本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
ハロウィンの夜にシリウス・ブラックがグリフィンドール寮へ侵入しかけた、という話は、翌朝になってもホグワーツ中を揺らしていた。
グリフィンドール寮だけでなく他の寮の生徒も大広間で寝ることになったからだ。
大広間は、いつもよりずっと騒がしかった。グリフィンドールの席はもちろん、ハッフルパフもレイブンクローも落ち着きがない。スリザリンの席も、普段なら「またグリフィンドールが騒いでいる」くらいの空気になるはずなのに、今回はそうならなかった。
無理もない。
脱獄犯が、ホグワーツの中に入った。
しかも、グリフィンドール寮の入口まで来た。
太った婦人の肖像画が破られたらしい、という噂話まで流れている。
わたしは朝食のパンを前に、深刻な顔で考え込んでいた。
「マイン」
ドラコが低い声で言った。
「はい」
「お前の黒い犬は」
「まだ見つかってない」
「そうか」
ドラコの顔は、全然「そうか」ではなかった。
怒っているというより、疑っている。疑っているというより、怖がっている。わたしが死の予兆かもしれない黒い犬を拾ったと思っている兄である。
「グーテンベルクは犬だよ」
「断言するな。やっぱり死の予兆だったかもしれないだろう?」
「だってスコージファイしたらふわふわになったし」
「死の予兆でも毛はあるかもしれないだろ」
「死の予兆に毛があるの?」
「知らん。だが、お前が拾ってきた時点で、普通の犬である可能性はかなり低い」
ひどい。
でも、反論は難しかった。
「フェルディナンドがグリフィンドール寮付近でシリウス・ブラックを張っているらしい。シリウス・ブラックも可哀想に」
「フリント先輩。普通逆じゃないんですか?」
近くの席にいたフリントが言って、ドラコが尋ねる。
「魔王に目をつけられたら終わりだよ。死の呪文を唱えかねない勢いだった」
その日の午後、グーテンベルクはひょっこり戻ってきた。
中庭の隅、石壁の影。いつものように、こちらを見ている。毛並みは前よりましだった。わたしのスコージファイの効果が残っているらしい。少なくとも、出会った時のような泥と枯れ葉の集合体ではない。
「グーテンベルク!」
わたしが呼ぶと、黒い犬はびくりとした。
逃げなかった。
よし。名前は覚えている。
わたしは近づこうとして、足を止めた。ハーマイオニーに怒られたばかりである。危機管理。距離。相手の警戒心。いきなり触らない。
わたしは持っていた包みをそっと地面に置いた。
「ごはんだよ」
グーテンベルクはしばらくこちらを見てから、ゆっくりと近づいた。
そのとき、背後から誰かが息をのむ音がした。
「……黒い犬」
振り返ると、ハリーが立っていた。
顔色が悪い。
ハリーはグーテンベルクを見て、石のように固まっていた。視線が、犬から離れない。
「ハリー?」
「マイン、そこから離れて」
「え?」
「それ、グリムだろ」
「ううん。グーテンベルク。グーちゃんって呼んでもいいよ」
「グーちゃん?」
「わたしのペットだよ」
ハリーは一度、口を開けた。
閉じた。
また開けた。
「……なんだ、グリムじゃないのか」
ほっとしたように言ったあと、すぐに眉を寄せた。
「いや、でも、マインのペットか。うーん」
「どういう意味?」
「グリムより安心できるか、ちょっと分からない」
失礼である。
だが、ハリーはかなり真剣だった。
「トレローニー先生が、黒い犬は死の予兆だって」
「ドラコも言ってた」
「でも、マインのペットなんだよね」
「うん。ごはんもあげてる」
「じゃあ死の予兆じゃない……のかな」
ハリーはグーテンベルクを見た。
グーテンベルクもハリーを見た。
妙な沈黙が落ちた。
グーテンベルクの目が、少しだけ柔らかくなった気がした。気のせいかもしれない。犬の表情を読むのは難しい。アルドゥスなら蛇語で聞けたのに。
「触る?」
「えっ」
