本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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ハリー視点。


21話 クィディッチの魔王

 

 決勝戦の数日前、グリフィンドールの練習は最初から空気が重かった。

 ピッチに出た瞬間に分かった。風は悪くない。天気もいい。箒の調子も普通だ。なのに、チーム全体の顔が妙に固い。

 その原因は、練習開始五分でやってきた。

 オリバー・ウッドが笛を吹いて、全員をいったん地上に降ろしたのだ。

 

「何?」  

 

 ハリーが訊くと、ウッドは心底嫌そうな顔で言った。

 

「聞いたかもしれないが、スリザリンのビーターが一人、決勝に出られなくなった」

 

「へえ、朗報?」とフレッド。

「違う」とウッドが返す。

 

「代わりにフェルディナンド・ブラックが入る」

 

 その瞬間、空気が変わった。

 

「うわ」

 

 ジョージが言った。

 

「それは嫌だね」

「知ってるの?」

 

 ハリーが訊くと、双子は顔を見合わせた。

 

「知ってるも何も」

「クィディッチ界隈じゃ有名だよ」

「有名?」

「魔王」

 

 フレッドがあっさり言った。

 ハリーは瞬いた。

 

「……は?」

「魔王だよ」とジョージ。

「そのまんま」

「いや、意味が分からない」

「分からなくていいものを分からせるのがキャプテンの仕事だ」

 

 ウッドが重々しく言った。

 

「ハリー以外も聞け」

 

 そこでウッドは、本当に嫌な話をする時の顔になった。 

 

「フェルディナンド・ブラックは、正式なレギュラーじゃない。本人にその気がないからな。だが、人数が足りない時、あるいは絶対に落とせない試合で何度か出ている」

「それで? 単なる助っ人のどこが魔王なの?」

 

 ハリーが言う。

 

「ブラックが出た試合で、スリザリンは一度も負けていない」

 

 沈黙が場を支配した。

 

「一回も?」

「一回もだ」

 

 ウッドはきっぱり言った。

 

「あいつは戦略家だ。考えて打つ。それも、当てるためじゃない。試合の流れを崩すために打つ」

 

 ハリーは眉をひそめた。

 

「どういう意味?」

「進路を切る。上昇を諦めさせる。チェイサーのパスコースを狭める。キーパーが守りやすい位置へ追い込む。ブラッジャーが飛んでくる“かもしれない”と相手に思わせるだけで、動きは半拍遅れる」

 

 ウッドは悔しそうに歯を食いしばった。

 

「ブラッジャーを打ってるように見せて、実際には人を動かしてるんだよ」

「……え?」

 

 ハリーの口から出たのは、それだけだった。想像ができない。

 

「僕も最初に聞いた時はそうだった」とジョージ。

「見た時はもっと嫌だった」とフレッド。

 

 ウッドは今度はハリーをまっすぐ見た。

 

「あいつは最初からお前を狙う」

「だろうね」

「そして、フェルディナンドばかり見ているとドラコに取られる」

「どっち?」

「だから言ってる!」

 

 ウッドが珍しく本気で怒鳴った。

 

「お前はマルフォイだけを見ろ。ブラックの球に気を取られて頭を持っていかれたら終わりだ」

 

 そこでフレッドが、珍しく茶化さずに言った。

 

「大丈夫」

「何が?」

「僕らがいる」

 

 ジョージも頷く。

 

「僕らがお前の盾をやる」

「盾」

「そう」

 

 フレッドがクラブを肩で回した。

 

「ブラックがシーカー狙いで来るなら、僕らはそれを邪魔する」

「やれるの?」 

 

 ハリーが聞くと、双子はそろって笑った。

 

「やってみせるよ」

「グリフィンドールのビーターをなめるな」

 

 ウッドはそこで初めて少しだけ頷いた。

 

「作戦を変える」

 

 全員が顔を上げる。

 

「アンジェリーナ、アリシア、ケイティ。パス回しは速く、止まるな。ブラックに進路を読まれても、迷う方がまずい」

「了解」

 

 アンジェリーナが短く答えた。

 

「フレッド、ジョージ。今日は通常の援護よりハリーの防御を優先しろ」

「了解」

「任された」

「ハリー」

 

 ウッドの目がまた向く。

 

「マルフォイにだけは取らせるな」

「うん」

「ブラックは魔王だ。だが、勝てない相手じゃない」 「ほんとに?」

「知らん、勝ったことない」

「ええ……」

「だが、初めて勝てるかもしれない」

 

