不死鳥の騎士団の会議は、始まって二十分が経っても、結論らしい結論に辿り着いていなかった。
「だから、今行くべきだと言ってるんだ!」
シリウス・ブラックが長机へ手をつき、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「ヴォ──あー、やつはもうホグワーツにいる。ハリーもいる。マインもドラコも、何百人って生徒が中にいるんだぞ。何か起きてから動いたって遅い」
「何か起きる前にこちらから戦闘を始めれば、もっと悪い結果になる可能性がある」
キングズリーは椅子へ深く腰掛けたまま、低い声で返した。
「こちらが把握しているのは、あの人が学校を支配しているということだけだ。死喰い人の人数も、生徒がどこまで自由に動けているのかも分かっていない。そんな状態で騎士団を送り込むのは救出ではない。あちらに攻撃の理由を与えるようなものだ」
「だから何だ」
シリウスは引かなかった。
「俺は戦争になってもいい」
「止めろ、シリウス。冷静になれ」
ルーピンが疲れたように言った。
トムは暖炉の脇に立ち、腕を組みながら三人のやり取りを聞いていた。
慎重論に理がないとは思わない。
キングズリーの言う通り、こちらには情報が足りない。ホグワーツへ入った瞬間にヴォルデモート側がどう動くのか分からず、最悪の場合、生徒たちそのものを盾に使われる可能性もある。
それでも、トムは待つという結論には賛成できなかった。
「僕はシリウスに賛成だ」
そう言うと、キングズリーが顔を上げた。
「お前までか」
「何も知らないから動かない、というのは一見慎重に見える。だが、その間も向こうは動いている」
トムは机へ歩み寄った。
「あの男は学校を押さえた。教師を入れ替え、授業まで自分の都合のいいように変えている。時間を与えれば与えるほど、向こうに準備する余裕を与えるだけだ」
「だからといって、今日である必要はない」
「では明日なら何が増える?」
「情報だ」
「誰が持ってくる」
キングズリーがわずかに眉を寄せた。
「……スネイプと連絡を取っている」
「あいつがまだ味方だって言うのか?」
今度はシリウスが口を挟んだ。
「ダンブルドアの遺体を運んできた! 味方だ」
「あのスニベルスを信じてハリーが捕まったらどうする。マインが狙われたら? 生徒が一人でも拷問されたあとで、『慎重に情報を集めていたけど信じる相手を間違えた』とでも説明するのか?」
「シリウス!」
「何だよ」
「感情だけで決めるな」
「俺は間違ってない!」
シリウスは一度言葉を切り、さっきより低い声で続けた。
「ああ、たしかに感情で言ってる。でも、それの何が悪い。ハリーが心配なんだ」
トムは横目でシリウスを見た。
理由は違う。
シリウスはハリーのために急いでいる。
トムは、ヴォルデモートに主導権を握られたまま時間を与えること自体が危険だと考えている。
だが、行き着く結論は同じだった。
「今動くべきだ」
トムが言うと、ルーピンが息を吐いた。
「二人とも、肝心な問題を無視している」
「何だ」
「どうやってホグワーツへ入る?」
シリウスが一瞬黙った。
「ホグズミードに秘密の通路がある」
「死喰い人が知らないと思うか?」
「じゃあ箒で行けばいい」
「不死鳥の騎士団が集団で城へ飛んでいくのか?」
「夜なら──」
「見張りがいない保証はない」
「姿くらまし」
「敷地内には入れない」
「ポートキー」
「城内まで届く保証は?」
シリウスの顔が険しくなっていく。
トムも黙っていた。
ここが一番厄介だった。
行くべきだと思っている。
だが、入り方がない。
正門を破れば戦闘になる。
秘密の通路は監視されている可能性が高く、箒では目立つ。数人ならともかく、不死鳥の騎士団をまとめて送り込む手段がない。
「だから今ではないと言っている」
キングズリーが静かに言った。
「方法を用意してからだ」
シリウスは何か言い返そうとしたが、今度ばかりは言葉が出てこなかった。
