本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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16話 決闘クラブ

 

 スリザリン寮の奥、昔は浴室だったらしい物置の壁にある蛇の刻印を、蛇語でそっと開ける。

 その先には長い石の管があり、さらにその先に、サラザール・スリザリンの秘された遺産──であるはずの空間がある。

 あるのだが、最近のその空間はだいぶ様子がおかしかった。

 部屋にはまだ本が入っていない棚が次々に並べられている。

 

「地下書庫今年中にできそうじゃない?」

「その呼び方をやめろ」

 壁際で棚板を浮かせながら、トムが嫌そうに言う。

 

「秘密の部屋だ」

「でも書庫になる予定だよ」

「予定の段階で既に冒涜なんだよ、君は」

 

 口ではそう言いながら、実体化したトム・リドルは本棚作りを手伝っていた。

 手伝っている、というより、ほぼ主力だった。

 わたしは並べ方を考え、時々アルドゥスにごはんをあげた。一年生が習った呪文では本棚の設置を全てやるのは難しい。本棚を組み立てるのは最終的に私が貸した杖でトムが全部やった。トムは文句を言いながら棚板を浮かせ、板をくっつけると本棚の出来上がりというわけだ。

 どう考えても、だいぶ協力している。

 

「そこ、もうちょっと左」

「命令するな」

「……お願い」

「今の間で十分腹が立った」

 

 言いながら棚板は素直に左へ寄る。

 この人は本当に、口と行動が一致しない。

 アルドゥスは少し離れた場所でとぐろを巻き、こちらを見ていた。巨大な蛇という時点でだいぶ怖いはずなのに、最近では「お腹が空くと機嫌が悪くなる大きな生き物」という認識になりつつあって、我ながらよくないと思う。

 

「アルドゥス、おとなしくしててね」

 

 わたしが言うと、アルドゥスはのっそりと頭を持ち上げた。目隠しの布の上からでも、じっと見られている感じはする。

 

『腹が減った。肉』

『今日のご飯だよ』

『足りない。噛む』

『うん、お腹すいたんだね』

 

 トムが鼻で笑う。

 

「なんで笑うの?」

「いや。マイン、君にはなんて聞こえているんだ」

「腹が減った。肉。ほしい。足りん、噛む?」

 

「君はそのままでいてくれ」

 

 トムはぐっと笑いをこらえている顔をしていた。

 

 もしかしてわたしちゃんと聞き取れてない? 

 

「トムはどうやって蛇語を勉強したの?」

「最初から使えた」

 

 トムがいうには、スリザリンの血をひいていると蛇語を生まれながらに使えるようになるらしい。

 ずるいよ! 

 

「君は甘やかしすぎだ。僕のときはもっと言うことを聞いた」

「空腹の生き物を放っておくのはかわいそうだよ」

「その理屈でバジリスクを飼育するな」

「飼育じゃないよ、最初から住み着いてただけで」

「名前があって呼ぶと来る時点でほぼアウトだ」

 

 理不尽である。

 そんなふうに秘密の部屋へ通うようになって数日経った頃、わたしはふと思った。

 そういえば、最近マートルに全然会っていない。

 秘密の部屋を見つけてからこっち、出入りはもっぱら寮側の入口を使っていた。だから女子トイレの方へ行く機会が減っていたのだ。久しぶりに嘆きのマートルのところへ顔を出そうと思い立ったのは、ただの気まぐれだった。

 

 女子トイレの扉を開けた瞬間、わたしはちょっとだけ目を丸くした。

 

「えっ」

 

 中から、ハーマイオニーが飛び出してきたのである。

 しかも様子がおかしい。

 いつものぴしっとした感じではなく、どこか慌てていて、腕に抱えた袋をぎゅっと押さえ込んでいる。わたしと目が合った瞬間、彼女は露骨に固まった。

 

「ハーマイオニー?」

「マ、マルフォイ……」

 

 マルフォイと言われて首を傾げる。いつもはマインと呼ぶのに。

 

