本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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35話 ニュート・スキャマンダーの屋敷

 

 ハリーはいつもより静かだった。

 静か、というより、言葉を喉の奥に押し込めているようだった。何かを言いたい。でも言ってしまえば、それは本当のことになってしまう。だから、まだ口に出したくない。そんな顔をしていた。

 わたしは隣を歩きながら、ちらりとハリーを見た。

 体調が悪い顔ではない。お腹が空いている顔でもない。本が足りない顔でもない。最後の可能性はわたしなら命に関わるが、ハリーの場合はたぶん違う。

 足元では、グーテンベルクがとことこと歩いている。

 黒くて大きな犬。わたしの犬。賢くて、無駄吠えをしなくて、本を噛まない。犬として、これ以上ない長所である。本を噛まない、というのはわたしの家における最重要徳目だ。

 ただ、ハリーは時々、そのグーテンベルクを見る。

 黒い犬を見るたびに、ほんの少しだけ表情が硬くなる。グリムを思い出しているのかもしれない。けれどグーテンベルクは死の前兆ではない。わたしの犬である。死の前兆が首輪をつけておすわりをするなら、世の中はもう少し分かりやすい。

 

「ハリー」

「うん?」

「シリウス・ブラックが、ハリーのお父さまの友達だったって誰から聞いたの?」

 

 ハリーはぽつりぽつりと話し始めた。

 ホグズミードで先生たちがシリウス・ブラックとピーター・ペティグリューについて話していたこと。

 シリウス・ブラックとジェームズ・ポッターといえば、悪戯好きで仲良しだったらしいこと。

 シリウス・ブラックがポッター家の秘密の守り人になり、情報を例のあの人に売ったらしいこと。

 

「……それは、きついね」

 

 わたしが言うと、ハリーは少し驚いたようにこちらを見た。

 

「怒っていいと思う。悲しくてもいいし、信じたくなくてもいいと思う。友達だったなら、なおさら」

「……うん」

 

 ハリーは小さくうなずいた。

 グーテンベルクが、ハリーの方を見た。黒い耳がぴくりと動く。

 

「でも、今日行くのはニュート先生のおうちだから」

 

 わたしは続けた。

 

「うん」

「シリウス・ブラックより危険なものもたくさんいると思う」

「それ、今言うこと?」

「心の準備は大事だよ。いきなり見て固まるより、事前に『危険があります』と聞いておく方がましだと思う」

「……まあ、そうだけど」

「あと、本当に危険なやつの目は見ないように」

「バジリスクのことだよね、それ」

 

 ハリーは少し不安そうな顔をした。正しい判断だった。

 

 ニュート・スキャマンダー先生の家は、ロンドンの郊外にあった。

 外から見ると、古いけれど落ち着いた屋敷だった。扉も窓もきちんとしていて、通りに溶け込んでいる。何も知らない人が見れば、少し気難しそうなお年寄りが住んでいそうな家だと思うだろう。

 だが、魔法使いの屋敷で「外から見て普通」は、だいたい信用できない。

 扉をくぐった瞬間、わたしは理解した。

 これは家ではない。

 家のふりをした、かなり広い何かである。魔法省の書類上はたぶん住居だが、実態は百科事典の三次元版だ。

 そこら中に魔法生物がいる。

 

「……家の中に図鑑が歩いてるみたい」

 

 思わずつぶやくと、ハリーが小さく吹き出した。

 

「マインらしい感想だね」

「だって、図鑑で見たものが立体になってるんだよ。しかも動く」

「本も動くじゃん」

「本が動くのと、図鑑の中身が動くのは違うよ。本が動くのは本の話。図鑑の中身が動くのは、図鑑の約束を超えている」

「……そこにこだわるんだね」

「大事なことだよ」

 

 奥からニュート先生が出てきた。年を取っているのに、足取りが軽い。人間に対しては少し控えめなのに、後ろで跳ねた小さな生き物には自然に手を差し出している。魔法生物と人間で、明らかに距離感が違う。ある意味、非常に正直な人だと思う。

 

「来てくれてありがとう。ローゼマイン、ハリー」

 

 わたしとハリーが挨拶すると、ニュート先生の視線が足元へ下がった。

 グーテンベルクである。

 グーテンベルクは、行儀よく座った。さすがわたしの犬。礼儀正しい。

 

「それから、君も。いい犬だね。少し痩せているが、目はしっかりしている」

「グーテンベルクです」

「グーテンベルク、いい名前だね」

 

 ニュート先生は、少し楽しそうにその名を繰り返した。

 

「印刷を発展させて本の普及に貢献した人の名前なんです」

 

 ハリーが横で「犬の名前にも本が絡むんだ」と小声で言った。

 当然である。大事なものには大事な名前をつけるべきだ。

 ニュート先生はグーテンベルクの頭を撫でようとして、途中で手を止めた。

 

「触ってもいいかな?」

 

 グーテンベルクは、一拍置いてから、すっと頭を下げた。

 

「うん。いい子だ」

 

 グーテンベルクは、なぜか少しだけ目をそらした。

 犬も褒められると照れるのかもしれない。

 

「では、こちらへ。驚くものもいるけれど、急に手を出さなければ大丈夫だよ」

 

