最近、マインとグリンデルバルドは妙に仲がいい。
その事実を、トムはあまり面白く思っていなかった。
マルフォイ家の庭には、朝から柔らかな日差しが落ちていた。芝生の向こうではドビーが何かの荷物を運び、テーブルの上には届いたばかりのマグルの新聞と、グリンデルバルドがどこから持ち出してきたのか分からない古い魔術書が積み重ねられている。その真ん中で、マインは椅子に浅く腰かけ、新聞の記事を指で叩きながら身を乗り出していた。
「だから、最初は恋愛小説がいいと思うんだよ。魔法界の話でも、物語として書いてあるならマグルは本当のことだと思わないでしょ?」
「なるほど。秘密を隠すのではなく、あえて見せてしまうわけか」
「そうそう! 『この物語はフィクションです』ってね。それで人気が出たら、次はもっと魔法界っぽい本も──」
マインは楽しそうだった。
グリンデルバルドも楽しそうだった。
少し離れた長椅子に腰を下ろしていたトムは、本を開いたまま、気づけば同じ段落を何度も読み返していた。内容が難しいわけではない。むしろ、一度読めば覚えられる程度のものだった。それなのに、視線が勝手に庭の中央へ逸れていく。
マインは、グリンデルバルドとマグルについて話すときだけ、やけに話題が尽きない。
マグルの新聞に載っていた事件の話から、出版の流通へ飛び、恋愛小説をマグルに売ったら読者がどれほど増えるだろうというところまで、ほとんど息継ぎもせずに喋り続けている。
僕には、そんなに話さなかった気がする。
トムはそう考え、すぐに本へ目を戻した。
馬鹿馬鹿しい。
話したければ、自分から話せばいい。マインは別に拒まないだろうし、そもそも彼女の方からどうでもいい話を持ち込まれることだって多い。新しく入った本の話、新聞の売れ行き、ロンの原稿が遅いこと、ハリーがまた何かに怒っていたこと。
それでも、グリンデルバルドと話しているときのような顔を自分にも向ければいいのに、という考えだけが、妙に残った。
「トム君」
不意に呼ばれ、トムは顔を上げた。
グリンデルバルドがこちらを見ていた。マインはまだ新聞に夢中で、二人の間にあるものには気づいていない。
「先ほどからずいぶん熱心にこちらを見ているね」
「お前を信用していないだけだ」
「それは結構。私も君ならそうすると思うよ」
グリンデルバルドは笑った。
その笑い方が、余計に気に入らない。
もっとも、マインが彼と親しくしている理由くらい、トムにも分かっていた。
自分を死なせないためだ。
日記に閉じ込められた魂を肉体へ移し、ヴォルデモートの分霊箱ではない一人の人間として生かす。その方法を探すには、闇の魔術の知識が必要だった。
トム自身も、闇の魔術については詳しい方だと思っている。
ホグワーツにいる学生と比べるなら、比較する意味すらない。十六歳の時点で分霊箱を作るところまで辿り着いた人間が、そう何人もいるはずがなかった。
けれど、相手は百年以上生きたゲラート・グリンデルバルドである。
若い頃からヨーロッパ各地を渡り歩き、古い魔術を掘り起こし、ダンブルドアと並んで当代最高峰とまで呼ばれた魔法使いだ。知識だけならともかく、実際に試した闇の魔術の種類まで含めれば、さすがに敵わない。
そこは認めるしかない。
だからこそ、余計に気分が悪かった。
「トムもそう思わない?」
マインに声をかけられた。
「何を?」
「聞いてなかったの?」
「ごめん、本を読んでいた」
「あ、じゃあいいや」
あっさり切り上げられ、マインはまたグリンデルバルドへ向き直った。
トムは本を開き直した。
今度は一行目すら入ってこなかった。
もう一度説明すればいいだろう。
僕にも話せばいい。
そう思う自分が、どうにも面倒だった。
ただ、グリンデルバルドを警戒すべきだという判断そのものは間違っていない。
彼には目的がある。
何かを企んでいる人間の顔くらい、トムには分かった。むしろ、それを見抜けない方がおかしい。
