マルフォイ邸の朝というものは、本来ならもっと静かで、もっと威厳に満ちたものであるべきだった。
少なくとも、ルシウス・マルフォイはそう信じている。
磨き上げられた銀食器には曇りひとつなく、窓の向こうでは冬枯れの庭園が薄い朝霧に沈んでいる。白いテーブルクロスの上には焼きたてのパンと果物が整然と並び、香りのよい紅茶からは細い湯気が立ち上っていた。長い食卓の端には、その日の羽ペン通信に加えてなぜか複数のマグルの新聞が折り目ひとつ乱さず置かれている。
家長たるもの、一日の始まりくらいは平穏でありたい。
最近では、その程度の願いさえ贅沢になりつつあった。
「あなた、魔法書研究会に新しい子が二人入ったそうよ」
向かい側に座るナルシッサが、ローゼマインから届いた手紙を読みながら楽しそうに言った。
ルシウスは紅茶へ伸ばしかけた手を止めた。
魔法書研究会。
その名前だけ聞けば、読書好きの生徒が集まって本について語り合う、実に健全で文化的な部活動に思える。
しかし、ローゼマインが関わっている時点で、そんな素直な集まりでは終わらないことをルシウスはもう知っていた。
「一人は、ルーファス・スクリムジョールの息子ですって」
「……何?」
ルシウスは眉を寄せた。
「ルーファス・スクリムジョール・ジュニア。まだ一年生だそうよ」
スクリムジョールに息子がいたことなど、聞いた記憶がない。
いや、どこかで聞いた。そういえば、今度入学するという話を聞いた覚えがあった。
死喰い人だった頃、バーティがスクリムジョール本人に化けて動いていた件について、報告を受けたことがある。当時は誰が誰へ化け、誰が本物で、誰が偽物なのかという話ばかりで、会議が終わる頃には自分まで本物なのか疑いたくなるほどだった。
「ドラコからも手紙が来ているわ」
ナルシッサは別の封筒を開き、几帳面な息子らしい整った文字を追い始めた。
「その子、かなり復讐に燃えているみたい。両親を殺した死喰い人を探しているそうよ」
ルシウスは、しばらく何も言えなかった。
「……そうか」
それは、気の毒だった。
珍しく心からそう思う。
父親を殺した男が、その父親の顔を使い悪事を行っていた。
しかも、母親まで殺されてしまったのだ。まだ一年生だというのに、頭の中のかなりの部分を復讐に占領されているらしい。
もしドラコやローゼマインが同じ目に遭っていたら、自分はどうしただろう。
そこまで考え、ルシウスは即座に思考を打ち切った。
考えただけで胃が痛い。
「ナルシッサ」
「何?」
「その子には、できるだけローゼマインから離れていてもらった方がいいのではないか」
ナルシッサが不思議そうに顔を上げる。
「どうして?」
「復讐に燃えている一年生と、事件へ首を突っ込まずにはいられない娘を同じ研究会に置いておくな。組み合わせが悪すぎる」
死喰い人と不死鳥の騎士団を同じ部屋に詰め込み仲良くしろと閉じ込めるようなものだ。
何も起きない方が不自然である。
「もう一人は、コウタ・オオニシというハッフルパフ生ですって」
「今度は何者だ」
「ドラコによると、ローゼマインのことをずいぶん尊敬しているみたい」
ナルシッサは手紙へ視線を戻し、小さく笑った。
「『信望していると言った方が近い』ですって」
ルシウスは紅茶を一口飲み、しばらく考えた。
なぜ、あの娘をそこまで深く信望する生徒が現れるのだろう。
いや、父親として娘を低く評価しているわけではない。
ローゼマインはたしかに優秀だ。
頭も回るし、行動力もある。魔法も本も新聞も好きで、思いついたことを形にする能力も高い。
だが、近くにいる者ほど知っている。
あの娘は、少し離れたところから眺めているぶんには立派に見えるが、隣に立つと人生が急激に忙しくなる。
「随分珍しい生徒もいるものだな」
ルシウスが呟くと、ナルシッサは手紙越しにこちらを見た。
「あなた、少し嬉しそうよ」
「気のせいだ」
娘を尊敬する人間がいること自体は悪くない。
ただし、その人物がローゼマインと一緒になって新しい何かを始めなければ、という条件が付く。
