本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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ヴォルデモート視点。


142話 惚れ薬では手に入らないもの

「アバダ・ケダブラ」

 

 ヴォルデモートがニワトコの杖を振り下ろした。

 

 いつもなら、その瞬間には杖先から目を焼くような緑色の閃光が迸り、相手は声を上げる間もなく倒れている。あまりにも長く、あまりにも多く使ってきた呪文だった。唱えれば発動する。それはもはや確認する必要さえない事実だった。

 

 ところが、何も起こらなかった。

 

 杖先は暗いままで、緑の光も、魔力が空気を貫く鋭い音もない。聞こえたのは、自分が唱えた呪文の余韻だけだった。

 

「……お父様?」

 

 デルフィーが困惑したように目を瞬かせた。

 

 彼女は立っている。胸を押さえることも、膝から崩れ落ちることもなく、先ほどまでとまったく変わらない姿でこちらを見ていた。

 

 ヴォルデモートは無意識にニワトコの杖を握り直した。

 

 呪文を間違えたはずがない。発音も杖の動きも完璧だったし、魔力も確かに流した。そもそも死の呪文は、今さら失敗する可能性を考えるような魔法ではない。

 

 これまで何人に向けて放ったかなど、とうに数えることをやめていた。敵であろうと、役目を果たせなかった部下であろうと、その場で邪魔になっただけの人間であろうと、殺そうと思った相手は殺せた。

 

 それが当然だった。

 だからこそ、目の前で生きているデルフィーの姿が理解できなかった。

 

「……もう一度、試しますか?」

 

 デルフィーは自分の身体を確かめるように両手を眺めてから、恐る恐る尋ねた。死の呪文を唱えられたというのに、そんな返しをするのは彼女くらいだろう。

 ヴォルデモートは答えず、手の中の杖へ視線を落とした。

 

 原因があるとすれば、これしかない。

 

 ニワトコの杖。

 

 オリバンダーの話が正しければ、現在この杖が真に忠誠を捧げている相手はデルフィーだった。自分は杖を所有しているにすぎず、まだ主人として認められてはいない。

 

 ならば、主人の命を奪う呪文を杖自身が拒絶したのだ。

 そう考えれば説明がつく。

 いや、それ以外の説明など必要ない。

 

「今日は終わりだ」

 

「ですが、杖のことを確かめるなら――」

 

「終わりだと言った」

 

 それ以上デルフィーに口を開かせる気にはなれなかった。ヴォルデモートはローブを翻し、その場から姿を消した。

 

 これは撤退ではない。確認すべきことができただけだ。

 

 そう考えていたにもかかわらず、ホグワーツへ戻ってからも胸の奥に残った不快感は消えなかった。

 

 校長室では歴代校長たちの肖像画がこちらの様子を窺っていたが、ヴォルデモートは一瞥するだけで黙らせ、重い机の上にニワトコの杖を置いた。

 

 黒ずんだ木肌を何度見ても、先ほど起きたことが変わるわけではない。

 

 問題は杖だ。

 自分が真の主人ではない。それだけのことだ。

 

 死の呪文を唱えながら、デルフィーを殺すことをためらったなどという馬鹿げた可能性を考える必要はなかった。

 

 やがて校長室の扉が軽快に叩かれ、返事も待たずに開いた。

 

「失礼しますよ、校長先生」

 

 入ってきたのはギルデロイ・ロックハートだった。相変わらず、緊張感がまるで感じられない。

 

 最近、ヴォルデモートは彼に一つの仕事を任せていた。

 禁じた名――ヴォルデモート――を口にした者から、その理由となっている記憶を消すことだ。

 

 ロックハートによれば、難しいのは忘却術そのものではなかった。

 

 何を恨んでいるのか。誰を失ったから戦うのか。どんな出来事をきっかけにこちらへ杖を向けるようになったのか。

 人間というものは、自分でも意識していない無数の記憶を積み重ねた末に行動している。その中から敵意の根に当たる記憶だけを見つけ出す作業には、かなり手間がかかるらしい。