「どうしたの?」

「どうもしてないわ」

「そう?」

「そうよ」

 

 どう見ても何か隠していた。

 

 でも、わたしがさらに何か言う前に、ハーマイオニーは「急いでるの」とだけ言って、ほとんど逃げるように出ていってしまった。ローブの裾がばさっと揺れて、扉が閉まる。

 しばらくしてから、個室の奥の方で恨めしそうな声がした。

 

「……また来てたわ」

 

 マートルだった。

 便器の上にふよふよ浮かびながら、いつも以上に浮かない顔をしている。いや、もともと浮かないのが標準装備みたいな幽霊ではあるけれど、今日はさらに不機嫌そうだった。

 

「久しぶり」

「久しぶりよ。あなた、最近ちっとも来ないじゃない」

「ごめん。ちょっと忙しくて」

「忙しいなんて変ね」

「ひどいなあ」

 

 でもちょっと正しい。

 わたしは洗面台に近づいて、そっと声をひそめた。

 

「今の、ハーマイオニーだったよね」

 

 マートルは鼻を鳴らした。

 

「最近、あの子、よく来るのよ。鍋だの瓶だの持ち込んで、ぶつぶつぶつぶつ。トイレは泣くための場所であって、変なものを煮る場所じゃないのに」

 

 その主張もだいぶ独特だった。

 

「煮てるの?」

「そう。すごく嫌な匂いがする時もあるのよ。しかも秘密を隠している顔をしてるの。あたしのトイレには似合わないわ」

 

 いや、ここわりと秘密に満ちた場所だと思うけど。

 でも、なるほどと思った。

 あの慌て方も、袋の中身も、たしかにただの用足しではなさそうだった。

 

「へえ」

「何よ、そのへえは」

「ほかにも使う人がいるなんて珍しいなと思って」

「そうなのよ」

 

 マートルは唇を尖らせる。

 

「ここを使う子なんて滅多にいないのに。最近は、来る子がみんな何か隠してる顔をしてるのよね」

 

 

 それを言われて、わたしはちょっとだけ視線を逸らした。

 うん。

 それについては、あまり人のことを言えない気がする。

 マートルまで浮かない顔でそんなことを言うのは、少しだけ不思議だった。ホグワーツに変なことは多いけれど、「ほかにも使う人がいる」だけでここまで言うのは珍しい。

 まあ、ホグワーツだし。

 秘密の一つや二つ、あってもおかしくない。

 

 しばらく経って、スリザリンとグリフィンドールのクィディッチの試合があった。ドラコにせがまれてわたしは応援しにいった。

 わたしが応援しないとドラコは絶対に拗ねるからだ。

 ドラコも箒に乗っていたし、周囲はものすごく盛り上がっていた。歓声が飛び、風が切り、実況はうるさく、たまに何が起きているのか分からないくらい速かった。すごいとは思う。危ないとも思う。でもあれに自分から乗りたいかと言われたら、全力で遠慮したい。

 なんなら途中でふと思った。

 試合をみるより『クィディッチ今昔』を読む方が好きかもしれない。

 いや、試合は試合で迫力がある。あるけれど、競技規則の成立過程とか、昔のほうきの形状の変遷とか、ファウルの歴史とか、そういうものの方がわたしにはずっと面白い。目の前の試合より、手元の本の方が百倍面白いというのは、たぶんわたしに問題があるのではなく、本が強すぎるのだと思う。

 試合は結局、スリザリンが負けた。

 帰り道、わたしは図書館で借りていた『クィディッチ今昔』を抱えながら、しみじみ思った。

 

「やっぱり、この本の方が百倍面白いなあ」

「お前なあ」

 

 ドラコが試合に負けた時より嫌そうな声を出した。

 

「ごめん、いたの気づかなかった」

「僕が負けた直後に言うな」

「でも、ほうきの発達史とか、競技規則の変遷とか、昔の反則一覧とか、すごく面白いよ」

「聞いてない!」

「え、ファウルの種類、興味ない?」

「今はない!」

 

