本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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19話 ドビーと秘密の書庫

 

 誰も納得していない顔のまま、秘密の部屋の空気は重たく沈んでいた。

 ハーマイオニーは腕を組み、ロンは嫌そうな顔でアルドゥスとわたしを見比べ、ハリーはまだ巨大な蛇に同情の眼差しを向けている。ドラコはこめかみを押さえたまま、しばらく何かを考えていた。

 そして、低く言った。

 

「……ドビー」

 

 ぽん、と小さな音がした。

 

「お呼びでしょうか、ドラコ様──ひっ」

 

 現れたドビーは、まずドラコを見た。次にわたしを見た。さらに視線をずらして、目隠しをされたアルドゥスを見た。最後に、その横に立っている手作り本棚と『秘密の書庫』の看板を見た。

 そしてその場に崩れ落ちた。

 

「ドビー!?」

「当然の反応だな」

 

 ロンが言った。

 

「むしろ今までの僕らが落ち着きすぎてたんだよ」

 

 ドビーは床に手をついたまま震えていた。

 

「お、お嬢様が……秘密の部屋で……本棚を……」

「そこ一番だめそうな言い方やめて」

「どこから訂正していいか分からないですぅ……」

 

 ドラコが苛立たしげに言う。

 

「落ち着け。父上に伝言を頼みたい」

「旦那様に……」

 

 ドビーはちらりとアルドゥスを見た。

 

「どの部分をですか?」

「全部だ」

「全部!?」

 

 ロンが同情の眼差しでドビーを見つめている。

 

「それを“全部”で済ませるの、情報量の暴力だろ」

 

 ドラコはわたしを睨んだ。

 

「紙は」

「あるよ」

「なぜある」

「目録用カードならたくさん」

「今この状況で目録用カードが出てくるの、本当に嫌だな」

 

 ロンが呟いた。

 わたしは持ってきていたカード束とインク瓶を差し出した。ドラコはものすごく嫌そうな顔で受け取り、その場でさっと父宛ての文面を書き始めた。字がやけに綺麗なのが腹立たしい。

 ハーマイオニーが覗き込もうとすると、ドラコはすっと隠した。

 

「見せない」

「見る気はないわ。ただ、今その手紙に“妹が地下でバジリスクと書庫を共同運営しています”って書いてるのかなと思っただけ」

「違う」

「違わないだろ」

 

 ロンが言った。

 

「言い方の問題であって内容はだいたいそうじゃないか」

 

 ドラコは最後まで書き終えると、それを折りたたんで封じた。

 

「父上に直接渡せ。誰にも見せるな。誰にも聞かせるな。返事があればそれも直接僕に」

「ドビー、命を懸けてお届けします」

「いや懸けなくていいから」

 

 わたしはドビーに言う。

 

 

 ドビーは手紙を受け取ったまま、まだ床にへたり込んでいる。

 

「……ドビー?」

「はい、お嬢様」

「そんなに怖い?」

「はい」

「即答だね」

「お嬢様が恐ろしい秘密の部屋を見つけて、伝説の怪物とお友達になって、しかも棚を作って書庫にしているので……ドビーはたいへん順当に怖いです……」

 

 正論だった。

 ドラコが深く息を吐いた。

 

「行け」

「はい、若様!」

 

 ぽん、と音がして、ドビーは消えた。

 しばらく沈黙。

 その沈黙を破ったのは、ハーマイオニーだった。

 

「……で」

 

 その“で”には、だいぶ多くの感情が詰まっていた。

 

「先生に報告しないなら、最低限の管理は必要よ」

「出た」

 

 ロンが言った。

 

「通報したい派が一番仕事が早い」

「通報したい気持ちは今もあるわよ」

 

 ハーマイオニーはきっぱり言った。

 

「でも、あなたたちが全力で反対するなら、その間に誰かが現実的に動かないとだめでしょう」

「それっぽく言ってるけど、やってることは秘密の部屋の運営開始なんだよな」

 