 

 だが、根さえ見つければ後は早い。

 

 父親を殺された記憶を失えば、復讐する理由もなくなる。

 仲間を拷問された記憶を失えば、戦い続ける理由も薄れる。

 

 本人の人格すべてを壊す必要などない。こちらに刃向かう理由だけを、丁寧に抜き取ればいい。

 

「いやあ、忘却術というのは実に便利ですよ」

 

 ロックハートは上機嫌で椅子を引いた。

 

「人間というのは、理由さえ忘れてしまえば案外素直なものです。もっと早くこうしていればよかったですよ。いちいち全員と戦ったり、捕まえたりする必要がありませんからね」

 

 それはホグワーツの中だけで通用する話でもなかった。

 

 不死鳥の騎士団の構成員を捕らえれば、隠れ家や仲間の情報を吐かせ、その後で尋問を受けた記憶そのものを消すこともできる。敵を殺すよりも使い道が多く、場合によっては本人をそのままこちらの生活圏へ戻すことさえ可能だった。

 

 敵を殺すのではなく、敵であった理由を消す。

 考えようによっては、死の呪文よりも恐ろしい魔法かもしれなかった。

 

 そんな話をしながら机まで来たロックハートが、不意に口元を緩めた。

 

「ところで、デルフィーに聞きましたよ」

 

 ヴォルデモートは視線を上げた。

 

「何をだ」

 

「死の呪文を撃たれたそうですね」

 

 手元にあったティーカップが倒れた。

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 あれから大して時間は経っていない。デルフィーとロックハートが顔を合わせるような機会もなかったはずだ。

 

「なぜ知っている」

 

「ポケグリですよ」

 

 ロックハートは当然のようにローブの内側から小さな手帳を取り出した。

 

「毎日話していますからね。デルフィーとも、パーヴォとも。離れて暮らしていても家族の様子が分かるというのは、なかなかいいものですよ。パーヴォは最近、単語を話せるようになりました」

 

 その説明を聞いて、ヴォルデモートは眉間に皺を寄せた。

 敵が使っている新しい通信手段を、自分たちだけが知らないわけにはいかない。ポケグリ発売後すぐに特殊な経路を使わせ、主要な死喰い人の分までまとめて入手させている。

 

 認めるのは癪だったが、便利な道具ではあった。

 

 離れた場所へほとんど時間差なく文章を送り、新聞を読み、本を共有できる。情報伝達だけを比べるなら、闇の印より優れている部分さえあった。

 

 そして今、その便利さのせいで、自分が娘へ死の呪文を放ったことまで半日のうちにロックハートへ伝わっている。

 

「それでですね」

 

 ロックハートはポケグリをしまいながら、心底不思議そうに首を傾げた。

 

「私には我が君があんなに優秀で美しい後継者であるデルフィーを殺す理由がまるで思いつかないのですが、一体全体、何があったんです?」

 

 ヴォルデモートはしばらく黙ってから、机の上のニワトコの杖を指先で転がした。

 

「ロックハート。相談がある」

 

「珍しいですね」

 

 ロックハートは片方の眉を上げた。

 

「妻を殺されかけた夫が怒らずに済む相談であることを祈りますよ」

 

 ヴォルデモートはその言葉には答えず、オリバンダーから聞いた話を説明した。

 

「現在、このニワトコの杖が忠誠を捧げているのはデルフィーだ。オリバンダーによれば、杖の忠誠を移すには、その主人を打ち負かす必要がある」

 

「なるほど」

 

「だから殺そうとした」

 

 ロックハートは数秒ほどヴォルデモートを見つめた。

 やがて鼻で小さく笑った。

 

「決闘で打ち負かせばいいではありませんか」

 

「事前に勝敗を決めた決闘など、杖が認めるとは限らない」

 

