本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
夏休みに入ってから、ハーマイオニーとは何度か手紙をやり取りしていた。
ハーマイオニーの手紙はとても分かりやすい。字がきれい。用件が整理されている。段落の構成が論文みたいだ。余白すら几帳面。一通の手紙にここまでの構成力が必要かと思うくらい整っている。見習うべきところではある。わたしの手紙は後半になるにつれて字がだんだん小さくなる。紙面が足りなくなるからだ。書きたいことが多すぎるのだ。結果、ハーマイオニーには「手紙の最後の三行が読めません」と返されたことがある。反省はした。改善はしていない。
その日の朝届いた手紙には、こう書いてあった。
『今度ダイアゴン横丁へ学校用品を買いに行くの。一緒の日に行けたらうれしいわ』
行く。もちろん行く。
本屋がある。学用品がある。ハーマイオニーもいる。行かない理由がない。行かない理由を探す方が難しい。探す気もない。
「お父さま、ダイアゴン横丁へ行ってもいいですか」
「行かせません」
父が返事をする前にピシャリと言ったのは母だった。
「絶対に駄目です。今の状況で? 必要なものはふくろう通販で買えばいいわ」
「今の状況?」
「シリウス・ブラックが脱獄してるじゃないか」
ドラコが説明する。シリウス・ブラックというのは例のあの人の手下で、昔マグルを大虐殺した男らしい。アズカバン史上初の脱獄犯。指名手配中。顔写真が新聞に載っていたが、あれは正直もう少しマシな写真を使ってあげるべきだと思った。十二年間アズカバンにいたのだから仕方ないのかもしれないが。
「例のあの人の手下、ね」
ちらりとトムを見る。優雅にソファで本を読んでいた。すっかりこの家に馴染んでいる。客間を自室に改造し、母に紅茶の好みまで覚えてもらっている。居候としての図太さがすごい。とてもじゃないがマグルを大虐殺するとは思えない。紅茶の好みが「ダージリン、ミルクなし、砂糖半分」の大虐殺犯はいないだろう。たぶん。
「ホグワーツにはアズカバンの看守も来ることになっている」
父が言って、わたしは顔をしかめた。アズカバンの看守というのはディメンターのことだ。本で読んだことはある。恐怖の記憶を呼び起こし、幸せを奪うという。あまり感じの良い生き物とは言えない。図書室にいたら最悪だ。本を読む幸せを奪われたら、わたしは何になるのか。からっぽだ。
「お父さま、アズカバンの看守がなんでホグワーツに来る必要が?」
「ファッジはシリウス・ブラックがハリー・ポッター狙いだと考えているらしい。大方の魔法族が同じ見立てだ」
「では、僕もついて行こう」
トムだった。
ソファから本を閉じもせずに言った。
わたしとドラコは同時にそちらを見た。
「なんで」
「なぜ」
「友人の買い物に付き添うのは自然だろう」
「自然じゃないよ」
「とても不自然だ」
「君たちの反応が失礼なのは分かる」
「失礼なのはそっちだよ。友人って何。居候でしょう」
「居候は友人を兼任できないのかい?」
「できるかもしれないけど、兼任してる自覚はなかった」
母が紅茶を置きながら静かに言った。
「それなら、三人で行きなさい」
「お母さま!?」
「ドラコ一人では、ローゼマインが本屋から出てこないでしょう」
「それはそうだけど」
「トム一人では、余計な本が倍に増えそうだわ」
「それもそう」
「だから三人で行けば、少しは均衡が取れるでしょう」
「うちの基準、時々おかしいよね」
「今さらだよ」
トムが肩をすくめる。もう完全にこの家の空気を吸っている。居候としてのなじみ方が天才的だ。
結局、三人でダイアゴン横丁へ行くことになった。
父は最終的に折れた。折れたというか、母の「三人なら大丈夫でしょう」に反論できなかった。マルフォイ家の最終決定権は母にある。これは家訓に書いてないけれど家訓みたいなものだ。
