図書室のカウンターの前には本の山ができていた。
戦争史、航空技術、通信、映画、広告、自動車産業、料理、建築、音楽。分厚い専門書の間には小説まで混じっている。
その山の向こうに、パーシバル・グレイブス先生が立っていた。
「……何してるんですか?」
近づいて背表紙を読む。
『第二次世界大戦』
『核兵器と冷戦』
『航空技術の百年』
『ラジオと大衆社会』
『アメリカ映画史』
『自動車産業の発展』
『家庭料理の変化』
『ジャズの歴史』
どれも気になる。
わたしが一冊へ手を伸ばすより早く、マダム・ピンスが間に入った。
「まだです、ミス・マルフォイ」
「まだ?」
「こちらは蔵書ではありません」
マダム・ピンスは本の山を警戒するように見た。
「グレイブス先生。これだけの本を図書室へ入れるのであれば、校長の許可が必要です」
「授業に使うだけだ」
「教室へ持ち込むことと、蔵書に加えることは別です」
「生徒自身に調べさせたい」
「でしたら、なおさら正式な手続きを」
グレイブス先生が黙った。
世界の秩序を変えようとした人物が、学校図書館へ本を入れるために許可を求められている。
ちょっと面白い。
「許可を取ればいいんじゃないですか?」
「君までそちらにつくのか」
「本が図書室に入るなら、どっちでもいいです」
「君は一貫しているな」
マダム・ピンスは一冊を抜き取った。
「それにしても、ずいぶん雑多ですね」
「戦争だけ調べて、マグルを理解した気になる方が愚かだ」
グレイブス先生は何でもないように答えた。
「何を食べ、何を読み、何を聞き、何を欲しがり、何を恐れるのか。それも文明だ」
映画史、広告、自動車産業。
最後に戦争史の本を指す。
「戦争はその一部にすぎない」
マダム・ピンスが今度は小説を持ち上げた。『嵐が丘』だ。
「こんな恋愛小説まで必要ですか?」
「恋愛も文化だろう」
「授業で?」
「人間が何を理想とし、何に執着するかを知る資料にはなる」
「わたし、それ読みました」
思わず口を挟む。
先生がこちらを向いた。
「どうだった」
「みんな、もっと話し合えばよかったと思います」
少し間があった。
「……非常に君らしい感想だ」
なぜだろう。
ちゃんと読んだのに。
結局、本はその場で蔵書にはできず、グレイブス先生は校長の許可を取ることになった。
先生は何冊か抱えて図書室を出ていく。
「先生」
「なんだ」
「授業で小説は?」
「今回は使わん」
「残念です」
*
マグル学の教室へ向かいながら、ポケグリを開いた。
表紙のルーンが淡く光り、ページにコリンの顔が浮かぶ。
『おはよう』
「おはよう。もう準備できてる?」
『いつでも』
本来なら同じ学年のわたしやジニーと一緒に歩いているはずなのに、マグル生まれのコリンは今、ホグワーツへ来ることができない。
今日もポケグリ越しに授業へ参加するのだ。
「コリン、今までのマグル学ってどうだった?」
『面白かったよ』
返事は早かった。
『みんなが電話とか電池を見て、本気で悩んでるのを見るのは』
「授業内容は?」
『それは……まあ』
コリンが少し考える。
『家で使ってたものの説明を、もう一回聞く感じかな。電話は遠くの人と話す道具です、とか、自動車は人や荷物を運びます、とか』
「そうだよね。だからマグル生まれの受講者が少ないんだろうな」
ジニーが横から画面を覗き込んだ。
「マグル生まれにはそんなに簡単だったのね」
『簡単っていうより、自分の日常が教材になってる感じ。面白くはあるけど、知らないことはあんまりなかった。おかげさまでOWL試験でOが取れて良かったけど』
なるほど。
純血の生徒にとっては異文化の授業でも、コリンにとっては見慣れた生活の説明なのだ。
「でも今日は違うと思う」
『なんで?』
「グレイブス先生が図書室にマグルの本を大量に持ち込んでた」
『何の本?』
「戦争、核兵器、飛行機、通信、映画、広告、自動車、料理、音楽、恋愛小説」
コリンの眉が上がった。
『最後だけ急に違わない?』
「文化資料だって」
ジニーが首を傾げる。
「マグル学で何するつもりなのよ」
『少なくとも、電話の使い方じゃなさそうだね』
教室の前へ着いた。
「今入るね」