「でしたら、本気で戦えばよろしいでしょう」

 

「本気で?」

 

「デルフィーは強いですよ。そこは私も認めます」

 

 ロックハートはこともなげに肩をすくめた。

 

「ですが、あなたより強いわけではありません」

 

 あまりにも当然のことを言われ、ヴォルデモートは返す言葉を失った。

 

 しばらく考えてみる。

 確かにその通りだった。

 

 デルフィーは並の魔法使いより遥かに強い。だが、自分と正面から戦って勝てるほどではない。殺す必要などなく、本気の決闘で杖を奪えば条件を満たせる可能性が高い。

 

「……それもそうだな」

 

「なぜ最初に殺す方へ行くんですか」

 

 ロックハートは呆れたように言った。

 

「それが一番早いと思ったのだ。しかし、どうやらニワトコの杖の真の主人には死の呪文を使えないらしい。次は決闘で試すことにしよう」

 

 その言葉を聞いた途端、ロックハートの表情がわずかに変わった。

 

「杖の真の主には使えない、ね」

 

「何だ」

 

「いえ。私はてっきり別の理由かと」

 

 そこで、わざとらしく口を閉じる。

 

「何だ。言え」

 

「いえいえいえ、わざわざ私が言うことではありませんよ」

 

 ロックハートは妙に含みのある笑みを浮かべていた。

 

 数日後、ヴォルデモートはデルフィーをホグワーツから離れた荒れ地へ呼び出した。

 

 人の気配はなく、見渡す限り灰色の岩と枯れ草が続いている。遠くの丘の上では強い風が砂埃を巻き上げ、低く垂れ込めた雲の下を流れていた。

 向かい合ったデルフィーも、今回は事情を理解していた。

 

「本気でいいのですね?」

 

「ああ。手加減はするな」

 

「分かりました」

 

 言い終わるより早く、デルフィーの杖先が光った。

 

 ヴォルデモートが首を傾けた直後、呪文が頬を掠めて背後の岩へ命中した。轟音とともに岩が砕け、細かな破片がローブへ降りかかる。

 

 思ったより速い。

 

 ヴォルデモートもすぐに杖を振った。赤い閃光をデルフィーが防ぎ、その勢いのまま杖を振り上げる。地面に散らばっていた無数の石が宙へ浮かび、一斉にヴォルデモートへ飛んできた。

 

 盾の呪文が石を弾く。

 その向こうから次の呪文が飛ぶ。

 ヴォルデモートが横へ避けると、立っていた場所の地面が深く抉れた。

 

 それからの戦いは、決闘というより小規模な戦争に近かった。

 火炎が枯れ草を焼き、爆発が地面を揺らし、砕かれた岩の破片が雨のように降り注ぐ。デルフィーは真正面から力比べをするような愚かな戦い方をせず、姿を隠し、足場を崩し、隙ができた瞬間だけ確実に攻撃を撃ち込んできた。

 

 途中、一発の呪文をまともに受けたヴォルデモートの身体が宙へ浮いた。

 数メートル先まで吹き飛ばされ、肩から地面へ叩きつけられる。口の中に土と血の味が広がった。

 

 ヴォルデモートはすぐに起き上がった。

 少し離れた場所ではデルフィーも息を切らしていた。額から流れた血が頬まで伝い、ローブの袖は大きく裂けている。それでも彼女の口元には、どこか楽しそうな笑みがあった。

 

「まだやりますか、お父様」

 

「当然だ」

 

「でしょうね」

 

 デルフィーは笑いながら杖を構え直した。

 

 ヴォルデモートも杖を上げた。

 

 次にぶつかり合った呪文は、辺り一面を白く染めるほど強い光を放った。

 その後も攻防は続いたが、最後に勝負を決めたのは経験の差だった。

 

