本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
ルーピン先生との守護霊の呪文の授業は、たいへん地味だった。
地味というか、謙虚な結果の連続だった。謙虚な結果というのは「何も出ない」の婉曲表現だ。
「では、今日も実践から始めよう」
ルーピン先生はそう言って、妙にあっさり杖を構えた。あっさりしすぎだ。もう少し生徒の心の準備を待ってほしい。
わたしとハリーは顔を見合わせた。この顔合わせも二回目だ。
「説明とか、もう少しこう……」
ハリーが言う。ルーピン先生は前回も守護霊の呪文の実践から始めていた。初回の授業は理由も分からないまま呪文を唱えさせられ、何も出ないまま終わった。わたしたちは馬鹿みたいに杖を振るだけで終わった。
二回目も同じだとさすがにやる気もなくなる。
「理論編とか」
「もちろん理論も大事だよ」
ルーピン先生は穏やかに言った。穏やかさの中に「でもね」が隠れている。この先生の穏やかさには毎回「でもね」が内蔵されている。
「特にマインに言えることなんだけど、まず『出ない』ところを確認した方が早いと思ってね。マイン、他の先生から君はよく魔法を大きく出し過ぎると聞いている」
「ひどくないですか?」
わたしが言うと、「まだ何も出てないだろう?」と返された。ぐうの音も出ない。たしかにハリーだけでなくわたしも呪文を唱えても杖先からは何も出てきたことがなかった。
普段はたいてい魔力をあさっての方向と出力で出し、効果が多く出過ぎるわたしだったが、守護霊の呪文に関してはさっぱりだったのだ。
魔力が多いから効果が出るたぐいの呪文ではないようだ。
わたしたちは空き教室で向かい合って立った。窓の外は曇っていて、空気も少し冷たい。吸魂鬼はいない。いないけれど、あの列車の中の感覚を思い出すと、今でも胸の奥が少し重くなる。チョコレートが食べたい。
「幸せだったことを思い出すんだ」
ルーピン先生が言った。
「心から、確かに嬉しかったと感じたことを」
ハリーが難しい顔をした。
わたしも考える。
幸せだったこと。急に言われると、これが案外難しい。嫌だったことや悔しかったことはすぐ出てくるのに——スネイプ先生の薬の味とか、フェルディナンドの「ふむ」とか、ドラコに本を取り上げられた時とか——幸せだったことは、いざ「これです」と差し出そうとすると少し照れくさいし、少しぼんやりする。幸せは形が曖昧なのだ。不幸せの方が輪郭がはっきりしている。不公平だ。
「はい、ではやってみよう」
ルーピン先生が見本に呪文を唱える。
「エクスペクト・パトローナム」
杖先から光が出て、シールドのように広がっていく。ハリーも続けて呪文を唱えた。
「エクスペクト・パトローナム!」
杖先がほんの少しだけ光った。
「……今のは?」
「希望の光、未満かな」
ルーピン先生が言った。
「厳しい」
「やさしく言うと、『まだ暗闇の中にいるね』」
「暗いんですけど」
「やさしく言ったんだけどね」
次はわたしの番だった。杖を握り直す。
幸せだったこと。
本。
本のことを考える。本棚。図書室。秘密の書庫。
「エクスペクト・パトローナム!」
やっぱり何も出なかった。杖先がちょっとだけ光った。やる気のある蛍くらいには光った。でも蛍では吸魂鬼に勝てない。蛍対吸魂鬼。試合にすらならない。
「二人とも、悪くはない」
ルーピン先生が言った。
「ただ、少し弱いね」
「弱い」
ハリーが不満そうに言う。
「何を思い出した?」
「初めてニンバス2000に乗った時。すごく気持ちよくて、嬉しかった」
「なるほど。悪くない。でも、少し『楽しい』寄りだ。まだ記憶の芯が細い」
「つまり?」
「エピソードが弱い」
「うわ、すごい言い方。人の思い出をエピソードが弱いって」
ルーピン先生は意外と辛口だ。
「マインは?」
と聞かれて、わたしは少し胸を張った。
「本です」
