ヴォルデモートはハリー・ポッターを見下ろしていた。
グリンデルバルドに向けて放った死の呪文が、透明マントに隠れていた少年を貫いた。
ハリーが床に倒れた瞬間、透明マントがずり落ち、トム・リドルが真っ先に駆け寄った。その後をローゼマイン・マルフォイとハーマイオニー・グレンジャーが追う。
「ハリー!」
ハーマイオニーの悲鳴が図書室に響いた。
トムは少年の傍らに膝をつき、肩を揺さぶった。返事はない。ローゼマインもハリーのそばにしゃがみ込み、震える手でその顔に触れた。
ヴォルデモートは、その光景を眺めていた。
最初は怒りが湧いた。まんまと嵌められたと気づいたからだ。
しかし、こうして倒れた少年を見ていると、次第に馬鹿馬鹿しくなってきた。
アレは偶然の副産物だ。
ヴォルデモートは無意識に懐へ手を伸ばした。
ローブの内側に、硬い金属の感触がある。
ハッフルパフの金のカップ。
今や、これだけが自分の不死を保証する唯一の分霊箱となってしまった。
ハリー・ポッターは、かつて何度殺そうとしても死ななかった。赤ん坊の頃から、自分の計画をことごとく邪魔してきた少年だ。
それが、今はどうだ。
あまりにも簡単に死んでしまった。
倒れた拍子に眼鏡が割れたらしく、片方のレンズに大きな亀裂が走っていた。
ヴォルデモートは、ふと少年の緑色の瞳を思い出した。
リリー・ポッター。
あの女も、同じ色の目をしていた。
親子というものは不思議なものだ。
母親とあれほど似ている少年がいる一方で、親の面影をほとんど受け継いでいない子どももいる。
デルフィーがそうだった。
少し前、娘が妙なことを言っていたのを思い出す。
『ねえ、ギルデロイ。私ってお父様にもお母様にも似ていないわよね』
デルフィーは鏡を覗き込みながら、不満そうに自分の顔を眺めていた。ヴォルデモートは読んでいた魔法書から目を上げ、ちらりとその様子を見た。
『まさか! 偉大なオーラがそっくりじゃないか。それに、その白銀の髪!』
『髪は後で変えたんでしょう?』
『そんなことは些細な問題だよ、愛しい人!』
確かに、デルフィーは両親のどちらにもさほど似ていなかった。
顔立ちは整っている。容姿だけなら、どこへ出しても恥ずかしくない娘だろう。しかし、親子だと教えられなければ、血縁を見抜くのは難しい。
ヴォルデモートは、むしろ娘が自分に似ていないことを喜んでいた。
自分に似るということは、あの忌々しいマグルに似るということだからだ。
トム・リドル・シニア。
自分を捨て、母を見捨てた男。
ヴォルデモートは、あの男の顔をよく覚えていた。整った鼻筋も、顎の形も、かつて鏡の中に見ていた自分自身の面影も。
娘の顔にまで、あの男の痕跡を見出したくはない。
『似ていなくて何が悪い』
『お父様は気にならないのですか?』
『まったく』
『……そうですか』
デルフィーは少し残念そうだったが、ヴォルデモートには何が不満なのか理解できなかった。
ギルデロイの助言で髪を銀色に染めてからは、むしろ少し血縁者らしく見えるようになった気がする。
あの男も、たまには役に立つ。
ヴォルデモートは、思わず小さく笑った。
「……何を笑っている?」
顔を上げると、トム・リドルがこちらを睨んでいた。
ハリーの傍らから立ち上がり、杖を握りしめている。
その顔を見て、ヴォルデモートはますます可笑しくなった。
若い頃の自分によく似た顔だ。
当然だろう。実際、もう一人の自分なのだから。
しかし、こうして見ると、ますます父親に似ている。
「いや」
ヴォルデモートは首を振った。
「少し、くだらんことを思い出しただけだ」
「ハリーが死んだことが、そんなにおかしいのか?」
トムの声には、隠しようのない怒りがあった。
「勘違いするな。ポッターの死を喜んでいるわけではない。それに、今のはグリンデルバルドが仕組んだことだろう」
「じゃあ、何がそんなにおかしい?」
「貴様に説明する義理はない」
ヴォルデモートは杖を持ち直した。
どうやら、少々考え事をしすぎたらしい。
グリンデルバルドは依然として図書室の奥に立ち、こちらの様子を窺っている。
あの男を倒さなければならない。
「ギルデロイ!」
崩れた書架の向こうで、金髪の魔法使いが顔を上げた。
「はい、我が君!」