 デルフィーが一瞬だけ足元へ注意を向けた隙を、ヴォルデモートは見逃さなかった。

 杖が跳ね上がり、デルフィーの手から離れる。

 宙を回転したそれをヴォルデモートが受け止めると、デルフィーは荒い息を吐きながら片膝をついた。

 

「……参りました」

 

 周囲を見れば、決闘を始めたときとは別の場所のようになっていた。

 岩は砕け、地面にはいくつもの穴が開き、ところどころからまだ細い煙が立ち上っている。

 

 ヴォルデモートは奪った杖をデルフィーへ返すと、自分のニワトコの杖を取り出した。

 握った瞬間、違いが分かった。

 

 劇的な光が出たわけではない。杖が声を発したわけでもない。

 ただ、それまで手の中にわずかに残っていた異物感が消えていた。

 

 魔力を通すと、抵抗らしい抵抗もなく杖先まで流れていく。自分の腕がそのまま伸びたかのように、ニワトコの杖が魔力に応えた。

 今度こそ、この杖は自分を主人として認めている。

 

 ふとデルフィーを見ると、彼女は立ち上がることもせず、裂けた袖の下にある傷を押さえていた。髪は乱れ、額も頬も血で汚れている。まともに歩ける状態かどうかすら怪しい。

 

「エピスキー」

 

 途端に彼女の身体の傷がみるみる塞がった。

 なるほど、たしかに強力な杖だ。

 

 デルフィーはなぜか笑っていた。

 

「何がおかしい」

 

「嬉しいんです」

 

「私に負けたことがか?」

 

「まさか」

 

 デルフィーは傷に触れて顔をしかめながらも、笑みを消さなかった。

 

「お父様が死の呪文を私にかけられなかったことが嬉しかったんです」

 

 ヴォルデモートは眉を寄せた。

 

「それは杖が真の主を殺すことを拒んだからだ」

 

「そうかもしれません」

 

 デルフィーは否定しなかった。

 

「でも、私はそれでもいいんです」

 

 何がいいのか理解できなかった。

 死の呪文を向けられ、今度は本気の決闘でここまで傷つけられたというのに、なぜ嬉しそうにするのか。

 

 デルフィーはゆっくり立ち上がると、汚れたローブを軽く払った。

 

「私がずっと欲しかったものですから」

 

「何をだ」

 

 問い返すと、デルフィーはすぐには答えなかった。

 荒れ果てた地面の向こうを眺めながら、少し言葉を探す。

 

「自分が与えられてこなかったものです」

 

 やがて静かに答えた。

 

「だから、自分の子には与えたいと思うものです」

 

 デルフィーはそれ以上説明しようとはしなかった。

 

 その日の夜、ヴォルデモートは校長室に一人で残っていた。

 

 机の上にはニワトコの杖が置かれている。

 

 昼間に何度か魔法を試したが、やはり以前とは明らかに違った。忠誠は完全にこちらへ移っている。つまり、最初にデルフィーへ死の呪文が発動しなかったのも、彼女が杖の主人だったからだと考えるのが自然だった。

 

 そう結論づければ、それで終わる話のはずだった。

 

 ところが、どうしてもロックハートの言葉が頭に残っていた。

 

 ――私はてっきり別の理由かと。

 

 何を考えたのか。

 

 一度は聞けばよかったと思ったが、すぐにその考えを捨てた。ロックハートのくだらない推測など聞く価値はない。

 

 ヴォルデモートは机の上に開いていたポケグリを閉じようとして、指を止めた。

 

 一冊の小説を思い出したからだ。

 

『薔薇色の惚れ薬は二度効く』

 

 くだらない題名だったので、むしろよく覚えていた。

 

 ローゼマインはその小説をひどく気に入っていた。以前自分が貸した本より面白いとまで言った。そんなに言うなら読もうじゃないかと本を開き、ヴォルデモートは後悔した。

 題名通り若い女性が好きそうなくだらない内容だったからだ。

 だが、作中に出てきた一つの台詞だけは、不愉快なほど鮮明に覚えていた。

 