 ロンが言うも、ハーマイオニーはもう気にしていなかった。鞄から羊皮紙を取り出し、羽ペンを走らせる。

 

「まず第一。ここへの出入りは単独禁止」

「賛成」とドラコが言った。

 

「第二。アルドゥスの目隠しは絶対に外さない」

「賛成」とロンも頷く。

 

「第三。餌やりは記録をつける」

「何で?」

 

 わたしが首を傾げた。

 

「量と頻度を把握しないと危ないでしょう!」

「完全に飼育管理表だね」

「違うわ。安全管理よ」

「名前を変えただけだろ」

 

 ロンがツッコむ。ハリーが手を挙げた。

 

「アルドゥスの居場所も決めた方がいい。入口の近くにいられると危ないし」

「賛成」とハーマイオニーが言う。  

「じゃあ奥の方を寝床にする?」

 

『私はもともと奥にいた』

 

 アルドゥスが不満そうに言った。ハリーが通訳する。

 

「“私はもともと奥にいた”だって」

「ほら」とロン。

 

「元の住人が迷惑してるじゃないか」

 

 アルドゥスは長い身体をゆっくりと巻きながら、さらに何か言った。ハリーが聞いて、それからちょっと困った顔になる。

 

「ええと……」

「何て?」

 

「“最近は静かに寝ていると、たまに釘を打つ音がしてうるさい”って」

 

 ロンがわたしを見た。

 

「釘?」

「本棚を補強してたの」

「秘密の部屋で大工仕事までしてたの!?」

「棚は丈夫な方がいいから」

「だからって場所を選べ!」

 

 ハーマイオニーが羊皮紙に書き足す。

 

「第四。書庫化作業は一時停止」

「ええっ」

「当然よ」

「禁書の移送計画が」

「停止」

「まだ目録の途中で」

「停止」

「でも空き棚が」

「停止!」

 

 ロンが腕を組んだ。

 

「初めてハーマイオニーと完全に気が合った」

 

 アルドゥスが、低く長い息を吐くように言った。ハリーが聞き取り、わずかに笑う。

 

「“静かになるのは良い”だって」

「うわあ」

「バジリスクとハーマイオニーの利害も一致した」

 

 ハーマイオニーは気にせず書き続ける。

 

「第五。ここで起きたこと、見たもの、聞いたものは他言しない」

「付け加えろ」

 

 ドラコが真剣な顔で言う。

 

「“軽率に喋った場合、全員まとめて終わる”」

「物騒だなあ」

「事実だ」

「そういうとこだけ妙に説得力あるの、嫌だね」

 

 ハリーはその間もアルドゥスのそばに立っていた。さっきから目隠し越しに何度か言葉を交わしている。あの巨大な頭の横に立っていると、普通にサイズ感が終わっている。

 

「何話してるの?」

「ちょっと」

「ちょっとで済む相手じゃないだろ」

 

 ロンの反応に、ハリーは少し迷ってから言った。

 

「……アルドゥス、五十年くらい、ほとんど誰とも喋ってなかったみたい」

 

 部屋が少し静かになった。

 

「前の継承者の時は?」

 

 ハーマイオニーが聞く。ハリーがアルドゥスに尋ねる。返ってきた言葉を聞いて、顔を曇らせた。

 

「命令は聞いた。だけど、あまり喋らなかったって」 「でしょうね」

 

 ロンは肩をすくめる。

 

「会話が弾む主従関係ではないだろうし」

「でも」とハリーは続けた。

 

「今は、ただ寝ていて、たまにマインが来て、肉を置いて、本棚を増やしていくのを見ていたって」

「見えてないけどな。目隠ししてるし」

 

 ロンが訂正する。

 

「雰囲気だって」

「雰囲気で本棚増設を察知されるのも嫌だな」

 

 アルドゥスがまた何か言う。ハリーが聞いて、今度は本当に少し笑った。

 

「“しかも、たまに一人で長々と本の話をしていく”だって」

 

 ハーマイオニーがわたしを見た。

 

