スネイプ先生のポケグリが震えた。
床には、石化したバーティ・クラウチ・ジュニアが横たわっている。少し離れた壁際では、ロックハート先生が片手で額を押さえ、まだ自分に何が起きたのか理解できていないような顔をしていた。
その周囲には、さっきの騒ぎで棚から落ちた本が何冊も散らばっている。
バーティ・クラウチ・ジュニアが犯罪者なのも、ロックハート先生に記憶を消されたらしいのも重大な問題だけれど、開いたまま伏せられている本も重大な問題だった。
わたしはそっと一冊を拾い上げてほこりを払った。
「ローゼマイン」
「はい」
「今は本を片づけるな」
スネイプ先生に見つかった。
「でも背表紙が──」
「放っておけ」
「はい……」
納得はいかなかった。
スネイプ先生はバーティとロックハート先生を拘束すると、黒いローブの内側へ手を差し入れた。
取り出したポケグリの表紙を見た途端、先生の指が止まった。
「全員、静かにしろ」
声は低かった。
怒鳴ったわけでもないのに、ルーファスはすぐ口を閉じる。
わたしも息を潜めた。
スネイプ先生はポケグリを開いた。
「……はい」
しばらく黙って向こうの声を聞く。
「今ですか」
いつもの声だった。
冷たく、平坦で、何を考えているのか分からない声。
けれど、杖を握っている手だけが妙に強張っていた。
「私は地下におります。生徒の魔法薬の件で──」
嘘だ。
わたしたちは図書室の禁書棚にいる。
スネイプ先生は目を伏せたまま続けた。
「いいえ。クラウチもロックハートも、こちらには──」
通話が切れた。
静けさが戻る。
先生は閉じたポケグリをしばらく見つめていた。
「先生?」
「ここを出る」
短く言った。
「二人は?」
ルーファスが床を指さす。
「後だ」
スネイプ先生は即座に杖を抜いた。
その動きに、さっきまでとは違う切迫感があった。
先生を先頭にして禁書棚を出る。
古い書架の隙間を縫うように歩いた。
夕方の図書室は静かで、離れた閲覧席から羽ペンの擦れる音がかすかに聞こえる。
最後の本棚を曲がる。
そこでスネイプ先生が立ち止まった。
わたしも、その背中にぶつかりそうになって足を止める。
禁書棚を抜けた先の通路の中央に、一人の男が立っていた。
赤い目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「地下牢にいるのではなかったのか、セブルス」
ヴォルデモートだった。
スネイプ先生は何も答えない。
ヴォルデモートの視線が、先生の肩越しにわたしたちへ移った。
さらにその奥、禁書棚の中へ。
口元がわずかに歪む。
「バーティとロックハートの帰りが遅いと思って来てみれば」
小さく笑った。
「このざまか」
ルーファスがわずかに後ずさる。
わたしはスネイプ先生の横から、ヴォルデモートを見た。
何かが違う。
以前より静かだった。
怒りを押し殺しているというより、長いあいだ解けなかった謎の答えを見つけた人のような顔をしている。
「セブルス」
ヴォルデモートが言った。
「私はお前に十分な機会を与えた」
スネイプ先生の杖を握る手に力が入った。
「しかし、どうやら私は思い違いをしていたようだ」
一歩、近づいてくる。
「お前の心は、最初からあの女にあったのだろう?」
先生の顔が強張った。
「……何のことでしょう」
声が震えていた。
わたしは思わず先生を見た。
先生のこんな声を聞いたのは初めてだった。
ヴォルデモートの表情から笑みが消える。
「とぼけるな」
赤い目が細められた。
「リリー・ポッターのことだ」
その名前が出た瞬間、ルーファスがわずかに身体を引いた。
ローブの陰でポケグリを開く。
表紙のルーン文字が一瞬だけ淡く光った。
誰かに連絡している。
ヴォルデモートはスネイプ先生から目を離さなかった。
「あの夜、お前は私に頼んだ」
声は穏やかだった。
「あの女だけは助けてくれ、と」
先生の頬から血の気が引いていく。
「私は長いこと、意味を取り違えていた」
ヴォルデモートは静かに続けた。
「お前は、あの女を欲しがっているのだと思っていた」
ほんのわずかに視線を落とす。
「だが、違ったのだな」
再び顔を上げる。
「お前は、あの女を愛していた」
スネイプ先生は否定しなかった。
もう、否定できなかったのだと思う。
「だからダンブルドアは、お前にあの女の息子を守らせた。違うか?」
スネイプ先生の喉がわずかに動いた。
返事はない。
