ルシウス・マルフォイは、別邸での暮らしを心の底から満喫していた。
実に素晴らしい生活だった。
朝、目を覚ましても闇の帝王はいない。寝室の扉を開けた先に死喰い人が待ち構えていることもなければ、食堂へ降りた途端にベラトリックスから妙な仕事を押しつけられることもない。誰が許可したのか分からない死喰い人が居間のソファを占領して眠っていることもなく、昨日まで無事だった壁が決闘の余波で抉れていることもなかった。
窓ガラスは朝から晩まで窓ガラスのままだったし、食器は食卓の上に置かれていた。飛ばない。割れない。誰かの頭を目がけて突っ込んでいかない。
何より、朝食を取りながら「今日は無事に一日を終えられるだろうか」と考えなくていい。
それだけで生活というものは驚くほど快適になるらしい。
ルシウスは長年、幸福とは財産や名誉、由緒ある血筋、広大な領地、仕立てのよいローブ、それから庭を優雅に歩く白孔雀などによって構成されるものだと思っていた。
どうやら違った。
幸福とは、温かい紅茶を口へ運んだ時、正面の席に闇の帝王が座っていないことである。
もっと早く知りたかった。
別邸へ移ってからというもの、紅茶は淹れたてのうちに飲めるし、新聞も一面から最後の頁まで誰にも邪魔されずに読める。自分が買った椅子に自分が座り、自分の庭を自分の白孔雀が歩いている。
当たり前のことばかりだった。
その当たり前が、今のルシウスにはひどく尊かった。
ナルシッサも以前よりずっと穏やかだった。屋敷の中を歩く時、誰かの機嫌を窺う必要がないせいか、表情にも余裕がある。クリスマス休暇に入るとドラコも帰ってきて、食卓には久しぶりに家族らしい会話が戻った。
そして、ローゼマインとも久方ぶりにゆっくり会うことができた。
娘が別邸へやってきた時には、なぜかハリー・ポッターと、フェルディナンド、そして闇の帝王の若い方まで一緒だった。
ルシウスには色々と言いたいことがあった。
なぜ娘の帰省にポッターがいるのか。
なぜよりによって闇の帝王の若い方までいるのか。
フェルディナンドとの婚約はそのままにするつもりなのか。
だが、ローゼマインが残りのクリスマス休暇はマルフォイ家で過ごすと言ってくれたので、細かいことはすべてどうでもよくなった。
娘が家にいる。
それで十分だった。
娘の問題児ぶりも、以前に比べればずいぶん落ち着いたものだった。
一年生の頃は教師を吹き飛ばしただの、秘密の部屋を書庫化しただのと報告が届くたびに頭を抱えていたが、今ではせいぜい闇の帝王の過去を本人に書かせて出版する程度である。誰も被害にあっていない。
成長したものだ、とルシウスは思った。
思ってから、何かがおかしいことには気づいたが、深く考えるのはやめた。
その日の午後も、ルシウスは暖炉の前にあるお気に入りの椅子へ腰掛け、新聞を広げていた。
外では薄い雪が降っている。庭の白孔雀は雪景色に紛れ、時折首を動かした時だけその存在が分かる。暖炉では薪が静かに弾け、室内には紅茶と菓子の甘い香りが残っていた。
長椅子ではナルシッサとローゼマインが並んで座っている。
ローゼマインは別邸へ移した本棚を見つけるなり機嫌をよくし、朝から何冊も引っ張り出していた。ナルシッサも本を読む人間なので、母娘が揃えば自然と話題は本へ向かう。
いつものことだった。
ルシウスは新聞の頁をめくりながら、耳の半分だけで二人の話を聞いていた。
何も問題はない。
少なくとも、そう思っていた。
「えっ」
突然、ローゼマインが声を上げた。
暖炉の薪が弾ける音より、ずっとよく響いた。
ルシウスは新聞から目だけを上げる。
「『薔薇色の惚れ薬は二度効く』も、お母さまが書いたの!?」
「私よ」
ナルシッサは特に隠す様子もなく、ティーカップを口元へ運んだ。
ローゼマインの目がさらに大きくなる。
「ええっ! 言われてみれば、水仙姫だった気がするけど……!」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「驚くよ! だって、あれ読んだもん。昔の作品だけど面白かった!」
ルシウスは新聞を少し下げた。
ナルシッサは恋愛小説家だったことを少し前に打ち明けた。彼女の著作はルシウスの人生とは無縁の題名ばかりだったので、ルシウスは一つも読んだことがない。
惚れ薬に関する恋愛小説も書いていたのか。
「実はあれが処女作なのよ」