ルーピンが地図を広げ、ホグズミード側から入れる経路をひとつずつ確認し始める。トムも覗き込んだが、どれも決め手に欠けた。
誰かが新しい案を出しては問題点が見つかり、話がまた最初へ戻る。
その繰り返しだった。
扉が開いたのは、そのときだった。
「ちょっといいですか」
全員が振り返った。
ハーマイオニー・グレンジャーがクルックシャンクスを抱えて立っていた。クルックシャンクスは耳型の奇妙なものを咥えている。
「ハーマイオニー」
ルーピンが驚いた顔をした。
「今は騎士団の会議だ」
「知ってます」
「子どもは入ってくるな」
キングズリーの言い方は厳しかったが、追い払うというより危険から遠ざけようとしているのだとトムには分かった。
ハーマイオニーにも分かったのだろう。
それでも、彼女は出ていかなかった。
「私、もう子どもだからって守られて待っているつもりはありません」
声を荒らげたわけではない。
それなのに、部屋の全員が黙った。
ハーマイオニーは一歩だけ部屋へ入り、ポケグリを持ち上げた。
「ロンとずっと連絡を取っています。今も」
ページには短い文章が浮かんでいた。
『まだ会議してる?』
シリウスが思わず眉を上げる。
「それで? 何を言いに来た?」
「これだけじゃありません」
ハーマイオニーはもう片方の手をポケットから出した。
掌に、小さな銀色の灯消しライターが載っている。
トムはハッと息を呑んだ。
「ダンブルドア先生が、私に残したものです」
ハーマイオニーは指先で銀色の蓋をなぞった。
「この灯消しライターは、離れたところにいる人の呼びかけで私をその人の場所に運びます」
ルーピンの表情が変わった。
「まさか」
「ロンは今、ホグワーツにいます」
ハーマイオニーはポケグリと灯消しライターを並べて見せた。
「ロンに私の名前を呼んでもらえば、前と同じ魔法が働けば、ホグワーツまで行けます」
「君一人が、だろう」
キングズリーが慎重に確認する。
「私に触れていれば他の人も一緒に移動できる可能性があります。少なくとも、ここで入れない理由を並べているよりは試す価値があると思います!」
「ある」
シリウスが即答した。
「やろう」
トムは銀色の灯消しライターを見つめていた。
「試す価値はある」
トムが言うと、ハーマイオニーがこちらを見る。
「正門を破るよりましだ」
トムがにやりと笑うと、ハーマイオニーも少し笑った。
「比較対象がおかしい」
キングズリーはまだ難しい顔をしていた。
「グレンジャー。これは君たちを危険から遠ざけるための会議でもある」
ハーマイオニーの表情から、わずかに苛立ちが消えた。
その言葉が心配から出たものだと理解したのだろう。
けれど、引かなかった。
「分かっています」
灯消しライターを握り直す。
「でも、ホグワーツは私の学校でもあります」
静かな声だった。
「マグル生まれだからって、いつまでも魔法界に入れてもらった側みたいに扱われるつもりはありません。私はあそこで魔法を覚えました。友達ができて、自分が魔女だって知って、ここまで来たんです」
誰も口を挟まなかった。
「今、その学校を『お前たちの居場所じゃない』って言う人たちに奪われてる」
ハーマイオニーはキングズリーをまっすぐ見た。
「私にホグワーツを取り戻させてください」
トムは少しだけ目を細めた。
それは、ダンブルドアが彼女に灯消しライターを残した理由なのかもしれない。
生まれた家が魔法使いかどうかなど関係なく、必要なときに自分で道を見つける。
ハーマイオニー・グレンジャーは、最初からそういう魔女だった。
長い沈黙の代わりに、キングズリーがゆっくり息を吐いた。
「……方法を説明してくれ」
ハーマイオニーが説明しようと、ポケグリを開いた、そのときだった。
『ハーマイオニー』
ページにロンの顔が現れた。
『ちょっと待って、まずいことになった』
ハーマイオニーの表情が変わった。
「何かあったの?」
『魔法書研究会のページ見て。ルーファスがずっと書いてる。マインとルーファスが襲われてるみたいだ!』
