魔法界の法律には、穴が多すぎる。
ハーマイオニー・グレンジャーは羊皮紙の一行目にそう書きつけると、羽ペンの先に溜まったインクを瓶の縁で軽く落とした。
机の上には、参考資料として積み上げた法令集が何冊も開かれている。そのどれにも付箋代わりの細い紙片が挟まっていて、特に多いのが惚れ薬と忘却呪文に関する箇所だった。
人の意思を歪める惚れ薬も、人の記憶そのものを書き換える忘却呪文も、効果の重大さに比べれば驚くほど簡単に扱えてしまう。
犯罪の目撃者から証言を奪うことも、被害者から被害そのものを忘れさせることもできる。極端な話、自分が何を調べていたのかさえ消されてしまうのに、使用を監督する制度は十分とは言えなかった。
将来、魔法法執行部へ入ることができたなら、この辺りの制度は絶対に見直したい。
そこまで書いたところで、ハーマイオニーは背筋を伸ばし、最初から文章を読み返した。
少し熱が入りすぎたかもしれない。
これは論文ではなく、アンブリッジ先生へ送る手紙なのだ。
七年生にもなれば、卒業後の進路を漠然と考えているだけでは済まされない。特に魔法省の人気部署へ入りたいのなら、学校の成績だけでなく、夏季インターンへの参加や、現役職員からの推薦がものを言う。
純血の家なら、親族や知人に魔法省勤務の者がいることも珍しくない。
マグル生まれのハーマイオニーには、当然ながらそんな伝手はなかった。
だから今では、アンブリッジ先生が頼みの綱になっている。
出会った当初はあれほど警戒していた相手に、卒業後の進路を相談するようになるとは、数年前の自分に話しても絶対に信じないだろう。
人生というものは、どう転ぶか分からない。
ハーマイオニーは文末に、『魔法法執行部への就職について、またご相談させてください』と丁寧に書き添えた。
そこで、ふと羽ペンが止まった。
魔法法執行部という言葉を見た途端、このところ胸の奥に引っ掛かっていた違和感が、また頭をもたげたのだ。
最近、魔法法執行部の周辺で妙なことが続いている。
最初に気づいたのは、羽ペン通信の記事を整理していたときだった。
ルーファス・スクリムジョール。
以前の彼と最近の彼では、政策の方向性が明らかに違う。
政治家なのだから、情勢に合わせて方針を変えること自体は不自然ではない。
けれど、変わったのは政策だけではなかった。
記者への答え方も、言葉の選び方も、人との距離の取り方も違っている。
昔の記事から最近の記事まで順番に並べて読むと、同じ人物について書かれているはずなのに、途中から別の人間が紙面へ入り込んできたような気味の悪さが残った。
「……別人みたい」
思わず口にしてから、ハーマイオニーは眉を寄せた。
単なる比喩のつもりだった。
それでも、一度そう考えてしまうと、その言葉はなかなか頭から離れてくれなかった。
誰も気づいていないのだろうか。
そう思った時点で、調べずにはいられなくなった。
ハーマイオニーは過去一年分の新聞を集め、行方不明者についての記事を一件ずつ抜き出した。
失踪者には男も女もいた。
ホグワーツの学生もいれば、商店で働く者や魔法省職員もいる。年齢も住んでいる場所もばらばらで、最初に一覧へしたときには共通点などないように見えた。
けれど、失踪直前にいた場所と最後に接触した人物を地図の上へ落としていくと、散らばっていた赤い印が少しずつ一つの場所へ寄り始めた。
魔法省だった。
さらに調べていくと、スクリムジョール本人、あるいは彼の周囲にいた人物との接点が浮かび上がってくる。
しかも、失踪者の大半はマグル生まれだった。
年齢も職業も地域も意図的に散らしているように見える。それでも、血統だけは共通していた。
ハーマイオニーは新しい羊皮紙を引き寄せると、アンブリッジへの手紙に追伸を書き始めた。
『これはまだ推測にすぎません。しかし、スクリムジョール氏の最近の言動には不自然な点があります。また、彼の周辺で複数のマグル生まれが失踪しています。偶然とは思えません』
数日後、返事が届いた。