同族嫌悪という言葉が一番近いのかもしれない。
人を利用するとき、相手が自分から動きたくなる理由を与え、選んだのは自分だと思わせればいい。
マインに対して、それはとても簡単だった。
本を与える。
それだけで、勝手に目を輝かせて色々なアイデアを出してくる。
「マグルにも魔法の本を売れるようになったら、今までとは桁が違うよね。何十億人もいるし」
「英国だけに留める理由もない」
「夢があるね!」
マインは本気で感動していた。
グリンデルバルドは穏やかに笑っている。
恋愛小説をマグルへ売るという話自体は、トムも悪くないと思う。魔法界の本がマグルにどう受け取られるのかは興味深いし、秘密保持法の境界をどこまで攻められるのかも面白そうだった。
だが、グリンデルバルドが小説の売上だけを考えているはずはない。
ダンブルドアの自伝へ寄稿したところまでは、まだ理解できた。二人の間には、他人には分からない過去がある。
では、その後までマインのそばへ残っているのはなぜなのか。
出版を使ってもっと大きなことをしようとしているに違いない。
あの男は、マインを何だと思っているんだろう。
「トム」
また呼ばれた。
今度は聞いていた。
「何だ」
「庭に大鍋置いていいと思う? お父さまに怒られないかな?」
「大鍋? 何を作るんだ?」
「トム」
「その言い方はやめろ」
*
本当に庭に大鍋が置かれたのは、その翌日のことだった。
ドビーが用意したらしい。
魔法薬の授業で使うものより遥かに大きく、大人一人が丸ごと入っても余裕がありそうだった。黒々とした鉄の表面には、古い文字が刻まれている。朝露の残る芝生の上にそんなものが据えられている光景は、マルフォイ家の手入れされた庭にはひどく不釣り合いだった。
もっとも、今日はそこで人間を一人作るらしい。
用途としては正しいのかもしれない。
鍋の周囲には、マインが集めた材料が並んでいた。
大量の水。塩。鉄。骨を作るためだという白い粉。黒い炭素の塊。ほかにも瓶に詰められた鉱物や液体がいくつもあり、マインは何度も紙と見比べながら数を確認していた。
グリンデルバルドによれば、賢者の石さえあれば、肉体そのものを作るのはそれほど難しくないらしい。
トムがかつて用いた復活の儀式では、父親の骨、下僕の肉、敵の血を必要とした。
あれは既に失われたヴォルデモートの肉体を取り戻すための古い闇の魔術だった。
今回は違う。
賢者の石が物質を変成し、トムの魂に残された情報をもとに、新しい身体を形作る。
他人の骨も、肉も、血も必要ない。
「問題は身体じゃない」
グリンデルバルドはトムの日記を片手に言った。
「君の魂をここから移す方だ」
トムは日記を見た。
かつては、それを他人に持たせることすら不愉快だった。
今はもう、自分の古い部屋を眺めているような気分に近い。
「一番脆くなるのは、魂が分霊箱を離れる瞬間か」
「その通り」
グリンデルバルドは、それ以上詳しくは説明しなかった。
必要もなかった。
トムにも大筋は分かる。
魂が日記という器を離れ、新しい肉体へ移動する。
その一瞬だけ、魂を固定している魔術も、ヴォルデモートを不死にしている繋がりも、不安定になる。
そこを切る。
そして、新しい身体に魂を定着させる。
「その切るところは?」
マインが聞いた。
「私がやる」
グリンデルバルドは軽く答えた。
「大丈夫?」
「さあ」
「さあって何?」
「やったことがないからね」
マインが露骨に嫌そうな顔をした。
トムはむしろ、少し安心した。
この男が「絶対に成功する」と言い切る方が信用できない。
「失敗したら?」
「そのときは、そのときだ」
「マインと同じことを言うな」
「いい考え方だと思うがね」
「でしょう?」
マインまで頷いた。
二人とも気が合いすぎる。
やはり気に入らなかった。
儀式が始まった。