横丁は夏の買い物客でにぎわっていた。
新学期前のあの空気は嫌いじゃない。インクの匂い、本の匂い、新しいローブの布の匂い、ふくろうの羽ばたき、鍋の金属音、あちこちから聞こえる親たちの「余計なものは買いません」という声。
よい。とてもよい。余計なものの定義は人による。わたしの場合、本は必需品なので余計なものに含まれない。
ただし、その日のわたしたちは少しだけ目立っていた。ドラコはいつも通りマルフォイ家の子らしく気取って歩いているし、トムはやたらと絵になる。顔が整っていて佇まいがいちいち様になる。すれ違う女性が二度見する頻度が高い。隣を歩いていると「この人の連れ?」みたいな視線を浴びるのが少し鬱陶しい。わたしは連れではない。被保護者だ。保護されている自覚はないが。
「最初に本屋」
わたしは宣言した。
「駄目」
ドラコが即答した。
「先にクィディッチ用具店だ」
「なんで」
「新型が出てるんだよ! 新聞広告で見たんだ」
「箒は逃げないよ」
「本だって逃げない!」
「本は版元が品切れになるかもしれないけど、箒は量産品でしょう?」
「箒の方が先に売り切れるに決まってるだろ!」
「まあまあ、箒を見るのなんてせいぜい十分がいいとこだろうに。先にクィディッチ用具店に行こうか」
トムが横から言った。
「なんでそっちにつくの」
「君を本屋に閉じ込めてから連れ出す方が難しそうだから。順序として後の方が合理的だ」
「理屈としては分かるのが悔しい」
「分かるなら従え」
「従うけど記録は残すよ。今日トムが敵側についた回数、一回目」
「回数を数えるな」
というわけで、先にクィディッチ用具店へ行くことになった。
そして、行ったのが間違いだった。
店先のショーウィンドウには、見たことのない箒が飾られていた。磨き上げられた柄。流線形の美しさ。尾の枝の揃い方も、なんだか「私は速いです」と自己主張している。横には金色の文字でこう書かれていた。
ファイアボルト。
ドラコが止まった。ぴたりと。交差点の信号みたいに停止した。
「ドラコ」
「……」
「ドラコ?」
「……ああ、すごいだろ。ニンバス2001なんて目じゃないぞ」
目が輝いている。少年の目だ。普段はマルフォイ家の跡取りとして気取っているのに、箒の前では十三歳の男の子に戻る。感動的と言えなくもないが、本屋の前でわたしが同じ顔をするとドラコは「恥ずかしいからやめろ」と言う。不公平だ。
店の前には同じように足を止めた男子が何人もいた。全員同じ顔をしている。新しい箒というのは、男子の理性を一時停止させる何かがあるのだろう。少し気の毒だ。いや、わたしも新刊の前で同じことをしているので気の毒とは言えない。同族だ。対象が違うだけで症状は同じだ。
「買ってくる」
ドラコが言った。
「いや、無理だよ。かなり高そうだもん」
「ツケにすればいけるかもしれない」
「だめ。お父さまに怒られる」
「なんで!?」
「お父さまが走ったのを忘れた? あの人に余計な報告が行ったらまた手紙が来るよ。『ドラコ、ファイアボルトをツケで買おうとしたと聞いた。マルフォイ家の信用を——』」
「やめろ、父上の声で再現するな」
「あと本屋に行く約束でしょ」
「約束した覚えはない!」
「した」
「してない!」
ドラコがショーウィンドウに吸い寄せられていくので、わたしは片腕を引っ張った。すると反対側からトムがもう片方の腕を取った。
「行くよ、ドラコ」
「離して!」
「嫌だ」
「嫌だじゃない!」
「箒の何が楽しいんだか」
トムがあきれた顔で言い、器用にドラコの足にだけ無言で金縛りの呪文をかけた。そのまま片腕を持って引きずる。ドラコの足が石畳の上を滑っていく。
「なんで僕だけ雑に扱われるんだよ!」
「抵抗するからだ」
「抵抗して当然だろ! ファイアボルトだぞ!?」