『ご報告ありがとうございます。スクリムジョール氏については、わたくしの方でも少々調べておりますの』
その一文を読んだ瞬間、ハーマイオニーは知らず詰めていた息を吐いた。
自分だけが妙だと思っていたわけではない。
魔法大臣であるアンブリッジも疑っている。
ならば、あとは大人に任せればいい。
少なくとも、そのときはそう考えた。
ところが、一週間が過ぎても、二週間が過ぎても状況は変わらなかった。
失踪者は減るどころか増えていった。
最初は新聞の片隅に数行載る程度だった記事も、やがて社会面で大きく扱われるようになった。
『相次ぐマグル生まれ魔法使いの失踪』
そんな見出しまで出るようになったというのに、魔法省は原因を説明しない。
ハーマイオニーは再びアンブリッジへ手紙を書いた。
『以前お伝えしたスクリムジョール氏について、その後何か分かりましたか』
返事はすぐに届いた。
封を切って読み始めたハーマイオニーは、一行目で動きを止めた。
『スクリムジョール氏の件とは、何のことですの?』
「……どういうこと?」
椅子を引く音を立てて立ち上がり、机の引き出しを開けた。
以前届いた手紙は捨てずに保管してある。
二枚の羊皮紙を並べる。
一枚には、『わたくしの方でも少々調べておりますの』。
もう一枚には、『何のことですの?』。
丸みを帯びた特徴的な筆跡は、どう見ても同じだった。
アンブリッジが忘れたのではない。
忘れさせられたのだ。
つい先ほどまで法律上の問題として書いていた忘却呪文という言葉が、急に生々しい現実となって目の前へ突きつけられた。
ハーマイオニーは椅子へ座り直すと、すぐに三通目を書き始めた。
『あなたの記憶が外部から操作されている可能性があります。この手紙を毎日確認できる場所へ保管してください。複製も作ってください。たとえ明日、この内容を覚えていなくても、手紙そのものを信用してください』
そのあとに、スクリムジョールについて自分が調べたことを最初から書き直した。
これでも駄目なら、もう自分で動くしかない。
その機会は、ダンブルドア先生の葬儀の日に訪れた。
葬儀には様々な国の人々が集まり、低く抑えた話し声があちこちで交わされていた。白い花が風に揺れる向こうに、スクリムジョールの姿が見えた。
ハーマイオニーはしばらく彼を見つめた。
決定的な証拠はない。
けれど、彼の周囲ではマグル生まれが消えている。
アンブリッジ先生が調査を始めれば、その記憶まで消される。
ならば、相手が何を隠しているのか確かめる方法は一つしかない。
自分から近づく。
ハリーに話せば止められるだろう。
ロンなら、どうしてそんな危ないことを一人で考えたのかと怒るに違いない。
マインなら、もっと安全な方法を皆で探そうと言うはずだ。
それでも、その方法を探している間にも誰かが消える。
人数を集めて動けば、こちらが疑っていることに気づかれ、証拠を隠されるかもしれない。
それなら、自分一人でいい。
失敗したときに失うのが自分だけなら、その方がましだ。
ハーマイオニーはそう自分へ言い聞かせ、スクリムジョールへ歩み寄った。
「スクリムジョールさん。少しお時間よろしいでしょうか」
卒業後は魔法省を志望していること、特に魔法法執行部へ興味があり、夏季インターンを探していることを話した。
スクリムジョールは、予想した以上に簡単に食いついた。
インターンに推薦させられる、とまで言った。
ハーマイオニーは驚いたふりをして礼を言った。
その夏、彼女は一人で準備を進めていた。
両親の記憶を書き換え、別の名前と人生を与え、遠くオーストラリアへ逃がした。
もし自分に何があっても、二人まで巻き込まれることだけは避けたかった。
家を出る前夜、ハーマイオニーは誰もいない居間に立った。
両親がいた頃には小さく感じた部屋が、今は妙に広い。
テーブルの上には、ダンブルドア先生から遺された銀色の灯消しライターが置いてあった。
なぜ、自分だったのだろう。
ハリーでも、ロンでもなく、なぜハーマイオニーへこれを残したのか、いまだに答えは分からない。