「本が好きなんだね。もう少し具体的には?」
「本棚とか、本を読めた時とか、本が増えた時とか」
「うん。つまり?」
「本です」
「具体性がないね」
そっちを刺されるとは思わなかった。本で具体性がないと言われるのは、わたしにとってかなりの衝撃だ。本という単語がわたしの人生で「具体性がない」と評価されるとは。
「だって全部大事なんです。どの本も、どの瞬間も、どれを読んでる時も」
「それは分かった」
「分かってくれるんですね」
「分かるけど、守護霊は『全部好き』だと少し散るんだ。一点に集中した方がいい」
「本にも焦点が必要なの?」
「たぶんね。一万冊の幸せより、一冊の幸せの方が、呪文には効く」
「むずかしいですね」
そのあとも二、三度試したけれど、結果は似たようなものだった。杖先が少しだけ光る。希望の光、未満。蛍以上、守護霊未満。成績表でいうと「もう少しがんばりましょう」の領域。本来わたしが最も縁遠い成績区分なのに、こういう時に限って訪れる。
「今日はここまでにしよう」
ルーピン先生が言った。
「焦らなくていい。二人とも、まったく駄目なわけではない」
「でも、ほぼ駄目でした」
わたしが言うと、「前向きな評価に変えると、『まだ全然これから』だね」と返された。言い方が違うだけで中身はほぼ同じである。ハーマイオニーが隣にいたら「それ同じことよ」と言っているだろう。
「あの、先生」
「なんだい?」
ハリーはわたしの存在を思い出し、口に出すか躊躇ってやっぱり言うことにしたみたいだ。
「なぜ僕だけまね妖怪の前に出させてくれなかったんですか?」
まね妖怪。人の怖いものをまねする魔法生物で、ボガードとも呼ばれている。三年生の授業では初回で扱ったようで、スリザリン生たちの間でも誰々の前ではあれが出た、これが出たと話しているのを聞いた。地味に例のあの人が出た人が多かったらしく、皆ヒソヒソと「言葉に困るよね」と言っていた。
スリザリン生の両親には例のあの人の信者だった人もいる。近いからこそ、逆に怖いと感じる生徒もいたようだ。
ダフネはあまりにボガードが怖かったからなのか、談話室でわっと泣き出してしまい、ドラコが「僕も同じだから気持ちは分かる」と慰めている現場を目撃した。
「ハリーの前にはヴォルデモート卿の姿が出ると思った」
ルーピン先生が例のあの人の名前を言ってぎょっとする。例のあの人がトムだと知っているわたしでさえ、未だに口に出すのを躊躇うのにこんな口に出せる人がいるのかと驚いた。
「あの、僕はディメンターを思い浮かべました」
「なるほど、君が恐れているものは恐怖そのものということか。感心したよ」
人の最悪の記憶を呼び起こすディメンターと最も恐れるものを真似るボガード。ある意味近しいものがあるのかもしれない。
「まね妖怪は二年生の授業ではやらないんですか?」
わたしはルーピン先生に尋ねた。
正直自分が怖がっているものが何かとても気になる。ディメンターのときに出てきたものがまね妖怪でも出るのか、それとも全く違うものなのか、興味があった。
「君は時々圧をかけてくるね」
「好奇心です」
「それが圧になってるんだよ。好奇心の圧」
「気になります。二年生でもやらせてください。ディメンターの前に立ち向かう上でも参考になると思うんです」
最終的に先生は折れた。
たぶん半分は根負けで、もう半分は今年のホグワーツがあまりにも落ち着かないからだと思う。ディメンターが校門にいて、脱獄犯が徘徊している。
「短時間だけ、希望者だけにしよう」
ルーピン先生はそう言った。
「二年生向けの簡単な実習として。危険がないように、ごく短く」
「やった」
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいです。知らない魔法を体験できるのは最高です」
「顔がだいぶ真剣だけど」
「好奇心です」
「そこが少し不安なんだよね。君の好奇心は時々、周囲の安全基準を超えるらしいから」