 ものすごく怒られた。

 でも正直、試合を見るよりクィディッチという競技がどうできたか読む方がわたしにはずっと面白いと感じた。これはもう仕方がない。本が面白すぎるのが悪い。

 

 

 

 *

 

 

 その貼り紙を見た瞬間、わたしは少しだけ期待した。

 

 決闘クラブ 本日八時 大広間

 

 決闘そのものには前から興味があった。魔法は本の中だけでも十分に美しいが、実際に人が使うところを見るのも面白い。

 

 夜の大広間は、机がすべて片づけられ、中央に細長い決闘台が組まれていた。いつもより広く見えるのに、なぜか落ち着かない。生徒たちはざわざわと集まり、みんな少し浮き足立っていた。決闘と聞いてわくわくしている子もいれば、完全に見物気分の子もいる。

 そして当然のように、ロックハート先生は大げさに登場した。

 わたしの期待は急にしぼんだ。

 

「皆さん!」

 

 金ぴかの笑顔で両腕を広げる。隣には、対照的にもほどがある顔でスネイプ先生が立っていた。

 

 ロックハート先生の話は長かった。決闘とは何か、いかに自分が経験豊富であるか、いかに自分が皆を守れるか。途中からだいぶ自伝になっていたが、先生本人だけは気づいていなかったらしい。

 その後、見本としてスネイプ先生と向かい合った瞬間、話の説得力はほぼ消えた。

 

「一、二、三!」

「エクスペリアームス!」

 

 次の瞬間には、ロックハート先生が台の端まで吹っ飛んでいた。

 うわあ、と思った。周囲もだいたい同じ顔をしていた。本人だけが「今のは見せ方でしてね」と立ち上がったが、誰も信じていなかった。

 そのまま進行は当然のようにスネイプ先生が奪った。

 

「二人一組になれ。相手を本気で傷つけるな。マルフォイ、ああ、兄の方だ。ポッターをどう捌くのか見せたまえ」

 

 ドラコがハリーを睨みつけていた。ハリーは露骨に嫌そうだった。この組み合わせは、先生の悪意があまりにも分かりやすい。

 スネイプ先生は名簿でも読むみたいに、淡々と組み合わせを決めていく。

 

「フィンチ=フレッチリー、ノット」

「トーマス、ブルストロード」

「グリーングラス、グレンジャー」

 

 呼ばれた瞬間、アストリアがほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。向かい側に立ったハーマイオニーは、スリザリン生を相手に露骨に警戒している。

 スネイプ先生の声が続く。

 

「──ロン・ウィーズリー、フィネガン」

「──パーキンソン、ベル」

 

 そして、そこで一瞬止まった。

 スネイプ先生の視線が、こちらへ向く。

 

「ミス・マルフォイは──」

 

 その一言で、近くにいた生徒たちの空気が妙に固まった。

 そして、すぐに分かった。

 みんな、目を逸らした。

 ものすごく分かりやすく。

 スネイプ先生が右を見ても、逸らされる。

 左を見ても、逸らされる。

 前の子なんて、わざわざ一歩下がった。

 ちょっと待ってほしい。

 わたしはそんなに危険物扱いされるようなことをしただろうか。

 ……いや、したかもしれない。心当たりがないではない。

 でも、それはそれとして心外である。

 スネイプ先生は周囲をゆっくり見渡した。

 あれは絶対、分かっていて楽しんでいる目だ。

 

「ふむ」

 

 短く鼻を鳴らしてから、先生はグリフィンドールの方へ視線を向けた。

 

「ジニー・ウィーズリーでいいだろう」

「えっ」

 

 ジニーがびくっと肩を揺らす。

 スネイプ先生は何でもない顔で続けた。

 

「あの双子の妹なら、大抵のことには耐性があるはずだ」

「大抵のことって何ですか」  

 

 思わず聞いてしまった。

 

「君自身に聞いてみろ」

 