「じゃあさ」
ローゼマインが言葉を切った。
先ほどまで興奮していた顔が、少しだけ考え込むようなものへ変わる。頭の中で本の内容をひっくり返し、何かを現実と照らし合わせているらしい。
その視線が、ゆっくりこちらへ向いた。
ルシウスの背中に、ひどく嫌な予感が走った。
娘が本と現実を照合し始めた時の顔だった。
「パトリックって、もしかしてお父さま?」
その瞬間、新聞に印刷されていた文字が一文字残らず意味を失った。
ルシウスはゆっくり顔を上げる。
ナルシッサがこちらを見た。
ほんのわずかに口元を緩めてから、何のためらいもなく頷く。
「そうよ」
「待て」
思わず声が出た。
ローゼマインが首を傾げる。
「何?」
「今、何と言った?」
「パトリックがお父さまなのって」
「誰だ、そいつは」
自分がモデルだと言われているらしいのに、肝心の登場人物を自分だけ知らない。
この時点でかなり腹立たしい。
ナルシッサはそんな夫の心情など気にも留めず、穏やかな声で説明した。
「あなたがモデルの登場人物よ」
「なぜ私が恋愛小説の登場人物になっている」
「あの頃のあなたが格好よかったから」
ルシウスは口を開きかけ、そのまま閉じた。
怒るべき場面だった。
自分の知らないところで妻が自分を恋愛小説に登場させ、しかもそれを世間へ出版していたのである。普通なら問い詰めて当然だ。
しかし、妻から真顔で「格好よかったから」と言われてしまうと、怒りをどこへ持っていけばいいのか分からない。
「……どこまで私なのだ」
ようやくそれだけ尋ねると、今度はローゼマインが勢いよく身を乗り出した。
「それ、わたしも気になる!」
「ローゼマイン」
「だって金髪で灰色の目でしょ?」
嫌な条件から始まった。
「純血名家の嫡男で」
マルフォイ家は純血名家だ。
「魔法薬学が得意で」
魔法薬学はルシウスの得意科目だった。
「性格ちょっと悪い」
「最後は余計だ!」
「やっぱり、お父さまそっくりだね」
本人の同意を待たずに確定された。
ナルシッサはカップの縁に唇をつけながら笑っている。
「お母さま、じゃあ、あの有名な台詞も?」
「本人が言った台詞よ」
ローゼマインが勢いよくルシウスを見る。
「お父さま、そんな格好いいこと言ったの?」
「どの台詞かは知らないが、なぜ驚く」
「いや……」
「何だ」
「お父さまって、そういうこと言うんだと思って」
「私は昔から、言うべきことは言う男だ」
胸を張って答えた。
その横で、ナルシッサがそっと顔を逸らした。
紅茶を飲んでいるように見える。
だが肩が微かに揺れている。
笑っている。
気に入らない。
「お母さま、他はどこまで本当なの?」
「それは読んだ人が考えるものよ」
「わたし、もう読んだよ」
「なら、もう一度考えてみなさい」
「えー、読み返そうかな」
ローゼマインは心底楽しそうだった。
ルシウスはまったく楽しくなかった。
娘の記憶の中にはすでに、パトリックという男の行動や台詞が一冊分詰まっている。そのうちどれが自分なのか、どれがナルシッサの創作なのか、本人だけが知らない。
非常に落ち着かない。
自分の青春時代が、知らないところでどれほど世間へ公開されているのか。
確認する必要があった。
*
翌日、ルシウスは書店の前で足を止めた。
変装するべきか、一瞬だけ本気で考えた。
だがすぐに思い直す。
なぜ妻が書いた本を買うだけで、犯罪者のように顔を隠さなければならないのか。
むしろ悪いのは、自分に黙って夫を恋愛小説へ登場させたナルシッサの方ではないか。
そう結論づけ、ルシウスは堂々と店へ入った。
店内には新刊の紙とインクの匂いが満ちていた。奥へ進み、普段ならまず近寄らない恋愛小説の棚を探す。
目当ての本は、驚くほど簡単に見つかった。
『薔薇色の惚れ薬は二度効く』
淡い薔薇色の表紙に、華やかなドレスをまとった少女と金髪の青年が描かれている。
ルシウスは本を手に取った。
青年は長い金髪を肩へ流し、気取ったように顎を上げていた。目は灰色。高価そうなローブを着ている。
似ている。
腹立たしいことに、かなり美化されていた。
「懐かしいですよね。そちら、最近また売れているんですよ」
不意に店員が声をかけてきた。
ルシウスは本から顔を上げる。
「そうか」
「『マグノリアの令嬢は名乗らない』の作者の処女作でして。今読むと、若い頃の作品らしい荒さはあるんですが、それも含めて人気なんです」
