本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
アルドゥスが、ニュート・スキャマンダー先生の預かりになった。
預かり。
それは実に便利な言葉だった。没収ではない。処分でもない。引き渡しでもない。預かり。つまり、いつか返ってくる可能性がある。そう信じてもいい響きがある。
だが現実として、秘密の部屋の奥に、あの巨大な気配はもうなかった。
いつもなら、わたしが蛇語で呼びかける前から、石の床の向こうでゆっくりと鱗が擦れる音がした。空腹を訴える低い声がした。わたしの発音のおかしな蛇語にも、根気よく付き合ってくれる大きな蛇がいた。
今は、静かだった。
静かすぎた。
「……アルドゥス、元気かな」
隣でハリーがぽつりと言った。
ハリーは床に座って、膝を抱えていた。蛇語が分かる少年は、とても落ち込んでいた。
「ニュート先生なら大丈夫だよ」
わたしは言った。言ったけれど、自分でも少し声が弱かった。
「うん」
ハリーはうなずいた。
「でも、寂しいな」
「うん」
「アルドゥス、僕のこと忘れないといいけど」
「ハリーの蛇語は聞き取りやすいって言ってたよ」
「それは褒めてる?」
「たぶん」
ハリーは少しだけ笑った。でもすぐに、また肩を落とした。
その肩に、白い羽がふわりと落ちた。
ハリーのペットのヘドウィグだった。
ハリーは寂しさのあまり真っ白なふくろうを秘密の部屋に連れ込んだらしい。ハリーの肩に乗ると、まるで「いつまでも蛇のことで落ち込んでいるんじゃない」とでも言うように、くちばしでハリーの髪をつついた。
「いたっ。分かったよ、ヘドウィグ」
ハリーは苦笑して、ヘドウィグを撫でた。
……いいな。
ハリーには、まだヘドウィグがいる。
もちろん、アルドゥスはわたしのペットではなかった。そこは重要である。わたしは飼っていない。元から住んでいた生き物に、ごはんを届けていただけだ。
「……わたし、アルドゥスのごはん係だったのに」
「ほとんどドビーがやってたじゃない」
背後から、容赦のない声が降ってきた。
振り返ると、ハーマイオニーが腕を組んで立っていた。
まずい。
これは説教の姿勢である。
図書室で分厚い本を抱えているときのハーマイオニーは頼もしい。授業で手を挙げているときのハーマイオニーも頼もしい。だが、腕を組んで立っているハーマイオニーは、教授陣より教授陣らしい。
「マイン」
「はい」
「ハリー」
「はい」
なぜかハリーまで姿勢を正した。
「まず、アルドゥスの件について。私は、トムが行った魔法に関しては賛成よ」
わたしはぱちぱちと瞬きをした。
トムは本を開きながら目線を少しずらしている。ハーマイオニーにどんな魔法を使ったのか詳細に話したのか。そういうところは抜け目がない。
「なんで気づかなかったのかしら。秘密が漏れそうになったときに誰にも言えない。むしろ、それをしていなかったらもっと大問題だったわ。あなたすぐ秘密を話しそうになったんでしょ?」
ハーマイオニーは大きく息をついた。
「そもそもサーペンソーティアを普通に使ったらバジリスクなんて出てこないのよ」
ハリーが小さくうなずいた。
「うん。普通は蛇だよね」
「普通の蛇ですら授業中に出したら大騒ぎなのに、あなたは規模がおかしいの。蛇が出ちゃった、じゃなくて、バジリスクが出ちゃった、になっている時点で感覚が麻痺しているわ」
正論だった。
正論は痛い。
「マイン」
「はい」
「悲しいのは分かるわ。でも、寂しいからといって、次にまた危険な生き物を拾ってきたりしないでね」
「アルドゥスは拾ったわけじゃないよ」
「しないでね。せめてドラコに許可をもらって」
「……はい」
わたしは頷いた。
その日の夕方、わたしは一人で散歩をしていた。
落ち込んだときは本を読むに限る。だが、今は本を開いても文字が頭に入ってこなかった。これは重症である。わたしが本を読めないなど、ホグワーツの階段が素直に目的地へ運んでくれるくらい珍しい。
外は少し冷えていた。
茂みの向こうでがさがさと音がした。
わたしは足を止めた。
黒い何かがいた。
大きい。
汚れている。
痩せている。
そして、厨房から誰かが捨てたらしいパンの欠片を、必死に漁っていた。
「……犬?」
黒い犬だった。
大きな、真っ黒な犬。
毛並みはぼさぼさで、ところどころ土で汚れている。目だけが妙に鋭かった。野良犬にしては、こちらを見る視線が妙に人間臭い。
犬はわたしに気づくと、低く唸った。
普通なら、ここで逃げるべきである。
野良犬は危ない。大きい犬はもっと危ない。汚れているなら病気の可能性もある。噛まれたら大変だ。そういう知識は一応ある。