 ひどい。

 でも先生の顔を見る限り、冗談ではないらしい。

 ジニーは明らかに「どうしてわたしが」という顔をしていたが、スネイプ先生に逆らう勇気はなかったらしく、しぶしぶ出てきた。

 

 わたしは杖を握り直した。向かい側にジニーが立つ。赤毛が少し揺れて、顔は緊張でこわばっている。たぶん向こうから見ても、わたしはたいへん頼りなく見えるだろう。小さいし。これは遺憾だが事実である。

 けれど、ジニーはわたしの顔を見て、思っていたより真っ直ぐに立った。

 

「よろしく」  

 

 わたしが小声で言うと、ジニーは一瞬だけ目を丸くした。

 

「……よろしく」

 

 思ったより普通の返事だった。

 礼をする。杖を構える。向こうでは、ハリーとドラコも向かい合っていた。

 

「始め!」

 

 ジニーの方が先に動いた。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光が飛ぶ。思ったより速い、と思った瞬間には、身体の方が先に動いていた。

 水滴とか、加減とか、そういう上等な話を考える余裕はなかった。

 

「プロテゴ!」

 

 次の瞬間、空気がばしんと鳴った。

 透明な盾が広がる。

 いや、広がりすぎた。

 目の前だけ守るつもりだったのに、盾は周囲をあっさり越え、そのまま半球みたいにぶわっと膨らんだ。

 ジニーの呪文を弾き返しただけでは済まない。

 まず、ジニー本人が「きゃっ」と声を上げて尻もちをつく。

 そのさらに向こうで、闘っていた一年生二人が「うわっ」と後ろに弾き飛ばされた。

 ロックハート先生の紫色のローブの裾までふわっと持ち上がって、先生本人が「おおっ」とよく分からない声を出す。

 小さなどよめきが起きる。たぶん「小さいマルフォイが案外ちゃんとやる」的などよめきだ。腹は立つが、結果としては悪くない。

 ジニーは悔しそうに唇を噛んだが、泣きはしなかった。わたしは転がった杖を拾い、彼女へ差し出した。

 

「はい」

「……ありがとう」

 

 

 押し返された何人かも体勢を立て直した頃、反対側ではもう別の組の勝負がついていた。

 アストリアが落ちた杖を拾い上げている。

 向かいには耳まで赤くしたハーマイオニー。

 どうやら、アストリアが勝ったらしい。意外な結果だった。

 アストリアは丁寧な手つきで杖を差し出した。

 

「どうぞ」

「……ありがとう」

 

 ハーマイオニーは悔しそうだったけれど、泣きはしなかったし、言い訳もしなかった。

 そこはえらい。

 アストリアはいつものように柔らかく笑う。

 

「マインが、あなたのことをよく話すんです」

「え?」

 

 ハーマイオニーが一瞬だけ面食らう。

 

「わたしの?」

「ええ。本が好きな方だって。今度、魔法史の話だけしませんか? 私歴史がとても好きなんです」

 

 少しだけ首をかしげて、アストリアは続けた。

 

「決闘なしで」

 

 ハーマイオニーはまだ少し警戒した顔のまま、杖を受け取った。

 

「……考えておくわ」

 

 そのやり取りが妙にまっすぐで、わたしは少しだけ面白くなった。

 仲良くなりそうというより、たぶんこの二人はしばらくお互いを気にする。そういう感じだった。

 その瞬間だった。

 

「サーペンソーティア!」

 

 ドラコの声が響く。

 続いて、床板を擦るような音。

 振り向くと、ハリーの前に長い蛇が現れていた。

 

「きゃっ」

「蛇だ!」

「下がれ!」

 

 一気に場が乱れる。

 蛇は頭をもたげ、まっすぐハリーを見ていた。ロックハート先生が慌てて何か呪文を飛ばしたが、見事に外した。そこは当ててほしかった。

 蛇がさらに鎌首をもたげる。

 その時、ハリーが前へ出た。

 そして、言った。

 その音を聞いた瞬間、わたしの背筋を冷たいものが走った。

 しゅる、と擦れるような響き。舌の先で空気を裂く、あの妙な音。

 