「ファイアボルトが何か知らないけど、本屋の方が大事だよ」
「お前の基準を世界に適用するな!」
途中、ドラコは何度も「ファイアボルト……」と後ろを振り返りながら呟いていた。重症だった。この病気に効く薬は、たぶんスネイプ先生にも作れない。
フローリシュ・アンド・ブロッツの前まで来たところで、ようやくドラコは自我を取り戻した。トムが金縛りを解いたからでもある。ドラコは足を何度か踏みしめて感覚を確認していた。
「覚えてろよ、トム」
「覚えておくよ。何をだか知らないけれど」
ただしすぐに別の騒がしさが聞こえてきた。
「マイン!」
ハーマイオニーだった。その隣にはロンがいた。赤い髪、そばかす、背が伸びた。去年よりさらに大きくなっている。成長期の男子は燃費が悪そうだ。
「ハーマイオニー!」
わたしは思わず駆け寄った。駆け寄って、三歩目でふらついた。体力の限界が三歩で来るのは自分でもどうかと思う。
「会えてうれしい!」
「私もよ。——大丈夫? 今ちょっとふらつかなかった?」
「大丈夫。ふらつくのはいつものことだよ」
「いつものことなのが心配なのよ」
この台詞、ハーマイオニーに去年も言われた気がする。成長していないのはわたしだけだ。身長的にも。
ハーマイオニーはわたしの後ろを見た。
「ドラコと、もう一人は?」
「トム・ジェドゥソール。お見知りおきを」
トムが優雅に名乗る。手を差し出す仕草が自然すぎて、知らない人が見たら由緒正しい純血の青年にしか見えない。実態は日記帳から出てきた居候なのだが。
「フランスにいた親戚で、夏休みの間家に滞在しているんだ」
ドラコがさらっと述べた。事前に打ち合わせてある。家族会議で父が設定を書いた。マルフォイ家の危機管理能力はこういう時だけ発揮される。
「フランス! ちょうどこの前行ったわ。フランスではボーバトン・アカデミーで魔法を学ぶと聞いたけど、あなたもそこの生徒なの?」
「いや、僕はホームスクールなんだ」
「魔法界にもホームスクールってあるのね! それにしても、あなたフランス語訛り全然ないわよね? どこで英語を?」
「家庭教師にね」
ハーマイオニーの質問が矢継ぎ早に飛ぶ。この人の好奇心はわたしに匹敵する。方向性が違うだけで熱量は同等だ。トムは穏やかな笑顔で質問をかわしているが、目の奥に「この子、鋭いな」という警戒が見える。わたしにだけ見える。長い付き合いだ。
ロンはトムを見て少し眉をひそめた。ハンサムな青年に対する本能的な警戒だろう。男子にはそういうセンサーがあるらしい。
「エジプト行ってきたんだ、聞いてくれよ!」
ロンが話題を変えた。自分の土俵で勝負したいのだ。
「知ってる。ハーマイオニーからの手紙でちょっと聞いたよ」
「父さんが宝くじ当てたんだよ!」
「すごい!」
「だろ。ビルに会って——ビルってのは兄貴なんだ——ピラミッドにも行って、呪い破りの話も聞いた」
「へえ」
ドラコが口を挟んだ。
「ずいぶん派手な休暇だね。当選金は全部旅行で消えたのかい?」
感じが悪い。いつも通りだ。ドラコの対人スキルは妹とスリザリン生以外に対して壊滅的である。
「ああ、そうだね! マルフォイ家の坊ちゃんにはかないませんよ」
ロンがむっとして言い返す。火花が散りそうだ。この二人を同じ空間に置くと自動的にこうなる。化学反応みたいなものだ。混ぜるな危険。
「わたしたちは旅行は行ってないよ。ブラック家でちょっとした事件には遭遇したけど」
「日刊予言者新聞で見たわ。ロックハート先生が逮捕されたってほんと?」
「うん、ほんと。前々から怪しまれてて、フェルディナンド先輩とお父さまで罠を張ったみたい」
ロックハート先生。わたしに禁書の棚の許可証をサインしてくれた偉大なる先生。許可証は結局マダム・ピンスとフェルディナンドに門前払いされたけれど、感謝の気持ちは消えていない。犯罪者になっても感謝は感謝だ。