 ハリーは少しだけ口元を引き締めた。

 

「勝ちたい」

「よし」

 

 その日から、練習の空気が変わった。

 フレッドとジョージは本気でハリーの周りを飛ぶようになった。

 冗談を言いながらも、ブラック役を交代でやって、シーカーの進路へブラッジャーを置く真似をする。ハリーが上に逃げれば、すぐ別の球がそこへ来る。下へ切れば、今度は横から潰される。

 

「嫌だなあ、これ」

 

 ハリーがぼやくと、 「だろ?」とフレッドが言った。

 

「だから先に慣れとけ」

「ブラック本人はもっと性格悪いはずだから」

 

 ジョージが平然と続ける。

 

「それ全然慰めになってない」

 

 でも、双子がいてくれるのは助かった。

 少なくとも、フェルディナンドが完全に一方的に盤面を握る想像だけで終わらずに済んだ。

 それでも、試合が近づくほど嫌な予感は増していった。

 

 試合当日の朝、ハリーは目が覚めた瞬間から嫌な気分だった。

 理由は明快だ。

 決勝戦だから。

 相手がスリザリンだから。

 ドラコがシーカーだから。

 そして、フェルディナンド・ブラックがビーターとして出るからだ。

 最後の一つが、特によくなかった。

 大広間はもう朝から騒がしかった。試合の話であちこちの卓がざわめいている。グリフィンドール卓に着くと、ロンがトーストをくわえたまま言った。

 

「おはよう、ハリー。顔が死んでる」

「起きてからずっと嫌な予感しかしない」

「分かる」とロンが頷く。

 

「僕もだよ。今日の空気、朝から“何かが壊れる日”って感じする」

「縁起でもないことを言わないで」

 

 ハーマイオニーがジャムを塗りながら言う。

 

「少なくとも、骨折はしないでほしいわ」

「それ、慰めになってないんだよね」とハリー。

 

 フレッドとジョージは向かいで、いつもより静かに朝食をとっていた。でも静かなだけで、覇気がないわけじゃない。二人とも、今日はちゃんと戦う顔をしている。

 

「大丈夫」

 

 フレッドが言う。

 

「昨日まで散々やったろ」

「ブラックが来ても、最初の数球は絶対に好きにさせない」

 

 ジョージが続ける。

 

「ありがたいけど、すごい言い方だね」

「試合だからね」

「今日は俺ら、チェイサーの護衛半分」

「お前の護衛半分」

「「あとは気合」」

 

 

 でも少しだけ、気が楽になった。

 更衣室の空気はぴんと張っていた。

 ウッドがボードに箒の動きを描きながら説明する。けれど、内容自体は数日前に聞いたものの確認だった。だから余計に重い。

 

「いいか。スリザリンはドラコで取りに来る。そのためにブラックが流れを潰してくる」

「分かってる」

 

 フレッドが言う。

 

「まず最初に、ハリーの頭上を好きに使わせない」

「ジョージはハリーの左、僕は右を厚めに見る」

「逆でもいいけどな」

「お前が逆へ行くとややこしいんだよ」

「それはそれで面白い」

「面白さでやるな」

 

 ウッドは本気だった。

 

「今日は面白さより勝利だ」

 

 少しだけ笑いが起きる。

 その少しがありがたかった。

 最後にウッドがハリーを見る。

 

「ブラックに盤面を決めさせるな」

「うん」

「ドラコにだけは取らせるな」

「分かってる」

 

 ハリーは箒を握り直した。

 

「勝つ」

「よし」

 

 ピッチに出た瞬間、歓声が身体を打った。

 観客席は赤と緑が目立つ。黄色と青も混ざっていて、空はよく晴れていた。風は少し強いが、飛べないほどではない。むしろシーカーには悪くない条件だ。

 スリザリンの列の方を見る。

 フリントはいつものように勝ち誇った顔をしている。ドラコは銀色のローブで立っていた。目が合うと、すぐに口元を上げる。

 

「逃げるなよ、ハリー」

「そっちこそ、今日は一人で飛べないの?」  

「勝つために使えるものは使う」

「ずいぶん正直だね」

「お前相手にはな」 

 

 そして、その少し後ろにフェルディナンドがいた。

 顔は心底面倒そうなのに、立ち方だけが妙に隙がない。

 ハリーが見ているのに気づくと、フェルディナンドは軽く顎を上げた。

 