「あなた、まさか読み聞かせまでしてたの?」

「だって静かに聞いてくれるから」

「君、話し相手の条件がだいぶ緩くない?」

 

 アルドゥスがさらに一言。ハリーが訳す。

 

「“内容はよく分からないが、機嫌は良さそうだった”」

 

 ロンがとうとう両手で顔を覆った。

 

「でかい蛇に“最近のご主人は楽しそうです”みたいな報告させるなよ……」

 

 ハーマイオニーは羽ペンを置いて、羊皮紙を見直した。

 

「ひとまずこんなところね」

 

 彼女は羊皮紙を読み上げた。

 

「秘密の部屋暫定管理規約」

 

「本当に作った!」とロン。

 

「第一条、単独入室の禁止。第二条、アルドゥスの目隠し維持。第三条、餌やり記録の作成。第四条、書庫化作業の一時停止。第五条、父親からの返答があるまで他言しない──」

「ちょっと待って」とわたし。

「わたしは第四条に反対」

「却下」

「まだ言い終わってない」

「聞く必要がないもの」

「横暴だ」

「秘密の部屋に本棚を自作した人にだけは言われたくないわ」

 

 それはそうかもしれない。

 ロンが羊皮紙を覗き込んだ。

 

「第六条は空欄?」

「今書くところよ」

「何?」

 

 ハーマイオニーは少しだけ考えてから、書き足した。

 

「“次に被害が出た場合、この規約は無効とし、直ちに教師へ報告する”」

 

 誰もすぐには口を開かなかった。

 最初に反応したのはドラコだった。

 

「……それでいい」

 

 ハーマイオニーは頷く。

 

「私は最初から報告すべきだと思ってる。でも、今ここで押し切れないなら、せめてそこは絶対条件よ」

「僕も異議なし」とロンが言う。

「むしろそこが重要だろ」

 

 ハリーは少しだけ黙って、それから小さく頷いた。

 

「……分かった」

「本当?」

「本当だよ。でも、その前にできることはやろう」 「君、ほんとに情が深いよな」

 

 ロンは呆れたように言った。

 

「相手が巨大蛇じゃなかったら感心してた」

 

 ドラコが羊皮紙を受け取り、ざっと目を通す。

 

「全員署名しろ」

「えっ」

「えっ、じゃない」

「秘密の部屋管理規約に?」

「絶対に破らないと誓わないと意味がない」

 

 それは確かにそうだった。

 ハーマイオニーが最初に署名した。次にロンが、「こんなものに署名したくない」とぶつぶつ言いながら書き、ハリーが書き、最後にわたしが書いた。ドラコは一番最後までためらってから名前を記した。

 

「何か、結成してはいけない団体みたいだね」

 

 ハリーはアルドゥスに条約を丁寧に通訳していた。アルドゥスがぼそりと何か言った。ハリーが首を傾げる。

 

 

「“肉の量についての条項がない”だって」

 

 ロンが天を仰いだ。

 

「そこはしっかり聞いてるんだな」

 

「餌の量はあとで相談する」

「本当に運営する気じゃないか」

 

 ロンがあきれたような顔をする。

 ドラコは羊皮紙を丸めると、きっぱり言った。

 

「これで終わりだ。今日はもう出るぞ」

「今日は、って言った?」

 

 ロンが反応する。

 

「明日以降も来る前提なんだ」

 

 みんなが出口へ向かい始める。ハリーだけが少しだけ振り返って、アルドゥスを見上げた。

 

『また来る』

 

 アルドゥスはゆっくりと頭を動かした。

 

 

 

 *

 

 

 翌朝、わたしは嫌な予感で目が覚めた。

 具体的には、枕元に立っていたドビーのせいだ。

 

「お嬢様」

「ぎゃっ」

「朝から悲鳴はよくありません」

「朝から枕元にドビーがいるのもよくないと思う」

「申し訳ございません!」

 

 ドビーは目を潤ませたまま、両手で一通の封書を差し出した。黒い蝋に、見慣れたマルフォイ家の紋章がある。

 

