本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
その夜、寮のベッドに入っても、眠気はまるで来なかった。
毛布を顎まで引き上げて、わたしは天蓋の暗がりを見つめる。目を閉じれば、吊られたミセス・ノリスが浮かぶ。ぬれた床。黒くにじんだ看板。フィルチの怒鳴り声。ハリーの青ざめた顔。
そして最後に、トムの顔が浮かぶ。
旧浴場跡の話をしたとき、本気で感動していた顔。看板を嫌そうに持ち上げていた手。
純血主義についてわたしに聞いたときのこと。
──あれは、そういう意味だったんだ。
わたしは堪えきれずに起き上がった。ベッド脇の鞄から日記を取り出し、カーテンの中に引きずり込む。
「トム」
開いた頁の上に、魔力を流し込む。
黒いインクがじわりと滲んだ。
『どうした。眠れないのか、最高の魔女』
『その呼び方、今はやめて』
『何かあった?』
トムは何も知らないのかな? いや、そんなわけがない。
『ミセス・ノリスが石になった』
『まさか』
『聞きたいことがあるの』
『うん』
逃げない。それが、逆にずるいと思った。
『五十年前に秘密の部屋が開いたとき、マグル生まれの女子生徒が一人死んだって聞いた』
頁の上の文字が止まる。
『マートル、だよね』
沈黙。
短いのに、ひどく長く感じた。
『……そうだ』
喉の奥が、ひゅっと細くなった。
『五十年前に秘密の部屋を開けたのは僕だ。その結果あの子は死んだ』
否定はしない。でも、それだけだ。
わたしは日記を強く握った。
『言葉でどう説明しても、君は信じないだろう。だから──』
次の瞬間、指先が頁に触れた場所から、視界が反転した。
*
寒い、と思った。
石でも雪でもない、じっとりした古い寒さだった。 薄暗い部屋。煤けた壁。きしむベッド。乾ききっていない洗濯物の匂い。煮すぎた野菜の匂い。古い木の床に染みついた湿気。
狭い食堂に、子どもたちが並んでいた。
痩せた顔。荒れた手。うるさい声。その端に、黒髪の男の子が静かに一人で立っている。
トムだ。すぐに分かった。
今よりずっと小さい。けれど目だけは同じだ。冷たく、妙に醒めていて、周囲の子どもたちとはまるで違う顔をしている。
「気味が悪いのよ、あの子」
「また誰か泣かせたんですって」
「ほんとに嫌な子」
大人の声が遠くでひそひそと囁く。子どもたちの視線には、悪意と恐れが混ざっていた。
でも、見ているうちに分かる。
トムは傷ついている。そして同じくらい、もう傷つけ返すつもりでいる。
自分を見下す連中を、心の底から軽蔑している。
かわいそう、だけじゃない。もっといやなものが、そこにあった。
この子は、ただ不幸なだけじゃない。この頃からもう、自分以外の人間を見下している。
それが、妙にぞっとした。
場面が変わる。
窓辺で少し大きくなったトムが、本を読んでいる。周囲の雑音なんて存在しないみたいな顔で、頁だけを見ている。その横顔だけは、ひどく静かだった。
この子にとって、本はきっとまともな逃げ場だったのだと、そう思ってしまった。
その瞬間、また視界が変わる。
ホグワーツの制服を着た若いトムが薄暗い女子トイレにいた。蛇口に蛇語を話すと、入り口が開く。
トムが何かを察知して振り返る。その先に、泣いている女の子がいた。
眼鏡をかけた丸い顔が怒った顔をして、次の瞬間、彼女の視線がトムを越えて、その奥へ向く。
そこで記憶は途切れた。
*
気づくと、わたしはベッドの上で息を詰めていた。 膝の上に開いた日記だけが、静かにそこにある。
喉が痛い。孤児院の寒さと、マートルの最期の一瞬が、まだ体の中に残っている気がした。
『……これが僕の記憶だ』
すぐには返事ができなかった。
『僕は孤児院育ちだ。マグルの世界で、魔法なんて何の価値も持たない場所で育った』
『あそこにいた連中が嫌いだった。憎んでいたと言ってもいい』
『だからマグル生まれにも嫌悪が向いた』
文字は、淡々としている。でも、言い訳だけではないのも分かった。
『けれど、あの子の死は今回と同じだ』
『僕が部屋を開けるところを見られて、アルドゥスと目が合った』
『たまたまだった』
たまたま。
軽く聞こえる言葉なのに、ひどく重い。
『今回と? 今回も事故だって言うの?』
『僕は本当に何もしていない。きっと事故だ』
『……最初は、そうじゃなかったんでしょ』
文字が止まる。