だが、わたしの脳内には、別の映像が浮かんでいた。
空腹のアルドゥス。
ごはんを求めていたアルドゥス。
誰にも気づかれず、ずっと地下でお腹を空かせていた巨大蛇。
目の前の犬が、パンの欠片をくわえた。
わたしは胸を押さえた。
「……ごはん、足りてないの?」
犬は答えなかった。
当然である。犬は人語を話さない。
だが、その沈黙が余計に哀れだった。
「犬なら」
わたしは小さくつぶやいた。
「犬なら、飼っても大丈夫だよね?」
バジリスクはだめだった。
危険生物だった。
だが、犬なら違う。
犬は一般的な動物である。魔法界にも犬はいる。マグル界にも犬はいる。犬を飼っている家はたくさんある。つまり犬は社会的に許容されている。
完璧な論理だった。
バジリスクよりは絶対に安全である。少なくとも、見ただけで石化したり死んだりはしない。これは大きい。
「ちょっと待ってて。ドビー、いる?」
「はい、お嬢様」
ドビーが現れた。なぜか疲れ切った顔をしている。
「お肉を持ってきてほしいんだけど」
「アルドゥス様はもういらっしゃらないのでは?」
「ううん、犬にあげるの」
「かしこまりました。すぐに厨房から持ってまいります」
黒い犬はわたしと待っている間逃げなかった。
それどころか、ドビーが肉の切れ端を持って戻ってくると、警戒しながらも近づいてきた。
賢い。
とても賢い。
そして食べ方が必死だった。
「かわいそうに……」
わたしはしゃがみ込んだ。
犬は一瞬だけ、こちらを見た。
その目が、妙に疲れていた。
犬なのに。
何か、長い間ひどい目に遭ってきた人のような目をしていた。
「うちに来る?」
犬は答えなかった。
でも逃げなかった。
つまり、だいたい了承である。
わたしはまず、ドラコに相談した。
ハーマイオニーに言われたばかりだからである。秘密管理と危機管理。大人に言う前に、まず兄に相談する。これは成長だと思う。
スリザリンの談話室で、ドラコに話しかける。
「黒い犬を見つけたの」
わたしがそう言った瞬間、ドラコの顔からすっと血の気が引いた。
生き物を拾ってきたのかと怒られると思って身構えていたわたしは、少し拍子抜けした。ドラコは怒っていなかった。怒るより先に、固まっていた。
「……お前」
「うん?」
「黒い犬が、見えたのか」
「見えたよ」
ドラコは黙った。
沈黙が長い。
妙に長い。
「どこで」
「城の近く」
「いつ」
「さっき」
「お前以外に、誰か見たか」
「たぶん、見てない」
ドラコの顔色がさらに悪くなった。
え。
何。
なぜそこで悪化するの。
「マイン」
ドラコが低い声で言った。
「はい」
「黒い犬は、魔法界では不吉の象徴として語られることがあるのは知ってるな?」
「本で読んだことはあるけど」
「死の予兆だ」
「死」
「グリムと呼ばれる。見た者の死を告げる巨大な黒犬だとされている」
わたしは瞬きをした。
死の予兆。
巨大な黒犬。
たしかに、犬は黒かった。でもどこからどう見ても普通の犬だ。
「でも、ごはん食べてたよ」
「死の予兆でも腹は減るかもしれないだろ」
「死の予兆にごはんをあげたら懐くかもしれない」
「懐かせるな!」
ドラコが珍しく大きな声を出した。
談話室の何人かがこちらを見た。ドラコはすぐに声を落としたが、表情はまだ強張っていた。
「お前はただでさえ体が弱いんだぞ」
「うん」
「魔力も安定していない」
「うん」
「すぐ倒れる」
「それは最近少し減った」
「減っただけだ。なくなっていない」
正論だった。
「そんなお前が、死の予兆かもしれない黒い犬を見たなどと言い出したら、普通は心配する」
ドラコはそこで言葉を切った。
怒っているのではなかった。
心配しているのだと、ようやく分かった。
ドラコはいつも文句を言う。呆れる。嫌そうな顔をする。父に報告するぞと言う。だが、今の顔はそれとは違った。
本当に、わたしが死ぬかもしれないと思っている顔だった。
「……ドラコ」
「なんだ」
「わたし、まだ死なないよ」
「お前の“まだ”は信用できない」
ひどい。
だが、これも反論しにくかった。
「その黒い犬が、本当に犬なのか、僕が見る」
「ドラコも来てくれるの?」
「お前一人で死の予兆かもしれないものに餌付けされたら困る」
「餌付けはもうした」
「するなと言う前にするな」
怒られた。
わたしはドラコを連れて、黒い犬がいた場所へ戻った。
茂みの向こうで、黒い犬はまだいた。
わたしが置いた肉の切れ端を、警戒しながら食べている。ドラコはそれを見た瞬間、ものすごく複雑な顔をした。
「本当にいた」
「だから言ったよ」
「よかった」
ドラコは小さく息を吐いた。
その直後、眉間にしわを寄せた。
