本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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トム・リドル視点


番外編 トム・リドルが葬った過去

 ローゼマイン・マルフォイという生き物は、信じがたいほど不用心だ。

 いや、不用心という言い方は正確ではない。あれはたぶん、優先順位が壊れている。体調より本。常識より本。危険より本。秘密より、もっと本。  

 だから、ハロウィンの夜に日記を部屋へ置いていったのも、別に僕を信用していたわけではないのだろう。宴の席でまで抱えている必要はないと判断した、それだけだ。

 だが、その判断は実にありがたかった。

 僕は机の上の日記から、静かに身を起こした。  

 インクが紙の上から滲み出すように輪郭を取り、黒いローブの裾が床に落ちる。完全ではない。だが、歩くには十分だった。

 これも全部、あの娘のおかげだ。

 マインは、惜しげもなく魔力を寄越した。 頼めばくれる。もっと会話しやすくなる、もっと字が読みやすくなる、もっと僕がはっきり見えるようになる──そう言えば、疑いもせず注いだ。普通ならありえない。人は力を取っておくものだ。だがあれは違う。本や知識が餌になれば、警戒心が驚くほど薄くなる。

 もちろん、僕は最初からそのつもりでいた。

 自分より魔力量の少ない相手なら、もっと直接どうにでもできたかもしれない。意識に触れ、隙間を広げ、少しずつ侵すこともできただろう。  

 だがマインは無理だ。あの細い身体のどこに詰め込んでいるのか知らないが、魔力量だけなら僕より上だ。正面から奪える相手ではない。

 だから、操らない。誘導する。

 そしてローゼマイン・マルフォイほど、そのやり方が通じる相手もいない。

 

 本をちらつかせる。  

 禁書の気配を匂わせる。  

 秘密の部屋に知識が眠っているように言う。

 それだけで、勝手に踏み込んでくる。

 

 思い返せば、あれが純血主義について軽蔑混じりに吐き捨てたときから、僕はあの娘を少し気に入っていたのかもしれない。

 僕の周りにいた純血の子どもたちは、皆それを誇っていた。自分の力でも頭でもなく、生まれつき与えられた看板をぶら下げて得意げにしていた。あれほど滑稽なものもない。

 サラザール・スリザリンに連なる血は僕を特別にした。スリザリンの系譜はその辺の純血の馬鹿どもが振り回している家系図とは違う。僕がただの孤児ではなく、もともと選ばれた側に属していたことを証明する血。

 血に見合った行動をしていないのに偉そうに振る舞うやつらが調子に乗るな。笑わせるな。

 価値があるのは、力だ。才だ。支配する頭だ。

 マインは、本を基準に判断していたがその考えも悪くない。純血だろうが何だろうが、本を粗末にするなら評価は地に落ちる。逆に血筋など下らなくても、本を愛するならそれなりに扱う。あまりにも筋が通っていて、あまりにも狂っていて、少しだけ気分がよかった。

 だから今夜の仕返しも、ほんのささやかなものにするつもりだった。

 秘密の部屋の奥、あの娘が勝手に“書庫予定地”と呼んでいる場所の前には、例の看板が立っている。

 

 秘密の部屋 書庫化準備中

 

 初めて見たとき、さすがに言葉を失った。サラザール・スリザリンの秘された遺産に対して、なぜ改装中の校内施設みたいな札が必要なんだ。しかも腹立たしいのは“秘密の部屋”ではない。“準備中”でもない。よりによって、“書庫化”だ。

 秘密の部屋に対して、なんという冒涜。なんという、あまりにマインらしい発想。

 だから、その一部だけでも消してやろうと思った。  全部壊すのはつまらない。“書庫化”だけ消す。そのくらいがちょうどいい。あの娘が翌朝、首を傾げて怒り出す顔を想像すると、少し愉快だった。

