本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
九月一日。キングズ・クロス駅、九と四分の三番線。
白い蒸気の向こうで、真っ赤なホグワーツ特急が重たそうに息を吐いている。大きなトランク、ふくろうの籠、ピカピカの一年生、妙に張り切った顔の上級生。新学期の駅というのは、どうしてこうも騒がしいのに、どこか浮き足立っているのだろう。
わたしは母のそばに立ちながら、本を抱え直した。トランクの中にも本は詰めてある。ポケットにも一冊入っている。手に持っているのは移動中に読む用。三重の保険だ。そのせいか身体が妙に重たくなっていたが、今から汽車に乗るから動くことはない。本好きに隙はない。
その時、少し離れたところで、父とフェルディナンドが話しているのが耳に入った。
「絶対に、自分からシリウス・ブラックを探そうとするな」
父の声は低く、静かだった。静かだけれど、逆らってはいけない種類の静けさだ。マルフォイ家の当主が本気で命じる時の声。去年ホームを全力疾走していた人と同じ人物とは思えない威厳がある。
「見つけたら終わらせます」
フェルディナンドはほとんど間を置かずに言った。
「あいつだけは殺さないといけない」
物騒すぎる。
わたしは思わず顔を上げた。フェルディナンドの表情は整っていて、声音も落ち着いていて、言葉の内容だけが異様だった。そこだけ切り取ると、上品な顔で殺意を口にしている人である。だいぶ嫌だ。美形の殺意は通常の殺意より怖い。顔がいい分だけ温度が低い。
「フェルディナンド」
母が低く名を呼んだ。
「あなたが背負うことではないわ」
「では誰が背負うんです」
「少なくとも、学校へ向かう子どもの仕事ではない」
「僕はもう——」
「子どもよ」
母はきっぱり言った。
「少なくとも、わたしの前では」
その一言で、フェルディナンドはほんの一瞬だけ黙った。
この人を黙らせられるのはホグワーツでもそういないだろう。母はすごい。マルフォイ家の最終兵器は母だ。去年も確認したけれど、今年も再確認した。
でも、フェルディナンドは諦めた顔ではなかった。ただ、今は従うふりをしただけの顔だった。ああいう顔はだいたいろくでもない。従うふりが上手い人間は、裏で勝手に動く人間だ。本で何度も読んだ。
「ローゼマイン」
ドラコが後ろから声をかけてきた。
「ぼんやりしてると置いていくよ」
「置いていかないで」
「早く乗ろう。トランクを持つよ」
「ありがとう。今年もお兄さまの筋力を信じてる」
「信じなくていいから軽くしろ」
去年より重い。当然だ。本が増えたからだ。ドラコの腕が震えている。毎年恒例の光景だ。
「今度トムに拡張呪文教わらなきゃ」
「マイン」
父がわたしの前にしゃがんだ。
「体調が悪くなったら——」
「すぐドラコに言います」
「薬を——」
「忘れません」
「本に夢中になって——」
「善処します」
「善処ではなく——」
「確約します」
先回りして全部答えた。ニ年目になると父の台詞が予測できる。
「……成長したのか、ずるくなったのか」
「両方だと思います」
「マルフォイ家らしい回答だ」
父が立ち上がった。今年はポケットの日記帳については何も言わなかった。
「行ってきます、お父さま。お母さま」
「手紙を書きなさいね」
「本の感想でもいい?」
「いいけど、近況報告も書いてほしいわ」
「お父さま、今年は走らないでね」
「走らない。二度と走らない」
父の声に疲労が混ざっていた。去年の全力疾走がトラウマになっているらしい。マルフォイ家の当主にもトラウマはある。
汽車に乗り込んだ。ドラコがトランクを引きずりながら通路を進む。
ドラコは案の定、クラッブとゴイルのいる方へ向かう気満々だった。
「お前も来るか?」
「アストリアとも合流する」
「じゃあ変なコンパートメントに入るなよ」
「どういう意味」
「お前は本が見えたら、どんな怪しい空間にも入るだろ。去年、秘密の部屋を書斎にしようとした前科がある」
「あれは有効活用だよ」
「有効活用で済む話じゃなかったんだよ!」
ドラコが額を押さえた。
「具合悪くなったらすぐ言えよ」
「うん」
「本当に」
「分かったって」
こういう時だけ兄っぽい。少しだけおかしかった。