「旦那様から、若様へお返事です」

「お兄さまに? なんでわたしに知らせたの?」

「内緒でお渡ししようと思いましたが、ドビーはどのみちお嬢様も巻き込まれているので、もう誤差だと思いました」

「その判断いやだな」

 

 とはいえ、内容は気になる。ものすごく気になる。

 

「それで?」

「若様にはもうお伝えしました」

「早い」

「若様は昨夜ほとんど眠っておられませんでしたから」

 

 ちょっと申し訳ない。

 ドビーはそこで少しためらって、それから声をひそめた。

 

「……旦那様は、お嬢様の持ち物に“黒い日記帳”がないか確認するように、と」

 

 心臓が、どくんと重く鳴った。

 

「見つけた場合は、決して他人に見せず、すぐ回収しろとも書いてあります」

「……へえ」

「お嬢様」

「何でもないよ」

 

 全然何でもなくなかった。

 

 

 父は日記の存在そのものは知っている。知っていて、しかも妙にそこだけ具体的だ。

 嫌な感じしかしない。

 

「若様、朝食のあとにお嬢様と話すと仰っていました」

「だろうね」

「ドビーはこのあと何も見なかったことにします」

「ありがとう」

 

 ぽん、と音がして、ドビーは消えた。

 わたしはしばらくその場に座り込んでいた。

 黒い日記帳は、ベッドのカーテンの内側、枕の下にある。昨夜は心配で、近くに置いたまま寝た。

 静かな沈黙の中で、ぱらりと日記がひとりでに開く。

 

『……聞こえたよ』

「うん」

『厄介なことになったね』

「知ってる」

『日記を回収するつもりらしいね』

「うん」

『渡すのかい?』

 

 その問いに、わたしはすぐには答えられなかった。

 渡したくない。

 それは、すぐに分かる。

 本だからでも、秘密の手がかりだからでもない。

 トムがいるからだ。

 

「……いや」

 

 小さく答える。

 

「トムは友達だから」

 

 インクが一瞬、揺れた。

 文字はしばらく出なかった。

 やがて、少し遅れて浮かぶ。

 

『君は時々、僕の想定を雑に超えてくるね』

「褒めてる?」

『まったく』

 

 でも、少しだけ日記のページが温かい気がした。

 

 朝食の席は、予想通り最悪だった。

 ドラコはわたしを見るなり言った。

 

「あとで話がある」

「食後?」

「今すぐでもいい」

 

 朝食が終わるとすぐ、ドラコはわたしを人気のない廊下へ連れ出した。

 ドラコは周囲を確認してから、低い声で言った。

 

「父上から追加指示が来た」

「うん」

「黒い日記帳を持っているだろう」

「何のこと?」

「とぼけるな」

「お兄さまこそ、急に何の話?」

「ローゼマイン」

 

 名前を呼んだ声は思ったより厳しかった。

 

「父上がそこだけああいう書き方をするのは珍しい。普通の本じゃないんだろ」

「……」

「寄越せ」

 

 あまりにもあっさり言われて、逆に頭が真っ白になった。

 

「嫌」

「嫌で済むと思うな」

「でも嫌なものは嫌」

「ローゼマイン」

 

 ドラコが一歩近づく。わたしは一歩下がった。

 

「トムは友達だから」

「は?」

 

 ドラコの顔が、本当に何を言われたのか分からない人の顔になった。

 

「今なんと言った」

「友達」

「本に!?」

「本じゃないよ。トムだよ」

「なお悪い!」

 

 ドラコは本気で頭を抱えた。

 

「何なんだお前は! 秘密の部屋にバジリスクを飼って、そのうえ得体の知れない日記帳と友達だと!?」

 

 わたしはローブの内ポケットの上から日記を押さえた。渡したくなかった。どうしてここまで嫌なのか、自分でも少し分からないくらい嫌だった。

 

「父上は回収しろと言った」

「でもわたしは嫌」

「お前の意思を聞いているんじゃない」

「聞いてよ!」

 