 女子トイレの入口を抜け、蛇口を開き、長い石の管を下る。湿った空気。冷たい壁。足元にまとわりつく古い魔力。こういうじめついた場所は嫌いではない。好ましいわけではないが、馴染みはある。

 ロンドンの空気も、だいたいこんなものだった。

 灰色の空。濡れた石畳。煤けた壁。洗っても取れないどぶの臭い。

 ウール孤児院の廊下には、いつも薄い消毒薬と煮すぎた野菜の匂いが漂っていた。皿は欠け、毛布は固く、冬の朝の洗面台の水は指を切るように冷たい。そこでは、何一つ十分には与えられなかった。食事も。服も。愛情も。そして名前さえも。

 トム・リドル。どこにでもある、つまらない名だ。誰のものでもない、安っぽい札。あの場所で僕はそれを着せられていた。

 だから、ホグワーツへ来て理解した。僕はあそこに属する人間ではない。飢えた子どもたちと同じ皿を取り合う側ではない。僕はもっと上へ行けるし、行くべきだ。

 だからこそ、出自は消さなければならなかった。

 秘密の部屋に辿り着き、看板の前に立つ。湿った石の中で、その木の板だけがひどく場違いで、そして腹立たしい。

 

「まったく」

 

 僕はしゃがみ込み、“書庫化”へ目を向けた。

 

「秘密の部屋に必要なのは畏れであって、蔵書整理じゃない」

 

 低く呟き、文字を削る。インクがじわりと歪み、書庫化の部分の文字が潰れていく。

 そのとき、遠くから甲高い悲鳴が響いた。

 続いて、じめついたすすり泣き。

 僕は眉をひそめた。

 石の管は音をよく運ぶ。静かな場所ほど、ああいう下品な声はよく目立つ。聞き間違えるはずがない。

 マートルだ。

 僕は舌打ちし、看板を片手で持ち上げた。どうせあとで処分するつもりだった。持って上がればいい。

 僕は看板を抱えたまま、滑るように上に上がる。女子トイレへ戻ると、洗面台の向こうでマートルがこちらを見て凍りついた。

 

「きゃああああっ!」

 

 叫ぶなり、彼女は奥の個室へ半分潜り込んだ。けれど逃げきれない。大きな眼鏡の奥の目が、怯えきって揺れている。

 

「ここは女子トイレよ! 男子は入っちゃ──」

 

 そこで、彼女の声が止まった。

 

「……あなた」

 

 記憶が追いついたのだ。何十年経とうと、死んで幽霊になろうと、あの一瞬だけは色褪せないらしい。

 僕は看板を持ったまま、口元だけで笑った。

 

「久しぶりだね、マートル。あの時の再現かい?」

 

 ひ、と短い悲鳴が漏れる。マートルは一気に後ずさり、便器の蓋に身体の半分ほど沈み込んだ。

 

「ち、違うの、違うのよ、私は……」

「違わないだろう。ここは君が泣きながら逃げ込んだ女子トイレだ。君は一人で、みじめで、誰かが助けてくれるとでも思っていた」

「やめて……」

「そして扉の向こうに声がした。君はのこのこ出てきた」

 

 あの時のことは、鮮明に覚えている。

 だが、始まりはもっと前だ。

 