トランクを浮遊の呪文で浮かせながら歩いていると、通路の途中でアストリアと合流した。きちんと整えられた金髪に、きちんと整えられた荷物。見た目の整然さだけなら、だいぶグリーングラス家の娘らしい。手元には新しい歴史の本。本好きの鑑だ。
「おはようございます、ローゼマイン」
「おはよう、アストリア。夏休みの本、何冊読んだ?」
「十七冊」
「わたしは二十三冊」
「負けましたね」
「勝ち負けじゃないよ」
「マインさんが言うと説得力がないです」
「なんで」
「目が光ってます」
否定できなかった。
「どこも埋まっていますね」
いくつか扉を開けては閉め、開けては閉め。どこも満員だ。上級生が陣取っているコンパートメント。一年生がぎゅうぎゅうに詰め込まれているコンパートメント。一つはクィディッチの話で盛り上がっていた。聞こえてきた単語が「ファイアボルト」だった。ドラコが聞いたら立ち止まって動かなくなるだろう。近づかないのが正解だ。
ようやく見つけたのは、妙に静かなコンパートメントだった。
他の部屋が騒がしいのに、ここだけ結界でも張ってあるかのように静かだ。人気がないのか、あるいは中にいる人が静かなのか。
中には、淡い金髪の子が一人で座っていた。
雑誌を逆さまに持って読んでいる。
逆さまに。
もう一度確認した。やっぱり逆さまだ。
「ここ、空いてる?」
わたしが聞くと、その子は顔を上げた。大きな銀色の目。どこか遠いところを見ているような瞳。カブのイヤリング。バタービールの王冠のネックレス。情報量がすごい。
「うん。席ならたくさんあるよ」
それはそうである。他の席は全て空席だったからだ。
「一人なの?」
「みんな他のコンパートメントに行くの。入ってきても、すぐ出ていくんだ」
彼女はまったく気にしていない口調で言った。気にしていないのか、気にしないことにしているのか。どちらにしても、その声は穏やかだった。
わたしとアストリアは中へ入った。
「ありがとう。わたし、ローゼマイン・マルフォイ。マインって呼んでね」
「アストリア・グリーングラスです。話したことはないですが、たしか同じ学年でしたよね? レイブンクローの」
同じ学年の子だったのか。全く気づかなかった。見覚えがある気もする。
「うん。あたしはルーナ・ラブグッドだよ」
ルーナはそう言って、手元の雑誌をぱたんと閉じた。差し出された表紙には、でかでかと奇妙な見出しが躍っている。
『魔法大臣は本当に吸い食いガマと入れ替わっているのか?』
「すごい題名」
思わず言った。すごいとしか言いようがない。ジャーナリズムの境界線を三回くらい飛び越えている。
「ありがと。お父さんが作ってる雑誌なんだ」
「この雑誌、名前は?」
「クィブラー」
「初めて見た」
わたしは手を伸ばした。
「読んでいい?」
「いいよ。逆さまにすると隠されたメッセージが読めるの」
「本当に?」
受け取って読んだ。ページをめくるたびに新しい情報——というか、新しい何かが押し寄せてくる。ヘリオパスの陰謀論。月蛙の生態観察。しわしわ角スノーカックの目撃情報。
まともな学術誌には絶対載らない内容ばかりだ。学術誌どころか、たぶん同人誌でも審査に落ちる。でも——面白い。知らないことが書いてある。知らないことが書いてあるものは面白いのだ。それが事実かどうかは、面白さとは別の問題だ。
これあれだ、いわゆるオカルト雑誌だ。
「面白いね、これ」
「たいていの人は馬鹿にして笑うよ」
ルーナが言った。静かな声だった。
「笑わないよ。知らないことが書いてある本は全部面白い」
ルーナの大きな目が少し揺れた。この子は、自分の好きなものを誰かに受け入れてもらうことに、あまり慣れていないのだろう。
「あんた、変わってるね」
ルーナが言った。
「それがローゼマインのいいところですから」
アストリアが自慢げに何度も頷いた。
「本当に?」
「本当に。建築魔法の本に食いついてくる同級生なんていなかったと思います。読む本の守備範囲が広くてすごいですよ」
「あれは本当に面白い本だったよ」
「ねえルーナ、定期購読できる? クィブラー」
ルーナが少し目を見開いた。
「定期購読?」
「うん。毎号読みたい」
「毎号?」
「毎号」
ルーナがふわりと笑った。嬉しいのだろう。隠さないのがこの子のいいところだ。