「闇の魔術に対する防衛術の教師には犯罪者しかつけないのかね」
ロンが文句を言う。話を聞くと、ロックハート先生の前任は例のあの人の手下で、頭の後ろ側に例のあの人がいて、ハリーを殺そうとしたらしい。
なにそれこわい。頭の後ろ側に人がいるって何。物理的に。首が回るたびに挨拶するのだろうか。
「フェルディナンド先輩って、シリウス・ブラックの弟なんだろ? 今どんな気持ちなんだろな、極悪人と親戚って」
ロンが言い、わたしは困って首を少し傾げた。
「それを言うなら、お母さまはシリウス・ブラックの従姉妹だから、わたしたちも一応親戚なんだよね」
空気がパキッと音を立てて凍った。
ドラコの顔がひきつっている。ロンが「え」という顔をしている。トムだけが「面白い反応だ」と言いたげに口角を上げている。黙ってろ。
ハーマイオニーが慌てて話を変えた。
「そうだ、ハリーのこと聞いた?」
「ハリー?」
「おばさんを膨らませちゃったんだって」
「は?」
わたしは瞬きをした。膨らませた。おばさんを。動詞と目的語の組み合わせがおかしい。
ドラコはその横で信じられないくらい嬉しそうな顔をした。今日一番の笑顔だ。ファイアボルトを見た時より輝いている。
「夏休みに何してるのかと思えば、おばさんを膨らませてたのか?」
「事故だよ!」
ロンが言い返す。
「事情があったんだよ、きっと」
「どんな事情があっても、その結果が『おばさんが膨らむ』なのは相当だよ」
「マインもフリットウィック先生を吹き飛ばしたじゃないか」
「……まあ、それは嫌な事故だった」
ドラコがわたしを見て肩をすくめた。確かにわたしも人のことは言えない。先生を吹き飛ばすのとおばさんを膨らませるの、どちらがマシかは微妙だ。方向性が違う。
トムはその会話を面白そうに聞いていた。面白がるな。なんなら「例のあの人」本人だろうに。
書店の中に入った。新しい教科書が必要だ。
ドラコたちは今年から『怪物的な怪物の本』という教科書を買わなくてはならないらしい。文字通り怪物みたいな本で、開くと噛みつくという。本が噛む。本好きとして看過できない事態だ。
店員が涙目で三冊取り出した。三冊を厚い手袋で押さえつけて、紐でぐるぐる巻きにして渡した。本を縛るなんて。本権侵害では。
「わたしも一冊ほしいんですけど」
店員の顔が引きつった。少し怒りながら渋々もう一冊出してくれた。
「お嬢さん、この本は指を噛みますからね。くれぐれも——」
「大丈夫です。本と仲良くするのは得意なので」
紐を解いた。本がバサッと開いて噛みつこうとした。わたしは背表紙を撫でた。本が一瞬ためらった。もう一度撫でた。本がおとなしくなった。
店員が目を丸くした。
「……どうやったんですか」
「本は愛情で応える生き物だよ」
「生き物じゃありません。本です」
「本は生き物だよ」
真剣に答えると、店員が「この子は客として扱っていいのだろうか」という顔をした。
ハーマイオニーはどうやら今年度で十二科目を取るらしい。時間割を見せてもらったら、同じ時間に二つの授業が重なっている箇所があった。物理的に無理では。ハーマイオニーは「大丈夫よ」と言ったが、大丈夫の定義が気になる。ドラコはかなり引いた顔をしていた。
「マグル出身なのにマグル学を取るって、正気か?」
「知らないことを学ぶのと、知っていることを学問として再確認するのは別よ」
「……一理ある」
ドラコが一理を認めた。珍しい。ハーマイオニーの論理力はドラコの偏見を時々突破する。
教科書以外にも本を大量に買い込んだ。わたしの本。ドラコの本。トムがこっそり追加した本。トムは拡張呪文をかけた小さなバッグに本を次々と入れていった。どれだけ入れても膨らまない。魔法は偉大だ。特にこういう時に偉大だ。