『最初は、アルドゥスに襲わせるつもりだった』
長い沈黙のあと、答えが出た。
『そうだ』
嘘をつかない。それが、かえって痛かった。
『マートルは僕が秘密の部屋を開けるところを見られて、バジリスクと目が合ってしまった』
『あれは事故だった』
事故で済ませる気はない、とでも言いたげな静けさがそこにあった。
わたしはしばらく何も言えなかった。
マートルの泣き声を思い出す。あの面倒くさい話し方を思い出す。あの子があの場所から離れられなかった理由を、今さら知る。
そして、孤児院の窓辺で本を読んでいたトムも思い出す。
嫌だった。ひどく嫌だった。
ただ憎めたら、もっと楽だったのに。
『……もうしないで』
気づくと、そう言っていた。
『マイン』
『もう、アルドゥスに人を殺させないで』
頁の上の文字が少しだけ揺れる。
『約束して』
『……約束しよう』
意外なくらい、あっさりだった。
『少なくとも、君がいる限りは』
『その条件付き、すごく嫌なんだけど』
『僕にしては譲歩した方だ』
それはまあ、そうかもしれない。納得はしたくないけど。
『じゃあ、こっちも対策する』
『対策?』
『アルドゥスにゴーグルをかける』
『……は?』
『目が見えなければいいんでしょ。だったら覆えばいい。大きくて、丈夫で、ずれなくて、できれば少しかっこいいやつ』
『君は時々、恐ろしく真面目な顔で頭のおかしいことを言うな』
『でも合理的だよ』
『だめではないが、巨大蛇にどうやってゴーグルを装着するつもりなんだ』
『そこは今後の課題』
『最重要課題だと思うんだが』
それでもトムは反対しなかった。
それだけで十分だった。
『……ねえ、トム』
『なんだ』
『看板、なんであそこにあったの?』
頁の上の文字が、ぴたりと止まった。
わたしはじっと日記を見下ろす。逃げるな。逃げるなよ。という気持ちをかなり込めて見下ろす。
『……あそこって?』
『看板がなんでミセス・ノリスの近くに落ちてたかってこと!』
『…………なんだって?』
知らないふりなんてさすがに許さない。
『秘密の部屋の中に立ててたじゃん! なんでよりによって事件現場まで流されてるの!』
少しの沈黙のあと、トムの文字がゆっくり浮かんだ。
『僕はそんなこと絶対にしない』
『じゃあなんで?!』
『……ちょっと嫌だったからだ』
『ちょっと嫌だったから!?』
『嫌だろう。あんな板が部屋のど真ん中に置いてあるのは』
『秘密の部屋 書庫準備中のどこが嫌なの!』
『全部だよ』
即答だった。腹が立つ。
『中に置くなと言ったはずだ。なのに君はまるで聞かなかった。君が広間に行っている間に目につかない場所へ移した』
『どこに?』
『女子トイレの用具入れだ』
『用具入れ!?』
『ちょうど空いていた』
『空いていた、じゃないの! なんでそんな雑に突っ込むの!』
『雑ではないだろう。見つかりにくく、邪魔にもならない。僕がわざわざあんな看板を分かりやすく置くわけないだろう』
混乱して一旦冷静に考える。
トムが女子トイレの用具入れに隠したのならなぜミセス・ノリスのそばにあれが?
『もしかして、マートルが女子トイレを水浸しにしたから流れたってこと?』
『そこまでは予測していない』
『してよ!』
思わず叫ぶ。
『相手マートルだよ!? 水浸しになる可能性しかないよ!』
『僕が知ってるマートルはそんなことしていなかったし、女子トイレがそんな危険地帯だとは思わなかった』
わたしは日記を閉じそうになるのをどうにか堪えた。閉じたところで話が終わるだけである。終わらせてはだめだ。
『じゃあ、何。トムが看板を用具入れに隠して、そのままマートルの洪水で流されて、あの場所に到着したってこと?』
しばらくして、頁の上に新しい文字が浮かんだ。
『……まあ、悪かった』
わたしはぴたりと動きを止めた。
『えっ』
『そんなところに流れるとは思わなかった』
『今、謝った?』
『二度も言わせるな』
『トムが?』
『閉じるぞ』
『ごめん、閉じないで』
慌てて日記を押さえる。
トムは少し不機嫌そうに文字を滲ませたあと、ぽつりと続けた。
『あの板は、あまりにも君らしすぎて腹立たしかったんだ』
『どういう意味?』
『秘密の部屋を前にして、継承者でも呪いでもなく、真っ先に“書庫準備中”の看板を作る魔女なんて君くらいだという意味だ』
『褒めてる?』
『半分はね』
『もう半分は?』
『頭がおかしい』
『ひどい』