「じゃあお父さんに手紙を書くね」
「ありがとう。楽しみにしてる」
クィブラーをぱらぱらめくりながら、わたしはふと思いついた。思いついた、というより、ずっと頭の片隅にあったことが言葉になった。
「ねえ、アストリア」
「何ですか」
「本好きな人が集まる部活動みたいなの、できないかな」
「部活動?」
「読書会でも、書庫整理でもいいの。好きな本を持ち寄って話したり、図書室をもっと使いやすくしたり」
アストリアの目が光った。この子の目が光るのは珍しい。普段は穏やかで品が良くて、感情の振幅が小さい子だ。その子の目が光った。
「いいですね」
「本当?」
「少なくとも、わたしは入りたいです。魔法史の本を堂々と語れる場があるなら最高です」
「語ろう。語りまくろう」
「語りまくるのは品がないのでほどほどに語りましょう」
品のある語り方。アストリアらしい。
わたしはルーナを見た。
「ルーナも入る?」
「しわしわスノーカックの話をしていいなら」
「もちろん。好きな本の話をする部活にしたい」
「クィブラーも読んでいい?」
「何を読んでもいい。読むことに貴賎はないよ」
「じゃあ、入りたいな」
今年のホグワーツも、楽しくなりそうだ。本が好きな人たちと本を読んで、知らないことを語り合う。最高だと思う。
もっと人数を増やしてもいい。ハーマイオニーは絶対入る。ドラコは「監視」と称して来るだろう。ハリーも誘えるかもしれない。ロンは——来る理由があるだろうか。ロンは本を読むイメージがない。
全寮誰でも入れる読書会。考えただけで胸がワクワクする。そんなことをぼんやり考えていた。
そう思った、その時だった。
列車が、がくんと止まった。
「え?」
「まだ着いてないですよね」
アストリアが窓の外を見た。暗い。雨がずっと降っている。でも駅ではない。ただの田園地帯だ。列車が途中で止まるなんて、去年はなかった。
明かりが一斉に消えた。
通路の向こうからざわめきが広がってくる。
そして——急に寒くなった。
秋の冷え込みなんてものではない。骨の中に冷たい水を流し込まれたみたいな、不快な寒さだった。呼吸をするたびに胸の奥まで冷える。指先の感覚が薄れていく。
「マインさん、顔色が——」
アストリアの声が遠くなった。
何かが、近づいてくる。
扉が開いた。
黒い、ぼろぼろの影。顔は見えない。見えないのに、見てはいけないものだと分かる。そこにいるだけで、周りの空気が死んでいくみたいだった。温度が落ちるとかそういう次元ではない。「温度」という概念そのものが部屋から出ていった。
だめだ、と思った。
胸の奥が急に重くなる。嫌な記憶が、誰にも頼んでいないのに勝手に掘り返される。
やっとなりたかった司書になれた。
でも崩れた。
地震で本棚が落ちてきた。
重い。苦しい。息ができない。
本に埋もれて、死ぬ。
本に殺される。
本が好きなのに、本に殺された。
いやだ。あれは——いやだ。
そこから先は、もうよく覚えていない。
次に目を開けた時、最初に見えたのは知らない顔だった。
「起きたか」
くたびれたローブを着た男の人が、ほっとしたように言った。優しそうだけど、どこか疲れている顔だ。疲れ方に年季がある。「今日疲れた」ではなく「ずっと疲れている」タイプの顔だ。ローブのほつれ具合もそれを裏付けている。
「……ここは?」
「まだ列車の中だよ。チョコレートを食べなさい」
差し出された包みを、わたしはぼんやり受け取った。甘い匂いがする。
「ディメンターのあとに効く」
ディメンター。さっきの、あれがアズカバンの看守? あの黒い影。あの冷たさ。
包みを開けて一口かじる。甘い。びっくりするくらい甘い。甘さが舌から体中に広がっていく。胸の奥にへばりついていた冷たさが、少しずつ溶けていくのを感じた。チョコレートは偉大だ。本の次に偉大だ。いや、今この瞬間は本より偉大かもしれない。本好きとして、それを認めるのは少し悔しいけれど。
「私はリーマス・ルーピン。新しい闇の魔術に対する防衛術の教師だ」
男の人——ルーピン先生は穏やかに言った。
「少し休んだ方がいい。君は強く影響を受けたらしい」
「……すみません」
「謝ることじゃない。ディメンターに対する反応は個人差がある。君が弱いわけじゃないよ」