手のひらに収めて蓋を開いた。
ぱちん、と乾いた音がした。
居間を照らしていた灯りが小さな光の玉になって吸い込まれる。
もう一度蓋を開閉すると、台所が暗くなった。
さらに廊下、二階と、家中の灯りを一つずつ消していった。
最後の光がなくなると、窓の向こうの夜だけが部屋に残った。
「行ってきます」
無意識に口から出た。
当然、返事はなかった。
約束した時間に魔法省へ行くと、待っていたのはスクリムジョールではなかった。
長い黒髪に、銀の混じった髭を生やした男が立っている。
「パイアス・シックネスだ。君がハーマイオニー・グレンジャーだね。ルーファスから話は聞いているよ」
スクリムジョールは現れなかった。
もしかしたら、すべてハーマイオニーの気のせいだったのかもしれない。
それでも、ここまで来て帰るわけにはいかない。
ハーマイオニーはシックネスについて魔法省の奥へ進んだ。エレベーターを降りたあとも、彼はさらに地下へ向かった。
階段を下るにつれて壁の装飾は減り、行き交う職員の姿もなくなっていく。
「まだ公表されていない部署だから、余計なことは聞かない方がいい」
前を歩くシックネスが、振り向かずに言った。
その一言を聞いた瞬間、ハーマイオニーの足がわずかに遅れた。
声そのものは違う。
顔も体格も違う。
それなのに、話し方に既視感があった。
質問される前に必要最低限の答えだけを与え、それ以上尋ねられることを面倒がる口調。
ほんの少しだけ首を傾ける癖まで、葬儀の日に会ったスクリムジョールと重なる。
偶然だろうか。
違う。
少なくとも、この男とスクリムジョールは同じ何かを隠している。
ハーマイオニーは呼吸を乱さないように気をつけながら、何も気づいていない顔で彼の後ろを歩き続けた。
やがてシックネスが重い扉を開けた。
その向こうを見た瞬間、推測が正しかったという満足感は一片も湧かなかった。
冷たい石の廊下に、鉄格子がずらりと並んでいた。
その向こうに人がいる。
痩せた男が壁にもたれ、女性が幼い子どもを腕の中へ隠すように抱いている。奥へ目を向けても牢は途切れず、暗がりの中から何人もの顔がこちらを見ていた。
ああ、やっぱり。
「ハーマイオニー?」
聞き覚えのある声に胸を突かれた。
「ディーン!」
格子へ駆け寄る。
ディーン・トーマスだった。
頬は痩せ、服もひどく汚れている。
その奥にはコリン・クリービーとデニスの姿まであった。
知っている顔がいくつもある。
知らない顔は、その何倍もあった。
自分が想像していた規模を、遥かに超えている。
捕まったからといって、何もできないわけではない。
まず人数を数えた。
一人ずつ名前を聞いた。
いつ連れてこられたのか、家族はどこにいるのか、怪我をしている者は何人いるのかを確認した。
地下へ来るまでに曲がった角の数も、扉の位置も、シックネスが鍵束をどこへ置くのかも覚えた。
頭の中で何度も繰り返した。
アンブリッジ先生は、いつ来るのだろう。
必ず来る。
そう信じていた。
記憶を消されようと、手紙を毎日読めるようにしておけと書いた。
アンブリッジ先生が、自分の知らないところで魔法省を私物化されていると知って、黙っているはずもない。
けれど、一日が過ぎ、二日が過ぎても、桃色のローブは現れなかった。
その間にもシックネスは何度も地下へ降りてきた。
機嫌が悪ければ誰かを牢から引きずり出し、悲鳴を聞いてから帰っていく。
ハーマイオニーも例外ではなかった。
「クルーシオ」
呪文を受けた瞬間、身体中の神経を一度に引き裂かれたような痛みが走った。
息を吸うことさえできず、石床へ膝をつく。
指先が勝手に強張り、爪が床を掻いた。
意識を失った方が楽なのに、呪文はそれすら許してくれない。
それでも牢へ戻されたあと、泣いている子どもがいれば側へ行った。
翌朝になれば、もう一度人数を数えた。
夜のうちに誰かが連れ出されていないか、一人ずつ顔を確かめた。
自分は一人でここへ来た。
だから、自分がしっかりしなければならない。
そう思っていた。
その日、地下牢の奥で重い扉が開く音がした。
