本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
医務室から解放された翌日、わたしはまっすぐ図書室へ向かった。
吸魂鬼がホグワーツ特急に乗り込んできた、という事実だけで、学校全体の空気は妙に落ち着かない。廊下では誰もが小声でシリウス・ブラックの名前を口にし、談話室では「本当に学校に来るのか」「どうやって入るのか」と不安と憶測が飛び交っている。
そういう時にどうするか。
決まっている。図書室へ行くのだ。
人にはそれぞれ避難場所がある。わたしにとっては本棚の前である。非常に文化的だと思う。
図書室の扉を開けると、ハーマイオニーはすでにいた。
やっぱり、と思う。こういう時に図書室へ来ないハーマイオニーなんて、もはやハーマイオニーではない。
「ローゼマイン!」
ハーマイオニーが小声で手を振った。
「もう大丈夫?」
「昨日よりはだいぶまし」
「昨日よりは、って言い方がもう不安だわ」
「最近みんなそればっかり言う」
「だって少し白いもの」
「元が白いんだけど」
「今日はもっと白い」
反論しづらい。
どうしてみんな、人の顔色にだけは異様に詳しいのだろう。
わたしは向かいに座って、本を机に置いた。
そして、言おうと思っていたことを切り出す。
「ハーマイオニー」
「何?」
「魔法書研究会に入らない?」
「魔法書研究会?」
「本好きが本を読み、語り、必要なら整理し、さらに必要なら調べ物もする、健全で文化的な集まりだよ」
「だいぶあなたの都合で説明してない?」
「気のせいだよ」
ハーマイオニーは少し考えてから、机に頬杖をついた。
「他に誰が入るの?」
「アストリアはかなり乗り気。ルーナも誘ったら入るって言ってた」
「ルーナ・ラブグッド?」
「うん。クィブラーを読んでた子」
「……だいぶ個性的な会になりそうね」
「本好きなら大歓迎だよ」
「そこだけは一貫してるわね」
ハーマイオニーは少し笑って、それから頷いた。
「私も入るわ。ちょうど調べたいことがあったの」
「ほんと?」
「ええ。ロンのお父さんが言っていたらしいの。シリウス・ブラックがアズカバンで、寝言みたいに『あいつはホグワーツにいる』って繰り返してたって」
「ホグワーツに?」
「そう。だから、ハリーを狙ってるんじゃないかって。ほら、あなたたちもブラックがハリーを狙ってるって言ってたでしょう?」
わたしは少し息を止めた。
十分いやな話だ。寝言でまで不穏なの、やめてほしい。
「わたしも聞いちゃったんだ」
「何を?」
「駅で、お父さまとお母さまがフェルディナンド先輩に“絶対に自分からシリウス・ブラックを探すな”って言ってた」
「それで?」
「先輩、“あいつだけは殺さないといけない”って」
ハーマイオニーが目を見開いた。
「それは、だいぶ穏やかじゃないわね」
「穏やかさが一粒もなかったよ」
少し沈黙が落ちた。
図書室は静かだ。でも、その静けさの底にも、昨日からのざわつきが沈んでいる気がした。
「ハリーのためにも」
ハーマイオニーが言った。
「シリウス・ブラックが何者なのか、ちゃんと知った方がいいわね」
「うん。敵を知るのは大事だよ」
「ずいぶん実戦的なことを言うのね」
「だって、ただ怖がってるだけじゃ本も読めないし」
「そこなのね」
「そこだよ」
大事なことだ。
怯えているだけでは頁は進まない。頁が進まないのは困る。
「ハリーやロンも誘う?」
わたしが聞くと、ハーマイオニーは少し首を傾げた。
「魔法書研究会そのものに入るかは微妙ね」
「まあ、そうかも」
「でも、“シリウス・ブラックについて調べる”って名目なら、参加してくれると思うわ。少なくともハリーは放っておけないでしょうし、ロンも結局ついてくるもの」