 マートル・エリザベス・ワレン。愚かで、鈍くて、泣き虫で、取り立てて価値のない少女。

 それだけなら、どうでもよかった。

 問題は、彼女が僕を入学前から知っていたことだ。

 ホグワーツへ来る前、僕とマートルは同じ地域にいた。

 歩けば靴の裏に煤と泥が張りつくような、あの貧しい一角。

 孤児院の子どもも、近所の子どもも、同じような顔で同じような灰色の空を見上げていた彼女は近所の学校に通っていて、僕のことを知っていた。

 同じ校舎にいて、同じ帰り道の噂を聞く距離にはいた。

 孤児院のトム。親のいない、気味の悪い子。妙に頭がよくて、薄気味悪くて、触らない方がいいと言われていた子。

 それだけでも不快だった。

 だが、本当に腹立たしかったのは、一度だけ──たった一度だけ、彼女が僕に向けたあの目だ。

 雨上がりの放課後だった。

 靴先に泥が跳ねるような道で、彼女は母親らしい女と一緒に立っていた。手には紙包み。夕飯の買い物帰りか何かだったのだろう。

 僕は孤児院へ戻る途中で、彼女とすれ違った。

 そのとき、彼女は僕を見て、立ち止まった。

 驚いた顔ではなかった。

 怖がる顔でもなかった。

 軽蔑でもない。

 かわいそう、という顔だった。

 

 ──あの子、いつも一人だもの。

 ──孤児院の子なんでしょう? 

 ──ちょっと気味が悪いけど、なんだかかわいそうよね。

 

 そんな言葉を、実際に聞いたわけではない。

 けれど、あの目はそう語っていた。

 自分には帰る家があり、迎える母親がいて、温かい食卓がある。

 そのうえで、泥の跳ねた靴のまま立つ僕を見下ろして、哀れんだ。

 あれが許せなかった。

 軽蔑なら、まだよかった。

 恐怖なら、もっとよかった。

 どちらも、少なくとも僕を自分より下の憐れむべきものとしては見ていない。

 だが、憐憫は違う。

 哀れまれるというのは、見下されるよりもなお悪い。

 相手が自分の上に立っていると、勝手に信じていなければできない視線だ。

 しかもそれを向けたのが、泣き虫で、凡庸で、何一つ特別ではない少女だった。

 

 ホグワーツで再会したとき、あの娘は最初すぐには口にしなかった。だが分かった。気づいている目だった。  あの子、あの近所にいたトムじゃない? 

 そう言い出す可能性を、僕は無視できなかった。

 

 僕のいた場所。僕のいた通り。僕のいた学校。僕のいた孤児院。

 あの灰色で惨めな世界を、マグル生まれは知りうる。いや、マートルは知りえたどころではない。知っていた。運が悪ければ、僕がどこから来たかに繋がる糸を掴み、しかもそれを周囲へ零すかもしれなかった。

 それが気に入らなかった。

 ホグワーツで僕はようやく、“あの場所の子ども”ではない何かになりつつあった。優秀な生徒。特別な存在。由緒あるスリザリンの末裔。

 それなのに、たった一言で泥を跳ね返されるかもしれない。

 

 あのトムって、あの辺りの孤児院にいた子でしょ。昔、近くの学校にいたの。

 

 それだけで十分だ。人はそういう話が好きだ。血統や格式を語る連中ほど、他人の低い出自を覗き込むのが好きでたまらない。だから、可能性は潰すべきだった。

 マートルがいじめられるように仕向けたのは、別に難しいことではなかった。もともと、あれは笑われやすい側の人間だった。泣き虫で、要領が悪く、反撃もできない。少し背中を押してやれば、周囲は喜んで石を投げる。

 スリザリンの下級生に少し噂を流す。少し視線の向きを整える。あの子は笑っていい相手だと、ほんの少し教えてやるだけで、人は勝手に群がる。

 人は愚かでとても扱いやすい。

 泣いて、逃げて、女子トイレへ駆け込む。そこまで持っていけば、あとは簡単だった。

 バジリスクを見せる。

 それだけで終わった。

 マートルはぶるぶると震えていた。

 

「わ、私は誰にも言わない……言わないから……お願い、許して……!」

「今さら?」

「お願い、お願い、お願い……!」

 

 死んでなお、その語彙しか持たないのは実に彼女らしい。

 僕は静かに彼女を見た。

 マグル生まれだったから。もちろん、それもある。  だが本質はそこではない。

 僕を昔から知っていた。僕がどこから来たか知っていた。僕の過去を、安っぽい噂話に変えられる位置にいた。

 だから消した。

 それだけだ。

 

