ヴォルデモートは、ホグワーツ城の一室で立ち尽くしていた。
窓のないその部屋には、長い年月をかけて集められた品々が並んでいる。古びた銀器、宝石を埋め込んだ箱、由来の知れない魔法具。価値を知る者が見れば卒倒しかねない品もあれば、何の変哲もない置物にしか見えないものもあった。
だが、ヴォルデモートが見ているのは一か所だけだった。
そこには、あるはずのものがなかった。
ロウェナ・レイブンクローの髪飾り。
ヴォルデモートはしばらく動かなかった。
誰かが移動させた可能性を最初に考えた。それから、そんなことはあり得ないと切り捨てる。この場所を知る者はほとんどいない。まして、あれがただの歴史的遺物ではないと知る者など、さらに限られていた。
手を伸ばし、髪飾りが飾られていた場所へ触れる。
何もない。
ヴォルデモートの顔から血の気が引いた。
盗まれた。
いや。
壊されたのだ。
すでにナギニをダンブルドアに殺された。
指輪も隠してあった場所から失われていた。
そして今度はレイブンクローの髪飾りまで消えた。
偶然と片づけるには多すぎる。
何者かが、分霊箱を狙っている。
真っ先に思い浮かんだのは、若い自分だった。
かつて日記の中に閉じ込めていた、自分自身の一部。
現在の彼はヴォルデモートと敵対する側にいる。ローゼマイン・マルフォイと行動し、闇の魔術に対する防衛術の補助教員をしている。
だが、それでもおかしい。
トムは分霊箱だ。
彼が存在している限り、ヴォルデモートは完全には死なない。
そして逆もまた同じだった。
自らの本体を失えば、分けられた魂がどうなるのか。少なくとも、トム自身が無傷で済む保証などない。
それはハリー・ポッターについても同じだった。
あの少年の中には、ヴォルデモート自身が意図していなかった魂の欠片が宿っている。
トムも、ハリーも、自分を殺すためには自分自身の生存まで危険にさらさなければならない。
そんなことをするはずがない。
ヴォルデモートは唇を歪めた。
実に忌々しい。
今すぐにでも二人とも殺してしまいたいというのに、それができない。
分霊箱として残しておかなければならないからだ。
そして、残しておけば敵として動き回る。
自分で作った仕組みに、自分の手を縛られている。
少なくとも、ハッフルパフのカップだけは手元に置いておかなければならない。
ベラトリックスに出しておくよう命じておいたのは正解だった。グリンゴッツの金庫が安全だと考えていた時期もあったが、もはやどこに置こうと絶対の安全などない。
ならば、自分で持つしかない。
それとは別に、もう一つ手を打つ必要があった。
死なないための方法を増やす。
その候補は、すでに目の前に現れていた。
先日のビブリオバトルは、思っていた以上に有意義だった。
テーマは愛。
くだらない題目だと思っていたが、人が何を大切にしているのかを知るには都合がよかった。
ロン・ウィーズリーは、報われなくても見捨てないものについて語った。ローゼマイン・マルフォイは、本と記録について熱弁した。
ハリー・ポッターがその場にいなかったのだけが惜しい。
人間は、自分が何を守るためなら動くのかを問われると、驚くほど素直に答える。
いずれ使える。
そして、何より気になったのはドラコ・マルフォイだった。
あの少年が持ち込んだ錬金術書。
表紙を見ただけで分かった。
ニコラス・フラメルに連なる本だ。
ドラコは明らかに何かを隠していた。
賢者の石について。
分霊箱が一つずつ失われているのなら、石は何としても手に入れる必要がある。
ヴォルデモート自身も髪飾りの際にローゼマインから得た情報をもとに賢者の石の作り方を試した。
バーティにも調べさせた。
必要な材料は揃えられる。方法も途中までは分かる。魔力が足りないわけでもない。
だが、最後まで完成しなかった。
何が足りない。
フラメルにできて、自分にできないものとは何だ。
考えても答えは出なかった。
ヴォルデモートは苛立ちを押し込めるように杖を握った。