「そうか」
「特にパトリックがいいんですよ」
ルシウスの指が止まった。
「……そうか」
「一見、冷たくて嫌味なところもあるんですが、実はずっとリリアのことを見ているんです。あの『薬で得た愛は本物の愛ではない』って台詞なんて、当時かなり人気が出たらしくて──」
「買う」
店員が瞬きをした。
「はい?」
「これを買うと言った」
「あ、はい。ありがとうございます」
これ以上聞いていたら、たぶん店員の前で平静を保てない。
自分が十代の頃に格好つけて吐いた台詞が、知らないところで恋愛小説の名台詞として評価されていた。
死喰い人の集会とは違う意味で、長居してはいけない場所だった。
ルシウスは本を受け取ると、さっさと店を出た。
*
別邸へ戻ると、まっすぐ書斎へ向かった。
扉を閉め、鍵をかける。
念のためカーテンまで閉めたところで、自分でも妙なことをしていると思った。
自宅で一冊の本を読むだけである。
だが、その本の中には自分がいるらしい。
それならば仕方がない。
誰にも見られたくなかった。
机へ腰を下ろし、表紙をもう一度眺める。
薔薇色の表紙の中で、パトリックという金髪の青年がいかにも恋愛小説の男主人公らしい顔をしている。
ルシウスは小さく息を吐いてから、一頁目を開いた。
主人公はリリア。
古い純血名家に生まれた三姉妹の末っ子で、物語に出てくるようなロマンチックな恋に憧れている。
数頁読んだところで、ルシウスは静かに本を閉じた。
主人公があまりにもナルシッサだった。
三姉妹の末っ子という時点で、隠す努力すら感じられない。
もう少し架空の人物を装う気はなかったのだろうか。
再び本を開く。
リリアは舞踏会で人気の青年に憧れていた。
家柄がよく、顔もよく、社交界へ出ればいつも若い令嬢たちに囲まれる。彼から選ばれることは、そのまま「自分も特別な女の子なのだ」と証明されるように思えた。
皆が羨む男と恋をする。
皆が羨む恋をしている自分になる。
けれど、いざ本人を前にすると告白する勇気が出ない。
そこでリリアは考える。
『惚れ薬を使えばいいのではなくて?』
ルシウスは片手で額を押さえた。
急に鮮明に記憶が蘇ったのだ。
あれは、ブラック家の庭園パーティーでのこと。夏の午後だった。
白いテーブルの上には魔法薬学の本が開かれ、その隣で若いナルシッサが真剣な顔をして頁を読んでいた。
ルシウスが近づくと、彼女は何でもないことのように言った。
『惚れ薬を作ろうと思うの』
あの時、ルシウスはかなり動揺した。
誰に使うつもりなのか。
なぜそんなものを使うのか。
そこまでして、誰か別の男に好かれたいのか。
そして何より。
なぜ、自分ではないのか。
今なら分かる。
あれは、嫉妬だった。
だが若い頃のルシウスが、そんなものを素直に認めるはずがない。
ルシウスはあくまで冷静な顔を作り、少しも動揺していないように装い、ナルシッサが惚れ薬を盛ろうとしていた相手、エバン・ロジエールを貶し、惚れ薬を馬鹿にした。
『薬で得た愛は、本物の愛ではない』
小説の中のパトリックも、まったく同じことを言っていた。
ルシウスはその一文へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
「……本当にそのまま使っているではないか」
せめて言葉くらい変えてほしい。
あの頃の自分は、ずいぶんもっともらしい顔をしていたのだろう。
だが今になって考えれば、別に高尚な倫理観だけでナルシッサを止めたわけではなかった。
他の男に惚れ薬を盛ろうとしているナルシッサを見るのが嫌だった。
その男が彼女に夢中になるところを想像するのも嫌だった。
そして一度だけ、逆のことを考えたこともある。
自分がナルシッサに惚れ薬を使えばいい。
そうすれば、彼女は自分だけを見る。
他の男に憧れることもない。
自分の言葉ひとつで笑い、自分について歩くようになる。
そこまで考えて、やめた。
そんなナルシッサは、ナルシッサではない。
彼女自身の感情が消え、その場所を薬で作った感情が占領する。自分を好きだと言われても、それが薬の言葉なら何の価値もない。
むしろ、嫌われた方がましだった。
もちろん腹は立つ。
それでも、自分のことを嫌うナルシッサの方が、薬によって自分を愛するナルシッサよりいい。
若い頃には、そこまで綺麗に言葉にできてはいなかった。
