ハリー・ポッターは、セブルス・スネイプが死ぬところなど見たくなかった。
これまで何度、あの教師がいなくなればいいと思っただろう。理不尽な減点も、執拗な嫌味も、父親への侮辱も、何もかも嫌いだった。
けれど、スネイプが自分を庇って倒れたとき、ハリーは考えるより先に駆け寄っていた。
「ドラコ! まだなのか!」
「急かすな! こっちだって必死なんだ!」
ドラコは床に膝をつき、鞄から取り出した薬を次々と並べていた。
黒いローブは血を吸って重くなり、床には赤黒い染みが広がっている。ハリーは脱いだ上着を丸め、傷口を押さえ続けた。
「血が止まらない!」
「押さえてろ! 手を離すなよ!」
ドラコが小瓶の蓋を開けた。賢者の石から作った霊薬を、スネイプの唇へ慎重に流し込む。
しばらくして、傷口から溢れていた血が少しずつ減り始めた。
「先生、聞こえますか」
スネイプの唇がかすかに動いた。
「先生!」
「……うるさい」
聞き慣れた声だった。
いつもよりひどく弱々しいが、間違いなくスネイプの声だった。
「ドラコ! 意識が戻った!」
「分かってる! あと少しだ!」
ドラコが二本目の薬瓶を傾ける。金色の液体が最後の一滴まで落ちると、スネイプの胸に開いた傷がゆっくりと塞がり始めた。
ハリーはようやく上着を離した。
「助かった……」
「……何を、している」
スネイプが目を開けた。
顔色はまだ死人のように白かったが、その黒い瞳には、見慣れた不機嫌さが戻っていた。
「先生を助けたんです」
「見れば……分かる」
スネイプは苦しそうに息を吸った。
「なぜ、そんな余計なことをした」
ハリーは呆れた。
「僕を庇って死にかけた人の台詞ですか、それ」
「私を助ける必要など……なかった。この愚か者め」
「ありましたよ」
ハリーは言い返した。
「先生が僕を助けたんだから、僕だって先生を助けます」
「……実に、愚かな判断だ」
「それはどうも」
スネイプは何か言おうとして咳き込み、ドラコに肩を押さえられた。
「先生、喋らないでください! せっかく助かったんですから!」
「……マルフォイ」
「はい」
「君まで、ポッターに似てきたな」
ドラコはひどく傷ついた顔をした。
ハリーは少しだけ笑った。
笑えることが嬉しかった。
ついさっきまで、二度とこの教師の声を聞けないかもしれないと思っていたのだ。
けれど、スネイプの顔を見下ろしているうちに、別の思いが込み上げてきた。
「先生」
「……何だ」
「先生は、きっとダンブルドア先生から全部聞いていたんでしょう?」
スネイプの目が細くなった。
「何の話だ」
「僕が、ヴォルデモートの分霊箱だってことです」
ドラコが顔を上げた。
ハリーはスネイプから目を逸らさなかった。
「ヴォルデモートを倒すためには、僕が死ななきゃならない。先生はそれを知っていたんですよね」
スネイプは何も言わなかった。
「それなのに、僕を庇った」
ハリーは続けた。
「僕が死ななきゃならないって知っていたのに、先生は自分が死ぬところだった」
「……ポッター」
「どうしてですか?」
スネイプの顔が歪んだ。
「お前は昔から、何でも知ったつもりになる」
かすれた声だったが、いつもの嫌味だけは健在だった。
「では、先生は知らなかったんですか?」
スネイプは答えなかった。
ハリーはその顔を見つめた。
スネイプは母さんのことを愛していた。
ヴォルデモートから、そう聞かされた。
ハリーは今まで何度も、スネイプが自分を嫌う理由について考えてきた。父親に似ているからだと思っていたし、実際にそうなのだろう。
けれど、母親の目をしているという理由で、守られていたのかもしれない。
「……先生」
ハリーは静かに言った。
「母さんのことありがとうございました」
スネイプの唇がわずかに開いた。
しかし、言葉は出てこなかった。
ハリーは立ち上がった。
図書室の奥では、まだ激しい戦闘が続いている。
グリンデルバルドとトムがヴォルデモートを相手にしていた。呪文が飛び交うたび、石造りの床が震え、本棚の残骸が宙を舞う。
ハリーは杖を握り直した。
「どこへ行く」
スネイプの声がした。
「先生はここにいてください。騎士団の人たちが医務室へ運んでくれます」
「質問に答えろ、ポッター」
ハリーは振り返った。
スネイプは身体を起こそうとして、痛みに顔をしかめていた。
「……まさか」
その黒い瞳が、ハリーの表情を探る。
「何をするつもりだ」
「僕にしかできないことがあります」
「やめろ」
スネイプが手を伸ばした。
「ポッター、行くな!」
指がハリーの手首を掴んだ。
驚くほど強い力だった。
けれど、ハリーはその手をそっと外した。
「先生」
ハリーは微笑んだ。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「ポッター!」
呼び止める声を背に、ハリーは走り出した。