そして、その不安は残念ながら当たった。
数日後。
二年生向けのボガードの特別授業は、闇の魔術に対する防衛術の教室で行われた。全寮の二年生の三分の一くらいの人数が集まっていた。グリフィンドール生がやけに多い。さすが怖いもの知らずの寮だ。
教室の前には古びた箪笥が一つ置かれていて、その中にボガードがいるらしい。箪笥ががたがた震えている。中身が出たがっている。中身が出たがる箪笥。家具として最悪だ。
わたしは前の方に立っていた。アストリアは少し右。同じくスリザリン生で双子のヘスティア・カーローとフローラ・カーローは揃ってその隣。
グリフィンドールからはジニー・ウィーズリーやコリン・クリービーらが来ていた。
スリザリンの二年生が全体的に「嫌だけど興味もある」という顔をしているのは、なかなか面白かった。嫌と興味が五分五分の顔。人間の表情は複雑だ。
「いいかい」
ルーピン先生が言った。
「ボガードは、その人が最も恐れるものに姿を変える。大事なのは、恐怖に呑まれないことだ。相手を笑えるものに変える呪文——リディクラスを使う」
「笑えなかったらどうするの」
ヘスティアが小声でフローラに囁いた。
「その時はたぶん、先に悲鳴を上げた方が負けよ」
「そういう競技だったんですか?」
アストリアが真顔で聞いた。
「競技じゃないよ」
ルーピン先生が困った顔で訂正した。
「では、順番に前へ」
最初に前へ出た子の前には、バンシーが現れた。バンシーはかわいく歌うアイドルに変えられていた。
次の子の前には、怒った祖母らしき魔女。杖を振り上げて「宿題は!」と叫んでいる。リアルな恐怖だ。リアルすぎて笑うどころではない。
また別のレイブンクロー生の前には、試験用紙の束。そこに真っ赤な字で「不可」「不可」「不可」と並んでいて、たいへん現実的で嫌な感じがした。ボガードは人間の心理をよく分かっている。嫌なやつだ。
スリザリンで同級生の一人、ハーパーの前には壊れた箒が現れた。
「それは反則だろ」
ハーパーが言った。たしかに少し分かる。大事なものが壊れた姿を見せられるのは、怖いというより悲しい。ボガードに心理カウンセラーの資格を取らせたい。
「みんなそれぞれなんだね」
わたしは少し感心して言った。
「だからそういう授業なんでしょう」
アストリアが言った。
「うん。でも、実際見ると面白い。人の恐怖って個性が出る」
わたしは自分の番を待ちながら少し考えた。自分は何を見るんだろう。
本棚が崩れるとか? 全部白紙の本とか? 図書室封鎖とか? スネイプ先生の薬が三倍量になるとか?
嫌なものが多すぎるのも困りものだ。ボガードが迷うかもしれない。「この子、怖いものが多すぎて絞れない」って。
「ローゼマイン・マルフォイ」
ルーピン先生に呼ばれて前へ出る。先生の顔に微かな緊張が走ったのを見逃さなかった。「この子の番だ」という警戒だ。警戒されている。授業の一環で先生に警戒される二年生。不名誉だ。
「準備はいいかい?」
「たぶん」
「たぶん、ね」
先生は少し苦笑した。この苦笑には「頼むから何も壊さないでくれ」が込められている。
「では、集中して」
最初、何が出てきたのか分からなかった。
ぼろぼろの本だったからだ。
表紙は裂け、角は無惨に削られ、紙片がひらひらと落ちている。しかもその表紙に、灰色のネズミが前足をかけ、背を丸めてかりかりと齧っていた。
その後ろにも、また一匹。
さらにもう一匹。
本の陰からぞろぞろと、何匹も。
「……っ」
息が止まった。
教室が少しざわめいた。「バンシー」や「怒った祖母」を予想していた観客が、「ネズミに齧られる本」という予想外のビジュアルに困惑している。
ネズミそのものが怖いわけじゃない。
でも、だめだ。
本をかじっている。汚い。許せない。しかも一匹じゃない。これが増えたらどうなるか、わたしは知っている。想像できてしまう。
背表紙が削られる。