「襲われてるだって?!」
シリウスが真っ先に反応し、ハーマイオニーの手元を覗き込もうとした。
「誰に?」
「待ってください。ロンも詳しくは分からないみたいです」
ハーマイオニーはページを操作しながら顔を上げた。
「魔法書研究会の共有ページで、ルーファス・スクリムジョール・ジュニアが現場のことを書き続けているみたいです」
「僕にも見せて」
トムが言った。
「参加してないでしょう?」
「招待しろ」
ハーマイオニーが一瞬だけこちらを見たものの、反論せずにポケグリを操作した。
すぐに、トムのポケットで自分のポケグリが震える。
『ハーマイオニー・グレンジャーから魔法書研究会のページに招待されました』
その文字を見て、トムは眉をひそめた。
自分が魔法書研究会へ参加する日が来るとは思っていなかった。
マインに知られれば、さぞ喜ぶだろう。
そんな場合ではなかった。
共有ページを開くと、そこには尋常ではない量の書き込みが並んでいた。
『マダム・ピンスがおかしい』
『たぶん本物じゃない』
『マイン先輩が真実薬飲まされてた!』
『マダム・ピンスはバーティ・クラウチ・ジュニア』
トムの指が止まった。
「バーティ・クラウチ・ジュニアだと?」
その名前を聞いたキングズリーが立ち上がる。
書き込みはまだ続いている。
『ロックハート先生も来た』
『白銀卿に言われてマイン先輩の大切な記憶を消すって』
『家族が大切だって言わせた』
『忘却呪文撃った』
『止められた! でもなんか変な当たり方した』
文章は整っていなかった。
句読点さえほとんどなく、起きたことを片端から書き込んでいるだけだ。それでも、現場で何が起きたのかを理解するには十分だった。
「……もう起きているじゃないか」
シリウスが低く言った。
さっきまでとは違い、誰も彼を止めなかった。
キングズリーはポケグリの画面をじっと見つめ、ルーピンも厳しい表情をしている。
トムはさらにページを遡った。
ローゼマインが真実薬を飲まされた。
ロックハートに忘却呪文を受けた。
バーティ・クラウチ・ジュニアがいる。
その三つだけで十分だった。
「今すぐに行く」
トムが言った。
「異論は?」
キングズリーは数秒黙ったあと、首を横に振った。
「ない」
ルーピンも頷いた。
「もう待つ理由がない」
「最初からそう言ってる」
シリウスはすでに杖を抜いていた。
「ハーマイオニー、どうするんだ?」
「まず、ロンに私の名前を呼んでもらわないといけないんです」
ハーマイオニーは再びポケグリへ向き直った。
「ロン、私の名前を呼んで」
すぐに返事が来た。
『え?』
「声に出して。ハーマイオニーって呼んで」
しばらく文字が現れない。
ハーマイオニーの眉間に皺が寄った。
「早く!」
『いやなんか改めて言われると恥ずかしいんだけど』
シリウスが画面を覗き込み、やれやれとため息をついた。
「今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
ハーマイオニーがポケグリに向かって怒鳴った。
「マインが襲われてるんでしょう!? 早く呼んで!」
『分かったよ!』
数秒後、ハーマイオニーの手の中で灯消しライターが小さく光った。
蓋が勝手に開く。
青白い光がひとつ飛び出し、ふわりと彼女の顔の前まで浮かび上がった。
ハーマイオニーが息を止める。
光の奥から、遠く離れた声が聞こえた。
『……ハーマイオニー』
ロンだった。
やけに小さい。
「もっとちゃんと呼びなさいよ」
ハーマイオニーが呟く。
もう一度、声がした。
『ハーマイオニー!』
今度ははっきりしていた。
『ハーマイオニー、早く来い!』
青い光が大きく揺れ、ハーマイオニーの胸元へ吸い込まれた。
彼女の身体がわずかに前へ引かれる。
「来た」
トムはすぐに彼女の左手を取った。
反対側にはルーピンがつき、そこからキングズリー、シリウスへと手が繋がっていく。他の騎士団員たちも、肩や腕を掴んでひとまとまりになった。