*
ハリーは倒れた本棚の陰に身を隠した。
ここからなら、図書室の中央がよく見える。
ヴォルデモートが杖を振るたび、石造りの床が裂け、棚が吹き飛んだ。グリンデルバルドは正面から受け止めようとはせず、呪文の軌道を逸らし、相手の足場を変え、ときには壁そのものを動かしていた。
その横からトムがマインを庇いながら呪文を撃っているのが見えた。
グリンデルバルドがヴォルデモートの注意を引きつけると、トムが死角から呪文を放つ。トムが攻め込めば、グリンデルバルドはその背後を守った。
それでも、ヴォルデモートは倒れなかった。
「それだけの力を手に入れて、まだ足りないのかね!」
グリンデルバルドが叫んだ。
「黙れ!」
ヴォルデモートの杖から緑色の閃光が走る。
グリンデルバルドは横へ身を投げ、呪文は背後の石像を粉々にした。
「君は随分と死を恐れているようだ!」
「私が恐れるものなどない!」
「では、なぜ不死を求める!」
ヴォルデモートの顔が歪んだ。
トムがその隙を狙って呪文を放つ。ヴォルデモートは辛うじて弾いたものの、数歩後退した。
ハリーはグリンデルバルドの動きを目で追った。
最初は、ヴォルデモートを追い詰めようとしているのだと思った。
だが、妙だった。
老人は何度も、ヴォルデモートの杖を奪えそうな機会を見逃していた。
代わりに、敵の立ち位置を変えている。
ヴォルデモートが右へ動けば、グリンデルバルドも右へ回り込む。正面から攻撃しているように見せながら、少しずつ特定の場所へ誘導していた。
ハリーは、二人の間に広がった床を見た。
その先には、崩れた本棚がある。
自分が隠れている場所だった。
ふとグリンデルバルドと目が合った。グリンデルバルドはダンブルドアと同じように透明マントを見通せるのだろうか。
老人は何も言わなかった。
けれど、ハリーには分かった。
グリンデルバルドは、自分がここにいることを知っている。
そして、自分が何をすべきかも。
ハリーはポケットの中で、透明マントを握り締めた。
ヴォルデモートは、ハリーが分霊箱の一つだと知っている。
だから、自分からハリーを殺すことはないだろう。
分霊箱を破壊すれば、自らの不死を支えるものを失うことになる。
ハリーを捕らえ、死なないように監視することだって考えられる。
それなら、ヴォルデモートに知られず、死の呪文を受けるしかない。
ハリーは透明マントを取り出した。
マントを被れば、姿を消せる。
ヴォルデモートがグリンデルバルドに向かって死の呪文を放つ瞬間、その間に立っていればいい。
たったそれだけのことだった。
ハリーはマントを広げた。
指が震えている。
死ぬのが怖かった。
まだホグワーツを卒業していない。ロンやハーマイオニーと、もっとくだらない話をしたかった。シリウスとももっと深い話をしたかったし、まだ将来何をするのか、まだ決めてもいない。
やりたいことはいくらでもあった。
ハリーはマントを被る前に、もう一つのものを取り出した。
ダンブルドアが遺した金のスニッチだ。
「僕はこれから死ぬ」
囁くと中から黒い石が現れた。
ロンがもらった本にあった死の秘宝の一つだとすぐに分かった。
ハリーは手の中で3回転がした。
最初は何も起きなかった。
少し遅れて、倒れた本棚の向こうに人影が現れた。
眼鏡をかけた若い男が立っていた。
黒髪はひどく乱れていて、その隣には、赤毛の女性がいる。
写真で何度も見た顔だった。
「……父さん?」
ジェームズ・ポッターが笑った。
「やあ、ハリー」
思っていたよりも、ずっと若い声だった。
ハリーは女性を見た。
「母さん」
リリーは何も言わずに頷いた。
二人とも、ハリーが最後に見た写真とほとんど変わらない姿をしていた。
ハリーは自分の手を見下ろした。
父親も母親も、あの夜から少しも歳を取っていない。
「本当に……二人なの?」
「そうよ」
リリーが答えた。
「ずっと会いたかった」
ハリーはそう言った。
もっと気の利いたことを言うつもりだった。
自分がどんな学校に通って、どんな友達を作って、どんな冒険をしたのか。話したいことは山ほどあった。
けれど、実際に両親を前にすると、何から話せばいいのか分からなかった。
「僕、シリウスに父さんの髪そっくりだって言われたんだ。ポッター家の髪はどんな魔法でもセットが難しいって」
ジェームズが笑った。
「それは気の毒だな」
「母さんの目をしてるとも言われる」
「それは良かった」
リリーが夫を小突いた。
ハリーは笑った。
こんなふうに両親が冗談を言い合うところを、初めて見た。
どこにでもいる普通の家族みたいだった。
図書室では、まだ激しい戦闘が続いていた。
ハリーは二人を見た。
「僕、これから死ぬんだ」
ジェームズの笑みが消えた。
「そうか」
「怖いんだ」
ハリーは正直に言った。
「死ぬのが怖い」
リリーが近づいてきた。