でも、少しだけ笑ってしまった。
笑ったあとで、わたしは真顔に戻る。
『次から勝手に隠さないで』
『次からそんな看板を作るな』
『それは譲れない』
『こちらもだ』
少し間があいて、また文字が浮かぶ。
『……次はせめて、もっと良い文言にしろ』
『たとえば?』
『せめて準備中、だけでいいだろう』
『それだと一番だめなの、もう証明されたでしょ』
今度は、トムの方が黙った。
わたしは日記と、アストリアから借りた建築魔法の本を抱えて、スリザリン寮の奥へ向かった。トムを実体化させて二人で秘密の部屋の入口を探す。
旧浴場跡。今は壊れた棚や古い間仕切りが押し込まれた、半分物置みたいな場所だ。
昼間に見つけた見取り図を、もう一度頭の中でなぞる。閉鎖された水路。古い給湯の魔法回路。改築で塞がれた通路。
壁には蛇の彫刻があった。スリザリン寮だから、これだけ見ても違和感はない。でも、きっとここだ。
わたしが目配せすると、トムも頷いた。
壁の蛇の彫刻に触れる。よく見ると、その口元だけ摩耗の具合が違う。
わたしは小さく息を吸って、蛇語で命じた。
『開け』
石壁の継ぎ目が、ゆっくりと割れる。その向こうに、細い石の階段が姿を現した。
女子トイレの穴みたいな、あの最悪の入口じゃない。ちゃんとした階段だ。湿気はあるけれど、ずっとましだ。
「……あった」
思わず呟く。
「言っただろう」
「これならトイレを通らなくていい……!」
純粋に、衛生的な意味で感動した。
「最高……」
「この発見に関しては、君が最高の魔女であることを再確認している」
「また言うんだ」
「どれだけ褒めても足りない」
これなら人目を避けて出入りできる。書庫への導線としても圧倒的にまともだ。将来的な本棚搬入まで見据えると、この差は大きい。
残る問題は、アルドゥスの食事だった。
バジリスクはよく食べる。実に残念だが、そこはもう受け入れるしかない。
そして巨大蛇の食事を毎回こそこそ運んでいたら、いずれ絶対にばれる。
「ハウスエルフに運んでもらおう」
「ハウスエルフなら絶対に言うなと言ったら死んでも言わないよ」
「君の時々見せる純血育ちの感覚はちょっと怖い」
「変な場所に直接持っていかせると怪しまれるから、スリザリン寮まで。あとはわたしが持っていく」
つまり、外から見れば「マインが寮で軽食をとっている」ように見せる。
実際、体が弱いのは本当だし、大広間で全部食べきれない日もある。なら、何度か本当に寮でパンやスープを食べておけばいい。その延長で追加の食事が運ばれても、さほど不自然じゃない。
「ダミーで寮でも食べる。ついでにアルドゥスの分を横流しする」
「言い方がかなり悪いな」
「飼育だよ」
「その巨大蛇を“飼育”で済ませるつもりなのか」
「少なくとも、もう人は殺させない」
それだけは、絶対だった。
トムは少しだけ黙って、それから短く答えた。
「……そうだな」
階段はトンネルにつながっていた。
わたしは深呼吸を一つして、穴へ滑り込んだ。
下に着くと、いつもの湿気と石の匂いが迎えてくる。
もう少し歓迎の気持ちを表現できないものかと思うが、相手は千年単位で存在している秘密の部屋なので贅沢は言わない。
『アルドゥス』
しばらくして、ずるり、と床を擦る音がした。
『来たか』
昨日より声に余裕がある。
つまり、少なくとも今この瞬間は空腹ではないらしい。よかった。空腹の巨大蛇と話し合いはしたくない。
『聞きたいことがある』
『なんだ』
『今日、外に出た?』
沈黙。
ほんの数秒だったのに、妙に長く感じた。
『開いていたから出た。腹が減った』
理由がシンプルすぎる。でも開いていたからってことはやっぱりトムのせいということだ。
『でも、肉は持って行ったよね』
『昨日は昨日だ』
またそれだ。腹立たしいが、一貫性はある。
わたしは慎重に視線を床へ固定したまま、さらに聞いた。
『猫を見た?』
『知らない。小さい毛のものを見た』
『見たんだ……』
『水に映っていた』
喉がひゅっと鳴る。
水に映っていた。
反射。
だから死なずに石化で済んだのか。
『食べようとしたの?』
『……小さい。骨が多そうだ』
そこは変なところで現実的だった。 少しだけ安心してしまった自分が嫌だ。
『じゃあ、わざとじゃなかったの?』
『わざと? いや、見ただけだ』
アルドゥスはそれだけ言った。
たぶん彼にとっては、それで十分なのだろう。見た。相手は固まった。以上。そこに人間側のドラマはない。