ハリーは本気で迷った顔をした。
「死の予兆かもしれないけど、マインのペットで、でも黒い犬で、でも名前がグーテンベルク……」
「名前は関係ある?」
「分からない」
ハリーはおそるおそる手を伸ばした。
グーテンベルクは少し身を引いたが、逃げなかった。むしろしっぽを勢いよく振っている。ハリーの指先が、黒い毛に触れる。
ふわり。
ハリーが瞬きをした。
「……ふわふわだ」
「スコージファイしたから」
「マイン、野良犬に清掃呪文をかけたの?」
「汚れてたから」
「そっか」
ハリーはそれ以上言わなかった。
ハリーは優しい。
その優しさが、少しだけ「諦め」に似ていたのは気のせいだと思いたい。
そこへ、ロンが来た。
ロンはハリーとわたしと黒い犬を見て、ぎょっとした。
「何だよ、その犬!」
「グーテンベルク」
「名前は聞いてない!」
「聞かれたから答えたのに」
「聞いてないって言ったんだ!」
ロンはグーテンベルクを指さした。
「そいつ、スキャバーズを狙ってる犬だろ! また敵が増えた!」
「また?」
わたしが首をかしげると、ロンは顔を真っ赤にした。
「クルックシャンクスに続いて、今度は黒い犬だ! うちのスキャバーズが何をしたっていうんだよ!」
「ネズミだからじゃない?」
わたしが言うと、ロンは叫んだ。
「ひどい!」
「待って、ロン」
ハーマイオニーが本を抱えてやってきた。
クルックシャンクスの飼い主である。つまり、スキャバーズ問題における重要関係者だ。
「動物がネズミに興味を持つのは、ある程度自然なことよ」
「ハーマイオニーまで!」
「だって、猫がネズミを追うのは自然でしょう」
「今は犬の話だ!」
「犬でも狩猟本能のある犬種はいるわ」
ハーマイオニーは冷静だった。
わたしは頷いた。
「犬種によるってトムも言ってた」
「トムに聞いたのかよ!」
「詳しそうだったから」
ロンは頭を抱えた。
「なんでお前ら、スキャバーズを狙う側につくんだよ!」
「狙われる側のスキャバーズが、あまりにも逃げるからでは?」
ハーマイオニーが言った。
「クルックシャンクスだけならともかく、マインの犬にまで反応しているなら、何か理由があるのかもしれない」
「何だよそれ!」
ロンが叫ぶ。
わたしはグーテンベルクを見た。
グーテンベルクは静かにロンのポケットを見ていた。正確には、その中にいるであろうスキャバーズを見ていた。目つきが怖い。だが、今にも飛びかかるというより、何かを待っているように見える。
「グーテンベルク」
わたしが呼ぶと、黒い犬はこちらを見た。
「ネズミは食べちゃだめだよ。食べるなら厨房でちゃんとしたものをもらおうね」
ロンが悲鳴みたいな声を出した。
「食べる前提で話すな!」
「食べちゃだめって言ったよ」
「そこじゃない!」
ハーマイオニーが小さく笑った。
ロンはそれを見て、さらに傷ついた顔をした。
「ハーマイオニー、君までマイン側なのかよ」
「私は理性的な側よ」
「それが一番ひどい!」
グーテンベルクは、疲れた目でわたしたちを見ていた。
その目は、まるで「俺は何を見せられているんだ」と言っているようだった。
魔法書研究会の会合は、その日の夕方に開かれた。
場所は図書室の奥、少し人目につきにくい席である。魔法書研究会という名前だが、最近はシリウス・ブラックについて調べている。
もはや魔法書研究会というより、魔法界厄介事総合研究会である。
ただし、名前は変えない。
名前を変えると、活動実態を説明しなければならない。説明できない活動は、名前でごまかすに限る。
席にはメンバーが揃っていた。
最初の議題は、当然ながらシリウス・ブラックだった。
「問題は、どうやってホグワーツに入ったかよ」
ハーマイオニーが羊皮紙に見出しを書いた。
「ホグワーツの防衛は強化されていたはず。ディメンターも周囲にいる。なのに、ブラックはグリフィンドール寮の入口まで来た」
「合言葉を知っていたんじゃないか?」
ロンが言った。