でも、かなり情けない。新学期初日から列車で気絶して、先生にチョコレートを食べさせられている。ホグワーツに入る前に体調崩したら両親はかなり心配するだろう。
「ルーピン先生は、防衛術の先生なんですか」
アストリアが尋ねる。
「そうだよ」
「ロックハート先生の後任ですか」
「ああ、彼の……後任になるね」
ルーピン先生の目が微妙に泳いだ。ロックハートの名前を出された時の反応としては一般的だ。あの人の後任と言われて嬉しい人間はいないだろう。逮捕された先生の後釜だ。
「先生、あのディメンターは何でこの列車に?」
「シリウス・ブラックの捜索のためだ。魔法省が配置した」
「列車の中まで入ってくる必要あります?」
「ない。あってはならない。ダンブルドア先生にも報告する」
ルーピン先生の声に、静かな怒りが混ざっていた。この人は穏やかに見えて、怒る時は怒る人だ。声に出さないだけで。
アストリアが心配そうにわたしを見ていた。
「顔色がまだ完全に戻ってないですよ」
「そうだね」
ルーナが素直にうなずく。
「白いのに、もっと白いもん。透明に近い。死んだことを思い出したみたいな顔してる」
わたしは見透かされたような表現にどきりとした。
「それはよくない表現だね」
ルーピン先生が苦笑した。
「チョコレートもう一個もらえますか」
「もちろん」
ルーピン先生がもう一つ差し出してくれた。かじる。甘い。やはり偉大だ。
結局、わたしは到着後そのまま医務室へ送られることになった。チョコレートで少し楽にはなったけれど、立ち上がると足元がふらついたからだ。もともと丈夫ではないし、あんなものを真正面から食らって平気な方がおかしい。わたしの体力ゲージは他の生徒の半分以下だ。ゲームなら初期装備で裸同然である。
マダム・ポンフリーに寝台へ寝かされてしばらくすると、カーテンがしゃっと開いた。入ってきたのはスネイプ先生だった。手には瓶を持っている。
嫌な予感しかしない。
瓶の色がもう駄目だ。外側から見て駄目だと分かる液体。希望がない。
「ミス・マルフォイ」
「こんばんは……」
「新学期初日から医務室とは、ずいぶん景気のいい始まりだな」
「景気はよくないです」
「口は回るようだ。ならこれを飲め」
差し出された薬は、色がもう完全に駄目だった。深緑と灰色のあいの子みたいな、沼を煮詰めて濃縮したらこうなるのでは、という色をしている。匂いもした。嗅ぎたくなかった。嗅いでしまった。後悔した。
「マダム・ポンフリーに頼まれて調合した。ディメンターによる消耗にはこれが早い」
「……ありがとうございます」
「礼は味わってから言え」
嫌な予告をしないでほしい。予告が的確すぎる。この人の予告は毎回当たる。
口に入れた。
まずい。
びっくりするほどまずい。
味というより暴力だった。舌が「これは食べ物ではない」と全力で抗議しているのに、喉だけが淡々と飲み込んでいく。喉と舌の間で内戦が起きている。いつもの薬も苦いけれど、これはもう苦いという次元を超えている。苦味の向こう側に到達している。苦味の彼岸だ。
「先生、もう少し味を改善する余地は——」
「ない」
「即答しないでください」
「改善すると効果が落ちる。味と効果はトレードオフだ」
「じゃあ効果を少し犠牲にして味を——」
「却下だ。お前の体調に妥協はしない」
最後の一言だけ、妙に真剣だった。主治医の顔だ。不器用だけれど、この人はわたしの体を本気で心配している。薬がまずいのは愛情の裏返しだ。たぶん。そう思いたい。思わないとやっていけない。
その時、別の足音が近づいてきた。
「体調が戻って何よりじゃよ、ローゼマイン」
ダンブルドア先生だった。ひげも半月眼鏡もいつも通りで、医務室に入ってきてもまるで空気が変わらない。この人はどこにいても「ダンブルドアの空間」を展開する。教室でも大広間でも医務室でも同じだ。変わらないのに、話の重要度だけは急に上がる。
「ご両親には連絡しておいた」
ダンブルドア先生は言った。
「お父さまとお母さまに?」
「うむ。ご心配はされていたが、返事は早かった。特にお父上は——」
ダンブルドア先生が少し間を置いた。
「ふくろう便が着いた瞬間に返事を書いたらしい。二通来た。一通目が"娘は大丈夫か"。二通目が"ディメンターを列車に乗せた責任者を教えろ"」