 その瞬間、廊下の空気がびりっと震えた。

 まずい、と思った時にはもう遅かった。

 壁の燭台が一斉に揺れ、窓ガラスががたがたと鳴る。床に落ちていた羽ペンがふわりと浮き上がり、ドラコの髪が見えない風に煽られた。

 

「ローゼマイン!」

 

 ドラコが叫ぶ。

 

「落ち着け!」

「無理!」

「だって嫌なんだもん!」

「小さい子どもみたいなことを言うな!」

 

 それはそうなのだけれど、でも嫌なものは嫌だった。

 胸の奥から熱いものがどっと溢れる。

 頭がくらくらする。

 魔力が、身体の外へ押し出される。

 その時だった。

 日記の内側から、誰かがこちらへ手を伸ばした気がした。

 

『……なるほど』

 

 トムの声がいつもよりずっと近かった。頭に響くように声が聞こえる。

 

『君、本当に僕を手放したくないんだね』

 

「……トム」

「何を言ってるんだ?」

 

 ドラコが不思議そうな顔でこちらを見つめている。

 

『だったら少し借りるよ』

 

 何を、と聞く暇もなかった。

 世界が、一瞬だけずれた。

 まるで自分の身体に自分よりもう一人、ぴたりと重なったみたいな感覚。

 指先の角度、呼吸の深さ、視線の置き方。全部が自分なのに、自分だけではない。

 ぞっとした。

 次の瞬間、わたしの身体が自分の意思と関係なく動いた。

 ドラコが目を見開く。

 

「マイン?」

 

 答えられない。口は動かない。身体だけが、するりとドラコの横を抜けた。

 

『今は君の父親に渡すわけにはいかない』

 

 耳の奥でトムが囁く。

 

『ダンブルドアに見つかるよりはましだが、それでも好ましくはない』

 

 廊下を曲がる。

 人の気配のする方へ。

 身体の主導権は、ほんの一瞬しか続かなかった。

 急に膝から力が抜ける。わたしは壁に手をついた。

 

「っ、は……」  

 

 息がうまくできない。頭がぐらぐらする。

 ちょうどその時、角を曲がってきたのはハリーだった。

 

「え?」

「ポッター!」

 

 ドラコの声が飛ぶ。ハリーが反射的にこっちを見て、わたしと衝突した。腕の中の日記は床に落ちるより先に、彼の腕の中の教科書の山にぶつかって、そのまま他の本に紛れ込んだ。

 ハリーはよろめきながら本を抱え直した。

 

『夜に秘密の部屋でまた会おう』

「待って!」

 

 トムの言葉に思わず叫ぶ。

 

「な、何?」

「何でもない!」

 

 何でもなくはない。でも何でもないと言うしかなかった。

 トムが自発的にハリーの教科書に紛れ込むようにした? 

 ドラコは今のを見ていないようだった。

 ハリーは困った顔で言った。

 

「……本当に何でもないの?」

「うん」

「顔色ひどいけど」

「それはいつものこと」

「そこ威張るとこじゃないだろ」

 

 ドラコが低く言った。

 ハリーはまだ怪訝そうだったけれど、結局それ以上は言わなかった。本の山を抱え直して、去っていく。

 黒い表紙は、もう見えなかった。

 

「マイン、日記を渡せ」

「部屋にあるから、待って」

 

 わたしは部屋にある黒い表紙のどこにでもあるようなノートをドラコに渡した。どちらにせよ、ドラコはどれが本物なのか分かるはずもない。父は困るかもしれないけど、ふくろうで手紙を届けるのに一往復分かかる。

 

 その夜、わたしは日記のない手元を、ずっと見つめていた。

 

「トム」

 

 答えはない。

 

「トム」

 

 

 胸の奥がすうっと冷えていく。

 なくした。

 正確には、なくしただけではない。

 あれは、奪われたのではなかった。

 トムが、自分で移ったのだ。

 わたしの魔力を使って。

 わたしの身体を、一瞬だけ借りて。

 