ただ、惚れ薬を使うのは違うと思った。
それだけだった。
ページをめくる。
リリアは実際に惚れ薬を作り、手違いで自分自身が飲んでしまう。
薬が効いたリリアは人気者の青年のことが好きになってしまったのだ。
『彼って、どうしてこんなに素敵なのかしら』
髪型を変え、ドレスを三度着替え、人気者の青年を追いかける。
ルシウスは眉を上げた。
「そういえば、こんなこともあったな」
リリアの異変へ真っ先に気づくのが、幼馴染のパトリックだった。
魔法薬学を好み、口が悪く、少し気取っている。
それでもリリアが困っていれば放っておけない。
ルシウスは頁の上の紹介文を読み、眉間に皺を寄せた。
やはり自分である。
どう読んでも自分だった。
しかもパトリックは、現実の自分より随分格好よく書かれていた。
リリアの顔を見ただけで惚れ薬の異常を察し、すぐさま解毒薬を作り始める。
『彼の話はもう十分だ。君の隣にいるのが誰なのか、少しは思い出してくれないか』
ルシウスは首を傾げた。
「私はこんなことを言っただろうか」
少し考えた。
むしろ、もっとひどい言い方をしていた可能性すらある。
解毒薬を飲んだリリアは、ようやく正気へ戻る。
そこで彼女は初めて、自分が舞踏会の人気者を本当に好きだったわけではなかったことに気づく。
好きだったのは、その男から選ばれる自分。
誰もが羨む恋をしている自分。
物語の主人公のように扱われる自分。
恋をしているつもりで、恋に恋をしていた。
そして、リリアは幼馴染を見る。
いつも文句を言う。
口も悪い。
気取っている。
けれど、彼女の好物を覚えている。
寒ければ上着を差し出し、失敗すれば誰より早く気づき、困っていれば嫌そうな顔をしながら結局助けてくれる。
何年も前から、ずっと隣にいる。
『私、あなたのことが好きだったのね』
ルシウスは本を閉じた。顔に熱がこもるのが分かる。
しばらく、そのまま動かなかった。
数秒経ってから、もう一度開く。
読み違いではなかった。
同じ一文がそこにある。
また閉じる。
「……何という本を書いているのだ」
思わず声が漏れた。
多少の脚色はされている。
けれど、物語の根にあるものは、自分たちの若い頃の話だった。
「あなた、こそこそ何をしているの?」
背後から声がした。
ルシウスは思わず肩を揺らし、本を取り落としかけた。
「ナルシッサ!」
振り返ると、妻が書斎の入り口に立っていた。
薄い色のドレスをまとい、こちらを見ている。その顔には、明らかに面白がっている気配があった。
「どうして入ってきた」
「気になったのよ」
「鍵をかけたはずだ」
「私も鍵を持っているわ」
言われてみれば当然だった。
ナルシッサは部屋へ入り、机の上の本へ目を落とす。表紙を確認すると、口元が少しだけ緩んだ。
「買ってくれたのね」
「……ああ」
「そんなに気になった?」
「私のことまで本にしていたとは思わなかったんだ」
「ええ、そうよね」
「なぜそんなに平然としている」
「だって、格好よかったのよ」
ルシウスは返す言葉を失った。
「……誰が」
「あなたが」
またそれを言う。
非常にやりにくい。
怒ろうとしている人間に、若い頃のあなたが格好よかったから小説にした、と言うのは卑怯ではないだろうか。
「だからと言って、台詞までそのまま使う必要はなかっただろう」
「『薬で得た愛は本物の愛じゃない』?」
「そうだ」
「あれ、好きだったのよ」
ナルシッサは懐かしそうに目を細めた。
「あの時のあなた、すごく格好つけていたでしょう?」
「私は格好つけてなどいない」
「つけていたわよ」
「いない」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
完全に納得されていない。
ナルシッサは机の向かい側へ腰を下ろした。
「それにね。本当は、エバン・ロジエールなんてどうでもよかったのよ」
ルシウスは眉を寄せる。
「何?」
「皆が好きだったから、私も好きになれたらいいと思っていただけ」
「意味が分からん」
「女の子にはあるのよ。皆が素敵だと言う人に選ばれて、周りから羨ましがられて、物語みたいな恋をしてみたいって」
「それで惚れ薬か」
「そう」
「どうでもいい男に?」
「ええ、でも盛らなかったでしょう?」
ルシウスにはますます理解できなかった。
「なおさら意味が分からん」
「本当の目的は別だったもの」