ハーマイオニーがトムに拡張呪文のかけ方をしきりに聞いていた。二人とも頭が良いので会話の密度が高い。横で聞いていると脳のカロリーが消費される。わたしたちはそのままフロリアン・フォーテスキューのアイスクリーム屋に流れた。
暑い日にアイスは正義である。これは揺るがない。本と同じくらい揺るがない。いや、本の方が揺るがないけれど、アイスは二番目くらいに揺るがない。
わたしはパンプキン味。ハーマイオニーはチョコミント。ドラコはメニューの中で一番名前が長い味を選んだ。「マダガスカル産バニラビーンズとカラメリゼ・ヘーゼルナッツのスリザリン・ロイヤル」。味の名前に寮名が入っている。選んだ理由がそこだとしたら相当だ。
トムは「よく分からないから君と同じで」と言ってパンプキン味にしていた。アイスの味の好みが確立していない。日記帳の中にいた期間が長すぎて、味覚の経験値が足りないのだろう。ちょっと不憫だ。
アイスを食べながら席でしゃべっていると、向こうから見慣れた黒髪が歩いてくるのが見えた。
「ハリー!」
ハーマイオニーが手を振る。
ハリーはこっちへ来て、少し驚いたみたいに目を見開いた。
「みんな揃ってる」
「ハリー」
ドラコが口の端を上げた。
「風船おばさんはお元気かい?」
「うるさいな」
「まだ浮いてる?」
「ドラコ」
わたしが睨むと、ドラコは「事実確認だよ」と言ってにやっと笑う。事実確認の顔ではない。煽りの顔だ。この兄は特定の人間に対してだけ性格が悪い。
ハリーは少しだけほっとしたように笑った。慣れたのだろう。ドラコの嫌味に耐性がつくと、それはそれで友情の一種かもしれない。毒への耐性みたいなものだ。
それから、わたしの隣にいるトムへ目を向けた。
「トム・ジェドゥソールだ。マルフォイ家に居候している」
トムが言った。居候を自称するのは初めて聞いた。正直だ。いや、正直なのは「居候」の部分だけで、名前は偽名だけれど。
「よろしく、ハリー」
ハリーは一瞬、言葉を失ったみたいに黙った。
「君はもしかして——」
そこで止まる。
トムは穏やかな顔のまま首を傾げた。首の傾げ方が完璧すぎて、逆に怪しい。
「もしかして?」
「……いや、何でもない。トム違いかも」
ハリーはそう言って、視線を逸らした。
わたしは少しだけ眉をひそめた。ハリーは日記を持っていたことがある。顔を見せたことはないだろうけど、「トム」という名前に反応したのだろう。
トムはまるで本当に何も知らない人みたいにアイスを一口食べていた。
演技がうますぎる。いや、演技かどうかも分からないのが面倒なのだけれど。アイスを食べる闇の帝王の記憶。歴史書には絶対載らない光景だ。
「それで、君、マグルのおばさんを膨らませたって?」
トムが愉快そうに聞いた。
ハリーは少し恥ずかしそうに顔を赤くした。
「そんなつもりはなかったんだよ。僕、カッとしてて」
「分かるよ。わたしもよくやっちゃうから」
「マインと一緒にされるのは嫌だけど、うん」
ハリーが苦笑いした。一緒にされるのが嫌とは失礼だ。わたしの暴走は先生を吹き飛ばすだけだけれど、ハリーのはおばさんを膨らませるのだ。方向性として膨らませる方が派手ではないか。
「ハリーが退学になるんじゃないかって怖かったのよ」
ハーマイオニーが言った。
「僕もなんで許してもらえたか分からない」
「そりゃあならないだろう。シリウス・ブラックがいつハリーを殺そうとするか分からないじゃないか」
ドラコが冷静に言った。場の空気が凍った。ドラコは時々こういう爆弾を平然と投げ込む。本人に悪意はない。事実を述べているだけだ。
ハリーたちは三人で顔を見合わせた。
「どういうこと?」
「知らないの? シリウス・ブラックってハリーを狙ってるって聞いたけど」
わたしが言うと、重い空気が場を支配した。アイスが融けそうだ。物理的にも空気的にも。