「太った婦人が入れなかったって話だろ。合言葉が違ったから、怒って肖像画を破ったんじゃないかって」
ハーマイオニーが書き込む。
ルーナが手を挙げた。
「シリウス・ブラックは、やっぱり引退した有名ボーカルのスタビィ・ボードマンだったんじゃないかな。歌手なら、肖像画にも顔が利くかもしれない」
その場が沈黙に包まれた。
アーニーが真剣な顔で腕を組んだ。
「なるほど。芸能関係者ルートか」
「乗らないで、アーニー」
ハーマイオニーが即座に止めた。
ルーナは鞄から古い雑誌の切り抜きを出した。
「でも、スタビィ・ボードマンは突然表舞台から消えているの。シリウス・ブラックも突然アズカバンへ送られた。似ているよね?」
「ルーナ」
パドマが静かに言った。
パドマ・パチルは、今日も整然とした羊皮紙の束を持っていた。新聞やルポが好きで、裁判の傍聴が趣味というだけあって、資料の扱いが妙に本格的である。
「スタビィ・ボードマン説は、年齢が合わないと思う」
「そう?」
「これを見て」
パドマは雑誌の年表を広げた。
「スタビィ・ボードマンは、シリウス・ブラックがまだホグワーツの学生だった頃にもかなり頻繁に活動している。ツアー記録、ラジオ出演、雑誌の写真。ブラックが学校にいる時期と、スタビィの活動時期が重なりすぎているの」
「時間割を抜け出していた可能性は?」
ルーナが言った。
「多すぎる」
パドマは即答した。
「週末だけならまだしも、平日の公開収録まである。しかも、当時のスタビィはすでに大人として扱われている。少なくとも、学生のシリウスとは年齢が合わない」
ルーナは少し考え込んだ。
「じゃあ、スタビィ・ボードマンはシリウス・ブラックじゃないんだね」
「その可能性が高いわ」
「残念。歌で脱獄した線が消えちゃったね」
「最初から薄いわよ」
ハーマイオニーが言った。
だが、ルーナはめげなかった。
「でも、歌手ではないシリウス・ブラックがどうやって入ったのかは、まだ分からない」
「そこは正しい」
ハーマイオニーは認めた。
アーニーが得意げに身を乗り出した。
「僕は、内部協力者がいると見るね」
「それもありえる」
ハーマイオニーが言った。
アーニーは嬉しそうにした。
「つまり、犯人は教授の中にいる!」
「飛躍しすぎ」
ハーマイオニーが一刀両断した。
アーニーはしょんぼりした。
「でも内部事情を知っている可能性はあるわ」
パドマが言った。
「ブラックはホグワーツ出身でしょう。城の構造や肖像画の性格、寮の位置くらいなら知ってるんじゃないかしら」
「シリウスはグリフィンドール寮だから、寮の場所は当然知っている。私が思うに、アズカバンを脱獄した方法とホグワーツに侵入した方法は一緒だろう」
突然、今まで黙っていたフェルディナンドが発言した。わたしは彼がシリウス・ブラックのことを名前で呼んだのに少しびっくりする。考えてみれば兄だから当然ではあった。
ドラコが丁寧に尋ねる。
「フェルディナンド先輩はどんな方法だと思いますか?」
「杖を持っていない状態で取れる手段はそう多くない。ポリジュース薬や透明マント、協力者が手を貸して変身術で姿を変えているか。姿現しはできないから、秘密の通路を使った可能性が高いだろうな」
「秘密の通路か。詳しいやつは詳しいよな」
ロンが言った。
「ホグワーツには多そうですよね」
アストリアがうなずいた。
アストリアは歴史の本をめくっていた。魔法史だけは目が輝く。その他の授業では、時々魂が天井に抜けている。
「創設者時代から増改築が多いし、何度も封鎖された通路があります。特に古い家の生徒なら、家伝の地図や記録を持っている可能性もありますよ」
ドラコが遠くの席で、わずかに眉を動かした。
ブラック家。
マルフォイ家。
古い純血家の記録。
あまり気軽に触ると燃えそうな話題である。
そのとき、パドマが別の資料を机に置いた。
「実は私が気になるのは、侵入方法だけじゃないの」
「何?」
