ダンブルドア先生の葬式の日、わたしはタイムターナーを持っていた。
使うつもりで持ってきた。
マルフォイ邸での戦いが始まる前まで戻ればいい。
ダンブルドア先生がナギニを殺しに行く前でもいい。先生が何をしようとしていたのか、今のわたしたちは知っている。
だったら、今度は先回りできる。
問題は、わたしのタイムターナーだけでは遡れる時間に限界があることだった。
だから葬儀が始まる少し前、湖へ向かう人の列から離れ、わたしはトムを捕まえた。
「トム、タイムターナー持ってるよね?」
「持ってない」
「持ってたよね?」
「今は手元にない」
「どこにあるの?」
「ダンブルドアに奪われて隠されたんだ」
「でも、どこに隠してあるか分かる?」
トムがわたしを見る。
「分かる」
「本当に?」
「あの人は隠し事が上手いように見えて、長く付き合っていると癖が分かる」
「じゃあ、葬式が終わったら取りに行こう」
トムの目が細くなった。
「何をする気?」
「ダンブルドア先生を助ける」
わたしは服の下に隠したタイムターナーを握った。
「二つあれば、それ以上前まで戻れるでしょう?」
「そうだけど」
「だったら、マルフォイ邸に来る前まで戻る。もっと前でもいい。ナギニはわたしたちで殺せばいいし、別の方法を探してもいい。ダンブルドア先生がヴォルデモートと戦うことにならなければ──」
「君はもう決めてるんだね」
「うん」
だって、できる。
まだ助けられる。
救える可能性があるのに、何もしないで葬式だけして終わるなんて、わたしには理解できなかった。
トムはしばらく何も言わなかった。
湖畔には白い椅子が並べられ、その向こうにはダンブルドア先生の墓がある。
「分かった」
ようやくトムが言った。
「場所は僕が案内するよ」
「ありがとう」
これで大丈夫だと思った。
湖のほとりには、たくさんの人が集まっていた。
先生たち、生徒たち、不死鳥の騎士団、魔法省の人たち。見覚えのない老人もいれば、新聞でしか見たことのない魔法使いもいた。
父と母も来ていた。
父はいつも以上に背筋を伸ばしていた。
マルフォイ邸でダンブルドア先生が死んだのだから、居心地が悪いのだと思う。
もちろん、父が殺したわけではない。
むしろ父が寝返ったからこそ、不死鳥の騎士団がマルフォイ邸へ入り、ダンブルドア先生もそこへ来て、ナギニを殺した。
結果だけ並べると、父が寝返った直後からマルフォイ家の人生が急激に酷いことになっている。
葬儀が始まった。
ダンブルドア先生について、いろいろな人が話した。
学生時代から知っていた人。
教え子だった人。
一緒に仕事をした人。
助けてもらった人。
喧嘩したことがあるという人までいた。
わたしの知らないダンブルドア先生の話が、次々に出てくる。
それが、妙な感じだった。
わたしは先生の自伝を読んだ。
それも、出版する側として、原稿の段階から何度も読んだ。
幼い頃のことも、家族のことも、グリンデルバルドとのことも知っている。
少なくとも、かなり知っているつもりだった。
なのに、知らないダンブルドア先生がいくらでもいた。
ある老人は、若い頃の先生がひどく負けず嫌いだったと言った。
別の魔女は、初めて会ったとき、先生に紅茶をひっくり返されたと言った。
そんな話、自伝にはなかった。
ずるい。
もっと書いてくれてもよかったのに。
白い墓が閉じられていく。
わたしは胸元のタイムターナーを握った。
葬式が終わったら、トムともう一つ取りに行く。
だから、これは本当のお別れじゃない。
そう思えば、まだ座っていられた。
マクゴナガル先生が何度も眼鏡を外していても。
ハリーがずっと俯いていても。
誰かのすすり泣く声が聞こえても。
まだ間に合う。
まだ、やり直せる。
その言葉だけを何度も心の中で繰り返した。
やがて葬式が終わった。
ところが、不思議なことに、葬式が終わったからといって、みんながすぐ帰るわけではなかった。
むしろ、そこから妙に騒がしくなった。
「久しぶりじゃないか」
「あなたも来ていたの?」
「息子さん、今年卒業でしょう?」
「そういえば、この前の魔法省の件なんだけど──」
あちこちで話が始まった。
ついさっきまでダンブルドア先生の死を悼んでいた人たちが、普通に近況を話している。
最初は少し面食らった。
でも、葬式というものは、もしかするとこういうものなのかもしれない。
亡くなった人をきっかけに、普段会わない人たちが集まる。