「薬で得た愛は、本物の愛ではない」

 

 初めて読んだとき、くだらないと思った。

 

 薬であろうと魔法であろうと、相手が自分を求め、その命令に従い、自分だけを見るようになるのなら、結果として何が違うのか。

 そんな曖昧なものに本物と偽物を区別する意味が分からなかった。

 

 それでも、その台詞だけは読むたびに妙に腹が立った。

 理由を認めたくなかっただけで、本当は分かっていた。

 

 ヴォルデモートの母、メローピー・ゴーントは、惚れ薬を使ってトム・リドル・シニアを手に入れた。

 そして自分は、その二人の間に生まれた。

『薔薇色の惚れ薬は二度効く』の言葉をそのまま受け入れるなら、父が母へ抱いていたものは愛ではなかったことになる。

 

 薬によって作られた偽物だった。

 そしてヴォルデモートは、その偽物の愛から生まれた子どもだった。

 

 小説の登場人物が何気なく口にした言葉が、ページの外側にいる自分の出生まで否定しているように感じられた。

 

 だから嫌いだった。

 あの台詞も、あの小説も。

 

 そして、そんな事情など知らず、絶賛していたローゼマインにも、少し腹が立った。

 

 だが今夜になって、あの言葉が別の形で蘇ってきた。

 デルフィーは、ヴォルデモートが死の呪文を使えなかったことを喜んだ。

 杖の忠誠が原因だった可能性など承知した上で、それでも嬉しいと言った。

 自分が与えられてこなかったものだから、自分の子供には与えたいとも言った。

 

 惚れ薬で相手の心を縛ることはできる。

 服従の呪文を使えば、相手を自分の思い通りに動かすこともできる。

 忘却術なら、嫌われた理由さえ消してしまえる。

 

 それでも、それらの魔法をどれだけ重ねたところで、デルフィーが今日見せた笑顔と同じものを作れるとは思えなかった。

 ヴォルデモートは閉じかけていたポケグリの上に手を置いたまま、長い間動かなかった。

 

「……そうか」

 

 誰に聞かせるでもなく、声が漏れた。

 

 自分が生まれる前から存在しなかったもの。

 自分が一度も必要だと思わなかったもの。

 それなのに、デルフィーが自分から受け取ったと思って喜んだもの。

 

 あの小説が言っていたのは、これなのかもしれない。

 

 翌朝、その考えに浸る時間を容赦なく終わらせたのも、やはりポケグリだった。

 

 朝食を終えたヴォルデモートが校長室で羽ペン通信ホグワーツ版を開くと、一番上に見慣れたくない名前が大きく表示されていた。

 

『期間限定公開! 話題作「トム・リドルの日記」第一章を無料掲載』

 

 記事を開こうとした指が止まった。

 

 ヴォルデモートはしばらく見出しを睨み、それから画面を下へ送った。

 すると今度は別の記事が現れた。

 

『アルバス・ダンブルドア連載――忘れられない教え子たち』

 

 嫌な予感しかしなかった。

 それでも読まずにいるわけにはいかない。

 

 名前はない。

 だが、読むほどに誰の話なのか明白になっていった。

 

 どこを読んでも自分だった。

 ヴォルデモートは途中で記事を閉じた。

 数秒して、もう一度開いた。

 当然ながら内容は変わっていない。

 

「……あの男、死んだ後まで嫌がらせか?」

 

 死んでからまで余計なことをする男だった。

 しかも厄介なのは、暴露記事のような書き方ではないことだった。しかし、目的は明らかな記事だった。

 名前を恐れるな。本当の名前を呼べ。

 ダンブルドアは明確にそう諭している。

 だからこそ腹が立った。

 

 その日の午後、ロックハートが報告へ来た。

 

「効果が出てきましたねえ」

 

 妙に機嫌がよかった。

 

