本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
最初に見えたのは、白い天蓋だった。
次に見えたのは、白いカーテン。白い枕。白いシーツ。白ばっかりで、読書向きではない。あまりにも読みどころがない景色だった。
「……医務室かあ」
呟くと、喉が少しだけ掠れた。
「久しぶり」
聞き慣れた声がして、わたしは勢いよく顔を横へ向けた。勢いよく向けたせいで、すぐに少しくらくらした。
ベッド脇の椅子に腰掛けて、トムがこっちを見ている。いつものように、感じが悪いくらい整った顔で。輪郭は少し薄い。でも、前にハリーのところへ行っていた時よりは、ずっとはっきりしていた。
「……戻ってきたの」
「戻ってきたよ」
トムは静かに言った。
「君が倒れたと聞いたからね」
「ハリーから?」
「そう」
「へえ」
へえ、ではない。
たぶん、もっといろいろ言うべきだった。怒るとか、文句を言うとか、勝手に身体を使ったことを蒸し返すとか。なのに、目の前にトムがいるのを見た途端、そういう言葉が全部少しだけ遠のいた。
代わりに、妙に身体が軽かった。
さっきまで胸の奥にあったざわつきが、今はかなり薄い。熱っぽさも残ってはいるけれど、昨日までの、魔力が行き場を失って暴れている感じがずっと弱い。
わたしはそこで、ようやく息を吐いた。
「……やっぱり日記に魔力を流してたから、少し楽だったんだ」
トムは答えなかった。
でも、黙っているということは、否定しないということだ。
「君の余剰魔力は、あの日記に流れることでかなり逃げていた」
トムは指先を軽く組んだ。
「君の身体には過剰な魔力が多すぎる。そのまま閉じ込めておけば、不安定にもなる」
「じゃあ」
わたしは顔を向けた。
「知ってたの?」
「だいたいは」
「何で言わなかったの」
「言ったら、君はもっと警戒しただろう」
「それはそうだけど」
「それに」
トムは少しだけ目を細めた。
「僕も、君にとってどこまで必要なのか、正確には分かっていなかった」
必要、という言葉が妙に引っかかった。
腹が立つ。
でも、完全には怒りきれない。
だって、今まさに楽だからだ。
「仲直りのぎゅーを要求します」
トムが黙った。
完璧な沈黙だった。
医務室は静かで、カーテンの向こうから誰かの寝息が聞こえるくらいだったのに、その沈黙だけ妙に大きかった。
「……何を?」
「だから、仲直りのぎゅー」
「聞き間違いであってほしかったんだけど」
「残念でした」
「君、起き抜けに言うことがそれかい?」
「どこまで必要なのか分からなかったとか言うから。生きるのに必須だと証明する」
「正気?」
「わりと」
「わりとな時点で駄目だろう」
トムは眉を寄せた。心底嫌そうだった。実にいい気味である。
「君は今、僕に文句を言う流れじゃないのか」
「いっぱいあるよ」
「じゃあ先にそっちを処理したらどうだい」
「今はいいよ」
トムはため息をついた。本当に大きく、呆れと諦めを同時に込めたため息だった。
「僕はそういう役ではないと思うんだけど」
「トムがいなくなって寂しかったんだよ」
トムがわずかに目を細める。
ああ、しまった、とちょっと思う。今のは少しだけ正直すぎた。もっとこう、勢いで押し切る予定だったのに、余計な本音が混ざった。
でも、もう遅い。
「……君は」
トムは言葉を切った。わたしは手をさらに少しだけ伸ばした。
熱のせいか、まだ少し身体が重い。腕もだるい。でも、それでも今言わないと、たぶんあとで悔しい。
「ほら」
「ほら、で済ませるのかい」
「急患なので」
「その理屈は初めて聞いた」
「……一回だけだよ」
「やった」
「まだ何もしていない」
そう言いながら、彼は観念したように身を寄せた。
そこで、わたしは遠慮なく抱きついた。
わたしがトムを抱きしめると、彼はしばらく動かなかった。でも、完全に拒否している感じでもなかった。嫌そうではある。ものすごく嫌そうではあるけれど。
トムはちゃんと実体のある男の子だった。体温を感じる。
しばらく黙ってから、わたしはぽつりと言った。