ハーマイオニーは壁にもたれたまま顔を上げた。
いつもの足音ではない。
石床を叩く靴音は、急いでいるわけでも、道を探しているわけでもなく、まっすぐこちらへ近づいてきた。
やがて曲がり角の向こうから、暗い地下には不似合いな桃色が見えた。
「アンブリッジ先生……」
声が掠れた。
ドローレス・アンブリッジが、いつものフリルのついたローブでこちらへ歩いてくる。
来てくれた。
それだけで、何日も張り詰めていたものが一瞬だけ緩みそうになった。
アンブリッジは立ち止まり、左右の牢を見渡した。
痩せた囚人たち。
傷を負った魔法使い。
母親へしがみつく子ども。
最後に、シックネスへ視線を向ける。
「まあ」
声だけは、学校にいた頃と変わらない甘ったるさだった。
「ずいぶんと長いこと好き勝手なさってくださったようですわね」
シックネスが杖を抜いた。
「たった一人で来たのか」
アンブリッジもほとんど同時に杖を構えた。
可笑しそうに口元を持ち上げる。
「ここは、わたくしの魔法省ですのよ」
次の瞬間、赤い閃光が飛んだ。
アンブリッジが盾の呪文で弾くと、逸れた光が壁へぶつかり、石片が激しく飛び散った。
地下牢のあちこちから悲鳴が上がる。
「ハーマイオニーさん!」
シックネスから一度も目を離さず、アンブリッジが叫んだ。
「何をぼんやりしてらっしゃるの! 早く皆さんをお出しなさい!」
「はい!」
ハーマイオニーは床に落ちた鍵束へ飛びついた。
何度も見て覚えた鍵を選び、最初の牢を開ける。
「ディーン、歩けない人をお願い!」
「分かった!」
「コリン、デニス! 小さい子から先に連れていって!」
鉄格子を一つ開けるたび、閉じ込められていた人々が廊下へ流れ出した。
数日間まともに食べていない者も多い。
まっすぐ歩けない人には肩を貸し、子どもは大人が抱き上げる。
背後では、絶え間なく呪文が飛び交っていた。
赤や青の光が瞬くたびに壁へ二人の影が大きく映り、激しい衝撃音が地下全体を揺らした。
「先生!」
「こちらのことは気にしなくて結構ですわ!」
アンブリッジの声は、まだ強かった。
ハーマイオニーは開け終えた牢を振り返り、一人ずつ頭の中の名前と照らし合わせた。
あと一人足りない。
最奥の牢を見ると、小さな女の子が格子の奥で立ち尽くしていた。
扉はもう開いているのに、恐怖で足が動かないらしい。
「待って!」
ハーマイオニーは少女へ駆け寄った。
腰をかがめて手を差し出す。
「大丈夫よ。私と一緒に──」
少女の顔が恐怖に歪んだ。
ハーマイオニーは、その視線を追って振り返った。
シックネスがこちらを向いていた。
杖先はハーマイオニーではなく、その隣にいる少女へ向けられている。
「アバダ・ケダブラ」
鮮烈な緑色の光が放たれた。
世界から、それ以外の色が消えたように見えた。
ハーマイオニーは少女の前へ出た。
ああ、私死ぬんだ。
そう思った瞬間、視界の端から桃色のローブが飛び込んできた。
「先生!」
アンブリッジ先生だった。
彼女はハーマイオニーたちとシックネスの間へ身体を滑り込ませる。
同時に、杖を振り抜いた。
「ステューピファイ!」
赤い光と緑の光が交差した。
アンブリッジの呪文はシックネスの胸を捉えた。
男の身体が後ろへ吹き飛び、石壁へ叩きつけられる。手を離れた杖が床の上を跳ね、暗がりへ転がっていった。
けれど、シックネスが放った呪文も消えなかった。
緑の光が、アンブリッジの胸を真正面から貫いた。
時間が引き延ばされたようだった。
いつもきちんと整えられていた髪が揺れ、胸元の猫のブローチが光を反射する。
アンブリッジ先生が、ほんの一瞬だけこちらを見た。
その目が何を考えていたのか、ハーマイオニーには分からなかった。
けれど次の瞬間には、全身から力が失われた。
杖が指から滑り落ち、石床の上を乾いた音を立てて転がった。
桃色のローブが崩れ落ちる。
「アンブリッジ先生!」
ハーマイオニーは少女を抱き寄せたまま駆け寄った。
床へ膝をつき、倒れた身体を抱き起こす。