「シーカー」

「ビーター」

「運が悪かったな」

「そっちこそ」

 

 フェルディナンドは静かに言った。

 

「出るからには勝つ。それだけだ」

 

 その声の平坦さが、かえって怖い。

 笛が鳴った。

 試合が始まる。

 最初の数分は、普通の荒い試合だった。

 クアッフルが行き交う。チェイサーたちが速度を上げ、フレッドとジョージがブラッジャーを打ち返し、観客席が波みたいに揺れる。ハリーは高く上がりながら、ドラコを視界の端に入れてスニッチを探した。

 まだ見えない。

 ドラコも同じだ。

 だが、その時点でハリーにはもう一つ気になるものがあった。

 フェルディナンドだ。

 最初のブラッジャーを打つまで、彼はほとんど動かなかった。

 なのに、次の瞬間にはちょうどアンジェリーナがゴール前へ切り込もうとしたコースの先へ、黒球が滑り込んでいた。

 

「うわっ!」

 

 アンジェリーナが慌てて方向を変える。

 その一瞬のずれで、パスが遅れ、スリザリンのチェイサーが割り込む。

 観客席からどよめきが上がる。

 

『おっと、グリフィンドールの攻めが止まりました!』

 

 リー・ジョーダンの実況が響く。

 

『ブラックの球がまるで先回りしてるみたいですね! 魔法でも使ってるのか?!』

『リー』

 

 マクゴナガル先生の冷たい声が飛ぶ。

 

『実況は公平に』

『公平です先生! 僕はただ不愉快な偶然だなと思っただけで!』

 

 ハリーは眉をひそめた。

 

 偶然、ではない。

 その数分後には、もっとはっきりした。

 ケイティが右から抜けようとした瞬間、フェルディナンドのブラッジャーが、彼女の身体ではなく、その先の空間に置かれるみたいに飛んだ。ケイティはぶつかるのを避けるために一瞬だけ速度を落とし、その隙にスリザリンのキーパーが位置を整える。シュートは弾かれた。

 得点にならない。

 

 

「……何だよあれ」

 

 思わずハリーは呟いた。

 フェルディナンドは、誰かを直接叩き落とすより、得点の流れそのものを壊していた。

 まるで、ブラッジャーの進路を操っているみたいだった。

 しかも、そのたびにフレッドとジョージがすぐ反応しているのが分かる。

 完全には止めきれない。けれど、二人がいなければもっとひどかった。

 

 

「左、ハリー!」

 

 ジョージの声が飛ぶ。

 次の瞬間、ハリーの頭上へ上がってきた黒球を、フレッドが横から叩き返した。

 

「危なっ」

「だから言ったろ」

 

 フレッドが叫ぶ。

 

「今日はお前の盾だって!」

「ありがたいけど全然穏やかじゃない!」

 

 ハリーは一度だけ高く上がって、全体を見た。

 その瞬間に分かる。

 フェルディナンドは、球を打ってから選ばせているんじゃない。

 どこへ打てば相手が何を諦めるか、先に決めている。

 

「ほんとに魔王じゃないか……」

 

 そして厄介なことに、それはシーカーに対してでも同じだった。

 ハリーが少しでも上昇の角度を変えようとすると、その先に黒球が来る。避ければ下へ。下へ逃げればドラコが前に出る。ドラコを追えばまた別の球が視界の端に入る。

 直接当てに来る方が、まだ分かりやすい。

 フェルディナンドの球は、いつも半手早い。

 まるで、ハリーが次にどこへ飛ぶか知っているみたいだった。

 

 

 ハリーは急降下しながらドラコを追った。

 その時、ドラコが振り向かずに言う。

 

「遅いぞ、ハリー」

「そっちが邪魔させてるんだろ!」

「勝てるなら勝ってみろ」

「言われなくても!」

 

 腹が立つ。

 でも、その腹立たしさが自分を奮い立たせるにはちょうどよかった。

 下では、得点板の数字が少しずつ開いていく。

 

 10対0。

 20対0。

 40対0。

 

 グリフィンドールは何度も攻める。

 でも、最後の一手でずれる。止まる。遅れる。ブラッジャーが来る。ゴール前が詰まる。

 ハリーは試合の途中から、自分の勝敗だけじゃなく、チーム全体がゆっくり絞められていく感覚を味わっていた。

 しかも、フレッドとジョージが必死にカバーしているのに、それでも押し切られていくのが分かる。

 だから余計に重かった。

 