ヴォルデモートは、ゆっくり息を吐いた。
「……やはりお前は裏切り者だったか」
怒ってはいなかった。
むしろ、すべての辻褄が合ったことに納得しているように見えた。
それが余計に怖かった。
「バーティとロックハートをこちらに渡せ」
「断る」
スネイプ先生が即答した。
「二人はホグワーツで生徒を襲撃した。真実薬を使用し、忘却呪文まで使った」
「私の命令を受けてな」
「渡してはだめです!」
ルーファスが声を上げた。
スネイプ先生が振り返る。
「バーティ・クラウチ・ジュニアは、ローゼマイン先輩から真実薬で何か大事な情報を聞き出していました。賢者の石がどうだとか」
ヴォルデモートの赤い目が、一年生へ向く。
ルーファスの肩が小さく跳ねた。
それでも逃げなかった。
「引き渡してはいけません!」
「下がれ」
スネイプ先生が低く言う。
ヴォルデモートが杖を持ち上げた。
スネイプ先生も応じるように構える。
わたしは二人を見比べた。
それから、左右の本棚を見た。
「あの」
二人が同時にこちらを見る。
「図書室で呪文を撃つのは良くないと思うんです」
スネイプ先生の眉間に皺が寄った。
「ここ、絶版本とか、一点物とか、たぶんありますよね?」
「ローゼマイン」
「何百年前の本もありますし、もし燃えたら同じもの手に入らないですよ」
わたしは改めて二人へ提案した。
「ここは話し合いで穏便に解決しませんか?」
スネイプ先生が、何を言っているんだこいつは、という顔をした。
ヴォルデモートまで似たような顔をしている。
「ローゼマイン先輩はそんなに本が大切なんですか」
ルーファスまで引いた顔をしていた。
「でも、まだ誰も死んでませんし、本も燃えてません。今なら間に合いますよ」
「黙れ」
スネイプ先生の言葉でわたしは黙った。
ヴォルデモートの視線がわたしへ向く。
「ロックハートはお前からどんな記憶を消したのだ? 本狂いはそのままじゃないか」
スネイプ先生が一歩前へ出た。
わたしを隠すように立つ。
「話す必要はない」
「そうか」
ヴォルデモートの杖先が上がる。
「ならば直接聞くまでだ」
先に動いたのはスネイプ先生だった。
赤い閃光が一直線に飛ぶ。
ヴォルデモートは身体をわずかに傾けるだけで避けた。そのまま杖を振る。
飛んだ呪文が、本棚の端へ直撃した。本棚の木片が弾ける。
「本棚が!」
思わず叫んだ。
分厚い本が何冊も落ちてくる。一本の杖が自分へ向いていることより、本が床へ落ちていく方が気になった。
「プロテゴ!」
半透明の盾を広げる。
ヴォルデモートの呪文を防ぐついでに、落下してきた本まで受け止めた。
よかった、無事だ。
「……お前は一体何を守っている」
スネイプ先生が呆れたように言った。
「本とスネイプ先生です!」
「君の優先順位はよく分かった」
そのとき、禁書棚の奥から物音がした。バーティが呻きながら身を起こしている。
石化呪文が切れたらしい。
ヴォルデモートは瞬時にそれに気づき、遠くから呪文を撃ちバーティとロックハートの拘束を解いた。
「……なるほど」
バーティは周囲を一度見ただけで状況を理解したようだった。床に落ちた杖へ手を伸ばす。
その近くでは、ロックハート先生も壁に手をつきながら立ち上がっていた。
「これは……ずいぶん騒がしいね」
「先生、自分で撃った忘却呪文を食らったんですよ」
「まさか! この私がそんな素人のようなミスを?」
ロックハート先生は怪訝そうに眉を寄せた。
それから、こんな状況だというのに前髪を整え始めた。
「顔には当たっていないだろうね?」
「知りません」
「そこは確認してくれたまえ……まあいい」
ロックハート先生はローブの襟まで整えてから周囲を見た。
「誰が敵なのかは覚えているからね」
ロックハート先生も杖を抜く。
状況が余計悪くなった。
わたしも杖を構え直す。
「オブリビエイト!」
「プロテゴ!」
光が書架の間を走った。
赤い閃光が棚へ当たり、本がまた落ちる。
「ああっ!」
「ローゼマイン!」
スネイプ先生に怒鳴られた。
「分かってます!」
戦闘中だということは分かっている。
けれど、床に表紙から落ちた本を見ると胸が痛む。
今度は頭上のランプが一つ割れた。
図書室の一角が暗くなる。
「ローゼマイン、下がれ!」
「先生一人じゃ無理です!」
「誰が一人だって?」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