死んだ人について話し、それが終わると、生きている人たちはまた自分たちの話を始める。
人混みの向こうにフェルディナンドがいた。
ちょうど話しておきたかった。
「フェルディナンド先輩」
呼ぶと、フェルディナンドがこちらを見る。
その隣にいたシリウスまで振り向いた。
「ああ、マイン。今ちょうどその話をしていたんだ」
シリウスが言った。
嫌な予感がした。
「何?」
「前から気になってたんだが」
シリウスはわたしとフェルディナンドを交互に見た。
「お前たち、本当に結婚するのか?」
「……婚約してるんだから、するんじゃないの?」
「いや、だってお前、トムと仲いいだろ」
「トムは友達だよ」
「俺はてっきり、最後はそっちとくっつくものかと思ってた」
「どうしてそうなるの!?」
思わず声が大きくなった。
トムとはそういう関係ではない。
本を貸したり借りたりするし、一緒に禁書を読んだり、魂をどうにかしたり、世界征服をやめさせたりしているだけだ。
「シリウス、余計なことを言うな」
フェルディナンドが冷たく言った。
「お前は気にならないのか?」
「少なくとも、お前に相談するつもりはない」
「相変わらず可愛くないな」
シリウスはまったく堪えていなかった。
その横で、母が何かを書いている。
小さなメモ帳を左手に持ち、羽根ペンを走らせていた。
「お母さま、何を書いてるの?」
「別に」
母はメモ帳を閉じた。
「今、『婚約者と男友達の距離』って書いてなかった?」
「見間違いよ」
「その下に『嫉妬は表に出さない方が──』」
「それ以上は駄目よ、マイン」
フェルディナンドがわたしを見る。
「何か話があるのだろう」
「はい」
「場所を変えるぞ」
人の輪から少し離れた湖畔まで歩いた。
湖面には午後の光が細かく散り、風が吹くたびに形を変えていた。
フェルディナンドが立ち止まった。
「それで?」
「ダンブルドア先生を助けに行きたいんです」
フェルディナンドの眉がわずかに動いた。
「どういう意味だ」
わたしは胸元からタイムターナーを取り出した。
「これと、トムのタイムターナーを使います。トムのはダンブルドア先生に没収されていますけど、隠し場所は分かるそうです」
「時間を遡るつもりか」
「はい。二つあれば、マルフォイ邸の戦いより前まで戻れます」
説明しながら、少し早口になった。
「ナギニは別の方法で殺せます。わたしたちが先にやってもいいし、ダンブルドア先生がマルフォイ邸へ来なければいいんです。失敗したら、もっと前から──」
「マイン」
遮られた。
「ダンブルドアは、それを望んでいない」
「でも、先生は死んだんですよ」
「知っている」
「だったら助けた方がいいでしょう?」
「何をもって助けると言っている」
「生きてもらうんです!」
当たり前のことのはずだった。
「ダンブルドアは、何も分からず戦場へ行ったのか?」
「違います」
「ナギニが何であるかも知らなかった?」
「知ってました」
「危険だとも理解していた?」
「……はい」
「なら、自分で選んだのだろう」
わたしは白い墓を見た。
先生は、追い詰められて死んだわけではない。
逃げ道を失って仕方なく命を捨てたわけでもない。
ナギニがヴォルデモートの魂を宿していると知っていて、自分の残された時間も知っていて、それでも殺しに行った。
「でも、生きてた方がいいに決まってます」
「誰にとってだ」
「みんなにとってです」
「ダンブルドアにとってもか?」
答えが出なかった。
頭の中に、先生の顔が浮かんだ。
もし過去へ戻って、『先生は死ぬから、行かないでください』と言ったら。
先生はどうするだろう。
きっと少し困った顔をする。
『それは困ったね』
なんて言って。
そして、別の方法でナギニを殺そうとする。
わたしに気づかれない方法を探すかもしれない。
でも、ダンブルドアは死なないで済むのだろうか。
「お前は結果を知っている」
フェルディナンドの声が聞こえた。
「だからこそ、その結果が気に入らないという理由だけで、本人の決断まで消していいわけではない」
「気に入らないからじゃありません」
「では、なぜだ」
「先生に……」
声が詰まった。
「もっと本を書いてほしかったんです」
自分でも、なぜ最初にそれが出てきたのか分からなかった。
「下巻だって、まだ話したいことがいっぱいあったし……さっきも、知らない先生の話がいっぱい出てきて。自伝に全然書いてないんですよ」
目の奥が熱くなった。
「もっと聞けたのに」
「ああ」
「戻れば聞けるんですよ」