「先生、しっかりしてください。先生!」
頬はまだ温かかった。
ついさっきまで生きて、呪文を放ち、自分を叱りつけていたのだから当然だった。
「みんな出ました。全員、ちゃんと出しました。だから──」
震える指を首筋へ当てる。
脈がない。
場所を間違えたのかと思って、位置を少し変えた。
それでも何も感じない。
今度は手首を取った。
何度探しても、指先へ返ってくる鼓動はなかった。
「……先生?」
胸も動いていなかった。
息をしていない。
名前すら知らない、マグル生まれの少女を守るために、アンブリッジ先生は死んだ。
「そんな……」
喉の奥から、ひどく小さな声しか出なかった。
「ハーマイオニー」
ディーンの声がした。
ハーマイオニーは顔を上げられなかった。
「そいつ、動いたぞ」
その一言で、思考が現実へ引き戻された。
視線を向けると、壁際に倒れていたシックネスの指先がわずかに動いていた。
失神呪文は効いている。
けれど、いつ目を覚ますか分からない。
ここに留まれば、また誰かが殺される。
ハーマイオニーは唇を噛みしめた。
泣くのは、まだ後だ。
「全員、ここを出るわ」
声が思ったより震えなかった。
「歩ける人は、歩けない人を手伝って。子どもは一人にしないで。ここへ来るまでの道は覚えてる。急ぎましょう」
立ち上がろうとしたとき、腕の中のアンブリッジの身体がずしりと重くのしかかった。
置いていく。
そんな考えは、頭に浮かびもしなかった。
どうにか抱え上げようとする。
けれど、クルーシオを何度も受けた身体には力が入らない。膝が震え、アンブリッジの肩が滑り落ちそうになった。
「俺が運ぶ」
ディーンが横から手を伸ばした。
「でも──」
いつもの癖で言いかけた言葉を、ハーマイオニーは飲み込んだ。
自分一人でやる必要はない。
「……お願い」
ディーンは何も言わずに頷き、アンブリッジの身体を背負った。
その姿を見ていると、胸の奥が痛んだ。
一人なら素早く動けると思った。
失敗しても、自分一人が傷つくだけだと思っていた。
違った。
自分が一人で危険な場所へ入れば、自分を助けようとする人まで危険な場所へ来る。
アンブリッジ先生もそうだった。
自分の命は、自分一人のものではない。
そのことを、今になって思い知らされた。
「行くわよ」
ハーマイオニーは杖を握り直した。
地下牢を出たとき、後ろには長い列ができていた。
歩ける者が負傷者へ肩を貸し、大人が子どもの手を引いている。
コリンとデニスは二人で一人の老人を支えていた。
最後尾ではディーンがアンブリッジを背負って歩いている。
来たときとは違う。
今は一人ではなかった。
ハーマイオニーは先頭に立って階段を上った。
一つ目の角を右。次を左。
鉄製の扉を抜け、その先の細い通路を進む。
全部覚えている。
そう思っていた。
けれど、三つ目の階段を上ったところで足が止まった。
「……嘘」
目の前にあるはずの通路がなかった。
石壁の一部が崩れ、瓦礫が天井近くまで積み上がっている。
さっきの戦闘の衝撃がここまで届いたのだろう。
抜けられない。
「別の道は?」
ディーンが後ろから尋ねた。
「あるはずよ」
ハーマイオニーは答えた。
答えながら、必死で頭の中の地図を広げる。
資料で見たことがある。
どこかに別の道があるはずだ。
けれど、牢へ連れてこられたときには一本道しか通っていない。
背後では子どもが泣き始めていた。
負傷した男が壁にもたれ、荒い息をついている。
時間をかけすぎれば、シックネスが目を覚ますかもしれない。
ほかの職員が地下へ来る可能性だってある。
「考えて」
ハーマイオニーは自分へ言い聞かせた。
「考えれば分かるわ」
自分が何とかしなければならない。
そう思ったその瞬間、ローブのポケットの中で何かがじわりと熱を持った。
ハーマイオニーは動きを止めた。
熱は消えなかった。
むしろ、こちらの注意を引くように少しずつ強くなっていく。
震える手をポケットへ入れる。
指先に、冷たい金属が触れた。
取り出したのは、銀色の灯消しライターだった。