「それは分かる」
「でしょう?」
「じゃあ」
わたしは机の上で指を組んだ。
「魔法書研究会の最初の活動は、シリウス・ブラックについて調べることにしよう」
「賛成よ」
ハーマイオニーはきっぱり言った。
「新聞記事、裁判記録、ブラック家の記事、できればアズカバン関連の資料も」
「あと家系図」
「そこは少しあなたの趣味が入ってる気がする」
「気のせいだよ」
「その台詞、本当に便利に使うわね」
こうして、魔法書研究会は設立された。
会員候補、ハーマイオニー、アストリア、ルーナ、場合によってはハリーとロン。
発足理由、読書と調査。
ただし、一つ問題がある。
部活動の場所だ。
「図書室を活動場所にしたいなら、マダム・ピンスの許可がいるわ」
ハーマイオニーが言う。
「どうするの?」
「仲良くなる」
「簡単に言うわね」
「司書は本の話をすると心を開くはず」
「理屈としては分かるけど、相手はマダム・ピンスよ?」
そのマダム・ピンスは、ちょうど少し離れた棚の前にいた。
相変わらず、図書室でうるさくした生徒を一瞬で察知して飛んでくる人である。生徒人気は高くない。むしろ、だいぶ低い。だって怖いし。
でも、司書というのは本に対して真剣だ。
そこに賭ける価値はある。
というか、賭けるしかない。
わたしたちは返却本の整理を手伝うふりをして、自然な流れでマダム・ピンスに近づいた。
自然だったかは少し怪しいけれど、少なくともわたしは自然のつもりだった。たぶん大丈夫。たぶん。
「マダム・ピンス」
わたしはできるだけ真面目な顔で言った。
「この棚、棚札の順番と実際の配列が少しずれてます」
「知っているわ」
マダム・ピンスは乾いた声で言った。
「昨夜、慌てた生徒が戻し方を間違えたの」
「では昨夜の時点で気づいていたんですね」
「当然でしょう」
さすがである。
ちょっとかっこいい。
「すごいです」
「……何が?」
「返却後の配列の乱れを一晩で把握してるところです」
「司書なら当然よ」
「そうですけど、当然を当然にできるのはすごいことです。わたしも実はあなたみたいな司書になりたいんです」
マダム・ピンスがほんの少しだけこちらを見た。
おっと。今ちょっと効いた気がする。
そこからは早かった。
棚の並び順、目録の作り方、装丁の傷みやすさ、湿気対策、古い新聞の綴じ方。話題を振るたびに、マダム・ピンスの返答は少しずつ長くなっていった。
ハーマイオニーが途中からびっくりした顔をしていた。わたしも少しびっくりしている。司書は本の話になるとちゃんと話してくれるのだ。真理である。
「つまり、頁を折る生徒は敵です」
わたしが力を込めて言うと、「その通りよ」とマダム・ピンスは即答した。
「それから、食べかすを挟む者も」
「いますよね、そういう人」
「信じがたいことにいるのよ」
「最低ですね」
「最低だわ」
その瞬間、たぶんわたしたちは少し分かり合えた。 本を雑にする者への敵意は、人を繋ぐ。
最終的にマダム・ピンスは、「静かにすること」「本を雑に扱わないこと」「禁書に勝手に近づかないこと」という条件つきで、図書室の一角を魔法書研究会の活動場所として認めてくれた。
本の話だけでここまで距離が縮まるとは思わなかった。司書は偉大だ。あと、褒めるポイントを間違えなければ意外と話が通る。
「あなた、本のことになると妙に人たらしになるわね」
マダム・ピンスの背中が遠ざかってから、ハーマイオニーが言った。
「本への愛は人を動かすんだよ」
「今のはちょっと名言っぽかったけど、だいぶ偏ってるわ」
その日の放課後、わたしは久しぶりに秘密の部屋へ行った。