ハーマイオニーがやけに明るい声で言った。
「そうだ、私、ペットがほしいの」
「ペット?」
「うん。ふくろうとかいいかなって」
「わたしもほしい」
思わず言うと、ドラコがこちらを見た。
「急に?」
「急じゃないよ。前から少し思ってた」
黒猫とかかわいいし、飼ってもいいと思う。
「君の場合、世話より本を読む方を優先しそうで不安なんだけど」
「失礼だなあ」
「反論できる?」
「……気持ちではできる」
「気持ちでしかできないのが問題だよ」
ハーマイオニーが楽しそうに笑った。
「じゃあ一緒に見に行かない?」
「行く!」
「ペットショップはすぐそこだよ」
ダイアゴン横丁にさいきんずっといたらしいハリーが少し自信ありげにペットショップの場所を説明する。
「スキャバーズを診てもらいたいなあ。こいつエジプト行ってから体調が悪いんだ」
ロンが腕の中のネズミを持ち上げた。くたびれた毛並み。元気のない目。年季の入った、平凡で冴えないネズミ。同情を誘う外見だ。
結局みんなで魔法動物ペットショップへ向かった。
店の中は正直かなり賑やかだった。動物の鳴き声がそこら中で聞こえる。ふくろうが鳴き、猫が鳴き、ヒキガエルが鳴き、何か正体不明の生き物が鳴いている。動物園の縮小版だ。匂いもそれなりにある。本屋の匂いの方が百倍いい。
ハーマイオニーはふくろうのコーナーを真剣に見ている。ロンは腕の中のスキャバーズをなんとなく庇うみたいに抱えていた。ネズミ栄養ドリンクを待っている。
トムがふとそちらを見た。
「そのネズミ、いつから飼っているんだい」
ロンが肩をすくめる。
「チャーリーのお下がりだから、うんと昔からかな。僕が子どもの頃からいたよ」
「ずいぶん長いね」
「まあ、ちょっと弱ってるけど」
「ふうん」
トムの「ふうん」が妙に重かった。フェルディナンド先輩の「ふむ」と同じ種類の重さだ。情報を処理している音だ。
わたしもスキャバーズを見た。たしかにくたびれている。いかにも年季の入った、平凡で冴えないネズミ。でもトムの目はそういう見方をしていなかった。妙に静かに、妙にじっくりと観察している。研究者がサンプルを見る目だ。嫌な目だ。良い意味でも悪い意味でも。
その時だった。
オレンジ色の生き物がケージから飛び出した。巨大な赤猫。顔がぺったんこにつぶれていて、毛はライオンみたいにもさもさしている。ぶさいくだ。控えめに言ってぶさいくだ。最大限好意的に表現して「ぶさかわ」だ。
その猫がロンの頭に着地した。
「うわっ!」
猫はロンの腕の中のスキャバーズを見るなり、目の色を変えて突進した。
「スキャバーズ!」
次の瞬間、店の中が大騒ぎになった。猫は信じられない速度でスキャバーズへ飛びかかろうとし、ロンは半泣きでネズミを抱えて店から逃げ出し、ハリーも後を追い、ドラコはゲラゲラ笑い、店員は「生体同士の相性には個体差がありまして!」と個体差で済ませてはいけない声を上げていた。
その混乱を少し離れたところから見ながら、トムがわたしに聞いた。
「マインは何を飼いたいの?」
「うん、今の見てちょっと思ったんだけど」
そう言いながら、わたしは店の中を見回した。ふくろう。猫。ヒキガエル。白いネズミ。毛玉みたいな何か。元気すぎる何か。
みんなそれぞれ可愛い。可愛いのだけれど——
ふと、頭の中にアルドゥスの顔が浮かんだ。秘密の部屋の奥で、のっそりと鎌首をもたげる巨大な蛇。ごはんの時だけ妙に目を輝かせるあの感じ。肉を前にした時のあの迷いのなさ。舌のちろちろ具合。
「どうしたの?」
トムが首を傾げる。
「いや」
わたしは真顔で言った。
「ここにいる子たち、たぶんみんなアルドゥスに食べられるなって思って」
「……ああ」
トムがなんとも言えない顔になった。