大量の水が大鍋へ注がれ、グリンデルバルドが杖を振ると、底に青白い炎が灯った。そこへマインが材料を順番に入れていく。塩が溶け、鉄が沈み、白い粉が水面を覆う。鍋の中身は透明から白へ、白から銀色へとゆっくり変わっていった。
最後に、賢者の石が沈められた。
途端に液体が深い赤へ染まる。
血に似た色だった。
「はい」
グリンデルバルドが日記を差し出した。
トムは受け取った。
黒い表紙には、これまで何度も触れてきた。中には自分の記憶があり、自分の言葉があり、自分そのものがいた。
「最後に何か書かなくていいの?」
マインが隣から聞いた。
「何を」
「何かあるでしょ。今までありがとう、とか」
「自分に?」
「……確かに変か」
「分かったならいい」
トムは日記を鍋へ落とした。
赤い水面が揺れ、黒い表紙がゆっくり沈んでいく。
その瞬間、身体の感覚が変わった。
自分が透けていく。
手を上げると、指の向こうに庭の緑が見えた。
マインが何か言った。
声が遠い。
鍋の中では、日記がひとりでに開いていた。ページが激しくめくられ、黒い文字が紙から剥がれていく。一文字ずつ、一行ずつ、インクが赤い液体へ溶け込んでいった。
僕の記憶だ。
僕の言葉だ。
僕だったものが、紙を離れていく。
不思議と恐怖はなかった。
グリンデルバルドが知らない呪文を唱えた。
聞いたことのない古い響きだったが、闇の魔術だということだけは分かった。魂の奥へ直接指を差し込まれたような、不快な感覚が走る。
鍋の底で、何かが形を取り始めた。
けれど、それを見届ける余裕はなかった。
突然、別の方向から強く引かれた。
知らない感覚ではない。
むしろ、ずっと知っていた。
生まれたときからそこにあったせいで、普段は存在すら意識していなかったもの。
自分であって、自分ではない何か。
ヴォルデモート。
それが、初めて明確な輪郭を持った。
そして、切れた。
痛みを認識したときには、視界はもう暗くなっていた。
*
最初に感じたのは寒さだった。
次に、息苦しさ。
肺へ空気が流れ込み、反射的に激しく咳き込んだ。喉がひりつき、胸の奥が痛む。まるで身体中が、今まで使ったことのない機能を一斉に動かし始めたようだった。
「……最悪だ」
自分の声が、妙に掠れて聞こえた。
「喋った!」
すぐ近くからマインの声がした。
目を開く。
朝の空が見えた。
その下からマインが覗き込み、さらにその向こうにグリンデルバルドが立っている。
老人は何の感慨もなさそうにローブを投げてきた。
「まずそれを着たまえ」
トムは自分を見下ろした。
「……先に言え」
「大鍋から服まで出てくると思っていたのかね?」
「思ってはいない」
身体を起こしてローブを羽織る。
動くだけで重かった。
今までも人間の姿を取っていた。歩けたし、物を持つこともできた。それでも、今の身体はまるで違う。
足の裏に芝生の感触がある。
風が濡れた肌を撫でるたびに寒い。
胸の奥では心臓が、こちらの意思など聞かずに動き続けている。
立とうとして、膝が揺れた。
「トム!」
マインが手を伸ばした。
「大丈夫だ」
そう言いながら立ち上がったところで、急に身体へ衝撃が来た。
マインが抱きついていた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
腕が背中に回る。
柔らかい髪が頬に触れる。
身体の前面に、マインの体温が伝わってくる。
これまでだって、すぐそばにいた。
何度も隣で本を読んだ。顔を覗き込まれたこともあるし、肩が触れそうな距離まで近づかれたこともある。
でも、こんなふうに誰かを感じたことはなかった。
「良かった……」
マインの声が、耳元でする。
「本当に良かった」
その声を聞いたとき、気づけばトムも腕を回していた。
背中に手を置く。
温かい。
人間の身体というのは、こんなにも温度を持っているものだったらしい。
自分の胸の奥で、心臓が急に速くなる。