そこが何より重要だった。
*
その日の午後、ルシウスのポケグリが光った。
表示された名前は、セブルス・スネイプ。
その名前を見ただけで嫌な予感がした。
最近、セブルスから連絡が来るときは、だいたいローゼマインか闇の帝王か、その両方に関係する面倒事が起きている。
「何だ」
『アレクト・カローがマグル学教授を辞めた』
ルシウスはしばらく黙った。
新学期はつい数日前に始まったばかりだ。
「……就任してから何日だ?」
『数える価値もない』
たしかに、驚くほど在任期間だった。
ホグワーツ史上最短記録ではないだろうか。
「理由は」
『ローゼマインが参考文献の少なさを指摘した』
そこまでなら、まだ理解できる。
ローゼマインらしい。
本を使わない授業など、あの娘からすれば授業以前の問題だろう。
『カローは逆上し、クルーシオを使おうとした』
ルシウスは、ゆっくり目を閉じた。
「……あの女は、ローゼマインが誰の娘か忘れていたのか?」
『おそらく』
「私の娘だぞ」
『知っている』
「マルフォイ家の娘だ」
『知っている』
「理事の娘でもあるぞ」
『ジェドゥソールが辞めさせたらしい』
なるほど、それなら話が早い。
娘に近づくなと言いたいところだが、こういうときばかりは別だった。
ルシウスはポケグリを閉じると、椅子の背へ深く身体を預けた。
ローゼマインもローゼマインである。
参考文献が少ない。
その指摘自体は正しいのだが、相手を見ろ。
別の授業ではハリー・ポッターも、「マグルの親戚はどのくらいいるのか」とカロー本人へ聞いたらしい。
どうして最近の生徒は、命を惜しむという概念を失っているのか。
ただ──
ここでルシウスは、ふと考えた。
これは、使えるのではないか。
娘の安全を考えるなら、次のマグル学教授は闇の帝王の息がかかっていない者にした方がいい。カローのような人間が二度と教壇へ立たないよう、理事会主導で後任を決めるべきだ。
ルシウスはすぐにポケグリを開いた。
ちょうどそのとき、パドマ・パチルという生徒から記者として取材依頼が届いていた。
最近の生徒は恐ろしい。
教授が一人辞めただけで、理事へ即座に取材が飛んでくる。
『生徒を磔の呪いにかけようとする教授を選んだ校長の責任は重いと考えている。理事会から早急に後任を選出する』
そう返信し、その勢いのまま理事会へも連絡を回した。
次の教授は学校側へ一任せず、理事会で候補者を審査すべきだ。
問題は誰を推薦するかだった。
権力に流されない。
マグルをよく知っている。
娘を守れる。
死喰い人ではない。
できればヴォルデモートを恐れない。
そこまで考えたところで、
「それは私だろう」
背後から声がした。
ルシウスは危うく椅子から立ち上がりかけた。
振り返ると、そこにはゲラート・グリンデルバルドが立っていた。
いつ入ってきた。
どうやって入ってきた。
なぜ、ここが自分の家であるかのように自然な顔をしている。いや、客人ではあるが。
「……何の話だ」
「新しいマグル学教授を探しているのだろう?」
やはり聞いていた。
「私以上に適任がいるか?」
いる、きっといるはずだ。
世界は広い。
探せばいるに違いない。
だが、今すぐ具体的な名前を挙げろと言われると、ひとりも思いつかなかった。
グリンデルバルドは確かにマグル世界に詳しい。世界情勢にも通じ、アメリカ暮らしも長い。権力に流されないどころか、権力の方をまとめて押し流す。
娘を守る能力という点でも申し分ない。
問題は、本人が世界征服未遂者であることだった。
「あなたは闇の帝王を殺したがっているだろう」
「もちろん」
即答された。
そこは少しくらい否定してほしかった。
「ホグワーツへ行けば、真っ先に殺そうとするのではないか」
「機会があれば」
ルシウスは額を押さえた。
しかし、逆に考えれば。
グリンデルバルドがヴォルデモートを倒すということは、戦争が終わる。
平和になる。
非常に合理的ではないか。