その手がハリーの頬へ伸びる。
触れられた感覚はなかった。
けれど、ハリーは動かなかった。
「ええ」
母は言った。
「生きていてほしいわ」
ハリーは顔を上げた。
「……でも、僕が生きていたら、ヴォルデモートを倒せない」
「そうね」
「父さんなら、どうする?」
ジェームズは少し考えた。
「僕は昔、自分が何でもできると思ってた。けれど、最後には家族を守ることしか考えられなかった」
「後悔してる?」
「いいや」
ジェームズは首を振った。
「もっと生きたかったとは思うけどね」
ハリーは小さく頷いた。
生きたかった。
父さんも、母さんも。
自分と同じだったのだ。
「一緒に来てくれる?」
「もちろん」
ジェームズが答えた。
「どこまで?」
ハリーは尋ねた。
リリーが微笑んだ。
「あなたが必要とするところまで」
ハリーは二人を見つめた。
もっと話していたかった。
シリウスが元気にしていることも、スネイプが自分を助けてくれたことも、全部伝えたかった。
けれど、時間がなかった。
「……ありがとう」
ハリーは石を握り締めた。
そして、透明マントを頭から被った。
ハリーは、音を立てないように歩いた。
透明マントの裾を踏まないように注意しながら、倒れた机の間を抜けていく。
ヴォルデモートはこちらを見ていない。
グリンデルバルドとトムの攻撃を捌くのに忙しいようだった。
ハリーは少しずつ距離を詰めた。
グリンデルバルドが杖を振る。
ヴォルデモートの足元から石柱が突き出し、男は横へ飛んだ。
その着地点を狙って、トムが呪文を放つ。
ヴォルデモートは杖で軽々と弾き返した。
ハリーは立ち止まった。
グリンデルバルドとヴォルデモートの間には距離があった。
ハリーはそこに身体をねじ込んだ。
背後にはジェームズとリリーがいた。
不思議なことに、二人は透明マント越しでもはっきりと見えた。
ジェームズは黙ってハリーの隣に立っている。
リリーはハリーの肩に手を添えるようにしていた。
ハリーは杖を握り締めた。
しかし、すぐに思い直した。
ここで防御魔法を使ってはいけない。
死の呪文を受けなければ、ヴォルデモートの魂は自分の中に残ってしまう。
ハリーは杖をポケットへしまった。
あとは待つだけだった。
「どうした、グリンデルバルド!」
ヴォルデモートが嘲笑った。
「かつて世界を震え上がらせた闇の魔法使いも、老いには勝てぬか!」
「老人には優しくしたまえ」
グリンデルバルドは息を整えながら答えた。
「君もいずれ分かる」
「私に老いなどない!」
ヴォルデモートが杖を振り上げた。
グリンデルバルドは攻撃を避け、図書室の中央へ移動した。
その動きに合わせて、ハリーも数歩進んだ。
ちょうど、二人の間に立つ形になった。
グリンデルバルドが一瞬だけこちらを見た。
ハリーの姿は見えていないはずだった。
けれど、老人は何かを確かめるように、ほんのわずかに頷いた。
ハリーの心臓が激しく打った。
とうとう、そのときが来たのだ。
「トム・リドル!」
グリンデルバルドが叫んだ。
「アルバスは君より遥かに優れた魔法使いだった!」
ヴォルデモートの顔が歪んだ。
「その名を口にするな!」
「彼が恐れていたのは、自分の死ではない。君には決して理解できんだろうがね!」
「黙れ!」
杖が持ち上がった。
ハリーは動かなかった。
背後には、グリンデルバルドがいる。
ヴォルデモートからは、ハリーの姿が見えない。
今、死の呪文を放てば、グリンデルバルドに届く前にハリーへ命中する。
ハリーは目を閉じかけた。
けれど、最後まで見届けようと思い直した。
ヴォルデモートが憎んでいた。
両親を殺し、自分の人生を変えた男。
その男の魂を、自分の中から消し去るのだ。
「アバダ・ケダブラ!」
緑色の閃光が走った。
ハリーは避けなかった。
光は、誰もいないように見える空間を真っ直ぐに突き進んだ。
そして、ハリーの胸を貫いた。
全身から力が抜けた。
膝が折れ、身体が床へ倒れていく。
透明マントが肩から滑り落ちた。
それまで何もなかった場所に、ハリー・ポッターの身体が現れた。
ヴォルデモートの目が大きく見開かれた。
その視線がハリーを捉え、次いで、背後のグリンデルバルドへ向けられる。
「……貴様ら」
ヴォルデモートの顔が怒りと恐怖に歪んだ。
ハリーは、自分が成功したことを知った。
ヴォルデモートは、自分の分霊箱を自ら破壊してしまったのだ。
誰かが名前を叫んでいる。
トムだろうか。
それとも、シリウスだろうか。
ハリーにはもう、聞き分けられなかった。
倒れた身体のすぐそばに、リリーが膝をついた。
ジェームズも、その隣にいた。
ハリーは二人を見ようとした。
けれど、もう目が開かなかった。
最後に思ったのは、勇ましいことでも、立派なことでもなかった。
やっぱり、もっと生きていたかった。
それきり、何も分からなくなった。