たしかに可愛い。可愛いけれど、アルドゥスの前に連れていった瞬間に「新しいおともだち」ではなく「本日の追加メニュー」になる未来が、妙にありありと想像できてしまう。食物連鎖は残酷だ。特にバジリスクが最上位にいる食物連鎖は残酷すぎる。
「ふくろうは一口ではなさそうだけど、だからといって安全とは言えないし」
「一口かどうかで考えるなよ」
ドラコが笑いすぎて涙目になりながら戻ってきた。
「猫も、頑張れば逃げるかもしれないけど、アルドゥスって意外と素早いし……」
「意外と、じゃないだろ。あいつは全長十五メートルの蛇だぞ」
「ネズミはもうだめだね。骨の残骸を見たことあるし」
ロンが戻ってきたらこの会話は即座に中止する必要がある。
トムが静かに笑った。
「買うなら蛇をおすすめしようと思ったんだけど」
「蛇はアルドゥスで十分。二匹も蛇と暮らしたくないよ」
「そう言うと思った」
「しかも蛇を買ったら、わたしが蛇語で話しかけてるところを誰かに見られるかもしれないし」
「それは確かにまずいね」
「パーセルタングで猫に話しかけるわけにもいかないしね」
「猫には通じない」
「知ってる」
少し残念ではあった。でもうっかり新しい命を迎えて、秘密の部屋の住人に食べられました、ではさすがに後味が悪すぎる。ペットの死因が「同居人の蛇に捕食されました」は、どんな書類に書いても悲しい。
「じゃあ、ローゼマインのペット計画は延期ね」
ハーマイオニーが猫を抱えて言った。さっきスキャバーズを追いかけていたぶさいくな赤猫だ。
「うん。少なくとも、アルドゥスがもう少し分別を覚えるまでは」
「分別を覚える見込みは?」
ドラコが聞いた。
「ゼロに近い」
「だろうな」
「私はこの子にしようと思うわ!」
ハーマイオニーがぶさいくな猫を掲げた。猫はハーマイオニーの腕の中でゴロゴロ言っている。顔がぺったんこ。毛がもさもさ。可愛いかと聞かれると、答えに窮する。
「ええ……こいつ?」
ドラコが渋い顔をした。
「いいね、ニーズルの血が混じってそうだ。君は良いセンスをしているよ」
トムがなぜか大絶賛だった。ハーマイオニーはトムに褒められてはにかんだ。
わたしはトムに小声で尋ねた。
「ニーズルって何だったっけ?」
「『幻の動物とその生息地』に載ってたはずだよ。賢い動物で、悪い人や怪しい人を見分けるらしい」
「後で読み返してみる。……ということは、あの猫がスキャバーズに飛びかかったのは——」
「ただの気まぐれではないかもしれないね」
トムの声が少しだけ低くなった。あの「ふうん」と同じ温度だ。何かを知っているのか、何かを疑っているのか。
あのネズミ、普通のネズミじゃないのでは?
帰り道、わたしの頭はニーズルとネズミのことでいっぱいだった。本で調べなければ。図鑑を引かなければ。ネズミの平均寿命は何年だ。普通のネズミが十二年以上生きるのか。生きないとしたら、あのネズミは変異種か何かなのか。
でもその前に、聞かなければならないことがあった。
家に帰ってから父が用意したトムの部屋をノックする。トムは上機嫌そうに鼻歌を歌いながらドアを開けた。部屋はすっかりトム仕様に改装されていた。本棚が三つ。スリザリンの紋章。深緑のカーテン。居候が居候の域を超えている。もう住人だ。
「聞きたいことがあるの」
「どうぞ」
「ホグワーツにも来るの?」
トムは一瞬だけまばたきをした。それから本を閉じた。トムが本を閉じるのは、話題が重要な時だけだ。本を開いたまま会話するのが通常運転なのだ。わたしと同じだ。
「来る、とは?」
「だから、新学期になったら。わたしたちと一緒にホグワーツへ行くのかってこと」
「難しい問題でね」
「何が?」
トムは椅子に深く座り直し、やけに真面目な顔で言った。
「マルフォイ家が快適すぎる」
「え」
「部屋は静かだし、本棚はあるし、食事はまともだし、一人部屋だ。こんな良い暮らしはしたことがない」
「うーん、そうかな?」