「デルフィーを呼べ」
「はい?」
「デルフィーだ。今すぐここへ連れてこい。あれが来れば決着がつく」
ロックハートは一瞬、考え込むように眉を寄せた。
「……失礼ですが、デルフィーとはどなたです?」
ヴォルデモートは耳を疑った。
「何?」
「いえ、その……どちらの方をお呼びすればよろしいのでしょうか?」
「デルフィーだと言っているだろう!」
「ですから、そのデルフィーという方が、どなたなのかを伺っているのです」
ロックハートは困ったように微笑んだ。
ヴォルデモートはしばらく相手の顔を見つめた。
冗談を言っている様子ではない。
まさか。
「貴様、まさか自分に忘却術をかけたのか?」
「忘却術を何ですって?」
「自分に使ったのかと聞いている!」
「そんなまさか! 私がなぜそんなミスを?」
ロックハートは自信たっぷりに答えかけ、それから少し不安そうに付け加えた。
「もっとも、私がかけた完璧な忘却術なら、覚えていないのも当然ですが」
ヴォルデモートは杖を握る手に力を込めた。
これまでにも、ギルデロイ・ロックハートの愚かさには幾度となく呆れさせられてきた。
しかし、よりによって、この土壇場で妻のことを忘れるとは。
「デルフィーニ・ロックハート。貴様の妻だ!」
「妻?!」
ロックハートは目を見開いた。
「私が結婚していると?」
「そうだ!」
「いつの間に!?」
「私に聞くな!」
「いえ、しかし、閣下がご存じないとなると、私は一体誰に聞けば……」
「黙れ!」
ヴォルデモートの怒声とほぼ同時に、頭上で何かが爆ぜた。
グリンデルバルドの放った呪文が、二階まで届く巨大な書架を吹き飛ばしたのだ。
ヴォルデモートは杖を振り、降り注ぐ本と木片を払いのけた。
床に落ちた魔法書が火を噴き、燃え上がった表紙から奇妙な悲鳴が上がる。
「おやおや、大変なことになりましたな!」
ロックハートが頭を抱えてしゃがみ込んだ。
これ以上、この男に何かを任せるわけにはいかない。
ヴォルデモートは面倒に感じながらも、ロックハートの腕に刻まれた闇の印に触れた。
「デルフィー、今すぐ来い!」
呼びかけを送り、再びグリンデルバルドへ向き直る。
「随分と余裕だな、グリンデルバルド」
「そう見えるかね?」
老人は穏やかに微笑んだ。
気に食わない男だ。
あの傲慢な態度。自分がすべてを見通しているかのような物言い。
かつてヨーロッパを恐怖に陥れた闇の魔法使いとして、多少の敬意は払ってやってもよかった。
だが、それも自分に歯向かわなければの話だ。
「貴様が何を企んでいるのか知らんが、無駄なことだ」
「果たしてそうかな」
「私にはこの杖がある」
ヴォルデモートは手にした杖を掲げた。
ニワトコの杖。現存する最強の杖だ。
「そして、貴様はその杖を持っていたにもかかわらず、ダンブルドアに敗れた男だ」
グリンデルバルドの表情は変わらなかった。
「懐かしい話を持ち出すものだね。何年前のことだか」
「過去の失敗から何も学ばなかったと見える」
「それは、お互い様ではないかな?」
老人が杖を振った。
ヴォルデモートは即座に防御呪文を展開した。正面から飛来した青白い閃光が障壁に衝突し、激しい火花を散らす。
続けて反撃の呪文を放ったが、グリンデルバルドは床を滑るように移動し、難なくかわした。
その背後からトムが杖を振る。
ヴォルデモートは杖先を動かすだけで呪文を逸らした。過去の自分が撃つ呪文など子供騙しだ。
「そんな児戯で私を倒せると思っているのか?」
「少なくとも、気を引くことはできる」
その言葉と同時に、横手から別の呪文が飛んできた。
ヴォルデモートは舌打ちして身を翻す。
二人が連携していることは分かっていた。
それでも、腹立たしい。
かつての自分が、自分以外の魔法使いと協力して戦っているという事実が。
そこへ、図書室の入口から声が響いた。
「お父様!」
ヴォルデモートが振り向くと、デルフィーが立っていた。
銀色の髪が肩にかかり、両腕にはそれぞれ毛布に包まれた赤ん坊を抱えている。
「……何を連れてきた?」
「パーヴォと、私よ」
ヴォルデモートは眉をひそめた。
「なぜ赤ん坊を二人も連れてくる!?」
「仕方ないじゃない! 二人の世話をしてくれていたハウスエルフが、突然いなくなっちゃったんですもの!」