 蛇語だ。

 ハリーは、蛇に向かってはっきりと言った。

 

『やめろ。下がれ!』

 

 蛇はぴたりと止まった。

 でも周囲は、止まらなかった。

 

「今の何?」

「ポッターが蛇に……」

「命令したのか?」

「気味悪い……」

 

 違う。命令というより、制止だった。

 少なくともわたしにはそう聞こえた。

 けれど、そこで「いや今のはやめろって言っただけだよ」と言い出せるほど、わたしも勇敢ではない。何より、その瞬間に「どうして君には分かるの?」と聞かれたら大変困る。

 ハリー自身も、周囲の反応が予想外だったらしく戸惑っていた。

 最後はスネイプ先生が前へ出て蛇を消した。場は収まったが、空気は収まらなかった。

 それどころか、生徒たちの視線が一斉にハリーへ集まっていた。さっきまで「有名人のハリー・ポッター」だったものが、今は「スリザリンの継承者」に変わっている。あの一瞬の空気はあまり気持ちのいいものではなかった。

 ふと、トムが言っていたことを思い出す。

 スリザリンの血をひいていると蛇語が使えるという話だ。

 ということは、ハリー・ポッターもスリザリンの子孫なのだろうか。

 

 

 

 *

 

 

 

 

「今日、ロックハート先生主催の決闘クラブがあったの」

 

 秘密の部屋で作業している時にトムに話しかける。

 

「ロックハートの見世物か」

 

 ロックハート先生への理解度が高すぎる。

 

「うん。だいたい合ってる」

「それで?」

「ジニーとわたしが組まされて、わたしは勝った」

「それはそうなるだろうね」

 

 さらっと言われてちょっと嬉しくなる。

 わたしが棚の寸法を見ていると、トムは次の板を持ち上げたまま言う。

 

「出力は?」

「飛ばしすぎなかった」

「なら上出来だ」

 

 その一言は短かったけれど、わりとちゃんと褒められた気がした。本当はちょっと強めに盾の呪文を使ったが、言わなければバレないだろう。

 

「そのあと、ハリーとドラコが戦ったの。ハリーっていうのはハリー・ポッターっていうドラコのライバルみたいなグリフィンドールの男の子ね」

「ほう」

 

 わたしは棚板の端を押さえたまま、息を吐く。

 

「ドラコが蛇を出して、みんな大騒ぎになって──」

「蛇?」

「ハリーが、蛇語を話した」

 

 その瞬間、棚板がぴたりと止まった。

 落ちはしない。でも、明らかに一瞬止まった。

 トムは何でもない顔をしていた。少なくとも、しているつもりだった。でも、動きは嘘をつけない。

 

「トム?」

「続けたまえ」

 

 彼は何事もなかったように棚板を動かし直した。

 

「わたしにはやめろって言ってたのが分かった。でもみんなは襲うようにしかけているって思ったみたい」

「……なるほど」

 

 トムは今度こそ手を止めずに答えた。

 

「ハリー・ポッターはスリザリンの遠い親戚なのかな?」

「どこかで遠く繋がっているのかもしれないね」

 

 あまりにもさらりと言うから、意外だった。

 トムは絶対にスリザリンの血をひいていることを特別視していると思ったのに。

 

「ハリーがスリザリンの遠い親戚だったら、ひ孫とかってこと? ちょっと面白いね」

 

 わたしがそう言うと、トムは棚板を浮かせたまま鼻で笑った。

 

「君の“面白い”はたいてい碌でもないな」

「でも、ハリー・ポッターは“例のあの人”を倒したのに、実はスリザリンの末裔かもしれないなんて、お兄さまが聞いたら腰を抜かしそう」

「“例のあの人”とは、誰のことだい?」

 

 わたしは思わず目を瞬いた。

 

「えっ」

「何だ」

「そこから?」

「知らないものを、知っている前提で話されても困るな」

 