その瞬間、また例の感覚があった。
わずかな抵抗。
手の中にあるのに、自分のものではないような違和感。
最近、これも気に障っていた。
魔法は使える。
威力も申し分ない。
それでも時折、魔力が杖の中を通る瞬間に、ほんのわずかな遅れを感じる。
ヴォルデモートは杖を目の高さまで持ち上げた。
ニワトコの杖。
かつてローゼマイン・マルフォイに勧められて読んだ『吟遊詩人ビードルの物語』に登場した、死の秘宝の一つ。
最初は子供向けのおとぎ話だと思っていた。
だが、グレゴロビッチを訪ね、その認識は変わった。
杖は実在した。
グレゴロビッチの手から奪ったのは、ゲラート・グリンデルバルド。
そのグリンデルバルドを倒したのが、アルバス・ダンブルドア。
そしてダンブルドアを殺したのは、自分だ。
杖が欲しかったからダンブルドアを殺したわけではない。
だが結果として最強の杖まで手に入ったのなら、あの男を自らの手で仕留めたことには、思わぬ副産物があったことになる。
そう考えていた。
ところが。
ヴォルデモートは杖先を見つめた。
なぜ、従わない。
その日のうちに、オリバンダーが校長室へ連れてこられた。
老人は以前より痩せて見えた。
ヴォルデモートの前へ立たされると、落ち着かない様子で長い指を組み合わせている。
「聞きたいことがある」
オリバンダーの肩がわずかに跳ねた。
「は、はい」
「杖の忠誠についてだ」
ヴォルデモートは机の上へニワトコの杖を置いた。
オリバンダーの目が大きくなる。
それだけで、老人がこの杖の価値を理解していることは分かった。
「以前の持ち主は、私が殺した」
オリバンダーは杖を見たまま答えなかった。
「間違いなく殺した」
「……はい」
「それなのに、この杖は完全には私に従っていない」
ようやくオリバンダーが顔を上げた。
「殺したからといって、必ずしも杖を勝ち取ったことになるとは限りません」
ヴォルデモートは目を細めた。
「どういう意味だ」
「杖は、人間の所有物でありながら、人間とは異なる基準で主人を選びます。特に古い杖ほど、その傾向が強い。以前の主人を打ち負かした者、武装解除した者、あるいは力によって杖を奪った者へ忠誠を移すことがあります」
「殺害ではなく?」
「殺害も、結果として征服になることはあります。ですが……殺すことそのものが条件なのではありません」
ヴォルデモートは黙った。
オリバンダーは恐る恐る続けた。
「重要なのは、その杖が誰を勝者と認めたかです」
勝者。
その言葉だけが残った。
「下がれ」
オリバンダーは明らかに安堵した顔で頭を下げ、急いで校長室から退出した。
一人になると、ヴォルデモートは再びニワトコの杖を取った。
誰を勝者と認めたか。
記憶を辿る。
マルフォイ邸。
あの日、ダンブルドアは死ぬつもりでやって来ていた。
今なら分かる。
あの老人の目的はヴォルデモート自身ではなかった。
ナギニだった。
ダンブルドアが杖を振った瞬間、炎が生まれた。
ただの炎ではない。
悪霊の火。
制御を誤れば術者自身さえ食らう、闇の魔術。
ヴォルデモートは、あの時ほんの一瞬、目の前の光景を理解できなかった。
アルバス・ダンブルドア。
闇の魔術を嫌悪し、何十年もそれを否定してきた男。
その男が、ナギニを殺すためだけに悪霊の火を使った。
蛇は炎に呑まれた。
ヴォルデモートは激昂した。
だが、その後にもう一つ出来事があった。
未来から現れた、自分の娘、デルフィーだ。
彼女もあの場にいた。
ダンブルドアが杖を構えた時、デルフィーは迷わなかった。
武装解除して、ダンブルドアの手から、杖が飛んだ。
ヴォルデモートは手元のニワトコの杖を見た。
「……そういうことか」
声に出してみても、まだ確証はない。
だが辻褄は合う。
ダンブルドアを殺したのは自分だ。
しかし、その前に彼を打ち負かした者がいたのなら。
ニワトコの杖が、その者を勝者と認めていたとしたら、ヴォルデモートはその者を完膚なきまでに打ち負かさなくてはならない。
ヴォルデモートは杖を握り直した。