「そうだな」
「だったら──」
「それでも、お前が決めることではない」
フェルディナンドはそこだけは譲らなかった。
その言葉で、ようやく気づいた。
わたしはダンブルドア先生を助けたい。
でも、それだけではなかった。
先生を失った自分が嫌だった。
悲しいのが嫌だった。
聞きたいことが聞けなくなったのが嫌だった。
だから全部なかったことにしたかった。
先生自身が考え、選び、最後までやり遂げたことまでひっくり返して。
わたしが悲しくない世界に戻りたかった。
それは、ダンブルドア先生のためではない。
わたしのためだ。
指から力が抜けた。
タイムターナーが胸元へ戻る。
「……行きません」
口に出した瞬間、白い墓がそれまでとは違って見えた。
「トムにも、行かないって言います」
「そうしろ」
フェルディナンドが短く答えた。
これで話は終わるのだと思った。
けれど、フェルディナンドは歩き出さなかった。
「もう一つある」
「はい?」
「君との婚約を解消する」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「……どうしてですか!?」
「元々、婚約をした理由を覚えているか」
「わたしがブラック家にいられるようにするためです」
即答した。
あの頃は、わたしの立場が曖昧だった。
マルフォイ家でありながら、ヴォルデモートと相反する立場を選ぶのは大変だった。
ブラック家で暮らし続けるために、フェルディナンドとの婚約という形を取った。
「そうだ」
「だったら──」
「君にはもう、ブラック家の庇護は必要ない」
わたしは言葉を失った。
「マルフォイ家との関係も変わった。ルシウスもナルシッサも、今さら君を手放すつもりはないだろう」
「それは……そうですけど」
「出版社もある。以前とは違い、君自身の立場も確立している」
淡々と事実を並べられる。
「ブラック家に置いておくために、私と婚約している必要はない。もうブラック家にいる必要もないのだから」
「でも」
「前提が失われた契約を、そのまま維持する理由もないだろう」
契約という言葉が妙に胸に引っかかった。
「フェルディナンド先輩は、それでいいんですか?」
思わず聞いていた。
フェルディナンドがわたしを見る。
「必要がないなら解消する。当然だろう」
「……そうですか」
胸の奥が、ひどく落ち着かなかった。
ブラック家にいるため。
最初からそうだった。
分かっていたはずなのに。
「嫌なら、そう言え」
フェルディナンドが言った。
顔を上げた。
「え?」
「婚約を続ける理由が他にあるなら、言えばいい」
口を開いた。
けれど、何も出てこない。
ブラック家にいられるから。
もう必要ない。
それ以外に、わたしがフェルディナンドと婚約している理由。
考えようとすると、さっきとは違う意味で胸が苦しくなった。
「……今すぐ考えないと駄目ですか?」
フェルディナンドはもう話は終わったとでもいうように歩き始めた。
「フェルディナンド先輩!」
振り返らない。
ものすごくひどい。
わたしはその背中を睨んだ。
さっきまでダンブルドア先生を救うことで頭がいっぱいだったのに、今度は婚約がなくなった。気持ちをどこに追いやればいいのだろう。
でも、追いかける前にやらなければならないことがある。
トムは少し離れた木の下にいた。
「トム、行くのはやめる」
トムは驚かなかった。
「そう」
「フェルディナンド先輩に、ダンブルドア先生は望んでないって言われた」
「僕もそう思う」
「思ってたの!?」
「うん」
「じゃあ、なんで一緒に行くって言ったの?」
「止めても君は一人で行くだろうから」
否定できなかった。
「それに」
トムは白い墓を見る。
「過去の自分を殺そうとしてタイムターナーを没収された人間が、他人に過去を変えるなと言っても説得力がない」
「そんなことがあったの? それは……そうだね」
「だろう?」
妙なところで納得してしまった。
「ああ、ルシウス」
聞き覚えのある、嫌な予感しかしない声が飛んできた。
振り返ると、シリウスが父のところへ向かっていた。
「なんだ、その顔は」
「君を見たからだ」
父は即答した。
「寝返ったの、後悔してるんじゃないか?」
「なぜそう思う」
「だってお前、寝返った途端に屋敷は戦場になって消えるし、闇の帝王には裏切り者として目をつけられるし、ダンブルドアまで家で死ぬし」
「最後の件を私のせいのように言うな」
「でも前より人生大変そうだぞ」