ハーマイオニーも、ロンも女子トイレ経由で来た。ハリーは早くもクィディッチの作戦でウッドに呼び出されており、蛇語で部屋を開けるのはロンがやったらしい。
いつの間にか二人とも、『開け』だけでなく簡単な日常会話なら蛇語で分かるようになっていたし、ロンに至っては文法はだいぶ怪しいのに、発音が良いのでなぜか意味だけは通るようになっていた。語学って不思議だ。
入口を開けて中へ入ると、ひんやりした空気の向こうに、見覚えのある巨大な影がいた。
「……あれ?」
わたしは思わず立ち止まった。
「アルドゥス、ちょっと丸くなってない?」
ちょっとではない。だいぶだ。
以前より確実に胴が豊かである。蛇の豊かさというのがどういう概念なのかは分からないけれど、少なくとも「太った」は言える。言えてしまう。
アルドゥスはのっそりと頭を持ち上げた。
『おなかすいてない』
蛇語でそう言った。
その発言だけで、だいたい事情は察せられる。
「……ドビー?」
わたしが呼ぶと、ぱちん、と小さな音がしてドビーが現れた。
「ドビーは、ローゼマインお嬢さまたちのお言いつけ通り、テスト期間のころからせっせと餌やりをしておりました」
「うん、それは知ってる」
「アルドゥスさまが“まだ食べられる”という雰囲気を出してらっしゃったので」
「ご飯をあげ続けていたと?」
ドビーは口をぎゅっとしめた。
ものすごく、もう何も言うまい、という顔である。賢明だ。
「甘やかしたわね」
ハーマイオニーが小声で言う。
「だいぶ」
ロンも言う。
「でも、ほら。元気そうだし」
わたしが言うと、「そこを元気で片づけていいの?」とハーマイオニーに真顔で返された。
だめかもしれない。
アルドゥスは床に頭をこすりつけた。
丸い。前より確実に丸い。
つやもいい。ドビー、ずいぶん丹念に育てたな。
「かわいいね」
「その感想でいいの?」
ロンが聞く。
「少なくとも空腹で機嫌が悪いよりはいいよ」
「まあ、それはそうだけど」
「でも、食事管理は見直した方がいいわ」
ハーマイオニーがきっぱり言った。
「これ、飼育記録をつけるべきよ」
「もうつけてる」
奥から声がした。
トムだった。
いつの間にか本棚の脇に立っている。相変わらず気配が薄い。司書としての適性が変な方向に高い。
「あなた、ここで何してるの?」
「トムを司書兼給餌係として雇ったんだ。授業中にアルドゥスのお世話をしてくれるよ」
「給餌回数、量、体調、脱皮の時期」
トムが淡々と続ける。
「最低限は記録している」
「ほんとに司書兼餌やり係だ」
ロンが呟く。
「本人が引き受けたから」
わたしが言う。
「少なくとも、記録をつける人材は貴重だもの。歓迎するわ」
「それ、ずいぶん実務的な歓迎のされ方だね」
ロンが口を挟む。
「わたしは好きだよ」
トムが薄く笑った。
それからわたしたちは、本棚の前で少し真面目な話をした。
吸魂鬼が校内に入ってきた以上、秘密の部屋は単なる書庫予定地では済まない。いざという時の避難場所、シェルターとして運用した方がいいのではないか、という話になったのだ。
「静かで、人目につかなくて、ある程度の本もある」
わたしが指を折る。
「あと巨大な蛇もね」
ロンが付け足した。
「そこは長所として扱っていいのかな」
ハーマイオニーは机に羊皮紙を広げた。
「必要なのは、毛布、灯り、水、非常食、あと最低限の薬ね」
「本も」
わたしは言った。
「本は非常時の必需品だよ」
「あなたの場合はそうでしょうね」
「え、違う?」
「違わないけど、一般化はしない方がいいと思う」
「じゃあ、一般向けじゃなくてわたし向けの必需品」
「それは認める」
