! 君がどれほど優秀でも、あの質問だけは止めるべきだった!」
トムはしばらく先生を見ていた。
「それでも」
静かな声だった。
「先生が僕に殺せと命じたわけではありません」
スラグホーン先生が唇を噛んだ。
「僕が選びました」
「トム……」
「僕が人を殺して、僕が魂を割った」
一度、言葉を切る。
「人々が恐れるヴォルデモートになったのも、僕です」
先生の顔が歪んだ。
トムはほんの少しだけ視線を下げた。
「でも、先生が僕に期待してくださっていたことは覚えています」
スラグホーン先生が瞬きをした。
「僕は、それを裏切りました。すみませんでした」
わたしは、トムが謝るところを何度か見たことがある。
でも、その謝罪はいつもどこか不器用だった。
何をどう言えば正解なのか分からないまま、覚えた言葉を選んでいるようなところがあった。
今回は違った。
トムは俯かなかった。
言い訳もしなかった。
ただ、昔、自分の未来を楽しみにしてくれていた教師を見ていた。
スラグホーン先生は何も言わなかった。
やがて目元を押さえる。
「……ずるいぞ、君は」
「何がです?」
「昔から、そうやって一番断りにくいところを突いてくる」
「そのやり方は先生に教わった気がします」
「教えとらん!」
少しだけ、昔のスラグホーン先生とトムの関係に戻った。
その日のうちに、証言掲載の許可が出た。
そして、『トム・リドルの日記』は発売された。
表紙は真っ黒だった。
余計な絵はない。
中央に、緑色の文字で題名だけが浮かんでいる。
『トム・リドルの日記』
その下に、小さく、
TOM MARVOLO RIDDLE
と記されていた。
ただし、普通の文字ではない。
本へ触れると、アルファベットが一文字ずつ表紙から浮き上がる。
文字がばらばらになり、黒い表紙の上を滑っていく。
そして、新しい順番に並ぶ。
I AM LORD VOLDEMORT.
──僕は、ヴォルデモート卿だ。
並び替わった瞬間、文字は緑から赤へ変わった。
これはわたしの案ではない。
装丁担当が張り切った。
発売前に見本を渡されたトムは、しばらく無言で表紙を見つめていた。
「どう?」
「僕の人生が玩具になっている気がする」
「でも分かりやすいよ」
「否定はしない」
結果として、小説は想像以上にウケた。
本屋の前では、買ったばかりの本を開くでもなく、表紙を何度も変化させて遊んでいる人が続出した。
「トム・マールヴォロ・リドル」
「僕はヴォルデモート卿だ」
「戻った!」
「もう一回やって!」
本を読んでほしい。
発売初日から、わたしは出版社として若干の不安を覚えた。
しかし売れている。
だったら、問題ないのかもしれない。
その日の羽ペン通信ホグワーツ版には、スラグホーン先生のコラムが掲載された。
題名は『忘れられない教え子たち──トム・リドル』だった。
そこには、闇の帝王の話はほとんど書かれていなかった。
代わりに、ホグワーツにいた一人の少年について書かれていた。
成績がよかったこと。
礼儀正しかったこと。
教師への受け答えが上手かったこと。
大人の扱いにも妙に慣れていたこと。
欲しいものがある時だけ、いつもより少し愛想がよくなったこと。
才能があったこと。
将来を期待されていたこと。
そして最後に、スラグホーン先生はこう書いていた。
『トム・リドルが何になったのかを、私は知っている。それでも、彼が最初から闇の帝王だったとは思わない。
私が教えたのは、トム・リドルという一人の生徒だった。
その生徒の未来を、私は楽しみにしていた』
わたしはその文章を、二度読んだ。
隣ではトムが新聞を読んでいる。
「どう?」
聞くと、トムはすぐには答えなかった。
記事の最後まで目を通してから、丁寧に新聞を畳む。
「困るね」
「何が?」
「スラグホーン先生はヴォルデモートになった僕を嫌っていると思っていた」
わたしはトムを見た。
彼は笑っていた。
「トム」
「何?」
「本、出してよかった?」
トムは少し考えた。
「まだ分からない」
トムはそう言った。
それから、机の上に置かれた黒い本へ手を伸ばす。
「でも」
トムの指が、自分の名前をなぞった。
「この名前で本を出す日が来るとは思っていなかったよ」
アルファベットが浮き上がる。
TOM MARVOLO RIDDLE.
文字が散り、組み変わる。
I AM LORD VOLDEMORT.
赤い文字が一瞬だけ輝いた。
そして、もう一度触れると、元へ戻った。
TOM MARVOLO RIDDLE.
トムはしばらく、その名前を見ていた。
今度は、消さなかった。