頁が裂ける。
紙が散る。
書庫が終わる。
頭が真っ白になった。
リディクラスと唱えるべきだった。ネズミに蝶ネクタイを着せるとか、本がネズミを追いかけ回すとか、そういう面白い変身をさせるべきだった。
でも、わたしの脳が選んだのは、リディクラスではなかった。
もっと即物的で、もっと最近見た光景だ。
アルドゥスなら。
蛇ならネズミを食べる。
蛇なら止められる。
蛇なら——
「サーペンソーティア!」
わたしは叫んでいた。
蛇を出す呪文だ。
その瞬間、ボガードが一瞬ぶれた。ネズミたちの姿が揺らぎ——
全員が凍った。
「……え?」
誰かが言った。
次の瞬間、ボガードとわたしの間に大きな生き物が現れた。
頭。首。ありえない太さの胴体。見覚えしかない、ぴかぴかした鱗。
アルドゥスだった。
しかも、かなり丸い。だいぶ丸い。先日の食事制限がまだ効果を発揮していないことが一目で分かる丸さだ。教室にギリギリ収まりきる大きさだった。
教室が沈黙した。完全な沈黙。呼吸の音すら聞こえない。
そのあと、遅れて悲鳴が上がった。
「なにこれ!?」
「蛇!?」
「大きい!!」
「いや大きいっていうか、何!?」
アルドゥスは、わたしの前でぴたりと止まった。巨大な頭がゆっくりと教室を見回す。生徒たちが石のように固まっている。合理的な反応だ。目の前に全長十五メートルのバジリスクがいたら、固まるのは正しい。比喩ではなく物理的に石になる可能性すらある生き物だ。
そして、アルドゥスはボガードを見た。
その瞬間、目の前のネズミだらけの本が、ぶるっと震えた。姿がぐにゃりと崩れ——
一瞬だけ、雄鶏になった。
真っ赤な鶏冠。羽ばたこうとする翼。開きかけたくちばし。
バジリスクの天敵。雄鶏の鳴き声はバジリスクを殺す。ボガードはアルドゥスの恐怖を読み取ったのだ。正しい判断だ。生物学的に正しい。
ただし、その正しい判断を実行に移す時間が足りなかった。
「え」
わたしが言った。
アルドゥスが、ぱくりと雄鶏を食べた。
食べた。
鳴く前に。鳴き声を出す前に。一瞬で。ボガードが雄鶏になって、鶏冠を立てて、鳴き声を出そうと口を開きかけた瞬間に、アルドゥスの顎が閉じた。
ボガードは、雄鶏になる時間すらほとんど与えられず、そのまま消えた。消えたというか、消化された。食物連鎖の頂点が、恐怖を食べた。
たぶんボガード側もかなり想定外だったと思う。「恐怖の対象に変身したのに、変身先が食べられた」は、ボガートのマニュアルに載っていない事態だろう。
教室はしんとした。
それからアルドゥスが盛大にげっぷをした。
ごうっ。
堂々たるげっぷだった。教室の空気が物理的に揺れた。窓ガラスが震えた。机の上の羽根ペンが転がった。生物学的に言って、このげっぷには音響兵器としてのポテンシャルがある。
アルドゥスは満足そうに目を細めて丸まった。食後の顔だ。十五メートルの蛇の食後の顔。穏やかだ。怖いくらい穏やかだ。ごはんを食べた後のアルドゥスは世界で一番平和な生き物になる。問題は「ごはん」がボガードだったということだけだ。
……平和だな。
いや、平和ではないのだけれど、少なくとも今すぐ誰かに飛びかかる気配ではない。機嫌も悪くなさそうだ。よかったのかよくないのか分からないけれど、たぶん今は前者だ。
わたしは自分がやらかしたことに、そこでようやく気づいた。
あ、これ、かなり駄目なやつだ。
前科リストに新しい項目が追加される。「ボガードの授業でバジリスクを召喚」。過去最大級の前科だ。フリットウィック先生を何回か飛ばしたことやナメクジ洗濯機をぶん回してしまったことが、全部霞む。
「……ローゼマイン」
アストリアが引きつった顔で言った。この子の表情が引きつるのは珍しい。普段は何があっても品のある穏やかさを保つ子だ。その子の表情を引きつらせたのだから、事態の深刻さが分かる。
「うん」
「あなた、今、何をしたの?」
「それをわたしも考えてるところ」