通路の向こうからハリーが走ってきた。
その後ろにはドラコもいる。
「ハリー先輩!」
ルーファスが声を上げた。
ハリーは杖を抜きながら周囲を見渡す。
「ルーファス、さっきの話は本当なんだろうな?」
「はい! ヴォルたんが、スネイプ先生はハリー先輩のお母さんを愛してたって──」
「ルーファス!」
スネイプ先生の声が裏返った。
ハリーが動きを止める。
「あれだけ僕にひどいことしておいて、母さんを愛してただと?」
ハリーの顔が険しくなる。
「ふざけるな!」
「今はそれどころではない!」
「分かってる!」
ハリーはヴォルデモートへ杖を向けた。
それでも一度だけ、スネイプ先生を見る。
「後でじっくり話を聞かせろ」
スネイプ先生は、ヴォルデモートと対峙しているときより嫌そうな顔をした。
バーティが笑った。
「なら」
杖先が、ハリーへ向いた。
「確かめればいい」
聞いたことのない呪文だった。
濁った光が杖先から迸る。
「ハリー!」
わたしが叫んだ。
ハリーが振り向く。
その間に、黒い影が滑り込んだ。
スネイプ先生だった。
考える時間なんてなかったはずだ。
防御呪文も唱えなかった。
ただ、ハリーの前へ身体を投げ出した。
バーティの呪文が胸元へ直撃する。
鈍い音が響いた。
先生の身体が大きく後ろへ弾かれた。
「先生!」
黒いローブが宙に翻る。
そのまま石床へ叩きつけられた。
一瞬、誰も動かなかった。
ヴォルデモートだけが、倒れたスネイプ先生を見ていた。
「……やはりな」
静かな声だった。
バーティが振り返る。
「本当に穢れた血の女が好きだったのか。物好きだな」
「以前の私なら理解できなかっただろう」
ヴォルデモートは答えた。
「スネイプ!」
ハリーが駆け寄った。
わたしも後を追う。
先生は仰向けに倒れていた。
黒いローブのせいで、最初は傷が見えなかった。
けれど、床へついたハリーの手がすぐに赤く染まった。
「……血が!」
ローブの下から溢れた血が、石床の溝を伝って広がっていく。
ハリーが傷口を押さえる。
「おい!」
返事はなかった。
呼吸はあるけれど、浅い。
顔から急速に血の気が失われていく。
「スネイプ!」
ハリーの声が震えた。
「死ぬな」
血が指の隙間から溢れる。
「おい。死ぬなよ」
ドラコも膝をついた。
「どけ」
杖を傷口へ向ける。
治癒呪文の淡い光が胸元を覆った。
けれど傷は閉じない。
「なんで……」
ドラコの顔が青ざめる。
「闇の魔術だ」
ハリーが言った。
「普通の治癒じゃ止まらない」
そのとき、スネイプ先生の指がわずかに動いた。
「先生?」
ハリーが顔を寄せる。
先生の目が開いた。焦点は定まっていない。
それでも黒い瞳は、何かを探すように動いた。
やがて、ハリーの顔で止まる。
「……ポッター」
掠れた声だった。
「何だ」
ハリーが身を乗り出す。
「喋らないでください。今、助けますから」
先生の指が、血に濡れたハリーの手首を掴んだ。
弱い力だった。
それでも離さない。
「先生?」
スネイプ先生は、しばらくハリーの顔を見ていた。
いや、顔ではない。
ハリーの瞳を見ていた。
「……私を見てくれ」
ハリーが息を呑んだ。
怒りも、戸惑いも消えた。
ただ黙って、スネイプ先生を見る。
二人の視線が重なった。
先生の顔から、ほんのわずかに力が抜けた。
何を見ているのかわたしには分からない。
ハリーの緑の目だけを、先生は長いあいだ見つめていた。
やがて、震える手が杖を探した。
「受け取れ」
「何を」
「もしかして、記憶?」
わたしが思わずつぶやくと、ハリーの表情が変わった。
「先生?」
スネイプ先生は杖を持ち上げようとした。
けれど腕に力が入らない。
ハリーがその手を支える。
杖先が先生のこめかみに触れた。
ゆっくり引き離される。
細い銀色の糸が、杖先へ絡みついてきた。
一本ではなかった。
白銀の光が、蜘蛛の糸のように揺れながら空中へ引き出されていく。
「何だよ、これ」
ハリーが呟く。
ハリーが慌ててローブを探り、小さな空の瓶を取り出した。
銀色の記憶が瓶の中へ落ちていく。
ひと筋、またひと筋と底へ溜まった光が、ゆっくり渦を巻いた。
「自分で話せよ」
ハリーの声が震えた。
「後で話せって言っただろ!」
返事はない。
「……こんなの渡して終わりにするなよ」
ハリーがスネイプ先生の肩へ手を置く。
「先生」
先生の指から力が抜けた。
杖が石床へ落ち、乾いた音を立てた。
「スネイプ先生!」