儀式の影響だろうか。
マインが少し身体を離し、嬉しそうに笑った。
「トム、人間だね」
「……そうらしい」
その顔が近い。
心臓がまた余計に一度跳ねた。
人体錬成直後だからだ。
トムはそう結論づけた。
「さて」
後ろからルシウスの声がした。
振り向くと、少し離れた場所からこちらを見ていた。人間が鍋から一人増えた光景を目の前にして、理解することを諦めた顔をしている。
「それで、この少年を今後どうするつもりだ」
「どうするって?」
マインが聞き返した。
「身元だ。住所だ。魔法省へ何と説明する。トム・リドルが突然十六歳の姿で現れました、と届けるつもりか?」
「あ」
マインが今初めて気づいた顔をした。
グリンデルバルドが顎に手を添える。
「君の養子にしてはどうかね?」
「なぜ私が!」
ルシウスが即座に声を上げた。
「家も、身元も、保護者も一度に手に入る」
「合理的なら何をしてもいいと思うな!」
「断る」
ルシウスより先に、トムが言った。
マインがこちらを見る。
「なんで?」
「必要ない。これまで通り、トム・ジェドゥソールでいい」
「でも、ここに住むならその方が楽じゃない? お兄さまもいるし、トムもわたしのお兄さまになれば──」
「断る」
二度目は、さっきより早く出た。
マルフォイ家が嫌なわけではない。
ルシウスを父親と呼びたくない、という理由なら多少あるが、それだけでもない。
マインの兄になる。
その言葉だけが、妙に気に入らなかった。
「そんなに嫌?」
「そういう問題じゃない」
「どういう問題?」
「しつこい」
マインは不満そうに唇を尖らせた。
その向こうで、グリンデルバルドだけが、何かに気づいたような顔で笑っていた。
やはり気に入らない。
夕食に、マインは肉じゃがを作った。
人間になった最初の日の夕食としては、ずいぶん地味だった。
もっとも、作ってほしいと言ったのはトム自身だった。
以前にも一度食べたことがある。
あのとき美味しかったから、また食べたい。
そう言うと、マインは妙に嬉しそうに「じゃあ今度はわたしが作る」と言って台所へ向かった。
食卓には、柔らかく煮えたじゃがいもと玉ねぎ、薄切りの肉が盛られている。甘辛い香りが湯気とともに立ち上り、鼻から入った匂いだけで、腹の奥がきゅっと縮んだ。
空腹の感覚にも、まだ慣れない。
今までも食事はしていた。
味は分かったし、美味しいものは美味しいと思った。
けれど、それが自分を生かしていたわけではない。
食べた肉が自分の肉になり、じゃがいもが身体を動かす力になることもなかった。
トムを維持していたのは、マインから与えられる魔力だった。
今は違う。
口へ入れたものが胃へ落ちていく。
それを身体が消化し、吸収し、自分の血や肉にする。
たかが夕食なのに、それが妙に不思議だった。
「どう?」
向かい側に座るマインが、期待するように聞いてくる。
「前と同じだ」
「それって美味しいってこと?」
「美味しいから、もう一度作ってほしいと言ったんだ」
「ちゃんと言えばいいのに」
「美味しい」
言うと、マインは満足そうに笑った。
その顔を見ながら、トムはじゃがいもを一つ崩した。
前に肉じゃがを食べたときのことを思い出す。
あの頃、トムは分霊箱を死を免れる素晴らしい手段だと思っていた。
しかし、魂を裂くことについてマインはひどく嫌そうな顔をして、本のページを破るようなものと言った。
マインらしい例えだった。
魂を裂くという、本を破ることに置き換えて、心底許せないという顔をした。
あのときは呆れた。
でも今なら、少しだけ違って聞こえる。
破られたページの一枚だった自分は、もうヴォルデモートには戻らない。
その代わりに、自分はここで食事をしている。
肉じゃがを食べれば、今度は本当に自分の栄養になる。
「そういえば」
トムは箸を止めた。
「マインは、どうやってこの料理を知ったんだ?」
「前世だよ」