「考えてるところって——目の前に大蛇がいるんですけど」
「いるね」
「いるね、じゃないんですけど」
「いますね」
「丁寧に言い直しても状況は変わりません」
わたしは恐る恐る一歩前へ出た。
『なんだ、お前か』
アルドゥスがわたしに気がつき、近づいてくる。
『アルドゥス、なんでここに?』
教室中の視線が、一斉にわたしへ集まるのを感じた。
ああ、はい。
そこもばれるよね。
蛇語を話す二年生。ハリーみたいにスリザリンの継承者と呼ばれるかもしれない。
アルドゥスは金色の目をこちらへ向けた。
『なぜか知らないが、気がついたらここにいた。お前が呼んだのか?』
『ちがう、よんでない。というか、ちょっとまちがえた』
『まちがえた?』
『うん。もっと小さいののつもりだった』
『おなかいっぱいだ。もう何も食べたくない』
『それはよかった』
教室はしんとしていた。それはそうだろう。目の前で巨大蛇が現れ、ボガードを食べ、その蛇に向かって同級生が当然みたいに蛇語で会話しているのだ。シュールにもほどがある。
「え」
フローラが最初に声を出した。口が動くまでにだいぶ時間がかかっていた。
「蛇語話せるの?」
「生活の中で覚えたんだよ」
「どういう生活をしてるのよ!」
それはもっともである。「生活の中で蛇語を覚える」の「生活」は一般的な「生活」ではない。
アストリアは額を押さえた。ドラコと同じ仕草だ。わたしの周囲の人間は全員、額を押さえる動作が上手くなっていく。
「たしかに、マインですから今さら驚くべきじゃないのかもしれないですけど」
「いや驚くよ?!」
コリン・クリービーがアストリアにツッコむ。
ルーピン先生は、教室の前で杖を構えたまま、困り切った顔をしていた。無理もない。目の前にいるのは、どう見ても通常授業の範囲外だ。教科書のどのページにも「ボガードの授業中にバジリスクが出現した場合の対処法」は載っていない。載っていたら逆に怖い。
「……ローゼマイン・マルフォイ」
「はい」
「説明してもらえるかな」
「したいのはやまやまなんですが、たぶん今はわたしより専門の人を呼んだ方が早い気がします」
「それは、私もそう思う」
ルーピン先生は本当に困っていた。穏やかさの裏に「こんな事態は想定にない」が透けている。そして、その困り方はたいへん正しいと思う。わたしだって、他人の授業で突然太ったバジリスクが出てきたら困る。困るどころか退職を考える。
結局、その場はルーピン先生がすぐに校内へ連絡を飛ばし、わたしたちは教室の隅に避難させられた。
アルドゥスはその間、もう一度小さくげっぷをしたあと、たいへんのんびり床に顎をつけていた。緊張感があるのかないのか分からない。ない方に賭ける。満腹の蛇に緊張感はない。
「ねえ、逃げなくていいの?」
ヘスティアが小声で言った。
「逃げると追いかけられそうで嫌だわ。今は穏やかそうだから、いないふりをするのよ」
フローラが答える。
「でも確実な救いだよ。アルドゥスは食後の三十分間は絶対に動かない。経験則」
「経験則があること自体がおかしいんだよ。てか、なんで名前知ってるんだよ」
ハーパーの指摘が的確すぎる。この子は冷静だ。パニックの中で唯一まともな指摘をし続けている。将来有望だ。
そしてしばらくして、ばたばたと足音が響いた。
来たのは先生だけではなかった。見たことのない、少し古風な服装の老人がいた。手には使い古したトランクを持っている。くしゃっとした髪、優しそうな目、でも目の前の巨大蛇を見ても必要以上には慌てていない。むしろ、だいぶ微笑ましそうな顔をしている。バジリスクを見て微笑ましそうな顔をする人間は、世界にそう多くないと思う。
その人はアルドゥスを一目見るなり、しみじみと言った。
「……随分太ったバジリスクだなあ」
教室は、またしても静まり返った。
そしてわたしは、その場でとても真面目に思った。
これはまずいことになった、と。