もっとも、その後でグリンデルバルド本人が英国魔法界を征服し始める可能性がある。
ルシウスは少し考えた。
その場合マルフォイ家は、できるだけ良い位置にいた方がいい。
今のうちに恩を売るというのも悪くない。
いや、何かが根本的に間違っている気もする。
しかし、他にまともな候補が浮かばない。
「……アメリカ出身ということにする」
「私はドイツ出身だ」
「知っている」
「経歴詐称では?」
「グリンデルバルドをマグル学教授にできると思うのか?」
こうしてルシウス・マルフォイは、ゲラート・グリンデルバルドを『アメリカで長年マグル文化を研究してきた優秀な魔法使い』として理事会へ推薦することにした。
自分でも何をしているのか分からなかった。
*
それからしばらくは、比較的平和な報告が続いた。
もちろん、マルフォイ家における「比較的平和」は、一般家庭における平和とはかなり意味が違う。
ドラコから届いた手紙によれば、魔法書研究会ではビブリオバトルなるものが開催されたらしい。
参加者の一人は闇の帝王。
さらに、マグル学教授へ成りすましたグリンデルバルド。
ギルデロイ・ロックハート。
そして魔法書研究会のメンバーだ。
ルシウスは手紙を読みながら、三度ほど最初へ戻った。
何か読み間違えたのかと思った。
何一つ読み間違えていなかった。
「テーマは愛だったそうよ」
横から手紙を覗き込んだナルシッサが、嬉しそうに言った。
目まで輝いている。
「素敵じゃない」
「どこがだ」
「みんなで本について語り合うのよ?」
「闇の帝王とグリンデルバルドとロックハートがだぞ」
「それでも本は本でしょう」
妻は強かった。
ドラコの手紙には、さらに続きがあった。
『校長は以前ローゼマインがおすすめしていた本を読んだみたいです』
ルシウスは目を閉じた。
なぜ読んでいる。
『賢者の石の話になって、危うく僕たちが作ったことがばれそうになりましたが、必死に誤魔化しました』
胃が痛い。
急に痛い。
「ナルシッサ」
「何?」
「胃薬はどこだ」
「まだ続きがあるわよ」
「だから必要なんだ」
今度はローゼマインから届いた手紙を開いた。
『なんと、この前のビブリオバトルでわたしの選んだ本が一番票を集めました! マグルが書いた本でとても面白いのでお父さまとお母さまもぜひ読んでください』
以降、延々とビブリオバトルに出てきた本の説明だった。
選んだ本のどこが面白いか。
誰がどういう発表をしたか。
どの本を次に読むべきか。
最後に付け足すように書かれた文を読んでルシウスは目眩がした。
『あ、今回ヴォルたんもビブリオバトルに参加してましたが、ハリーがいなかったので平和に終わりました。良かったです』
ルシウスはドラコの手紙とローゼマインの手紙を左右に並べ、しばらく交互に眺めた。
「……この二人は、本当に同じ場所にいたのか?」
「楽しそうでいいじゃない」
「ドラコの手紙からは楽しさを一切感じない」
むしろ、紙そのものから疲労が滲んでいるようだった。
「誰か、よく効く胃痛薬を持ってこい」
思わず呟いた。
すると。
すっ、と。
目の前に巨大な瓶が差し出された。
「どうぞ、旦那様」
「ああ、お前か──」
ルシウスは受け取ろうとして、その手を止めた。
瓶を見る。
見覚えのある細い腕を見る。
丸い目を見る。
「……ドビー?」
「はい、旦那様」
「生きていたのか!?」
思わず声を上げた。
ナルシッサは紅茶を置きながら、「あら」とだけ言った。
ドビーは胸を張った。
「ドビーは、旦那様の命令を守っておりました!」
「何の命令だ」
「闇の帝王のもとで、赤ちゃんのお世話をするように、と!」
そうだった。
デルフィーとパーヴォ。
あまりに状況が混乱していた時期、ドビーへ任せたことを完全に忘れていた。
「ドビーは毎日、おむつを替え、ミルクを作り、泣けば抱っこし、闇の帝王が怒鳴れば別室へ避難させ──」
「待て」
情報量が多すぎる。
「なぜ戻ってきた」
「報告した方がよいと思いました!」
「……よくやった」