「絶対に離さないでください」
ハーマイオニーが言う。
「離したらどうなる?」
シリウスが聞いた。
「知りません」
「どうするんだよ」
「試したことないって何度も言ったでしょう!」
次の瞬間、腹の底を強く引っ張られた。
足元から床が消え、身体が細い管の中へ無理やり吸い込まれていくような感覚に襲われる。姿くらましともポートキーとも違い、どこかへ飛ぶというより、遠くから伸びてきた糸に引き寄せられているようだった。
トムはハーマイオニーの手を離さなかった。
視界が暗転し、次に足の裏へ床の感触が戻ったとき、赤と金の色が目に飛び込んできた。
グリフィンドール寮の談話室だった。
「うわっ!」
目の前にいたロンが飛び退いた。
突然、ハーマイオニー一人どころか、不死鳥の騎士団がまとめて現れたのだから無理もない。
「なんでこんな大勢?」
「あなたが呼んだんでしょう!」
「君一人だと思ったんだよ!」
トムは二人を放って、すぐにポケグリを開いた。
「図書室だな?」
「待って、今またルーファスが──」
ロンが自分の端末を覗き込む。
その顔から、さっと血の気が引いた。
「何だ」
「……スネイプが」
トムのページにも、新しい文字が浮かんだ。
『白銀卿が来た』
『スネイプ先生と話してる』
『なんかハリー先輩のお母さんの話になった』
『スネイプ先生はハリー先輩のお母さんをずっと好きだったらしい! これはニュースですよね?!』
ルーファスの興奮したような文章を見て、トムはあきれてしまった。
スリザリンの新入生はいつの間にか羽ペン通信記者に染まってしまったらしい。
シリウスが横から画面を見て、目を見開いた。
「冗談だろ」
誰も答えない。
「スニベルスがリリーを?」
顔から、さっきまでの苛立ちとは別の感情が消えていく。
「あり得ない。あいつはリリーを穢れた血って呼んだんだぞ」
ルーピンも画面を見つめたまま黙っていた。
書き込みが更新された。
『バーティがハリー先輩に呪文撃った』
『スネイプ先生が庇った』
『当たった』
『やばい。血がすごい』
『スネイプ先生瀕死!』
「セブルスが危ない!」
ルーピンが声を上げた。
「図書室へ行くぞ!」
シリウスはもう談話室の出口へ向かっていた。
ロンも杖を掴む。
「僕も行く!」
「お前たちは──」
キングズリーが止めようとする。
「残れって言っても無駄です」
ハーマイオニーが即座に言った。
「時間がありません」
その判断には、トムも同意した。
「行くぞ」
肖像画の穴を抜け、廊下へ出る。
騎士団員たちが一斉に走り出すと、夜のホグワーツに足音が響いた。
トムは走りながらポケグリを確認した。
『まだ生きてる』
『ハリー先輩がそばにいる』
『ドラコ先輩が傷治そうとしてる』
『傷が閉じない』
『マイン先輩は本拾ってる』
トムは思わず眉を寄せた。
こんなときまで本なのか。
だが、次の書き込みを見て、その疑問は消えた。
『マイン先輩なんか変』
『ドラコ先輩のこと分かってないっぽい』
胃の奥が冷えた。
「急げ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
図書室の扉が見えたところで、トムは足を止めた。
扉の向こうから、何かが激しく砕ける音が聞こえた。
「伏せろ!」
キングズリーが叫んだ。
次の瞬間、図書室の扉が吹き飛んだ。
分厚い樫の扉が廊下を滑り、壁にぶつかって粉々になる。舞い上がった木片をルーピンが杖で払い落とした。
「ハリー!」
シリウスが真っ先に飛び込んだ。
トムもその後を追う。
図書室はひどい有様だった。
本棚の一部が崩れ、机も椅子も倒れている。床には何百冊もの本が散乱し、破れたページが雪のように舞っていた。
その中央に、ヴォルデモートが立っていた。
足元には黒いローブの男が倒れ、ハリーが必死にその傷口を押さえている。
セブルス・スネイプだった。
すぐそばではドラコが薬の入った鞄を引っかき回していた。