「いなくなった?」
「探しても見つからないのです。呼んでも返事をしなくなりました」
デルフィーは困り果てた様子で、腕の中の赤ん坊を抱き直した。
「それでギルデロイに預けようと思ったんだけど、彼も留守にしていて……」
どうしてこうも、次から次へと面倒事が起こるのだ。
「ギルデロイならそこにいる」
「あら、本当ね!」
デルフィーの顔が明るくなった。
「ギルデロイ!」
ロックハートが振り返った。
「はい?」
「よかった。ずっと探していたのよ!」
「おや、これはこれは。あなたのような美しい方に出会えて光栄です」
デルフィーは怪訝そうな顔をした。
「……何を言っているの?」
「いえ、どこかでお会いしたことがありましたかな? さては夢の中で?」
「ギルデロイ? ふざけているの?」
デルフィーはヴォルデモートを見た。
ヴォルデモートは顔を背けた。
「と、とにかく、この子たちをお願い」
デルフィーは夫の腕にパーヴォを預け、続いてもう一人の赤ん坊を差し出した。
「ちゃんと見ていてね」
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
ロックハートは慌てて両腕を広げた。
「この赤ん坊たちは一体誰なのです!?」
「だから、息子と私よ!」
「……あなたの息子とあなたですと!?」
ロックハートは腕の中の赤ん坊とデルフィーの顔を交互に見た。
「すると、あなたは赤ん坊でありながら、その赤ん坊のお母さんでもあると?」
「違うわよ! 片方はパーヴォ、私たちの息子! もう片方は昔の私なの!」
「私たちの息子!?」
ロックハートは目を丸くした。
「お待ちください。つまり、あなたと私は結婚していて、息子がおり、しかもあなたがもう一人いると?」
「そうよ!」
「こんなに困惑したのは生まれて初めてです!」
「ギルデロイ、冗談を言っている場合じゃないのよ!」
「いや、冗談などではなく!」
ロックハートは二人の赤ん坊を抱えたまま、ひどく困惑した顔をしていた。
パーヴォが泣き始めると、もう一人の赤ん坊もつられたように声を上げる。
「ああ、よしよし。泣かないでくださいね。ほら、怖くありませんよ」
ロックハートは器用に二人を抱き直し、小さく身体を揺らし始めた。
「まったく、最近の若いお母さんは大胆ですね。見ず知らずの男に赤ん坊を二人も預けるとは……」
「見ず知らずじゃないわよ!」
「しかし、お嬢さん、私は本当にあなたを存じ上げないのですが!」
「お嬢さん!?」
デルフィーは頬を膨らませた。
ヴォルデモートは額に手を当てた。
ひどい有様だった。
妻の顔も、息子の顔も忘れているというのに、ロックハートは赤ん坊を抱くことには慣れているらしい。
二人の頭を支える手つきに迷いがない。
泣き声が少しずつ収まっていくのを見て、ヴォルデモートはますます腹立たしくなった。
記憶を失っても、身体は覚えているということか。
あれほど息子を可愛がっていた男が、二人の名前すら思い出せない。
いったい、どんな忘却術を使えばこうなるのだ。
「ギルデロイ、あとで覚えていなさいよ!」
デルフィーはそう言い残すと、父親のもとへ駆け寄ってきた。
ヴォルデモートは、つい先日のデルフィーとの会話を思い出した。
両親に似ていないことが気になるという娘の悩みは、今でもくだらないと思っている。
血がつながっているのだから、容姿が似ている必要などない。
むしろ、似ていなくてよかった。
そのことを、いつか娘に説明してやってもいいかもしれない。
「……お父様?」
「何でもない。杖を構えろ」
「ええ!」
娘は素直に頷いた。
銀色の髪が揺れる。
ヴォルデモートは再びグリンデルバルドへ向き直った。
図書室の向こう側で、老人は相変わらず薄い笑みを浮かべている。
この男は、何をそんなに余裕ぶっているのだろう。
「何かおかしいか?」
「いや、なかなか興味深いものを見せてもらった」
グリンデルバルドは、二人の赤ん坊を抱いているロックハートに目を向けた。
「お前の大切なものが分かった」
「……何?」
「なるほど。そういうことだったのか」
老人は感心したように頷いた。
ヴォルデモートは眉をひそめた。
「何を訳の分からんことを言っている?」