わたしは頭を抱えたくなった。
アルドゥスが悪意でやったわけではない。
でも結果として、学校中が大騒ぎになっている。
しかも第一容疑者はハリーだ。最悪だ。
『もう勝手に外へ出ないで』
『腹が減れば出る』
『出ないで』
『腹が減る』
会話にならない。
わたしは深く息を吐いた。
ここで怒鳴っても意味はない。相手は巨大蛇だし、わたしはその管理者ですらない。いや、管理者にするつもりはあるのだが、現状まだそのつもりなだけだ。
『じゃあ、こうしよう』
自分でも驚くくらい、声が落ち着いていた。
『わたしがご飯を持ってくる。そのかわり、勝手に出ない』
『毎日か』
『……なるべく』
『腹が減ったら』
『頑張る』
『遅い』
『頑張るって言ってるでしょ』
アルドゥスが長い体を少しだけ動かした。
笑ったのか、不満だったのかは分からない。分かりたくもない。
『あと、見るのもだめ! 目をつぶって』
『見る』
『見ないで』
『難しい』
でしょうね。
わたしは額を押さえた。
書庫の番人に求める条件として、利用者をうっかり石化させないはかなり基本的な項目だと思うのだが、アルドゥス相手だとその基本が高すぎる。
『せめて、人が来たら顔を向けないで』
『腹が減っていなければ、たぶん』
『たぶんじゃ困る』
『お前は要求が多い』
ひどい。
でも間違ってはいない。
しばらく沈黙が落ちる。
湿った空気の中で、わたしはようやく一つの事実を飲み込んだ。
秘密の部屋は書庫予定地である。
でもそれ以前に、極めて危険な大型生物の居住区でもある。
そこをうっかり忘れていた。いや、忘れていたわけではないのだが、本棚の配置を考えているとどうしても危険度の認識が緩むのだ。本が絡むと判断力が少し雑になる自覚はある。
*
翌日の昼休み。図書館で建築魔法の本を返却しようとしていた時だった。
「マイン」
振り向くと、ハーマイオニーが立っていた。
少しためらうような顔。でも、目はまっすぐこちらを見ている。
「元気?」
「うん、元気だよ」
当たり障りのない挨拶を返す。ハーマイオニーはわたしの手元の本を見た。
「またそういう本を読んでるのね」
「ホグワーツって改築の歴史が長いから、読んでると面白くて」
「……そう」
短い間がある。用件は別だな、と思った。
ハーマイオニーは声を少しだけ落とした。
「あなたのお兄さん、最近変わったことない?」
かなりさり気ない言い方だった。でも、その慎重さはむしろ目立つ。
疑っているんだ。ドラコを、秘密の部屋の継承者として。
「変わったことって?」
「誰かとこそこそ話してるとか、妙に機嫌がいいとか、逆にぴりぴりしてるとか」
残念ながら、どれもドラコの平常運転に含まれる。判断材料としてはだいぶ弱い。
「いつも通りかな」
「いつも通り?」
「偉そうで、感じが悪くて、少し面倒」
「……それは分かるけど」
「でも急に何か隠してる感じはしないよ」
これは本当だった。少なくとも、ドラコは旧浴場跡のことも、アルドゥスのことも知らない。普段の不機嫌と尊大さは平常運転である。
ハーマイオニーはわずかに眉を寄せた。
「そう」
「どうしたの?」
「べつに。ただ少し気になっただけ」
その「べつに」が、全然べつにではないことくらい分かる。
でも、こちらにも言えないことがある。
だからわたしは本を抱え直して、首をかしげた。
「ドラコが何かしたと思ってるの?」
「そういうわけじゃないわ」
即答だった。早すぎて、むしろ怪しい。
彼女の視線はまた探るようにこちらを向いている。
「マインは最近どうなの?」
「わたし? 最近は授業で先生を吹き飛ばさなくなったかな」
「今までは吹き飛ばすのが普通だったの?」
「否定したいんだけど実はそうだったの」
小声で大きな秘密を打ち明けるように言うと、ハーマイオニーは少し笑った。
「ごめんなさい。変なこと聞いて」
「ううん」
彼女はそれ以上は追及しなかった。でも、納得した顔でもなかった。
当然だと思う。わたしだって反対の立場なら、まだ疑う。
去っていく背中を見送りながら、わたしは小さく息をついた。
秘密の部屋の本当の入口は見つかった。アルドゥスの食事ルートも、とりあえず確保した。アルドゥスの目には黒くて大きなゴーグルをかけさせた。トムと協力して何も見えないように魔法をかけた特別なものだ。
大丈夫、もうアルドゥスは誰も殺さない。
私が絶対に殺させない。