「お父さまに帰ったら相談しようと思う」
トムの眉がわずかに動く。
「それはずいぶん思い切ったね」
「だって、もう誤魔化しきれないもん」
わたしは毛布を少し握った。
「体調が悪いとか、寝不足とか、そういうので済ませるの、たぶん無理」
「君の父親が、どこまで知っているか分からないのに?」
「分からないから相談するんだよ」
「危険だ」
「分かってる」
分かっている。すごく分かっている。でも、それでも、もう見ないふりでは済まない。
「日記に魔力を流すと少し楽だったことを言えば、トムと一緒にいるのを許してくれると思う」
「……なるほど」
それ以上この話を続けると、たぶん本当に息が詰まる。
だから、わたしはわざと話題を変えた。
「あ! 最近読んだ面白い本の話なんだけど」
トムと最近読んだ本の話をして、しばらくするとトムは消えていった。
でも、少しだけ日記のページが温かかった夜みたいに、医務室の空気が楽になった気がした。
マダム・ポンフリーに「今日は絶対安静!」と言い渡されたあと、わたしは結局その日を丸ごと医務室で過ごした。絶対安静と言われても、本は読みたかったけれど、スネイプ先生にまで「読むな」と言われたので、さすがに諦めた。世の中は理不尽である。
ただ、夕方には熱も下がり、魔力のざわつきもかなり収まった。トムがいるからだと気づいてしまったのは、少し悔しい。
その日の夜、わたしは父宛ての手紙を書いた。
黒い日記帳に魔力を流していた時期の方が安定していたこと、最近魔力の制御が悪化して倒れたこと、それらはちゃんと書いた。
父は怒るだろう。たぶんすごく怒る。
でも、怒られて済むなら、まだましだ。
父から返ってきた手紙には「分かった。帰ったら話し合おう」とだけ書いてあった。本当に納得したのかは不明だった。
それから先の数週間は、怒涛だった。
学期末というのは、どうしてこう、教師も生徒も本気を出してくるのだろう。授業は詰め込まれるし、課題は増えるし、期末試験は普通にやってくる。
医務室で寝込んだ数日を取り返すために、わたしは本気で勉強した。
もともと本気ではあった。そこに「寝込んだ分を取り返す」が乗ったので、さらに本気になっただけだ。
ドラコには「病み上がりでやる量じゃない」と怒られ、ハーマイオニーは大量の参考書を教えてくれた。ロンには「お前らって時々怖い」と引かれた。
トムは、以前ほど長くは現れなかった。でも日記は戻ってきた。
そして、日記が枕元にある夜は、やっぱり少しだけ眠りやすかった。
それが癪で、でもありがたくて、だから余計に複雑だった。
トムは勉強そのものにはほとんど口を出さない。ただし、わたしがうっかり凡ミスをすると、ものすごく嫌な声で指摘してくる。
『そこはさすがに気づけ』
『うるさい』
『その程度で一位を逃したら笑えないだろう』
『笑う気満々じゃん』
『もちろんだよ』
ほんとうに感じが悪い。でも、その感じの悪さに少し助けられていたのも事実だった。
試験の前日、廊下でハーマイオニーに捕まった。
「マイン、ちょっといい?」
「何」
「実技のことなんだけど」
その言い方で、わたしは少しだけ身構えた。
ハーマイオニーは一個上の学年だ。だからもう自分の経験として知っている。知っている人の「ちょっといい?」は、だいたい有益で、たまに痛い。
「あなた、実技でも普段みたいに魔力を絞るつもりでしょう」
「それはそうだよ」
わたしは言った。
「普段から使いすぎると怒られてるし」
「普段はね」
ハーマイオニーはぴしゃりと言った。
「でも試験は別よ」
わたしは瞬いた。
「別?」
「別」
ハーマイオニーは腕を組んだ。
「実技は、ちゃんと制御できているなら、出力が高い方が評価されるの。魔力をたくさん使ったら減点されるんじゃない。暴走したら減点されるの」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
「そんな大事なこと、もっと早く言ってよ」
「あなたが普段、思いっきりやったら危ないからよ!」
それはそうだった。
あまりにもそうだったので、反論できない。