「家族を手に入れたのだな」
「貴様には関係ない」
「そうかな?」
グリンデルバルドは杖を軽く振った。
その瞬間、ロックハートの腕の中から赤ん坊が一人、ふわりと浮かび上がった。
「あっ!」
ロックハートが声を上げたが、慌てて残された赤ん坊を掴み守った。
赤ん坊は毛布ごと宙を飛び、グリンデルバルドの腕に収まった。
ヴォルデモートは目を見開いた。
銀色の毛布。
赤ん坊のデルフィーだった。
「返せ」
低い声が出た。
グリンデルバルドは赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「ほう。こちらが幼い頃の娘か」
「返せと言っている!」
ヴォルデモートは杖を向けた。
グリンデルバルドは赤ん坊を抱いたまま、悠然と笑っている。
「それほど大切かね?」
「貴様……!」
「不思議なものだ。お前にも、こんな顔をする相手がいたとは」
グリンデルバルドが杖を振ると、赤ん坊の周囲に透明な障壁が現れた。デルフィーはその中に閉じ込められ、老人の肩の高さでゆっくりと浮かんでいる。
「お父様!」
大人の方のデルフィーが悲鳴を上げた。
「その子を返して!」
彼女が杖を振るより早く、グリンデルバルドの呪文が床を走った。デルフィーは弾き飛ばされ、倒れた書架の向こうへ転がった。
「デルフィー!」
ヴォルデモートは叫んだ。
グリンデルバルドが愉快そうに目を細める。
「なるほど、なるほど」
「何がなるほどだ!」
「お前が先ほどから懐を気にしていた理由も、ようやく分かった気がするよ」
ヴォルデモートは動きを止めた。
老人の視線が、自分の胸元に向けられていた。
「それも大切なものなのだろう?」
グリンデルバルドの杖先がわずかに動いた。
ローブの内側を何かが引っ張った。
ヴォルデモートは咄嗟に懐を押さえたが、次の瞬間、胸元の布が裂け、金色に輝くカップが飛び出した。
ハッフルパフのカップ。
「貴様!」
ヴォルデモートは慌てて杖を振った。
カップを引き寄せる呪文と、それを弾き飛ばす呪文が衝突する。
甲高い金属音が響き、カップは床に落ちた。
石畳の上を転がり、倒れたハリー・ポッターの近くで止まる。
ヴォルデモートはすぐさま取り戻そうとした。
そのときだった。
グリンデルバルドが、赤ん坊を閉じ込めた障壁へ杖を向けた。
「さて、トム」
老人は微笑んだ。
「どちらを守る?」
ヴォルデモートは顔を歪めた。
金のカップと、赤ん坊のデルフィー。
あのカップには自分の魂が入っている。
失えば、永遠の命を失う。
だが、赤ん坊のデルフィーを見捨てれば、未来から来た娘も危うい。
少なくとも、あの子はここで死ぬ。
グリンデルバルドは杖を持ち上げた。
「決めたまえ」
ヴォルデモートの脳裏に、ローゼマイン・マルフォイに言った言葉が蘇った。
『大切なものなど、弱点にしかならん』
何かを大切にするから、奪われる。
何も愛さなければ、何も失わずに済む。
グリンデルバルドの腕の中で、赤ん坊が泣き始めた。
小さな手が毛布から伸びる。
ヴォルデモートは歯を食いしばった。
「……貴様、よくも」
その声を聞いて、グリンデルバルドが眉を上げた。
「どうしたね?」
「私の娘に……!」
ヴォルデモートはニワトコの杖を振り上げた。
「触れるな!」
凄まじい閃光が図書室を横切った。
グリンデルバルドが防御呪文を唱えたが、ヴォルデモートの魔法はその障壁を粉砕した。
老人の身体が後方へ吹き飛び、書架に激突する。分厚い魔法書が雪崩のように降り注いだ。
ヴォルデモートは容赦しなかった。
次の呪文で床を引き裂き、グリンデルバルドの足元から石柱を突き上げる。
老人は辛うじてかわしたものの、肩を掠めた石片にローブを裂かれた。
「待ちたまえ、トム!」
「黙れ!」
黒い炎が床を這った。
グリンデルバルドが杖を振り、迫りくる炎を銀色の鳥の群れへ変えた。
だが、鳥たちが羽ばたくより早く、ヴォルデモートの次の呪文が襲いかかった。
銀色の羽が飛び散り、衝撃がグリンデルバルドを壁へ叩きつける。老人が呻いた。
ヴォルデモートは杖を下ろさなかった。
「よくも、私の娘を!」
「……やれやれ」
グリンデルバルドは壁に手をつき、どうにか立ち上がった。
「私はただ、君が何を選ぶのか知りたかっただけだよ」