ナルシッサが、いたずらを明かす時のように少し笑った。
「何だ」
「もっとあなたと話したかったのよ」
ルシウスは一瞬、言葉を失った。
「……私と?」
「そう」
「なら、普通に話しかければよかっただろう」
「無理よ」
「なぜだ」
「あなた、ものすごく面倒だったもの」
「面倒とは?」
「三分も話していれば、自分の家の話か、私の家の話になるでしょう? 完全にただの社交じゃない」
「そんなことはなかった、はずだ」
「しかも、それ以外の話をしたかと思えば、妙に棘がある話し方だったのよ?」
ナルシッサは楽しそうに笑った。
「でもね、魔法薬の話をしている時だけは違ったの」
ナルシッサにはそう見えていたのか。
「薬の話なら、あなたはちゃんと私の顔を見て話したわ。私が何か聞けば、どれだけ長くなっても説明してくれた」
「当然だ。専門的な話なら、相手が何を理解しているか確認しなければ──」
「ほら」
「何がだ」
「そういうところよ」
ルシウスは口を閉じた。
「だから、惚れ薬を作りたいと言えば、あなたが絶対に食いつくと思ったの」
ルシウスは目を見開いた。
「実際、すぐ来たでしょう?」
記憶が蘇る。
ブラック家の庭園。
ナルシッサの前には魔法薬学の本。
『惚れ薬を作ろうと思うの』
その一言を聞くなり、若いルシウスは彼女の横から本を取り上げた。
『この配合では濃度が高すぎる』
『でも、本にはそう書いてあるわ』
『古い本だ。今なら月長石の量を減らす』
『そうなの?』
『そもそも惚れ薬というものは──』
そこから長々と話した。
ナルシッサは妙に嬉しそうな顔で、最後まで聞いていた。
あれは、そういうことだったのか。
「……最初から私と話すためだったのか」
「そうよ」
「他の男に使うという話も?」
「あなたが少しくらい嫉妬すればいいと思って」
「少し?」
ルシウスが聞き返すと、ナルシッサの目が楽しげに細くなる。
「あら。嫉妬したの?」
「していない」
「そう?」
「まったく」
「分かったわ」
絶対に信じていない。
ルシウスは少し乱暴に本を閉じた。
妻はくすくすと笑った。
それから少しだけ表情を和らげた。
「きっとあなたのことが好きだったのよね」
ルシウスは黙った。
今度は、すぐに返す言葉が出てこなかった。
「エバン・ロジエールではなく私を?」
「ええ」
「最初から?」
「たぶんね」
「……たぶん?」
「その時は、私にも恋なのか分からなかったのよ」
ナルシッサは机の上の『薔薇色の惚れ薬は二度効く』へ手を伸ばし、表紙を指先でなぞった。
「だから、小説にしたの。書いているうちに分かったわ。私は誰かに選ばれたかったんじゃなくて、あなたに見てほしかったんだって」
ルシウスはしばらく何も言えなかった。
本当に困る。
問い詰めるつもりだったのだ。
勝手に夫を恋愛小説へ登場させた妻に、ひと言言わなければならないと思っていた。
なのに、こんなことを言われてしまえば怒れない。
「それで、黙って出版したのか」
結局、出てきたのはそれだった。
「だって、言ったら止めたでしょう?」
「ああ、止める」
「だから黙っていたのよ」
「理屈が通っているようで通っていないぞ」
ナルシッサは席を立った。
「あなた、人気よ。パトリックさん」
「その名前で呼ぶな」
扉へ向かったナルシッサは、出ていく寸前に思い出したように振り返った。
「ちなみに」
「まだ何かあるのか」
「初稿のパトリックは、もう少しあなたに似ていたのよ」
「どういう意味だ」
「編集者に『この男、性格が悪すぎませんか』と言われて直したの」
「シシー!」
「続きはまた今度話すわ」
ルシウスは一人、書斎へ取り残された。
机の上では、自分をモデルにした男が薔薇色の表紙の中でいかにも格好よさげに立っている。
腹立たしい。
もう一度本を開く。
ちょうど、パトリックが寒そうにしているリリアへ上着をかける場面だった。
『風邪を引かれては困る』
ルシウスは眉をひそめる。
たしかに、私はこんな言い方はしていない。
記憶を辿る。
たしか──
『寒そうな顔をするな。見ているこちらまで寒くなる』
ルシウスはしばらく考えた。
「……編集者は正しかったかもしれんな」
ルシウスとドラコって絶対似てますよね。ドラコのが比較的素直で面倒見が良さそうです。
次話をこの話の前にするか後にするか迷ったんですが、なんとなく箸休め的に番外編を先に出してしまいました。