「ハリー!」
「シリウス!?」
顔を上げたハリーの額から血が流れていた。
「先生が! スネイプ先生が僕を庇って!」
「分かってる! 癪だが息子の恩人だ。今助ける!」
シリウスが駆け寄ろうとした、そのときだった。
「動くな」
ヴォルデモートが杖を向けた。
赤い閃光が走る。
「プロテゴ!」
キングズリーが前へ出て呪文を受け止めた。盾の呪文が砕け、衝撃で身体が後ろへ押し戻される。
「全員、散開しろ!」
騎士団員たちが左右に分かれた。
トムは杖を構えながら、ヴォルデモートを睨んだ。
「随分と派手にやっているじゃないか」
「トム」
ヴォルデモートの唇が歪んだ。
「やはり来たか」
「僕を待っていたのか?」
「いや。だが、自分のことは手に取るようにわかる。お前はセブルスの状況を見て、すぐにドラコに目を向けた」
ヴォルデモートの視線が、ドラコへ向かった。
「さあドラコ、賢者の石を渡せ」
ドラコの手が止まった。
ようやく鞄から取り出した赤い石を、慌てて握り込む。
「断る!」
「それは本来、私のものだ」
「僕とマインで作ったものだ!」
ヴォルデモートが杖を動かした。
トムはその動きを見逃さなかった。
「エクスペリアームス!」
二本の杖から放たれた呪文がぶつかり、机の上に積まれていた本が吹き飛んだ。
「ドラコ! 早く使え!」
トムが叫んだ。
「分かってる!」
ドラコはスネイプの傍らに膝をついた。
賢者の石でどうにか延命を試みているらしい。
だが、スネイプは目を開けなかった。
「先生! 聞こえますか!」
ハリーが呼びかける。
トムは彼らを庇う位置へ移動した。
「キングズリー、スネイプたちを頼む」
「お前は?」
「時間を稼ぐ」
「一人で相手をするつもりか?」
「助っ人は呼んである。それに」
トムは隣に並んだシリウスを見た。
「シリウスもいる。戦えるよね?」
「決まってるだろ!」
シリウスは悪態をつきながら杖を構えた。
ヴォルデモートは二人を眺め、愉快そうに笑った。
「不死鳥の騎士団か。懐かしい顔ぶれだ」
その背後で、金髪の男が動いた。
ギルデロイ・ロックハートだった。
「我が君! ここは一度、お引きになられた方がよろしいのでは? なにしろ、相手は大勢ですし、私どもの目的はすでに──」
「黙れ」
ロックハートは口を閉じた。
トムは眉をひそめた。
目的とは何のことだ?
そのとき、床に散らばった本を拾っている少女が目に入った。
「ローゼマイン!」
トムは思わず叫んだ。
彼女は少し離れた本棚のそばにいた。
制服は埃まみれで、頬には小さな切り傷がある。けれど、ひとまず大きな怪我はしていないようだった。
トムは駆け寄ろうとした。
「近づかないでください!」
ローゼマインが叫んだ。
足が止まる。
彼女はトムではなく、その背後を指さしていた。
「そこにいる人、ロックハート先生も仲間です! マダム・ピンスに化けていた人と一緒に、わたしに変な薬を飲ませたんです!」
ロックハートがぎくりとした。
「変な薬とは失礼な! あれは非常に貴重な──」
「真実薬でしょう」
ハーマイオニーが口を挟んだ。
「そのあと、忘却呪文を使ったんですね?」
「いや、その、事情がありまして……」
「事情?」
トムはロックハートを見た。
「ローゼマインに何をした?」
ロックハートは助けを求めるようにヴォルデモートを見た。
ヴォルデモートは答えず、少女へ視線を向けた。
「ローゼマイン」
彼女が顔を上げた。
「そこの男を知っているか?」
ヴォルデモートがトムを指さした。
ローゼマインは少し困ったように眉を寄せた。
「……いえ」
トムは彼女を見つめた。
「ローゼマイン?」
「ごめんなさい。わたし、記憶が曖昧で」
ローゼマインは申し訳なさそうに頭を下げた。
「どこかでお会いしましたか?」
トムは答えられなかった。
彼女が自分に向ける目を、これまで何度も見てきた。
本を勧めてくるとき。
素晴らしいアイデアを思いついたとき。
好きな本の話が止まらなくなったとき。