「ふざけるな!」
ヴォルデモートはさらに呪文を放った。
グリンデルバルドが立っていた場所の床が爆ぜた。
老人は転がるように逃れたが、続く呪文が足元を捉えた。身体が宙に持ち上げられ、反対側の壁へ叩きつけられる。
ヴォルデモートは杖先を動かし、崩れた石材を次々と老人へ向けた。
グリンデルバルドは防御呪文で石材を砕いたものの、最後の一撃までは防ぎきれなかった。
鈍い音とともに、膝をつく。
「お父様!」
デルフィーの声が聞こえた。
しかし、ヴォルデモートには振り向く余裕などなかった。
グリンデルバルドが赤ん坊を閉じ込めた障壁は、まだ宙に浮いている。
あれを壊すには、まずこの男を殺さなくてはならない。
ヴォルデモートは杖を振った。
老人の周囲から太い鎖が伸び、両腕に絡みつく。
グリンデルバルドは苦しげに顔を歪めたが、それでも杖を離そうとはしなかった。
「どうした、グリンデルバルド!」
ヴォルデモートは叫んだ。
「貴様の力はその程度か!」
老人が杖を持ち上げる。
その瞬間、ヴォルデモートは杖先を捻った。
鎖が締まり、グリンデルバルドの杖が床に落ちる。
かつてヨーロッパを恐怖に陥れた闇の魔法使いは、今や壁際に追い詰められ、荒い息をしていた。
ヴォルデモートはゆっくりと近づいた。
「最初からこうしておけばよかったのだ」
グリンデルバルドは答えなかった。
額から流れた血が、白髪の混じった眉を濡らしている。
それでも、老人の口元には笑みが残っていた。
ヴォルデモートは不愉快になった。
「何がおかしい?」
グリンデルバルドは赤ん坊を閉じ込めた障壁に杖を向けたまま、笑みを浮かべた。
「覚えているかね? 以前、ビブリオバトルでお前が紹介した本を」
「……何?」
「『毛だらけ心臓の魔法戦士』だよ。なかなか興味深い選書だった」
ヴォルデモートは眉をひそめた。
「それがどうした」
「あの魔法戦士は愛を恐れ、自分の心臓を取り出して隠した。お前は死を恐れ、自分の魂を引き裂いて隠した」
グリンデルバルドは床に転がった金のカップへ目を向けた。
「ところが今のお前はどうだ? 自分が死ぬことよりも、娘が死ぬことの方が恐ろしいらしい」
「黙れ」
「実に皮肉な話だ。あれほど恐れていた死が、今では二番目に恐ろしいものになってしまったとは」
「黙れと言っている!」
赤ん坊が泣き始めた。
ヴォルデモートは反射的にそちらへ目を向けた。
グリンデルバルドが笑った。
「いやはや。君は実にいい本を選んでいたものだね」
ヴォルデモートは死の呪文を唱えようと杖を振り上げた。
今度こそ、この男を黙らせる。
グリンデルバルドが目を細める。
その表情は、なぜか安堵しているようにも見えた。
ヴォルデモートには理解できなかった。
今から死ぬというのに、なぜ笑っていられるのか。
そのとき。
背後から、かすかな金属音が聞こえた。
ヴォルデモートは振り向かなかった。
今は目の前の男を倒すことが先だ。
ヴォルデモートが杖を振り下ろそうとした瞬間。
鋭い音が、図書室に響いた。
何かが砕けたような音だった。
ヴォルデモートは息を呑んだ。
全身から血の気が引いていく。
何が起きた?
ヴォルデモートはゆっくりと振り返った。
そこにはハリー・ポッターが立っていた。
先ほど、自分の死の呪文を受けて死んだはずの少年が割れた眼鏡をかけたまま、両手で牙を握りしめている。
その足元には、ハッフルパフの金のカップがあった。
ハリーの持つ牙がカップの底を深々と貫いていた。
金色の器から黒い煙が噴き上がり、床に染みついた影のように広がっていく。
ヴォルデモートは口を開いた。
しかし、声が出なかった。
なぜだ。
なぜ、ハリー・ポッターが生きている?
そして、なぜ──。
黒い煙が、甲高い悲鳴とともに弾けた。
カップに封じ込めていた魂の欠片が、跡形もなく消え去る。
ヴォルデモートは、呆然とそれを見つめていた。
最後の分霊箱が。
自分を永遠に生かすはずだったものが。
今、目の前で壊された。
「……ポッター」
ようやく声が出た。
ハリーは牙を引き抜き、ヴォルデモートを見据えた。
その眼鏡の奥には、リリー・ポッターと同じ緑色の瞳があった。
ヴォルデモートは、初めてその目を恐ろしいと思った。