『またしてもグリフィンドールのシュートは外れます!』

 

 リーが叫ぶ。

 

『いや、外れたというより、外させられた感じがしますね! 憎たらしい!』

『リー!』

『公平です先生! 今日は僕の語彙が全部“嫌だ”寄りなだけです!』

 

 

 点差は広がる。

 70対0。

 90対0。

 110対0。

 無失点。

 それが、ハリーには何より嫌だった。

 点差だけじゃない。

 グリフィンドールの攻撃が一度も通らない。

 自分がスニッチを取れればまだ逆転の余地はある。けれど、それでもこの試合の空気そのものが、もう負けだと告げてくる。

 ウッドの顔を見るのがつらかった。

 でもキャプテンは叫び続けていた。諦めていない。だからハリーも諦めたくない。

 その時、視界の左下で金色が光った。

 スニッチだ。

 低い位置。

 ゴールポストの少し外、太陽の反射の端。

 ハリーが箒を倒し込む。

 同時に、ドラコも見つけた。

 

「ハリー!」

「ドラコ!」

 

 二人の箒がほとんど同時に落ちる。

 風が顔を叩く。地面が近づく。

 ハリーは前だけを見た。

 フェルディナンドを意識するな。

 ドラコだけを追え。

 練習でウッドに何度も言われた言葉を、頭の中で繰り返す。

 スニッチが少し右へ逃げる。

 ドラコが先に角度を取る。

 ハリーはその内側へ入ろうとした。

 その瞬間だった。

 右後方から、黒いものが滑り込んでくる。

 ブラッジャー。

 でも身体に当てる球じゃない。

 ハリーが次の一秒で最短距離を取るために倒し込むはずだった、そのちょうど先の軌道に置かれている。

 まるで最初からそこに行くと知っていたみたいに。

 

「っ……!」

 

 ハリーは反射的に箒をわずかに起こした。

 ほんの一瞬。それだけだ。

 でも、その一瞬で十分だった。

 ドラコが前に出る。

 銀色のローブが視界をかすめる。

 ハリーは無理やり角度を戻して追いすがった。まだ届く。まだ終わってない。ドラコの肩がすぐそこにある。スニッチはその少し先だ。

 

「どいて!」

「どかない!」

 

 ドラコは振り向きもせずに叫んだ。

 声は笑っているのに必死だった。

 ハリーは腕を伸ばした。

 指先がドラコのローブをかすめる。

 スニッチの羽音が聞こえる。

 次の瞬間、ドラコの右手が閉じた。

 金色が消える。

 笛の音が、空気を切り裂いた。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 

 分かってからの方が、もっと嫌だった。

 観客席の歓声が、赤と緑に二つに割れて爆発する。

 でもハリーの耳には、その音が少し遅れて届いた。

 ドラコが箒を引き、ハリーのすぐ前で止まる。

 その手には、金のスニッチが握られていた。

 

 今までで一番、本気で勝ち取った顔だった。

 

「……取った」

 

 ドラコが息を切らしながら言う。

 

「見れば分かるよ」

 

 ハリーの声は、自分でも思っていたより平坦だった。

 そこへ少し遅れてフェルディナンドが上がってきた。

 

「進路は悪くなかった」

 

 フェルディナンドが言う。

 

「最後の一手が遅れただけだ」

「慰めのつもり?」

「事実だ」

 

 それが余計に嫌だった。

 下の得点板が目に入る。

 260 - 0

 スリザリンの勝利。

 グリフィンドールは無得点。

 スニッチを取られたことより、その数字の方がハリーには重かった。

 自分が負けただけじゃない。

 チームごと完膚なきまでに負けた。

 試合が終わったあとも、歓声はずっと耳の奥に残っていた。

 スリザリンの緑。

 ドラコの手の中のスニッチ。

 得点板の数字。

 260対0。

 あそこまで数字で負けると、悔しいを通り越して、逆に変な静けさがくるらしいと、ハリーはその日初めて知った。

 夕食もろくに食べる気がしなかった。ロンは「無得点って何だよ」とずっと文句を言っていたし、ハーマイオニーは「次頑張ればいいのよ」と慰めの言葉をかけてきた。

 ハリーは何となく、スリザリン卓の方を見た。ドラコが勝利を喜んでいるとは思えない不機嫌な顔で食事もろくに手をつけず、空いた席の方を見ていた。

 何か変だ。

 

「そういえば、マインがね」

 

 ハーマイオニーはハリーの様子を察してか話を変える。

 

「また倒れたの」

「え?」

 

 ロンも顔を上げた。

 

「また? この前もフリットウィック先生を授業中ずっと空中浮遊したままタップダンスさせたって聞いたけど?」

 

 それどういう状況? 