ハーマイオニーが身を乗り出した。
「シリウス・ブラックの裁判記録。これ、あまりにも杜撰じゃない?」
空気が少し変わった。
「裁判記録?」
ハリーが低い声で聞いた。
パドマは慎重にうなずいた。
「正確には、裁判記録と呼べるほど整っていないものも混じっているわ。送致記録、当時の新聞、目撃証言の要約、魔法省の発表。そこから拾える範囲だけど」
「何が変なの?」
わたしが尋ねると、パドマは羊皮紙を指で押さえた。
「マグルの証言と現場の状況を、かなり鵜呑みにしているように見えるの」
「マグルの証言?」
「爆発の後、現場にいたマグルたちは、シリウスが笑っていたとか、ピーター・ペティグリューを追い詰めていたとか証言している。でも、マグルは魔法を見分けられない。混乱状態の証言をそのまま採用するのは危ういわ」
パドマの声は落ち着いていた。
だが、内容はかなり鋭かった。
「それに、現場の状況。爆発、死者、ピーターの遺留物。確かにブラックが犯人に見える。でも、“そう見える”ことと“そうである”ことは違う」
ハーマイオニーの目が光った。
「反対尋問は?」
「そこが薄い。少なくとも私が見つけた範囲では、きちんと争われた形跡がほとんどない」
「杖の検査は?」
「記録が曖昧」
「記憶の確認は?」
「分からない。少なくとも公表資料には出てこない」
「動機は?」
「ポッター家を裏切った、という前提で説明されている。でも、その前提を支える部分が思ったより弱い」
ハリーは黙っていた。
顔が硬い。
ロンが小さく言った。
「でも、ブラックは悪いやつなんだろ」
「そう言われているわ」
パドマは静かに返した。
「でも、言われていることと、記録で確認できることは分けた方がいい」
わたしはパドマを見た。
裁判の傍聴が趣味、というのは少し変わっていると思っていた。でも今、その変わり方がとても頼もしかった。
ハーマイオニーも同じだったらしい。
「パドマ、その資料を写させてもらってもいい?」
「もちろん」
「私も確認するわ」
アーニーが深刻な顔でうなずいた。
「つまり、シリウス・ブラックは冤罪の可能性があるんだね」
「まだそこまでは言っていないわ」
パドマがすぐに言った。
「可能性を検討するには、資料が足りない。今言えるのは、当時の処理が雑に見える、ということだけ」
「でも、雑な処理の裏には必ず陰謀が」
「アーニー、推理を急がない」
ハーマイオニーに止められた。
アーニーはまたしょんぼりした。
ハリーはずっと黙っていた。
わたしは少し迷ってから、声をかけた。
「ハリー」
「……うん」
「調べる?」
ハリーはわたしを見た。
「怖い?」
そう聞くと、ハリーは少しだけ笑った。
「怖いよ。でも、知らないままなのも嫌だ」
「じゃあ、調べよう」
わたしは言った。
「本と記録で」
ハーマイオニーがうなずいた。
「感情で決めない。記録を見る。証言を見る。矛盾を見る」
ロンは不安そうだったが、反対はしなかった。
「でも、ブラックが本当に危険なら?」
「その場合も、調べた方がいいわ」
パドマが言った。
「危険な相手ほど、思い込みで動くのは危ないもの」
それは、ハーマイオニーのお説教と同じくらい正論だった。
数日後の夜、わたしとハリーは久しぶりにルーピン先生の部屋へ向かった。
守護霊の呪文の練習である。
ルーピン先生はつい最近体調を崩して、前回の練習は中止になっていた。ルーピン先生はわたしと同じでよく体調を崩す病弱仲間のようだ。
ルーピン先生の部屋には、温かい灯りがともっていた。
「来たね」
ルーピン先生は穏やかに言った。
「もう体調は大丈夫なんですか?」
「もう元気になったよ。ありがとう」
「月に一回くらい体調崩しますよね。ちゃんと薬飲んでますか?」
「ちゃんとセブルスにもらった薬を飲んでいるよ。彼しか作れない難しい薬なんだ」
ハリーはとても胡散臭そうな顔をしていたが、スネイプ先生が薬を作るのが上手なのは本当だ。わたしが体調を崩す回数が減ってきているのが何よりの証拠だった。