「誰のせいだと思っている」
「ヴォルデモート?」
「君だ」
それはかなり八つ当たりだと思う。
でもシリウス相手なら仕方ない気もする。
「で、本当は後悔してないのか?」
シリウスがもう一度聞いた。
父は眉間に皺を寄せた。
「後悔しているなら、私は今日ここには来ていない」
「へえ」
シリウスが少しだけ意外そうな顔をした。
「ルシウス、お前、案外まともになったな」
「二度と話しかけるな」
父の機嫌は一瞬で元に戻った。
わたしがそのやり取りを眺めていると、横から声をかけられた。
「君がローゼマイン・マルフォイか?」
「はい?」
「下巻はいつ出るんだ?」
知らない魔法使いだった。
「一週間後を予定しています」
「そうか。楽しみにしている」
そう言って去っていった。
少しして、今度はホグワーツの卒業生らしい魔女が来た。
「ダンブルドア先生の自伝、下巻はいつ出るの?」
「一週間後を予定しています」
「予約できるのかしら?」
「書店によります」
さらに少しして。
「君、プロングズ出版のローゼマインかい? 下巻──」
「一週間後です」
途中から質問を最後まで聞かなくても答えられるようになった。
ダンブルドア先生の葬式で、ダンブルドア先生の本の発売日を延々と聞かれている。
出版社をやっている以上、当然なのかもしれない。
でも、本人が亡くなった途端に問い合わせが増えるのは、なんとも言えない。
今度は、杖をついた老人だった。葬式の最前列にいて、ダンブルドア先生について話をした一人だった。
たしか、エルファイアス・ドージという名前だった。
「アルバスの自伝、下巻はいつ出るんだい?」
「一週間後を予定しています」
「一週間か。すぐだね」
ドージは満足そうに頷いた。
これで何人目だろうか。
そろそろ胸に『下巻は一週間後です』と書いた札でも下げた方が早いかもしれない。
ドージはわたしの顔をしげしげと見た。
「君が、本好きの魔女か」
「……はい?」
知らない呼び名が出てきた。
「本好きの魔女って何ですか?」
「アルバスがしょっちゅう手紙でそう呼んでたよ。新聞を作り、出版社を作り、アルバスに本を出せってせがんでくる本好きの魔女がいるってね」
いつから、そんなふうに呼ばれていたのか。
先生は何を思ってそんなことを書いたんだろう。
「先生の手紙って残っていますか」
「もちろん。長い付き合いだったからね。相当な数はあるよ」
ダンブルドア先生の生前の手紙。どんなことが書かれていたんだろう。
「読ませてもらえませんか」
「驚いた。あんた手紙まで本にしてしまうのかい」
「まだ決めてません。でも、先生が何を話していたのか知りたいんです」
ドージは少し笑った。
「それならアルバスも怒らないだろう。むしろ諦めるかもしれんな。本好きの魔女に見つかったら仕方ないってね」
少し離れたところで、母が誰かと話していた。
相手はロメルダだった。
「本当にあなたが水仙姫なんですか?」
ロメルダが母を凝視している。
「ええ」
「『薔薇色の惚れ薬は二度効く』や『マグノリアの令嬢は名乗らない』を書いた?」
「そうよ」
ロメルダの目が輝いた。
「わたし、あなたのこと人生で一番好きかもです! ごめんなさい、やっぱロンロンも好きだから一番じゃないかもだけど、小説家としては一番!」
「ありがとう」
「『薔薇色の惚れ薬は二度効く』を読んでなければ、好きな人に惚れ薬盛っちゃってましたもん。あの本は人生のバイブルです!」
母が少しだけ困っていた。
つい先ほど娘の婚約が解消されたことも知らずに、恋愛小説について語っている。
今話したら、あのメモ帳が大変なことになる。
今日は絶対に言わない。
「あなた、恋愛についてコラムで書いているのでしょう?」
「はい」
「小説は書かないの?」
「小説はあたしには難しいかなって」
「でも毎週、恋愛についてあれだけ書いているのでしょう。なら、物語にしてみてもいいんじゃない?」
ロメルダは考え込んだ。
「……物語か」
その顔を見て、わたしには分かった。
あ、これ書く顔だ。
本を書く人は、本を書くことを思いついた瞬間、少し目が変わる。
「最初なら、自分の経験を少し使っても──」
「待った!」
ロンが飛んできた。
ものすごく嫌な予感を察知した顔をしている。
「何?」
ロメルダが振り返る。
「今、何の話してた?」
「恋愛小説を書く話」
ロンは母を見る。
「今、自分の経験を使えって言いました?」
「ええ」
「駄目です」
「なぜ?」