 

「防衛術の授業でロックハート先生に教わった魔法を披露したときに呪文の出力が強くなりすぎて、教室中のものを吹き飛ばしたあと、そのまま医務室へ運ばれたわ。ついでにロックハート先生も大怪我したみたい。ジニーが言ってた」

「また吹き飛ばしたのかよ」

 

 ロンが言う。

 

「大丈夫なのか?」

「熱も出てるみたい。さっきマダム・ポンフリーが、今日は絶対安静だって言ってた」

 

 ハーマイオニーは少し眉をひそめた。

 

「最近ずっと変なのよ。授業でもやりすぎるし、前より倒れることも増えてる」

「マインって、前からたまに倒れてただろ」

「そうだけど、最近は頻度が違うの。下手したら毎日倒れるか何かを吹き飛ばしてる」

「せっかく秘密の部屋問題が消えたのにな」

 

 ハーマイオニーが周囲を見渡して声をひそめる。

 

「消えてないわよ。私たちが上手く制御してるだけ」

「マルフォイも前よりいいやつに見えてきたよ。トロールよりはね」

 

 ロンたちは夕食のあとはハリーと別れて秘密の部屋へ行った。アルドゥスにご飯をあげに行くのだという。負けた直後の自分に、今はあまり何も言わない方がいいと判断してくれたのかもしれない。

 ありがたいような、ありがたくないような気分だった。

 ハリーは鞄を引き寄せた。

 教科書の隙間から、黒い表紙がのぞく。

 トム・リドルの日記だ。

 最初は気味が悪かった。日記の中から話しかけられるのは。

 でも、トムは話しやすい。少なくとも、大人みたいに説教はしないし、ロンみたいに大げさに騒がないし、ハーマイオニーみたいに「こうするべき」とすぐ結論を出さない。

 ハリーのくだらない愚痴にも付き合ってくれるし、ダーズリーの話には一緒に怒ってくれる。

 

 ただ──たまに、妙に引っかかる。

 自分と話しているくせに、どこかで別の誰かと比べられているような感じがあるのだ。

 それが何となく気持ち悪くて、だからハリーは、トム相手に何でもかんでも喋っているわけではなかった。話しやすいけれど、夢中になるほどではない。そこはちゃんと線を引いているつもりだった。

 ハリーは机の上で日記を開いた。

 

『トム、いる?』

 

 少し間があって、黒いインクがじわりと紙の上ににじんだ。

 

『君が話したいなら』

 

 その文字を見た瞬間、ハリーは妙にほっとしてしまった。

 

『クィディッチでスリザリンに負けたんだ。優勝杯を取りそこねた』

 

 インクが少し揺れて、それからトムが返す。

 

『おつかれさま。君はよく頑張ったよ』

『悔しい』

『そうだろうね』

『ドラコにはもう絶対に負けたくない。次は絶対に勝つ』

 

 そこで、ふとハリーは別のことを思い出した。

 

『そういえば』

『何』

『今日、マインが倒れたって聞いたんだ。マインっていうのはドラコの妹。だからドラコは勝ってもあまり喜べなそうで、僕もあまりムカつかなかったけど』

 

 トムの反応が急に変わった。いつもより怒号の勢いで返事が返ってくる。

 

『どういうことだ? 何が起こったんだ? マインは無事なのか?』

『防衛術でやりすぎて、そのあと医務室に運ばれたって』

『やりすぎた?』

『呪文の出力が強すぎたとか何とか』

『……それで今は?』

 

 トムの文字には焦りがあるような気もする。

 

『熱もあるって。寝込んでるみたいだけど』

『意識は』

『分かんないよ、会ってないし』

『いつからだ』

『何が』

『不調だ』

 

 トムはハリーを見た。

 

『いつから、どの程度、魔力はどんな暴れ方をした』

 

 ハリーは瞬いた。

 

『急にどうしたの』

 

 少し待ってから、ようやく文字が現れる。

 

『何がだい』

 

 ハリーは羽ペンの先をとん、とページの端に押し当てた。

 

『マインが倒れたって言ったら、急に質問が細かくなった』

 