ルシウスがそう言うと、ドビーの耳がぴんと立った。
「旦那様がドビーを褒めた! あの旦那様が!」
「そこまで驚くな」
少し傷つく。
「それで、何があった」
ドビーの表情が、すぐに真剣なものへ変わった。
「例のあの人は、デルフィー様を殺そうとしました」
ルシウスの手から胃薬の瓶が滑りかけた。
「何?」
「でも、失敗しました!」
「どうしてだ」
「なんとかの杖の継承者が、デルフィー様だったと気づいたそうです! 何の杖かまではドビーには分かりませんでした」
ルシウスは黙った。
また、自分の知らないところで、とんでもないことが起きている気がする。
「それで?」
「最終的には決闘して、デルフィー様から継承権を奪いました!」
「……それは」
かなりまずいのではないか。
いや、かなりどころではない。
ルシウスは即座にポケグリを開いた。
こういう話を相談できる相手は、残念ながら一人しかいなかった。
数回の呼び出しのあと、画面にグリンデルバルドが映る。
「何だ」
「闇の帝王の杖についてだ」
事情を説明する。
グリンデルバルドはしばらく黙っていたが、やがて口元に不敵な笑みを浮かべた。
「つまり」
ゆっくり身を乗り出す。
「今はトム・リドルが、正式なニワトコの杖の継承者になったということか」
ルシウスは顔をしかめた。
「その呼び方をするな」
「なぜ?」
「あの人をその名で呼ぶなど──」
「今のホグワーツでは普通だ。一部では銀トムと呼ばれているぞ」
ルシウスは固まった。
「……何?」
「白銀卿だから銀トムだそうだ」
誰だ。
そんな命知らずな呼び名を考えたのは。
ホグワーツの生徒たちは、いつからそこまで恐怖心を失った。
「誰が広めた」
グリンデルバルドは、いかにも面白そうに答えた。
「魔法書研究会。つまりはお前の娘だ」
ルシウスは天井を仰いだ。
やはり。
なぜ。
どうして。
「どうしてあの娘は、こうも命知らずなのだ」
心から出た言葉だった。
ナルシッサは紅茶を飲みながら、特に驚いた様子もなく言った。
「いつものことじゃない」
「いつものことで済ませるな」
「でも実際そうでしょう?」
反論できないのが腹立たしい。
ルシウスは本気で、胃薬を水で割らずにそのまま飲みたくなった。
「どちらのトムも我が家には厄介すぎる」
疲れ切って吐き捨てるように言った。
「一人は闇の帝王。もう一人は娘の──」
「何だ?」
背後から声がした。
ルシウスは、非常にゆっくり振り返った。
若い男が立っている。
トム・リドル。
若い方。
よりによって、この瞬間に。
「……いつからそこに」
「どちらのトムも厄介だ、あたりから」
最悪だった。
「誤解だ」
「どこを?」
「その、厄介というのは──」
「わざわざ否定しなくていいよ」
トムは肩をすくめただけだった。
意外にも怒っていない。
それどころか、よく見るとひどく疲れている。
ローブの裾には埃がつき、いつものような余裕がない。
「どうした」
ルシウスが尋ねる。
「ホグワーツをクビになった」
「……何をした」
「僕が人間になったことがバレたんだ」
「それでこれからどうするんだ?」
ルシウスは、聞きたくないという気持ちを押し殺しながら尋ねた。
トムは迷わず答える。
「不死鳥の騎士団を全員集めてほしい」
ルシウスは眉を寄せた。
「全員というのは、聞き間違いではないだろうな?」
「ああ」
「何のために」
トムの表情から、わずかに残っていた軽さが消えた。
「準備が必要だ」
「何の」
聞きたくなかった。
本当は、ここで話を終わらせてほしかった。
だが、聞かないわけにもいかない。
トムは静かに言った。
「ホグワーツに戦争を仕掛ける」
ルシウスは、しばらく動かなかった。
暖炉の薪が、ぱちんと爆ぜる。
ナルシッサは落ち着いた様子で紅茶を口へ運び、ドビーはまだ巨大な胃薬の瓶を抱えている。
ルシウスはその瓶へ手を伸ばした。
「……それを貸せ」
「旦那様、さっきより多めに飲みますか?」
「ああ」
今日はもう、用量などどうでもよかった。