先に確認すべきことがある。
バーティへ命令を送った。
ローゼマイン・マルフォイとドラコ・マルフォイから、賢者の石について知っていることを聞き出せ。
手段は問わない。
それを済ませると、ヴォルデモートはホグワーツを離れた。
向かった先はレストレンジ家だった。
屋敷ではデルフィーがベラトリックスと話していた。
内容は取るに足らないものだった。誰が何を報告しただの、収容施設へ新しく何人送られただの、パーヴォがまた何かを壊しただのといった話だ。
デルフィーはよく働いていた。
英国魔法界からマグル生まれを排除する仕事も、予想以上の速度で進めている。
もっとも、やり方はヴォルデモートが考えていたものより穏当だった。
両親がともにマグルである者を厳密に選び、杖を取り上げ、指定された施設へ移送する。そこで与えられるのは、魔法を必要としない単純作業だった。
殺してはいない。
拷問も原則として禁じられている。
それには理由があった。
ポケット・グリモア。
ホグワーツで学生たちが使い始めた玩具は、いまや学校の外へ急速に広がっている。
新しいものに目がない羽ペン通信全国版の記者たちが買った。
週刊魔女など他社も例外ではなかった。
一般の魔法使いや魔女まで持ち歩いている。
以前なら、一つの事件が新聞に載るまで時間があった。
今は違う。
誰かが見たことをその場で送り、別の誰かが受け取り、さらに広げる。
虐殺などしようものなら、隠蔽するより先に記事になる。
それでも、マグル生まれの排除そのものは驚くほど順調だった。
申告する者が絶えない。
優秀なマグル生まれが上司だった。
自分より先に昇進した。
学校時代に成績で負けた。
いわゆる商売敵だった。
理由など何でもいい。
制度が作られた途端、それまで胸の内に押し込めていた怨恨を、人々は次々と正義の顔をして差し出した。
デルフィーはその中から条件に該当する者だけを選び、機械的に処理している。
有能だった。
だからこそ、ヴォルデモートはしばらく彼女を見た。
「デルフィー」
呼ばれて、デルフィーが顔を向けた。
「はい、お父様」
「話がある」
ベラトリックスが立ち上がりかけたが、ヴォルデモートは視線だけで制した。
「二人でだ」
デルフィーは怪訝そうにしながらも従った。
別室へ移る。
扉が閉じると、デルフィーが尋ねた。
「何でしょうか」
ヴォルデモートは答えず、ニワトコの杖を差し出した。
デルフィーの眉が寄る。
「使ってみろ」
「これをですか?」
「ああ」
デルフィーは少し迷ってから杖を受け取った。
指を滑らせ、重心を確かめる。
そして部屋の隅に置かれていた燭台へ向けた。
短い呪文。
燭台が宙へ浮かび、そのまま滑るように移動して机の上へ降りた。
無駄な揺れはない。
次の魔法も正確だった。
ヴォルデモートは何も言わずに見ていた。
自分が使った時に感じる、あのわずかな引っかかりがない。
デルフィーは何度か杖を振ったあと、興味深そうに手元を見た。
「変わった杖ですね」
「どうだ」
「とても使いやすいです」
デルフィーはもう一度軽く振った。
小さな火が杖先に灯る。
「妙に腕に馴染みます」
やはり。
ヴォルデモートは手を差し出した。
デルフィーは何の疑いもなく杖を返した。
「ありがとうございました」
ヴォルデモートは受け取った。
デルフィーがこちらを見る。
自分と似ているかというと顔立ちはそれほどでもない。しかし、優秀さは自分そっくりだ。
未来から来た娘をニワトコの杖が主として認めたということか。
ニワトコの杖が求めるものが持ち主の敗北ならば、疑いようのない敗北を与える必要がある。
ヴォルデモートは杖を向けた。
デルフィーの表情が変わる。
「お父様?」
その声を聞いた瞬間、なぜか別の光景が脳裏へ割り込んだ。
赤子の小さな手。
自分の袖を握って離さなかった指。
抱き上げた時の、あまりにも軽い重さ。
今、思い出す必要のないものだった。
ヴォルデモートは杖を握る指に力を込めた。
「アバダ・ケダブラ」