「……お父さまらしい」
心配と追及が同時に来る。マルフォイ家の愛情表現は常に攻撃的だ。
「わしもディメンターをホグワーツに居させることには反対だったんじゃが、大臣が譲らなくてのう。そこで、再発防止について話が出た」
ダンブルドア先生は穏やかに続けた。
「ディメンターに対抗するなら、最も実戦的なのは守護霊の呪文だ、と」
「守護霊」
「エクスペクト・パトローナム。難しい呪文だ。本来は六年生以降で学ぶ。だが、君に早めに教えるようにとお父上が言っておるのじゃ」
わたしは少し身を起こした。薬の苦味がまだ口の中に残っているけれど、興味が苦味に勝った。知らない呪文。学んでいない魔法。それだけで好奇心が動く。
「守護霊の呪文を?」
「そうじゃ」
ダンブルドア先生はうなずく。
「ご両親とも、それを望まれた。特にお父上は『最も確実な対抗手段を教えろ。コストは問わない。娘に何かあったら——』……後半は割愛しよう」
「……何て言ってたんですか」
「教育上よろしくない表現じゃったの」
「お父さま……」
安全対策が具体的かつ過激すぎる。愛情の方向性は正しいが強度がおかしい。
「それで、ルーピン先生に頼むことにした」
「ルーピン先生が?」
「守護霊の指導に最も適任だ。実地経験もある」
ダンブルドア先生はさらりと言う。
「セブルスには回復薬で引き続き助けてもらう」
スネイプ先生は嫌そうな顔ひとつしなかった。その代わり、たいへん不機嫌そうな顔はしていた。嫌な顔と不機嫌な顔は別物らしい。この人の表情には一般的な感情分類では足りない微妙なグラデーションがある。フェルディナンドに匹敵する表情の精密さだ。
「それから」
ダンブルドア先生が続けた。
「ハリー・ポッターにも同じ訓練を受けてもらうことにした」
「ハリーも?」
「彼もまた、ディメンターの影響を強く受けた。同じ訓練に参加してもらう方が効率的だろう」
ハリーも体調を崩したのか。
「分かりました。頑張ります」
「では決まりじゃな」
ダンブルドア先生は満足そうに言った。
「今年は忙しい年になるだろうが、学ぶことも多いはずじゃ」
「すでに情報量が多すぎます」
「元気そうで何よりだ」
スネイプ先生が無表情で言った。それは元気判定でいいのだろうか。愚痴を言ったら元気認定されるのは納得がいかない。
ダンブルドア先生が去った。
最後に残ったスネイプ先生は、空になった薬瓶を一瞥してから一言だけ告げた。
「薬はちゃんと飲むように」
「努力します」
毎回この流れになる。
「それから」
スネイプ先生が扉に手をかけたまま言った。
「ドラコがさっきから医務室の前をうろうろしている。入れと言っても『用はない』と言い張っている。妹の顔を見たいなら見ればいいものを」
「お兄さまらしいですね」
「面倒な兄だ」
「先生もちょっとだけ似てますよ。面倒なところが」
「何を言っている」
「いえ、なんでもないです」
スネイプ先生が出ていった。不機嫌な顔のままだった。いつも通りだ。
カーテンが閉まり、ようやく静かになった。
——と思ったら、三秒後にカーテンが開いた。
ドラコだった。
「たまたま通りかかった」
「医務室の前をうろうろしてたんでしょう」
「してない」
「スネイプ先生が言ってたよ」
「あの人は余計なことを——」
ドラコが耳を赤くして黙った。
「顔色は?」
「だいぶ戻ったよ」
「薬は飲んだか」
「飲んだ。今日一番まずかった」
「スネイプ先生の特別製か」
「たぶん。ついに苦味の向こう側に到達してた」
「向こう側に何があった」
「虚無」
「……そうか」
ドラコがベッドの横の椅子に座った。用はないと言いつつ座った。座ってからポケットからチョコレートを出した。
「売店で買ったやつだ」
チョコレートをかじった。甘い。甘さが薬の苦みを打ち消そうとしている。
「ありがとう、お兄さま」
「……ふん」
天井を見上げて、わたしは小さく息を吐いた。身体をぶるっと震わせる。
まさか死んだときのことを思い出すとは思わなかった。
ポケットの中の日記帳にそっと触れた。トムに今日のことを報告しないと。ディメンターのこと。守護霊の呪文のこと。前世の話までは今はまだできない気がした。
チョコレートの甘さが、まだ口の中に残っていた。