マインは何でもないことのように答えた。
「君が前世の話をするのは珍しいね」
マインが前世についてこうも簡単に話すとは思わなかった。トムが気づきつつ慎重に触れないようにしていたことだったからだ。
「最初は人に言わないようにしていたけど、この世界ではそんなに珍しいことじゃないらしいからいいかなって。それに、トム・リドルも前世みたいなものでしょ」
「なんていう名前だったんだ?」
「本須麗乃」
聞き慣れない響きだった。
「モトス……ウラノ?」
「そう。漢字で麗しいに、乃って書くの」
マインは羊皮紙に漢字をさらさらと書いた。難しそうな文字だ。
マインでもない。
ローゼマインでもない。
自分の知らない名前で呼ばれていた時間がある。
「何をしていた?」
「大学を卒業したばっかりだった。図書館の司書になる予定だったんだけど、その直前に死んじゃった」
「何歳だった?」
「二十二歳」
思っていたよりずっと年上だった。
今のマインからは想像しづらい。
あまり前世で生きた年数は精神年齢には直結しないのかもしれない。
「日本に住んでいたマグルで、魔法も知らなかったのか?」
「全然。魔法なんて本の中にしかないと思ってたよ」
マインは笑った。
「だから最初は本当にびっくりした。魔法があるだけでもすごいのに、魔法の本まであるんだもん」
「死ぬ前のことを懐かしいと思わないのか」
「うーん」
マインは少し考えた。
「全然思い出さなかったわけじゃないけど、こっちに来てから現実が忙しすぎたんだよ。家族もいたし、ホグワーツに来たら今度は魔法の本がいっぱいあって。気づいたら前世を懐かしがってる暇がなかった」
それは、ひどくマインらしい答えだった。
死んだことより、本が読めないことを嘆きそうな女だ。
「前世に友人は?」
「いた。あと、しゅうちゃん」
「しゅうちゃん?」
「幼馴染。家も近くて、小さい頃からずっと一緒だったの。わたしが本ばっかり読んで周り見てないから、よく世話焼いてくれてた」
マインは懐かしそうに目を細めた。
「図書館に行くと帰ってこないから迎えに来たり、重い本を持ってくれたり。雨の日に傘忘れたら持ってきてくれたこともあったなあ」
トムの箸が止まった。
「……それは付き合っていたのか?」
「え?」
マインが目を丸くした。
「しゅうちゃんと?」
「今の話なら、そう聞こえる」
「付き合ってないよ。ただの幼馴染」
「そうか」
もう一度肉じゃがを口へ運ぶ。
さっきより味がはっきりしたような気がする。
「しゅうちゃんは彼女いたし、わたしは誰とも付き合ったことないよ」
マインが付け足した。
「トム、わたしの前世に興味あったんだ」
「今まで聞いていなかっただけだ」
「もっと聞く?」
マインが嬉しそうに身を乗り出した。
「麗乃時代の話いっぱいあるよ。図書館の話とか、本屋の話とか、大学の図書館で閉館まで粘った話とか──」
「……聞こう」
以前、マインと「好き」という感情について話したことがある。
愛情と利益は何が違う。
所有欲とはどう違う。
あのときは、本当に分からなかった。
今も、言葉できれいに説明できる気はしない。
ただ、向かい側でマインが前世の図書館について楽しそうに話し始めると、もっと聞きたいと思った。
自分の知らない彼女を知りたい。
自分と出会うより前に何を読み、何を考え、誰と過ごしたのか。
そう思うこと自体が、以前の自分なら理解できなかった。
「トム、聞いてる?」
「ああ」
「絶対聞いてなかった顔だよ」
「聞いているよ。図書館で閉館時間を過ぎたんだろう」
「そこじゃない!」
マインが抗議する。
トムは少し笑った。
その瞬間、胸の奥で心臓がまた動いた。
朝から一度も止まらない。
食べれば腹が満たされ、寒ければ身体が震え、眠くなれば意識が鈍る。
今まで知らなかった面倒なものが、今日は次々と増えている。
どうやら人間になるというのは思っていたより面倒らしい。