「僕が出るからです!」
それはそうだ。
「ロメルダ、絶対に僕たちのこと書くなよ」
「書かないよ」
「名前だけ変えるのも駄目だからな」
「だから書かないって言ってるでしょ!」
母が少し考えた。
「名前は変えた方がいいわね」
「やめてください!」
ロンの声が湖まで響いた。
わたしは笑ってしまった。
その時、少し離れたところにハーマイオニーがいるのが見えた。誰かと話している。
こちらが見ていることに気づく前に、ハーマイオニーは視線を逸らした。
そのまま、人の輪から離れていく。
夕方になると、少しずつ人が減っていった。
母とロメルダはまだ小説について話している。
ロンは近くでずっと警戒していた。
父はシリウスから逃げるように場所を移していた。
それでもシリウスがついていく。
あれはもう諦めた方がいいと思う。
フェルディナンドの姿は見えなかった。
わたしは探しかけて、やめた。
婚約を解消すると言われた。
理由は分かっている。
最初から、ブラック家にいるための婚約だった。
その必要がなくなった。
だから終わる。
理屈はものすごく分かりやすい。
なのに、どうしてこんなに嫌なのかは、まったく分からない。
婚約していても生活はほとんど変わらない。
解消しても、きっとフェルディナンドはフェルディナンドのままだ。
それなのに、胸の辺りに穴が空いたような感じがする。
その理由を考え始めると、なぜかものすごく面倒なことになりそうな気がした。
今日はもう考えたくない。
わたしは湖の方へ歩いた。
風が水面を撫で、夕日の色が細かく揺れている。
そこで、一人の老人に気づいた。
葬式にいたのに、誰にも話しかけられなかった老人だ。
みんなが話している間も、一人でずっと湖のそばにいた。
白い墓を見ている。
手には一冊の本があった。
ダンブルドア先生の自伝の上巻だ。
本を持っている。
それだけで少し親近感が湧いた。
「あの」
声をかけると、老人がゆっくり振り返った。
年老いていた。
髪も白く、顔には深い皺がある。
けれど、妙に目だけは鋭かった。
「その本、読んだんですか?」
「ああ」
「どうでした?」
出版した側として、つい聞いてしまった。
老人は手元の本を見た。
「酷い本だった」
「は?」
「酷い本だったと言った」
「どこがですか!」
さっきまでダンブルドア先生のことで泣きそうだったことも、婚約を解消されたことも、一瞬だけ忘れた。
「あれだけちゃんと書いた本なのに!」
「ちゃんと?」
老人が少し笑った。
「アルバスは昔から、自分のことになると謙虚すぎる」
わたしは口を閉じた。
「……ダンブルドア先生を知ってるんですか?」
「もちろん、知っているとも」
老人は本を開いた。
「ここもそうだ。随分と控えめに書いている。それから、この辺りも酷い。自分の功績をまるで偶然のように書いている」
ページをめくる。
どこに何が書いてあるのか、よく覚えているようだった。
「それに、書かなかったことも多すぎる」
「それは自伝だから、本人が書きたくないこともあるでしょう。それにしてもずいぶん書いた方だと思っていました!」
「だから酷いと言っている」
老人は当然のように言った。
なんだこの人。
でも、ただ悪口を言っているわけではない。
本をかなり細かく読んだ上で言っている。
しかも、ダンブルドア先生本人を知っている。
「アルバスは、自分を正確に書くには向いていない」
「本人なのに?」
「本人だからだ」
老人は墓を見た。
「自分の失敗は大きく書く。功績は小さく書く。昔からそういう男だった」
知らないダンブルドア先生が、また一人増えた。
でも、今度はもう、過去へ戻って本人に聞こう。
とは思わなかった。
聞けないことは残る。
知らないことも残る。
それでも、残った人たちから聞くことはできる。
そして、本にすることもできる。
老人はこちらへ向き直った。
「君はローゼマイン・マルフォイだね。プロングズ出版の出版者だ。この前の『トム・リドルの日記』、あれは良かった」
「ありがとうございます?」
散々貶された後に褒められるのは変な気分だった。
「下巻の編集作業はほとんど終わっているところ無謀な願いなのは分かっている。だが、下巻の最後に、私から見たアルバス・ダンブルドアを書かせてほしい」
わたしは老人を見た。
「あなたは一体、誰なんですか?」
老人は少し目を細めた。
夕日が湖の向こうへ沈みかけていた。
「私はゲラート・グリンデルバルド。アルバス・ダンブルドアの友人だ」