わたしは過去の自分の前科をいくつか思い出し、黙った。
フリットウィック先生が浮いたこととか、洗浄呪文で水流が大惨事になったこととか、だいたいろくでもない。
ハーマイオニーはため息をついた。
「ローゼマイン、よく聞いて。実技のときは魔力のことなんて気にせず思いっきりやりなさい。いつも出力が多すぎるだけで効果は間違っていないんだから、思い切りやっても大丈夫よ」
「そんなこと言う人、初めて見た」
「試験だから言うの」
彼女は真顔で言った。
「中途半端に抑えて精度が落ちる方がもったいないわ。あなたの場合、出力を削ることばかり考えて、かえって不安定になることがあるでしょう」
「……ある」
「でしょうね」
「そんな即答ある?」
「見てれば分かるもの」
ハーマイオニーは少しだけ口元を緩めた。
「贅沢に使っていいのよ。ちゃんと使えるなら、それは長所なんだから」
長所。
その言葉が、妙に胸に残った。
魔力はいつも、注意されるものだった。
多すぎる。危ない。絞れ。抑えろ。気をつけろ。無理をするな。
それは全部その通りで、全部必要な言葉だったけれど、「長所」と言われたことは、あまりなかった気がする。
実技試験当日。最初の試験で、わたしは深呼吸した。
課題は、パイナップルにタップダンスを踊らせること。
いつもなら、ここでまず「絞る」を考える。
水滴。ほんの少し。必要最低限。余計な出力はだめ。暴れたら終わり。
でも今日は違う。
試験官の前。
評価される場。
ちゃんと使えたら、加点になる。
よし、と思った。
わたしは杖を構えた。
出力を絞ることは考えない。制御だけ考える。流れを散らさない。形を崩さない。
でも、使う。きちんと、たっぷり。
思う存分、贅沢に魔力を使った。
呪文をかけた瞬間、パイナップルがぴたりと立ち上がった。
次の瞬間、かっ、かっ、かっ、と机の上を軽やかに踏み鳴らす。
ただ動くだけではない。リズムがある。ターンがある。跳ね方に緩急がある。葉の先までぴんと意志が通っていて、最後は舞台俳優みたいに一礼した。
フリットウィック先生は楽しそうにケラケラ笑っていた。
次の変身術でも、わたしは遠慮しなかった。
課題は、ネズミを鼻煙入れに変えること。
いつもなら、過剰出力を恐れてぎりぎりを狙う。
でも今日は違う。きっちり形を取るだけの魔力を、惜しまない。
杖先に魔力を集める。
押し込むのではなく、満たす。
絞るのではなく、支える。
ネズミが消え、深緑色の鼻煙入れが机の上に現れる。
蓋の蝶番まできれいに揃い、表面の艶も均一だった。装飾の縁取りまで滑らかで、わたしとしては「本型でもよかったのに」と少しだけ思ったが、試験なので仕方がない。
マクゴナガル先生がそれを手に取り、開けて、閉じて、こちらを見た。
「見事です」
「ありがとうございます」
「出力が安定していますね」
先生は淡々と言った。
「普段の授業でも、その水準でやりなさい」
「普段それをやると怒られます」
「暴走させるからです」
でも、先生の目は少しだけ満足そうだった。
その瞬間、分かった。
ああ、そうか。
魔力が多いこと自体が悪いんじゃない。
扱えないことが悪いんだ。
今までずっと「抑える」ことで生き延びてきたから、つい勘違いしていた。
わたしの魔力は、ただ厄介なだけのものじゃない。
きちんと使えれば、それははっきり武器になる。
試験は終わった。
その時点で、わたしはほとんど勝った気でいた。いや、正確に言うと「たぶん大丈夫」くらいだった。完全勝利を確信するほど傲慢ではない。たぶん。
そして迎えた終業式の夜。
大広間は飾りつけられていて、天井には夏の夕暮れみたいな色が浮かんでいた。先生たちも、生徒たちも、どこか浮き足立っている。終わる時のホグワーツは、いつも少しだけお祭りっぽい。
寮杯の発表ではクィディッチ杯の得点が大きく響いていた。スリザリンはフェルディナンドという災害級ビーターまで投入して決勝をもぎ取り、その勢いのまま寮全体の得点も積み上げていた。
「今年の寮杯は──スリザリン!」
今度こそ、大広間が揺れた。