「どうして……」
ダンブルドア先生が残した遺品。
なぜ先生が自分にこれを渡したのか、ずっと分からなかった。
掌の上で、閉じていた蓋がひとりでに開いた。
小さな青い光が、その中からふわりと浮かび上がる。
その光を見つめていたハーマイオニーの耳へ、聞き慣れた声が届いた。
『ハーマイオニー』
呼吸が止まった。
聞き間違えるはずがない。
何年も隣で聞いてきた声だった。
『ハーマイオニー、どこにいるんだよ』
「……ロン?」
『頼むから、返事してくれよ』
いつもの苛立った声ではなかった。
ひどく焦っている。
声が掠れている。
「聞こえてるわよ」
ロンにこちらの声まで届いているのかは分からなかった。
それでも、もう一度言った。
「ちゃんと聞こえてる」
青い光が灯消しライターから離れた。
ハーマイオニーの周囲を一度だけ回る。
それから崩れた通路とは反対側へ、ゆっくりと進み始めた。
「待って」
ハーマイオニーは光を追った。
廊下の突き当たりに、一見すると何もない壁がある。
青い光はその前で止まった。
ハーマイオニーが杖を向ける。
「ホメナム・レベリオ」
反応はない。
それでも近づいて壁へ触れると、指先がわずかに沈んだ。
「隠し扉……」
魔法省の職員ですらほとんど使わない、古い非常通路なのだろう。
壁へ杖を当て、いくつかの開錠呪文を試す。
三つ目で、石の一部がゆっくりと奥へ沈んだ。
細い通路が現れる。
「こっちよ!」
ハーマイオニーは振り返った。
「一列で。絶対に離れないで!」
青い光を追って、皆で進んだ。
暗く狭い通路だった。
途中で階段が何度も折れ曲がり、天井の低い場所では大人が身体を屈めなければならない。
けれど、光は迷わなかった。
前へ進み続ける。
ハーマイオニーは、その光を見ながらようやく理解した。
ダンブルドア先生が、なぜこれを自分へ残したのか。
部屋の灯りを消すためではなかった。
自分は、何か問題を見つけるたびに一人で考えた。
一人で調べた。
一人で準備して、自分だけで片をつけようとした。
だからダンブルドア先生は知っていたのかもしれない。
いつか自分が、自分から暗闇の中へ入っていってしまうことを。
そして、そんなときに必要なのは、暗闇を消す力ではない。
帰る道を思い出させる声だった。
やがて、通路の先に薄い光が見えた。
出口だった。
重い扉を押し開けると、見慣れた魔法省の廊下へ出た。
遠くから大勢の足音が近づいてくる。
ハーマイオニーは反射的に杖を構えた。
「ハーマイオニー!」
その声を聞いた瞬間、杖先が下がった。
角を曲がって最初に現れたのは、赤い髪だった。
ロンが走ってくる。
その後ろにはハリーとマインもいた。
ロンはハーマイオニーの前まで来ると、そのまま勢いを殺せずに一歩よろめいた。
「お前……!」
怒鳴るのかと思った。
けれど、ロンはそこで言葉を失った。
ハーマイオニーの後ろに並ぶ人々を見たからだ。
痩せた男。
傷だらけの女性。
泣いている子どもたち。
そして最後に、ディーンの背中にいる桃色のローブへ目が止まった。
「……アンブリッジ?」
ハーマイオニーは頷いた。
それだけだった。
もう説明する力が残っていなかった。
「全員いるのか?」
ハリーが尋ねた。
ハーマイオニーは反射的に人数を数えた。
一人、二人、三人。
牢で聞いた名前を、頭の中で順番に辿っていく。
「いるわ」
最後の一人まで確認してから答えた。
「全員、いる」
その言葉を口にした途端、ようやく身体から力が抜けた。
膝が崩れそうになる。
ロンが慌てて腕を掴んだ。
「おい!」
「大丈夫よ」
「どこがだよ」
いつもの言い方だった。
呆れて、怒って、心配している声だった。
それを聞いた瞬間、それまでどうしても出なかった涙が頬を伝った。
「……遅いのよ、馬鹿」
「は?」
「遅いって言ったの」
「お前が何も言わずに消えたんだろ!」
怒鳴り返す声を聞きながら、ハーマイオニーは泣いた。
その向こうで、ディーンがアンブリッジ先生を静かに床へ下ろしている。
桃色のローブは、もう動かなかった。