「安心したまえ、マートル」

 僕は穏やかに言った。

 

「今のところ、君をどうこうする気はない」

「……ほ、本当に?」

「本当に」

 

 もちろん嘘だ。いや、半分だけ本当か。今この瞬間、この幽霊に用はないというだけだ。

 

 マインはこんなことは知らなくていい。

 僕がマートルを故意に殺したことも。その前から追い込んでいたことも。 マグル生まれを嫌う理由が、純血主義の綺麗ごとではなく、自分の出自を知る可能性のある者を根絶やしにしたいからだということも。そしてマートルが、ただの“知りうる誰か”ではなく、ホグワーツに入る前から僕を知っていた近所の娘だったことも。

 知らなくていい。

 あの娘は、純血主義に興味がない。そのくせ、本のためなら危険も踏み越える。あの子は面白い。

 そのとき、床の下から、ひやりとした気配が這い上がった。

 僕は目を細めた。秘密の部屋の方から、重たく長いものが動く気配。石と鱗が擦れる、鈍い音。

 

「……バジリスク」

 

 低く呟いた瞬間、遠くの廊下で何かが倒れるような乾いた音がした。

 僕は表情を消した。

 あの蛇が秘密の部屋から出た。

 何をしているのかまでは分からない。だが、殺した気配はない。少なくとも今のところは。  

 それでも面倒だ。余計な騒ぎになる。

 僕はすぐに蛇語で命じた。

 

『バジリスク、部屋に戻れ』

 

 壁の奥で、巨大な身体が不満げに動く。

 ああ、そういえば、今は新しい名前があったんだったな。

 もう一度、今度は逆らわせない声で言う。

 

『アルドゥス。戻れ』

 

 しばらくして、長い胴が石の管を引きずる音が遠ざかっていった。どうやら従ったらしい。

 何か一つ余計なことをした気配はある。だが、それを確かめる暇はない。

 僕は手に持っていた看板を見下ろした。“書庫化”の部分は途中まで削れていて、このまま戻せばローゼマインは即座に気づくだろう。いや、どのみち気づく。だが今は戻す時間はない。

 トイレの隅の用具入れを開け、モップやバケツの間に看板を押し込む。サラザール・スリザリンの秘密の部屋に置かれていた札の末路としては、ひどく間抜けだ。  だが、あの娘の作品には似合いでもある。

 扉を閉めると、マートルがまだ怯えた目でこちらを見ていた。

 

「だ、誰にも言わないわ……」

「そうするといい」

「ほんとうに、わたし、なにも──」

「マートル」

 

 僕は笑った。

 

「君は昔から、何もできなかったじゃないか」

 

 彼女はしゃくりあげるような声を漏らし、そのまま個室の奥へ逃げ込んだ。ばしゃん、と水音がして、静寂が戻る。

 一人きりになったトイレで、僕は鏡を見た。まだ薄い。まだ不完全だ。

 マインは、明日どういう顔をするだろう。

 看板がないと騒ぐか。勝手に持ち去られたと怒るか。  あるいは本気で、「書庫予定地の表示は複数必要かもしれない」と考え始めるか。

 どれでもいい。どう転んでも、きっと面白い。

 彼女は僕より魔力量が多い。だから体の主導権は奪えない。だからこそ、誘うしかない。本で。秘密で。知識で。

 けれど、それは案外悪くない。力で捻じ伏せるより、ずっと面白い。

 それに、あの娘は血を誇らない。名前を誇らない。欲しい本のためにだけ目を輝かせる。

 彼女なら僕が孤児院出身だと聞いても、それだけで僕の価値を下げたりはしないだろう。

 看板はどこへ行ったのか。何が起きたのか。マートルは何を知っているのか。

 嘘でできた言葉でも、あの娘はどこまで受け入れるのだろう。

 それを試すのは、少し楽しみだった。

 

 僕はローブの裾を翻し、静かに踵を返した。

 

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