「……最悪」

 

 上手く怒れないのは、別のことが引っかかっているからだ。

 トムは、ハリーのところへ行った。

 偶然ではない。あれは、選んだのだ。

 机の上には、秘密の部屋関連で使っていた目録用カードが散らばっていた。

 アルドゥスの餌の量だの、棚の配置だの、禁書候補だの、今となってはどうでもよくなるようなことまで書いてある。

 その中から、わたしは一枚、空白のカードを引き抜いた。

 羽ペンを持つ。

 まず書いたのは、彼の名前だった。

 

 TOM MARVOLO RIDDLE

 

 

 わたしは羽ペンの柄で机をこつこつ叩いた。

 

 五十年前のホグワーツ生。  

 秘密の部屋を開いた。

 スリザリンの継承者。

 蛇語が話せる。

 

 そこまでは、もうほとんど確定している。

 でも、そこから先が引っかかる。

 ハリーのことだ。

 トムはハリーの話をしたとき、やけにハリーを気にしていた。

 

「なんで、そこまで……」

 

 わたしはカードの端に書き足す。

 

 ハリーへの異様な関心

 蛇語

 

 羽ペンが止まる。

 ……変だ。

 五十年前の継承者が、どうしてハリー・ポッター個人にそんな関心を持つ必要があるのだろう。秘密の部屋だけの話なら、そこにハリーは関係ない。それなのにトムは、まるで自分に関わることのように、あの子の話を聞いていた。自分と血がつながっているかもしれないから? 

 そこで、脳裏にひどく嫌な考えが浮かぶ。

 まさか。

 でも、そんなはずは──

 わたしはもう一度、名前を見る。

 

 TOM MARVOLO RIDDLE

 

 なんとなく、文字を追う。綴りを分ける。並びを眺める。

 

 本当に、ただの思いつきだった。でも一度そう思ってしまうと、もうただの名前には見えない。

 わたしは新しいカードを引き寄せた。小さくカードを切って、一文字ずつ書き出す。

 

 T

 O

 M

 M

 A

 R

 V

 O

 L

 O

 R

 I

 D

 D

 L

 E

 

 それを見つめる。

 並べる。消す。もう一度書く。

 心臓の音が大きい。

 

「……うそ」

 

 最初に浮かんだのは LORD だった。次にVOLDEMORT。  

 最後に残った文字を並べる。

 

 I AM LORD VOLDEMORT

 

 わたしは手を止めた。

 机の上に、二つの名前が並んでいる。

 

 TOM MARVOLO RIDDLE

 I AM LORD VOLDEMORT

 

 一瞬、意味が分からなかった。分かってからの方が、もっと嫌だった。

 喉がひどく乾く。

 

「うそでしょ」

 

 でも、うそじゃない。こんな趣味の悪い遊びみたいなことをするのは、あのトムならむしろやりそうだと、最悪なことに思ってしまった。

 トム・リドル。秘密の部屋を開いた継承者。そして、ハリー・ポッターに執着する誰か。

 その全部が、今、机の上の文字で一つに繋がっている。

 わたしはカードを掴んだ。

 指先が少し震えていた。

 

「……ヴォルデモート卿」

 

 声に出してしまってから、急に部屋の空気が冷えた気がした。

 いつものように、すぐにインクが浮かんだりはしない。

 日記はもうここにない。

 トムはハリーのところにいる。

 背筋のあたりだけがぞくりとした。

 トムが前に言っていたことを思い出す。

 

 君は時々、僕の想定を雑に超えてくるね。

 

「……超えたくて超えたんじゃないよ」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 でも、もう見ないふりはできなかった。

 トムは、ただの昔の継承者じゃない。ただの得体の知れない日記でもない。

 そしてたぶん、ハリーに近づいた理由も、もう一つ先にある。

 わたしは立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、妙に大きく響く。

 行く先は決まっていた。

 問い詰める相手も、たぶん一人しかいない。

 

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