そのどれとも違った。
今、彼女は見知らぬ人間に話しかけるように、丁寧な笑みを浮かべている。
「マイン……」
ドラコが呆然と呟いた。
ローゼマインが振り返る。
「すみません。あなたもわたしのお知り合いですか?」
「何を言ってるんだ! 僕はマインの兄だ」
ドラコは立ち上がりかけた。
「……お兄さん?」
ローゼマインは驚いたように目を丸くした。
「わたし、兄弟がいたんですか?」
ドラコの唇が震えた。
彼の手から賢者の石が滑り落ちかけ、ハリーが慌てて支えた。
「ドラコ! 今は先生を!」
「分かってる!」
ドラコは怒鳴り返し、再びスネイプの治療に取りかかった。
ヴォルデモートが満足そうに笑った。
「素晴らしい仕事だ、ロックハート」
トムはゆっくりと振り返った。
「……何をした」
ヴォルデモートは笑みを深めた。
「お前が私を裏切ったとき、何を考えていたのかは知らん。だが、お前もこれで理解できただろう」
杖の先が、ローゼマインへ向けられる。
「大切なものなど、弱点にしかならん」
トムは即座に彼女の前へ出た。
「アバダ──」
「ステューピファイ!」
シリウスが呪文を放った。
ヴォルデモートは杖を軽く振るだけで弾いた。
直後、トムも攻撃する。キングズリーとルーピンが加わり、四方から呪文が飛んだ。
だが、ヴォルデモートは後退しなかった。
ニワトコの杖が振られるたび、騎士団員たちの呪文が弾き返される。キングズリーの盾が砕け、ルーピンが倒れた本棚を盾にして身を伏せた。
「ロン!」
ハーマイオニーが叫んだ。
「ルーファスを連れて逃げて!」
「お前はどうするんだよ!」
「私もすぐ行く!」
ロンは倒れた机の下からルーファスを引っ張り出した。
「ほら、行くぞ!」
「ちょっと待ってください! 今、記録を──」
「パドマに毒されすぎだ! そんなのあとでいい!」
ルーファスはポケグリを抱えたまま、引きずられるように走った。
ローゼマインも逃げようとしたが、足を止めた。
「あっ、マダム・ピンス!」
「何!?」
「本物のマダム・ピンスがいないんです! あの偽物がどこかに閉じ込めているはずです!」
「分かったから、今は逃げよう!」
「でも、マダム・ピンスを置いていけません!」
トムは横目で彼女を見た。
記憶を失っても、彼女は彼女だった。
しかし、安心している場合ではなかった。
ヴォルデモートが再び杖を振った。
床に散乱していた本が一斉に浮き上がり、鋭い刃物のようにこちらへ飛んでくる。
「プロテゴ!」
トムは盾を展開した。
分厚い本が何冊も盾に衝突する。表紙が裂け、羊皮紙がばらばらになった。
「ああっ!」
ローゼマインが悲鳴を上げた。
「本が!」
「今は本の心配をするな!」
ドラコが怒鳴る。
「だって、本がかわいそうじゃないですか!」
トムは一瞬だけ笑いそうになった。
こんな状況で、彼女は何を言っているんだ。
けれど、その声を聞いているうちに、どうしようもなく胸が苦しくなった。
目の前の少女は、いつものローゼマインだった。
それなのに、自分のことを知らない。
「よそ見をするな、トム・リドル」
ヴォルデモートの声がした。
トムは反射的に杖を構えたが、間に合わない。
緑色の光が放たれた。
その瞬間だった。
図書室の奥から、金色の光が走った。
緑の閃光に正面からぶつかったのではない。光の軌道を横から捉え、わずかに逸らしたのだ。
死の呪文はトムの肩先を通り過ぎ、背後の石壁を砕いた。
「誰だ!」
ヴォルデモートが振り返った。
図書室の奥に一人の男が立っていた。
パーシバル・グレイブスだった。
「まったく」
グレイブスは散乱した本を見渡した。
「図書室で決闘とは。もう少し場所を選べなかったのかね」
「グレイブス先生!」
ローゼマインが顔を輝かせた。
「大変なんです! 本が!」
「見れば分かるよ、ミス・マルフォイ」
グレイブスは足元に落ちていた一冊を拾い上げた。
破れた表紙に指を滑らせ、杖を一振りする。裂け目が綺麗に塞がった。