『うん』
扉を開ける。
黒板には大きく二つ。
『魔法』
『技術』
教壇には電話、ラジオ、新聞、カメラ。
そして拳銃。
その後ろには、巨大なきのこ雲の写真が貼られていた。
ジニーが足を止める。
「……ずいぶん本気ね」
『何があるの?』
わたしは黙ってポケグリを教壇へ向けた。
数秒後。
『あ』
コリンも黙った。
少なくとも今日は、知っていることをもう一度聞くだけの授業ではなさそうだった。
「初回の授業よね?」
ジニーが確認するように言った。
「先生が先生だから」
「そう。お手並み拝見ね」
ルーナとアストリアも席についたところで、扉が閉まった。
グレイブス先生が教室へ入ってくる。
世界征服を企んだ人が、今は出席簿を持ってマグル学を教えている。
人生は分からない。
先生はわたしの机で目を止めた。
「それは?」
「コリンです。マグル生まれはホグワーツに通えないんですが、ポケグリで授業を一緒に受けます。いいでしょうか」
『コリン・クリービーです』
先生は画面を一瞥した。
「構わん。発言するときは挙手しろ。課題も提出すれば見てやる」
先生は黒板の『魔法』を杖先で叩いた。
「さて。初回の授業だから皆がどこまで学んできたのか確認しよう。マグルと魔法族の最大の違いを分かる者は?」
アストリアが答える。
「魔法を使えるかどうかです」
「その通り」
黒板に文字が増えた。
『魔法族――魔法を使える』
『マグル――魔法を使えない』
「我々なら、暗ければ光を出す。寒ければ火を出す。遠くへ行きたければ箒や姿現しを使う」
先生は教壇の電話を持ち上げた。
「マグルには、それができない」
受話器を置き、ラジオを指す。
「だからそのための道具を作った」
黒板に電話、飛行機、電球、自動車の絵が次々と現れた。
「声を遠くへ届ける。空を飛ぶ。夜を明るくする。重い物を動かす」
ルーナが手を挙げた。
「魔法の代わりですか?」
「正確には違う」
先生は黒板に『結果』と書いた。
「彼らは魔法を使えるようになったのではない。魔法で得られる結果へ、別の方法で辿り着いた」
なるほど。
「そして、マグル文明の強みは発明そのものではない」
黒板に三つの言葉が並ぶ。
『大量生産』
『共有』
『速度』
「作ったものを他人にも使わせる。大量に作る。改良する。情報を広げる」
先生の杖先がわたしのポケグリを指した。
「君たちのそれも、考え方としては近い」
『僕、学校にいないのに授業聞けてます』
コリンが言う。
「そういうことだ」
先生は頷いた。
「魔法使いは個人が能力を持つ。マグルは、仕組みに能力を持たせる」
黒板に飛行機の写真が現れる。
「魔法使いは昔から空を飛べた。マグルは飛べなかった」
先生は少し間を置いた。
「だから、誰でも空を飛べる仕組みを作った」
アストリアが写真を見上げる。
「箒の方が簡単では?」
「一人ならな。では、魔力のない三百人をまとめて大西洋の向こうへ運べと言われたら?」
「……無理ですね」
「飛行機ならできる」
ジニーが感心したように写真を見た。
「魔法が便利すぎるから、作る必要がなかったってこと?」
「その面もある」
先生の口元がわずかに上がる。
「不便は発明の動機になる」
それはちょっと分かる気がした。
読みたい本が手元になければ、取り寄せる方法を考える。それでも届くのが遅ければ、もっと早く届く方法が欲しくなる。
不便が一つなくなれば、今度は次の不便が気になるのだ。
「次だ」
先生が教壇の拳銃へ手を伸ばした。
教室の空気が変わる。
「銃」
わたしが呟く。
「そうだ」
先生はそれを持ち上げた。
「マグルには攻撃呪文がない。だから、自分の身体能力を超えた攻撃力を道具に持たせた」
ルーナが首を傾げる。
「杖より強いんですか?」
「条件による」
先生は即答した。
「優秀な魔法使い一人と、銃を持ったマグル一人なら、魔法使いが勝つだろう」
黒板に人影が増える。
「では十人なら?」
さらに増える。
「百人なら?」
誰も答えない。
「重要なのは一人の強さではない」
先生は拳銃を机へ戻した。
「銃は工場で作れる」
黒板に『産業』。
「魔力は不要。血統も不要。一定の訓練さえあれば使える。子どもでも使おうと思えば使えるだろう。そして、作った数だけ存在する」