 今度の返事は、また一拍遅れた。

 

『気のせいだよ』

『気のせいじゃない』

 

 インクが少しだけ濃くなる。

 

『そういうこともある』

『それ、否定してないよね』

 

 ハリーは日記を見つめた。やっぱりだ、と思う。

 この日記の中の相手は話しやすい。自分の言ったことをすぐ否定しないし、妙な慰めもしない。

 でもトムは明らかに自分を誰かと比べているような気がしていた。

 

『この日記の持ち主って、もしかしてマイン?』

 

 その文を書いた瞬間、今度は本当にはっきりと反応が止まった。

 さっきまで動いていたインクが、一文字も増えない。

 それだけで、ハリーにはだいたい答えが分かったようなものだった。

 

『当たり?』

『鋭いね』

『否定しないんだ』

『持ち主と言われると違うが、まあ、そんなところだ』

 

 ハリーは少しだけ息を吐いた。

 

『最初からマインのだったの?』

『“最初から”ではないね。だが、今は──うん、そうだ』

 

 ハリーはその返事を見て、少しだけ考えた。

 マインが最近よく倒れること。

 授業で魔力が暴発すること。

 いくつかの点が、そこでようやく一本に繋がった。

 

『……これ、もしかして、マインの魔力を抑える魔法道具みたいなものなの?』

 

 今度の返事は早かった。

 

『そういう解釈をしてくるか』

『違うの?』

『完全には違わない』

 

 ハリーはそこで、少しだけ顔をしかめた。

 トムは困ったことになると曖昧に返してくる。

 

『でも、マインが体調悪くなったのはちょうど僕が日記を手にしてからだ。今日だって倒れたの、日記が君のところにある間だった』

『君は妙なところだけ鋭いね。マインみたいだ』

『褒めてる?』

『まさか』

 

 ハリーは少しだけ肩をすくめた。

 でも、今のでだいたい分かった。

 たぶんこれは、普通の意味での“日記”じゃない。

 話す相手がいるとか、不気味だとか、そういうことはもう分かっている。

 それに加えて、ローゼマインにとっては、魔力をどこかへ逃がすための道具みたいな役目まで持っているのだ。

 だったら、自分が持っていていいものではない。

 

『喧嘩でもしたの?』

 

 ハリーが書くと、返事は少し間を置いてから返ってきた。

 

『喧嘩? この僕が、喧嘩?』

 

 ハリーはトムの反応に思わず吹き出しかけた。

 

『そこびっくりするんだ』

『心外だね』

 

 そこでハリーは、ますます確信した。

 きっとこの喧嘩はトムが悪いのだ。しかもたぶん、本人もそれは分かっている。

 

『なんで喧嘩したか詳しくは知らないけど』

 

 ハリーは少しだけ迷ってから、続けて書いた。

 

『でも、仲直りしないとだめだよ』

 

 今度は長く返事がなかった。

 返ってきた文字は、少しだけ小さかった。

 

『君は簡単に言うね』

『簡単じゃないよ。でも、マインが熱出して倒れてるのに、君がここで僕と話してるのはもっと変だ』

 

 また沈黙。

 ハリーはそのままページに、ぽん、と羽ペンを置いた。

 

『マインのところに戻った方がいいと思う』

 

 返事が来る前に、ハリーは続けて書く。

 

『君と話しやすいのは本当だよ。でも、たまに僕と話してるくせに、別の誰かと比べてるみたいで気持ち悪い』

 

 今度は、返事がすぐには来なかった。

 でも、否定の文字も現れない。

 その沈黙だけで、十分だった。

 

『話しやすかったけど、それだけ気になってさ』

 

 返事はなかった。

 けれど否定もしなかった。

 ハリーはそこで、ゆっくり日記を閉じた。

 閉じた黒い表紙は、さっきまでより少しだけ重く感じた。

 

「……返そう」

 

 口に出してから、ハリーは自分でも少し妙な気分になった。

 試合に負けた日の夜に、ドラコの妹のところへ、黒い日記を持って行く。

 だいぶ変だ。

 でも、持っていた方がもっと変だということも、今は分かる。

 ハリーは日記を抱えて立ち上がった。

 これが本当にただの魔法道具なら、持ち主のところへ戻すべきだ。

 そして、もしそれ以上の何かだとしても──やっぱり、自分の手元にいるよりマインの方がまだましに思えた。

 だからハリーは、そのまま医務室へ向かった。

 

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