「何の話だ」

 

「あなたの名前ですよ。『ヴォルデモート』と口にする生徒が、ここ数日で驚くほど減りました」

 

 ヴォルデモートは椅子の背へ身体を預けた。

 

 禁句に指定した効果がようやく出始めたのだろう。

 

 ロックハートに敵対者の記憶を消させてきたことも無駄ではなかった。

 

 ところが、ロックハートはそこで話を終えなかった。

 

「ただし、代わりに皆さん『トム・リドル』と呼んでいますがね」

 

 ヴォルデモートはゆっくり顔を上げた。

 

「……何だと?」

 

「ですから、名前を呼ぶ人間が減ったわけではないんですよ。ああ嘆かわしい」

 

 ロックハートは面白がっていることを隠そうともせず、人差し指を一本立てた。

 

「どうでしょう、トム・リドルも禁句にします?」

 

 ロックハートに呪文の一つや二つ撃とうか迷ったが、デルフィーが悲しむ顔を想像すると手が止まった。

 

 翌日には、ホグワーツへ潜入しているバーティ・クラウチ・ジュニアから、さらに詳しい情報が届いた。

 

『トム・リドルの日記』の一部無料公開。

 ダンブルドアの連載。

 ポケグリを利用した記事の拡散。

 生徒たちの間で、ヴォルデモートという名の代わりにトム・リドルという名が急速に広まっていること。

 

 そして、それらの中心にいる人物はローゼマイン・マルフォイだったのだ。

 ダンブルドアの原稿も、死後、遺言によってローゼマインへ贈られたものだという。

 

 ヴォルデモートはそれまでに集まった記事を机の上へ並べ、一つずつ読み返した。

 

 そこで初めて、自分が何をされているのかが見えた。

 呪文ではなかった。

 攻撃魔法ですらない。

 一人の少女が本と新聞を使って、自分が何十年もかけて築いた「ヴォルデモート」を少しずつ剥がしている。

 

 ヴォルデモートはポケグリに表示された記事を睨んだ。

 

「ローゼマイン・マルフォイ……」

 

 その名を、初めて明確な敵の名として口にした。

 

 これまで、自分にとって敵とは杖を向けてくる者だった。

 

 ダンブルドアのような強大な魔法使い。

 不死鳥の騎士団のような組織。

 自分を倒そうと武器を手に取る者たち。

 

 だが、ローゼマイン・マルフォイは違う。

 

 彼女は羽ペンでヴォルデモートが自ら作り上げた物語の外側から、勝手に別の物語を書き始める。

 

 その方が、ただ杖を向けてくる敵よりもはるかに厄介だった。

 

 ヴォルデモートはロックハートを呼び出した。

 

「バーティを援護しろ」

 

 突然の命令にも、ロックハートはさほど驚かなかった。

 

「具体的には何を?」

 

「バーティはマルフォイ兄妹から賢者の石に関する情報を引き出そうとしている。その手伝いだ」

 

「かしこまりました」

 

 ロックハートが頷く。

 ヴォルデモートはそこで言葉を切り、机の上に置かれた羽ペン通信へ目を向けた。

 

「その後、ローゼマイン・マルフォイの記憶を奪え」

 

 ロックハートの顔から、先ほどまで浮かんでいた軽い笑みが消えた。

 

「どの記憶を消します?」

 

 ヴォルデモートは記事の署名を見つめた。

 

 ロックハートがこれまで敵対者たちにしてきたように、その根を見つけて引き抜けばいい。

 

「あの魔女が最も大切にしている記憶だ」

 

 ローゼマイン・マルフォイは、ヴォルデモートという名前を消そうとしている。

 その名にまとわせた恐怖を剥ぎ取り、捨てたはずのトム・リドルを引きずり出そうとしている。

 

 ならば、同じことをすればいい。

 

 自分から奪おうとするのなら、こちらも奪うまでだ。

 

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