「それに、司書が不在だというのもいただけない」
「そうなんです! マダム・ピンスが!」
「彼女なら、先ほど司書室で見つけた。拘束を解いて、医務室へ向かわせたよ」
「本当ですか!?」
「ああ。もっとも、ここを見たら、すぐに引き返してくるだろうね」
ローゼマインはようやく安堵したようだった。
トムは杖を下ろさず、グレイブスを見つめた。
「随分と遅かったな」
「君は人使いが荒い」
「手伝うと言ったのはそっちだ」
「学校の図書室を戦場にするとは聞いていなかった」
二人の会話を聞いて、ヴォルデモートが目を細めた。
「……お前は何者だ」
グレイブスは答えなかった。
代わりに、本を一冊、近くの棚へ戻した。
「まず、生徒を外へ出そう。教師として、彼らを守る義務がある」
「教師だと?」
ヴォルデモートが鼻で笑った。
「理事会が勝手に雇った教師だ。私はお前のような教師を雇った覚えはない」
「それは困った」
グレイブスはようやく振り返った。
「私はそれなりに授業を楽しんでいたのだが」
男の姿が変わり始めた。
黒髪の下から白銀の髪が現れ、端整な顔立ちに歳月の刻んだ皺が浮かぶ。
スーツの上に、古めかしいローブが重なった。
トムはその変化を黙って見ていた。
隣でルーピンが息を呑む。
「まさか……」
ヴォルデモートの顔から笑みが消えた。
「ゲラート・グリンデルバルド」
その名を聞いて、ロンが口を開けた。
「はあ!? グレイブス先生がグリンデルバルド?!」
ハーマイオニーも信じられないという顔をしている。
「さて」
老人は杖を構えた。
「ずいぶん好き勝手にやってくれたようだな」
「脱獄囚が、私に説教か」
「説教をするつもりはない」
グリンデルバルドは静かに答えた。
「君とは一度、話をしてみたいと思っていた」
「私はそんなこと思ったことがない」
ヴォルデモートがニワトコの杖を掲げた。
グリンデルバルドの視線が、その杖に移る。
「懐かしい杖だ」
「知っているのか?」
「よく知っているとも」
老人は懐かしそうに目を細めた。
「かつて、私のものだったからな」
ヴォルデモートの指が、杖を強く握り締めた。
「ならば、その力も知っているだろう」
「ああ」
グリンデルバルドは頷いた。
「それが持ち主を無敵にしてくれるわけではない、ということもね」
次の瞬間、ヴォルデモートが動いた。
グリンデルバルドも同時に杖を振った。
二つの呪文が衝突し、床の石板がめくれ上がる。衝撃で周囲の机が吹き飛び、本棚が軋んだ。
トムはローゼマインを抱えるようにして身を伏せた。
すぐそばで、ハリーがスネイプを庇っている。
「全員、図書室から出ろ!」
キングズリーが叫んだ。
騎士団員たちが生徒を誘導し始めた。
だが、トムは動かなかった。
グリンデルバルドはヴォルデモートに杖を向けたまま、こちらへ声をかけた。
「トム」
「何だ」
「彼女を頼む。顔色が悪いようだ」
トムはローゼマインを見た。
彼女は腕の中から、心配そうにグリンデルバルドを見つめている。
「グリンデルバルドさんは?」
「少々、昔話をしてくる」
グリンデルバルドは口元に笑みを浮かべた。
「なに、長い話にはならんだろう」
ヴォルデモートが鼻で笑う。
「随分と自信があるようだな」
グリンデルバルドは首を振った。
「いや。君に勝てるとは思っていない」
トムは思わず老人の顔を見た。
ヴォルデモートも眉をひそめた。
「ならば、何をしに来た?」
グリンデルバルドは答える前に、ほんの一瞬だけハリーへ目を向けた。
そして再び、ヴォルデモートを見据えた。
「もちろん、殺しに」
ヴォルデモートの肩がこわばった。
「アルバス・ダンブルドアを殺した君をね」
ヴォルデモートの表情がさらに険しくなった。
その名は、彼を挑発するには十分だった。
杖が再び持ち上がる。
グリンデルバルドは一歩も退かなかった。
投稿遅くなりすみません。体調がしばらくグズグズで少し落ち着いてきたので投稿しました。詳細は活動報告を見てください。
できる限り投稿がんばります!