日本食はないし、お風呂のバスタブに浸かる文化がないし、湯船に毎日入れないし、そんなにいい暮らしかな? ——いや、これは前世の記憶が混ざっている。今は関係ない。
「ローゼマイン、僕は今まで孤児院とスリザリン寮の相部屋しか住んだことがないんだ。君はもっと恵まれていることを自覚した方がいいよ」
「なんかごめん」
「謝らなくていい。恵まれていることは悪いことじゃない。ただし自覚は持て」
トムが珍しく真面目なことを言った。たまにこういう瞬間がある。普段は皮肉屋で意地悪なのに、ふとした拍子に本音が漏れる。
「それに比べてホグワーツは、自分の部屋がない。日記にこもるしかない」
「そこ?」
「大事だよ。プライバシーは人権だ」
「日記帳に人権を主張されると複雑な気持ちになるんだけど」
「元日記帳だ。今は人間だ。人権はある」
「あるかな……」
「ある」
ものすごく真剣な真顔だった。わたしも少しだけ真顔になった。
「じゃあ、どうするの」
「秘密の部屋で過ごそうかな」
「さらっと言わないで」
「いい案だろう」
「全然よくないよ」
「静かだし、広いし、本棚もある。アルドゥスもいるから寂しくない」
「アルドゥスに寂しさを埋めてもらうの、方向性として合ってる?」
「合ってないかもしれないが、選択肢が限られている」
「それに」
トムが言う。
「アルドゥスの世話も必要だ。君は授業がある。僕が見ていればちょうどいい」
たしかにアルドゥスの世話は必要だ。巨大蛇を放置すると不機嫌になる。巨大で不機嫌な蛇は、ホグワーツの配管を通じて城中に悪影響を及ぼす可能性がある。トイレが壊れるとか。水道が止まるとか。嫌だ。
「じゃあ」
わたしは慎重に言った。
「秘密の部屋にいるなら、司書もやって」
「司書?」
「書庫なんだから司書は必要でしょ」
「君は本当にどこにでも図書館機能を求めるね」
「当然だよ。本棚があるなら管理する人がいる。管理する人がいるなら分類体系がいる。分類体系があるなら——」
「分かった、分かった。やるよ」
「ほんとに?」
「司書も、アルドゥスの世話も」
「やった」
「日記の中よりずっとましだ」
「それ、だいぶ本音だね」
「珍しいことでもないだろう」
それもそうだった。トムの本音は最近少しずつ増えている。計算で隠していた部分が、少しずつ剥がれてきている。本人は認めないだろうけれど。
「でも」
わたしは眉を寄せた。
「ハリーたちに『トムが秘密の部屋にいます』って言うわけにはいかないよ」
「珍しい生き物の世話をしている親戚、で十分じゃないか」
「十分かなあ」
「蛇に詳しいのは事実だ」
「そこは事実だけど」
「本にも詳しい」
「それも事実」
「なら問題ない」
「事実だけで構成された嘘って、一番性質が悪いんだよ」
「スリザリンの伝統だよ」
「伝統にするな」
問題がないとは思わない。でもたしかに全部嘘ではない。全部嘘ではないのがいちばん厄介だ。
トムは静かに笑った。パンプキン味のアイスを食べていた時と同じ顔だ。穏やかで、少しだけ上機嫌。
闇の帝王の記憶が、アイスと司書職で上機嫌になっている。この情報も歴史書には絶対載らない。
「トム」
「何?」
「秘密の部屋の司書になるなら、一つだけ条件がある」
「聞こう」
「わたしが借りた本の返却期限を厳しくしないで」
「それは司書の仕事に反する」
「だって読み終わらないかもしれないし」
「返却期限は全員平等だ。たとえ君でも」
「わたし一人しか利用者いないのに」
「一人でも規則は規則だ」
「融通きかない司書だなあ」
「融通をきかせたら蔵書管理が崩壊する。ダメだ」
わたしは唇を尖らせた。トムは涼しい顔だった。
秘密の部屋の司書、初日から利用者と対立。先が思いやられる。
でもまあ、悪くない。
本棚がある場所に、本を管理してくれる人がいる。それだけで十分だ。