 妙に真面目な返しだった。わたしは少しだけ姿勢を正した。

 言われてみれば、トムが生きていたのは50年前。例のあの人はもう少し後の時代に出てきた人だ。少なくともトムの記憶の時点ではまだ出てきていないようだ。

 

「小さい頃からお父さまやお母さまに名前を言ってはいけないと言われてて、ついその言い方しちゃった」

「なるほど。では改めて聞こう」

 

 トムは実に落ち着いた顔で、次の棚板を浮かせる。

 

「それは誰だい?」

「名前は言っちゃだめなんだよ。だから今回だけね」

 

 わたしは少しためらってから、はっきり言った。

 

「ヴォルデモート卿」

 

 こん、と小さな音がした。

 トムの指先から、持ち上がっていた棚板の片端がわずかにずれたのだ。床へ落ちるほどではない。

 

 わたしは黙ってその板を見上げた。トムもわたしを見ずに、しばらく棚板を見ていた。

 やがて彼は何事もなかったように手首を返し、板をゆっくり元の位置へ滑らせた。

 

「それは、どういう魔法使いなんだ?」

「ほんとに知らないの?」

「ああ」

 

 変だ。でも、嘘をついている感じとも少し違った。

 

「ええと……ハリー・ポッターの両親を殺した、闇の魔法使い」

「……ほう」

「で、ハリーも赤ちゃんの時に殺されそうになったんだけど、なぜか失敗して」

「失敗した?」

「うん。それでヴォルデモートは消えて、ハリーは生き残ったの。だからハリー・ポッターは有名人ってわけ」

 

 トムは棚板を固定するふりをしながら、少し低い声で言った。

 

「そのヴォルデモートという魔法使いは、死んだのかい?」

「たぶん?」

 

 わたしは首をかしげる。

 

「そこはちょっと曖昧かも。死んだっていう人もいるし、消えたっていう人もいるし。でも、少なくとも今はいないことになってる」

「……なるほど」

 

 短い返事だった。短いのに、妙に重かった。

 

「それで?」

 

 トムは次の棚板へ手を伸ばす。

 

「そのヴォルデモートを倒した男の子が、スリザリンの血を引いているかもしれない、と君は考えたわけか」

「うん。トムも前に言ってたよね」

「可能性としてはなくもない」

 

 トムは淡々と棚板をはめ込んだ。

 

「魔法界の家系図なんて、見た目ほど綺麗に分かれてはいない。古い血は案外、思わぬところに残るものさ」

 

 もっともらしい。でも、納得しきれるほどすっきりもしていない。

 

「……変だよね」

「何が?」

「ハリーは蛇に“やめろ”って言ってたのに、みんな、なんかもっと怖いことみたいに受け取ってた」

「彼らには分からなかったんだろう」

 

 わたしは少し黙った。

 分からないものを、人は勝手に怖がる。それは知っている。でも、だからといって、あの場の空気はあんまり気持ちのいいものじゃなかった。

 

「ハリーがちょっとかわいそうかも」

「君はずいぶん優しいけど、いいのかい? お兄様のライバルなんだろう?」

「向こうはどう思ってるんだろうね」

 トムはそう言って、組み上がった棚を一歩下がって眺めた。横顔はいつも通り整っているのに、なぜだか今夜は少しだけ静かだった。

 

「トム?」

「何でもないよ」

「ほんとに?」

「本当さ。ただ、少し興味深いと思っただけだ」

 

 それはたぶん本当だった。でも、言っていること全部ではない気がした。

 

 そのあと、わたしたちはしばらく無言で棚を組み立てた。棚板が浮き、金具がはまり、空っぽの本棚が一つずつ壁際に並んでいく。

 でも、わたしの頭の隅には残り続けていた。

 例のあの人の名前を聞いた時の反応。

 あれは、本当にただの「知らない名前」だったのだろうか。

 できあがったばかりの本棚を見上げながら、わたしはこっそりそう思った。

 

 トムは最後の棚板をはめるふりをしながら、わたしに見えない角度でほんの一瞬だけ、ひどく考え込むような顔をしていた。

 

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