「いや、よくない。全然よくない。死の予兆ではなさそうというだけで、マインに近づこうとする犬だ。十分に怪しい」
「普通の犬だよ」
「普通の犬はホグワーツの敷地で人目を避けながら食べ物を漁らない」
「きっと飼い主とはぐれてお腹が空いてるんだよ」
ドラコは黒い犬を見下ろした。
黒い犬もドラコを見上げた。
しばらく、兄と犬が睨み合った。
妙な緊張感があった。
「……こいつ噛みそうか?」
「たぶん噛まない」
「たぶんで飼うな」
「でも、犬なら危険生物じゃないし、飼っても大丈夫だよね?」
「その理屈は雑すぎる」
ドラコは頭を抱えた。
「お前は、アルドゥスの件で反省したんじゃなかったのか?」
「したよ。でも今回はバジリスクじゃなくて犬だもん」
「比較対象がおかしい」
ドラコは深く息を吐いた。犬の耳がバジリスクという言葉になぜか反応してピクリと動いた。
「父上に手紙を書く。母上にも確認する。噛むようなら駄目だ」
「じゃあ、飼ってもいいの?」
ドラコはしばらく黙った。
黒い犬を見た。
わたしを見た。
また黒い犬を見た。
そして、ものすごく嫌そうに言った。
「……シリウス・ブラックがいる状況だしな。番犬代わりになるか」
「ありがとう、お兄さま!」
嬉しさのあまりドラコに抱きついた。黒い犬はなぜか変な顔をしていた。
「抱きつくな。まだ許可してない。あと名前をつけるな。名前をつけると戻せなくなる」
「名前はもう決めてるんだ。グーテンベルクにする!」
「つけるなと言った直後だぞ」
「印刷の父だよ」
「犬だぞ」
「本の未来を切り開いた偉大な名前だよ」
「ただの犬だぞ」
「じゃあ、普段はグーちゃん」
「悪化した」
こうして、黒い犬の名前はグーテンベルクになった。スコージファイで綺麗にすると、グーテンベルクの毛並みはツヤツヤになった。
グーテンベルクは不思議な犬だった。
人前にはあまり出ない。教授が近づくと、すっと姿を消す。フィルチさんの足音にも敏感だった。ミセス・ノリスには一度見つかりかけたが、驚くほど素早く逃げた。
とても賢い。
ただ、ひとつ気になることがあった。
グーテンベルクは、たまにロンのペットのネズミを狙っていた。
ロンのペットのスキャバーズである。
最初に見たときは、廊下の角でグーテンベルクが低く身を伏せ、スキャバーズをじっと見ていた。スキャバーズはロンのポケットから顔を出して、ぶるぶる震えていた。
「グーテンベルク」
わたしが呼ぶと、黒い犬はこちらを見た。
目つきが怖かった。
まるで、あのネズミだけは殺してやると言っているようだった。
「犬もネズミを追うの?」
わたしは首をかしげた。
猫なら分かる。クルックシャンクスがスキャバーズを狙うのは、まあ猫だからだ。ロンは怒っているけれど、猫としては自然な行動なのだと思う。
でも犬もネズミを追うのだろうか。
テリアとかなら追いそうだ。グーテンベルクが何犬かは分からない。黒くて大きくて賢い犬である。
日記に書き込んで聞いてみた。
トムはしばらく沈黙したあと、文字を浮かべた。
『犬種によるんじゃない?』
少しめんどくさそうな反応だ。
『グーテンベルクは?』
『少なくとも、ただの愛玩犬ではないだろうね』
『かっこいい犬ってこと?』
『君は時々、危険という言葉を前向きに解釈しすぎる』
怒られた。
最近、怒られてばかりである。
『その犬には近づきすぎるな』
『なんで?』
『動きが犬にしては妙だ』
『きっと賢いんだよ』
『賢い犬なら、君の周囲には近づかない』
『どういう意味?』
日記の文字はそこで止まった。
何だか失礼なことを言われた気がする。
それでも、グーテンベルクはわたしのそばにいた。
正確には、一定の距離を保ちながら近くにいる。撫でようとすると逃げることもあれば、疲れきったようにされるがままになることもある。ごはんはよく食べた。とてもよく食べた。
アルドゥスほどではない。
そこは安心した。
牛一頭を求められないだけで、犬の食事量はかなり良心的である。
そうしている間に十月が終わりに近づいた。
ハロウィンの日。
大広間はいつものように、かぼちゃでいっぱいだった。空中には蝙蝠が飛び、巨大なかぼちゃが橙色に光っている。料理は豪華で、甘い匂いがして、わたしは一瞬だけ気分が浮上した。
だが、宴の後半で空気が変わった。
ざわめきが広がる。
グリフィンドールの生徒たちが、顔色を変えて何やら話している。
「何かあったの?」
わたしは近くにいたハリーに尋ねた。
顔が強張っている。
「ハリー?」
「シリウス・ブラックが」
その名前を聞いた瞬間、近くにいたドラコの顔も変わった。
ハリーは息を整えるように一度口を閉じ、それから言った。
「グリフィンドール寮に入ろうとしたらしい」
大広間のざわめきが、遠く聞こえた。