アストリアが眉を寄せた。
「強い人を増やすのではなく、強い道具を増やす……」
「その通り」
先生が満足そうに頷く。
「だが、銃はまだ個人用の武器だ」
杖が動く。
きのこ雲の写真が黒板いっぱいに広がった。
「一九四五年。マグルは原子爆弾を実戦で使用した」
さっきまでの軽い空気が消えた。
「街がこれ一つで?」
アストリアが聞く。
「都市の広い範囲を破壊した」
「広島と長崎ですね」
わたしが言うと、先生が頷いた。
「そうだ」
ジニーがきのこ雲を見上げる。
「魔法でも、そんなことできるの?」
「強力な魔法使いなら、大きな破壊を起こすことはできるだろう」
先生は淡々と答えた。
「だが、それは個人の力だ」
黒板に新しい言葉が並ぶ。
『研究』
『工業』
『国家』
『組織』
「原子爆弾は、一人の天才が杖を振って完成したものではない。多数の人間、工場、資金、物資が一つの目的へ集められて作られた」
先生はその図を見上げた。
「私は、この点を高く評価している」
先生は黒板に年代を書いた。
『1899』
「昔、マグルは空を飛べなかった」
『1945』
「半世紀も経たず、都市を破壊する兵器を作った」
『1969』
月面に立つ宇宙飛行士の写真。
「さらに二十四年後、月へ行った」
「月まで?」
アストリアが目を丸くした。
「何をしに?」
ジニーが吹き出した。
「それはちょっと分かる」
「行けるようになったから行ったんじゃない?」
「マインらしい答えね」
「それから百年もない」
教室を振り返る。
「その間に、マグルは飛行機、電話、テレビ、コンピューター、核兵器、宇宙開発まで辿り着いた」
そこで先生は問いかけた。
「では、同じ期間に魔法界はどれほど変わった?」
誰もすぐには答えなかった。
箒は速くなった。
魔法薬だって進歩している。
でも、それを月面着陸や通信網と並べると、急に小さく見える。
「魔法使いの方が強いでしょう」
後ろから声が上がった。
「一人ずつ比べれば、そうかもしれない」
先生はあっさり認めた。
「私も昔は、それで十分だと思っていた」
少しだけ教室が静かになる。
「一人の魔法使いが一人のマグルより強い。ならば魔法族の方が優れている」
グレイブス先生は黒板に二つの言葉を書いた。
『個人』
『文明』
「だが、それは同じではない」
声は穏やかだった。
「文明の力は決闘では測れない」
コリンが画面の向こうで手を挙げた。
『先生。じゃあ今は、マグルの方が強いと思ってるんですか?』
「弱いとは思っていない」
先生は答えた。
「それだけでも、昔とはずいぶん違う」
「昔は弱いと思ってたんですか?」
ジニーが聞く。
「危険だとは思っていた」
「今は?」
「今も危険だ」
「変わってないじゃないですか」
「違う」
先生の口元に微かな笑みが浮かぶ。
「昔は、危険だから管理すべきだと思っていた」
教室が止まった。
ジニーがゆっくり手を挙げる。
「今は?」
「支配する必要はない」
「おお」
わたしは少し感心した。
「ただし、監視は必要だ」
「先生!」
一瞬で台無しになった。
「核兵器を持つ文明を観察するのは当然だろう」
ルーナがのんびり手を挙げた。
「先生はマグルと仲良くしたいんですか?」
先生が黙る。
今日初めて、少し困った顔をした。
「……私はそういうことに向いていない」
それは知っている。
「だが、知らない相手を侮ることは、もうしない」
先生は黒板の文字をすべて消した。
最後に一つだけ残す。
『知ること』
「マグルを好きになる必要はない。尊敬しろとも言わない」
教室を見渡す。
「ただ、侮るな」
それまでの軽いやり取りが消えた。
「自分より弱いと決めつけた相手が、何を作り、どれほど速く変化しているかを知らないままでいるのは危険だ」
一度、言葉を切る。
「それは私が、よく知っている」
鐘が鳴った。
少し格好よく終わった。
と思ったら、それで終わらなかった。
「課題を出す」
教室中から呻き声が上がった。
「マグルの技術を一つ選べ。なぜ作られたか。魔法ならどう解決するか。そして、普及したことで社会がどう変わったかを調べろ」