緑と銀の歓声が弾ける。フリントがどこかで吠えていて、ドラコは心底満足そうに口元を上げた。ロンが「最悪だ」と言い、ハーマイオニーが「クィディッチの影響が大きすぎるのよ」と言い、ハリーは苦笑しながらも、どこか吹っ切れた顔をしていた。
スリザリン卓のあちこちで杯が掲げられる。
わたしはその光景を見ながら、ふと思った。
誰も知らない。
この勝利の裏で、地下に秘密の部屋があって、そこにバジリスクがいて、わたしが本棚を作って、闇の帝王の日記に魔力を流していたことを。
それなのに、地上ではこうして、優勝して、祝って、笑っている。
たぶん、少しだけ性格の悪い勝ち方だ。
わたしは試験で2位と大差をつけて1位を取った。ほとんどの科目で1位を取ったが、唯一魔法史はアストリアに負けた。魔法史オタクが強すぎた。
最終日、ホグワーツ特急は例によって騒がしかった。
わたしはコンパートメントの窓際に座っていた。ドラコは向かいで、試験結果をもう一度読み返している。彼は初めて魔法薬学でハーマイオニーを追い抜いて1位を取ったらしい。口では「まあ当然だ」と言っていたが、耳が少し赤かった。
ドラコはそれからわたしの試験結果を見て、これまでで一番褒めちぎってきた。
「首席おめでとう」
ハーマイオニーが通りがかりにそう言った。
「ありがとう、ハーマイオニーもおめでとう」
「寮杯は悔しいよ」
ハリーも後ろから声をかけてくる。
「知ってる」
わたしが言うと、ハリーは少し笑った。
「来年はグリフィンドールが取るから」
「どうだか」
ドラコがふんと鼻を鳴らす。
「感じ悪いなあ」
「うるさいぞ」
ロンが後ろから顔を出す。
「何でお前ら、名前で呼び合ってんのにずっと嫌味なんだよ」
「それが普通になっちゃったからじゃない?」とハーマイオニー。
「あなたたち、いつからそんなにグリフィンドールと仲良くなったの?」
ダフネが別のコンパートメントへ行くハリーたちを見て不思議そうに言った。後ろにはアストリアもいる。
「ずるいです、わたしもグレンジャーさんと話してみたかったのに」
アストリアがむくれてわたしの隣に座った。
「今度紹介するよ」
トムは出てこなかった。でも、鞄の奥にある日記の気配だけは分かる。
話さなくても、いるのが分かるのは少し不思議だ。
汽車がキングズ・クロス駅に着いた。
ホームに降りると、夏の空気がどっと押し寄せてくる。終業式の後の駅は、行きよりもずっと騒がしい。親たちの声、トランクの音、ふくろうの鳴き声、あちこちで再会の歓声。
その中で、わたしは一目で父を見つけた。
いや、見つけたというより、目立ちすぎていた。
整えられた金髪。冷えた灰色の目。そして、今まで見たことがないくらい不機嫌な顔。
父はホームの少し奥で腕を組んだまま立っていた。 母はいない。父だけだ。
それだけで、だいぶ嫌な予感しかしない。
「……うわ」
ドラコがが小さく言った。
「怒ってるなあ」
「すごく怒ってるね」
「あの顔は、完全に知ってる時の顔だ」
「何を」
「面倒なことを」
もっともである。
父はまっすぐこちらへ歩いてきた。周囲のざわめきが、ほんの少しだけ遠のいた気がした。
「ドラコ」
父はまず兄の名を呼んだ。
「父上」
「1年間ご苦労だった」
短い。
そして、その次に向けられた視線が、わたしに刺さる。
「ローゼマイン」
「はい」
「家で話を聞こう」
「どの話?」
聞き返した瞬間、父上の目が細くなった。
まずい。これはまずい。
「全部だ」
その一言だけで十分だった。
秘密の部屋。
黒い日記。
魔力のこと。
たぶん、その全部が、今夜の食卓で問われる。
わたしはそっと鞄を抱え直した。
その奥で、黒い表紙が静かに沈んでいるのが分かる。
父の怒った顔を前にして、わたしは小さく息を吐いた。
秘密の部屋は、最後まで秘密のままだった。
けれど、秘密というのは守り切れば終わりではない。
守り切ったあとで、たいていもっと面倒になる。
──わたしの一年目は、どうやら最後まで、そういう年だったらしい。
秘密の部屋編、まだちょっと続きます!
次話はマルフォイ家の家族会議②です。