わたしは少し身を乗り出した。
「ところで」
「嫌な予感がするわ」
ハーマイオニーが先に言った。
「去年、平和に済んだから本をもう少し増やしてもいいかな」
「条約があるでしょう」
「去年の条約は去年の状況を前提にしてるから」
「すごい理屈ね」
「シェルター運用なら資料の充実は必要だよ」
「ものすごくそれっぽく言うけど、要するに本を増やしたいだけでしょう」
「否定はしない」
ハーマイオニーは深くため息をついた。
でも、その顔は完全拒否ではなかった。いける。これはいける顔だ。
「上限は?」
「慎重に考えたい」
「具体的に」
「今の1.5倍」
「多い」
「じゃあ1.3」
「多い」
「1.2」
「……」
「1.2」
「いいわよそれで」
ハーマイオニーは羊皮紙を引き寄せ、去年作った持ち込み制限の条約を書き換え始めた。
なんだかんだで優しい。たいへんありがたい。
「ただし」
彼女が言う。
「目録を作ること。勝手に危険な本を持ち込まないこと」
「そこに関しては僕が管理するから任せてくれ」
トムが自信ありげに言う。
「避難用物資の邪魔になる積み方をしないこと」
「はい」
「あと、アルドゥスの動線を塞がないこと」
「そこ大事だね」
ロンが真顔で言った。
たしかに大事だ。太った蛇の進路は確保しないといけない。
ドビーはその横で、なおも口をぎゅっとしめていた。 たぶん「本を増やす」も「秘密の部屋をシェルターにする」も、何もかも思うところはあるのだろう。でも今のドビーは、もう何も言うまい、と決めた顔をしている。 賢明である。
「これでいいわ」
ハーマイオニーが新しい条約を差し出した。
わたしは勢いよく署名した。
「やった」
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ」
トムがその羊皮紙を覗き込み、静かに言った。
「よくできた管理規約だ」
「でしょう」
「君たち、秘密の部屋で何を目指してるの?」
ロンが聞く。
「安全で快適な書庫兼避難所」
「すごく分かるようで分からない」
「わたしには分かる」
ハーマイオニーが言った。
「ローゼマインの理想郷なんじゃない?」
「かなり近い」
アルドゥスが満足そうに鎌首をもたげた。
『ひろい。あたたかい。ごはん多い』
『アルドゥスの理想郷でもあるんだね』
『いいところだ』
『それはよかった』
今年のホグワーツは、たぶん去年よりもっと騒がしい。 シリウス・ブラックのことも、フェルディナンド先輩のことも、調べなければいけない。ハリーのためにも、わたしたちのためにも。
でも、その一方で。
図書室には魔法書研究会の場所ができて、秘密の部屋にはシェルター運用の計画ができて、司書と餌やり係まで正式に配置された。
世界が少し危うい時ほど、本棚を増やして備えたくなるのは、たぶんもう性分なのだと思う。
「じゃあ、次はブラックの記事の続きね」
ハーマイオニーが言った。
「あと、アズカバンについても。なぜ脱獄できたのかとっても気になるわ」
「わたしが気になるのは、シリウス・ブラックがなぜ“ホグワーツにいる”と言ったのかかな。ハリーがいるって何で知ったのか気になるし」
「よくそんなに気になることがポンポンでてくるね」
「ロン」
ハーマイオニーが振り向く。
「あなたも手伝うのよ」
「えっ、僕も?」
「当然でしょ」
わたしが言うと、ロンは心底不満そうな顔をした。
でも、いつものことなので誰もあまり気にしなかった。
少しだけ、わくわくしていた。
危ないことが多い年ほど、調べることも増える。
それは困るけれど、困るだけでは終わらない。
少なくとも、わたしたちには本と場所と、読書仲間がいるのだから。