「わたしの薬も難しい薬らしいんです。スネイプ先生すごいですよね」
机の上には、チョコレートが用意されている。信頼できる先生である。チョコレートを用意している大人は、だいたい信用できる。少なくとも、吸魂鬼対策においては。
「今日は、前回より少し進めよう」
ハリーが緊張した顔で杖を握った。
わたしも杖を握る。
「呪文は覚えているね」
「エクスペクト・パトローナム」
ハリーが言った。小さなモヤが出る。
「大事なのは、幸福な記憶だ。強く、明るく、自分を支えてくれる記憶を選ぶこと」
幸福な記憶。
わたしは目を閉じた。
本。
図書館。
スリザリン談話室の古書。
秘密の書庫ができたときのこと。
だめだ。全部、本に流れていく。幸せなのに、どこか欲望に近い。手を伸ばす感じが強すぎる。守る呪文なのに、奪いに行く気持ちになってしまう。
「エクスペクト・パトローナ厶」
白いもやが出た。
細い。弱い。でも、さっきハリーが出したものとは少し違う。ふわりと広がったあと、すぐには消えなかった。わたしの前に、淡い布のように漂った。
ルーピン先生が、目を細めた。
「いいね、マイン」
「形にはなってないです」
「最初はそれでいい。今の記憶は、前よりずっと君を支えている」
わたしは杖先のもやを見つめた。
白い。
やわらかい。
でも、頼りない。
「本じゃだめなんでしょうか」
思わず聞いた。
ルーピン先生は少し笑った。
「本がだめなわけではないよ。ただ、君の場合、本は喜びであると同時に、欲しいものでもある。手を伸ばしたくなるものだ。守護霊に必要なのは、君を後ろから支えるものかもしれない」
「後ろから」
「そう。君が前へ進むために、失いたくないもの」
失いたくないもの。
わたしは、少し黙った。
ハリーも黙っていた。
次にハリーが杖を構えたとき彼は別の記憶を使ったらしい。
「エクスペクト・パトローナム!」
白いもやが出た。
さっきより濃かった。
ハリーは息をのんだ。
「今のは?」
ルーピン先生が尋ねる。
「夏休みにヘドウィグが僕のところに手紙を運んだとき」
ハリーは小さく言った。
「僕宛てのものがあるって、初めて思った」
ルーピン先生は優しくうなずいた。
「いい記憶だ」
わたしはハリーを見た。
ハリーはヘドウィグを大切にしている。友達も同じくらい大事にしている。
アルドゥスは今いない。グーテンベルクは飼い始めたばかりでまだ幸せと言えるほどの記憶はない。トムは日記で、実は名前を言ってはいけないあの人だ。でも、わたしのことを考えてくれる大事な友達だ。
わたしを心配してくれる人たちはたくさんいる。
もう一度、杖を構えた。
ドラコの顔を思い出す。
黒い犬が見えたのか、と青ざめた顔。
怒る前に心配した顔。
わたしはまだ死なない、と言ったら、信用できないと返した声。
ひどい兄である。
でも、わたしの兄である。
「エクスペクト・パトローナム」
白いもやが、さっきより少しだけ強く出た。
形にはならない。
けれど、ふわりと前へ広がった。
ハリーも隣で杖を上げた。
「エクスペクト・パトローナム!」
彼の杖先からも、白いもやが出る。
二つのもやが、部屋の中で淡く重なった。
まだ、守護霊と呼べるものではない。
でも、前より確かに近づいている。
ルーピン先生が、静かに言った。
「二人とも、今日はここまでにしよう。かなり進歩した」
ハリーは疲れた顔で、でも少し嬉しそうに笑った。
わたしも杖を下ろした。
指先が少し震えていた。
失いたくないものを思い出すのは、少し怖い。前世の記憶があるわたしにとってそれは、もう失ったことがあるものでもある。
その帰り道、廊下の窓の外に黒い影が見えた。
グーテンベルクだった。
月明かりの下で、黒い犬がこちらを見ている。
ハリーが足を止めた。
「やっぱり、ちょっとグリムっぽい」
「グーテンベルクだよ」
黒い犬は、わたしたちをしばらく見たあと、音もなく闇に消えた。