 ニュート先生の案内で、わたしたちは奥へ進んだ。

 そこは、小さな世界だった。

 明るい温室のような部屋には、不思議な植物と一緒に、枝みたいな生き物が何匹もいた。別の部屋では、丸い目をした小さな生き物が棚の上からこちらを見下ろしていた。水辺のある部屋では、何かがぽちゃんと跳ねた。さらに奥からは、低い寝息のような音が聞こえる。

 目が足りない。

 手も足りない。

 メモを取る手と、観察する目と、あとで読むための本が全部足りない。なぜわたしは今日、羊皮紙を五十枚持ってこなかったのか。

 

「マイン、顔がすごい」

 

 ハリーが言った。

 

「どういう顔?」

「図書室を見つけたときみたいな顔」

「それはいい顔だね」

「うん。でも少し怖い顔でもある」

「失礼だよ」

 

 ニュート先生は楽しそうに笑った。

 

「興味を持つのはいいことだよ。ただ、相手にも都合があるからね」

「はい」

「特に、かわいいと思ったときほど気をつけるといい」

 

 その言葉は、少し遅かった。

 次の部屋に入った瞬間、わたしは見てしまった。

 丸い体。黒っぽい毛。長い鼻。小さな手。つぶらな目。

 かわいい。

 ものすごくかわいい。

 

「ニュート先生」

「だめだよ」

「まだ何も言ってません」

「飼いたい、という顔をしていた」

 

 なぜ分かったのだろう。ニュート先生の観察眼は、魔法生物にも人間にも等しく向いているらしい。

 

「マイン、顔に出すぎ」

 

 ハリーが横で笑っている。

 

「そんなことない」

「今のは出てた。鏡があったら見せてあげたい」

 

 部屋の中央で、その生き物はきょろきょろと辺りを見回していた。小さな手で床を叩き、棚の脚を調べ、何か光るものを見つけた瞬間、すばやく飛びつく。

 

「ニフラーだよ」

 

 ニュート先生が言った。

 

「光るものが大好きでね。金貨、指輪、ボタン、留め具、鍵、髪飾り……目についたものは、だいたい持っていく」

「収集癖があるんですね」

「かなり犯罪に近い収集癖だね」

「でも、気持ちは分かります」

「分かっちゃうんだ」

 

 ハリーが引いた顔で言った。

 

「欲しいものを集めたい気持ちは、誰にでもあるよ。本屋で予算が崩壊する感覚と、たぶん根っこは同じ」

「マインの場合は毎回崩壊してるよね」

「本屋の本棚の配置が悪いんだよ」

「本屋のせいにしないで」

 

 ニフラーが、ててて、とこちらへ走ってきた。

 かわいい。

 とてもかわいい。

 わたしは両手をぎゅっと握り、手を出さないように耐えた。えらい。今日のわたしはかなり理性的である。自分を褒めたい。

 ニフラーは、わたしの前を通り過ぎた。

 そして、グーテンベルクの首輪の金具に飛びついた。飼い犬だと分かるようにこの前買ったばかりの首輪だ。

 

「グーテンベルク!」

 

 グーテンベルクが低く唸った。

 ニフラーは、まったく気にしなかった。小さな手で金具をつかみ、きらきらした部分をどうにか持っていこうとしている。相手が自分の何倍も大きな黒犬であることなど、完全に考慮の外だ。

 欲望の前で危機感が休暇を取っている。

 

「ニフラーは、相手の大きさを考慮しないからね」

 

 ニュート先生は穏やかに言った。

 

「だめだよ。それはグーテンベルクのもの」

 

 わたしが手を伸ばした、その瞬間。

 わたしの髪飾りが消えた。

 

「……あれ?」

 

 頭が軽い。

 ニフラーは、わたしの髪飾りを抱えていた。二つ同時に持ち去っていた。同時にやるとは思っていなかった。

 

「泥棒!!」

「さっき共感してなかった?」

 

 ハリーが笑いをこらえながら言った。

 

「共感と被害は別!!」

 

 ニフラーは逃げた。わたしは追った。ハリーも追った。グーテンベルクも追った。ニュート先生だけが「走ると余計に逃げるよ」と落ち着いて言った。もっと早く言ってほしかった。三歩前に言ってほしかった。

 ニフラーは棚の下に潜り、箱の裏に回り、わたしのローブの留め具を狙った。欲張りである。小さいのに強欲である。こんなに計画的だとは思わなかった。

 最後に、グーテンベルクが棚の横に静かに回り込んだ。

 ニフラーは逃げ道を失った。

 黒い犬に見下ろされ、ニフラーは一瞬だけ止まった。それから、しぶしぶという顔で、髪飾りを床に置いた。

 

「グーテンベルク、えらい!!」

 

 わたしが褒めると、グーテンベルクは鼻を鳴らした。やれやれ、という音だった。

 

「すごいな、こいつ。本当に賢い」

 

 ハリーはしゃがみ込み、笑いながらグーテンベルクの頭へ手を伸ばした。

 グーテンベルクは、一瞬だけ固まった。

 ほんの一瞬だった。

 それから、ゆっくりとハリーの手を受け入れた。

 

 グーテンベルクはハリーを見上げなかった。ただ、じっとしていた。

 

 

 *

 

 

 ニフラー騒動がようやく落ち着いたころ、玄関の方から、こんこん、と控えめなノックの音がした。

 ニュート先生は、その音を聞いた瞬間、深いため息をついた。

 

「……来るなと言ったんだけれどね」

「誰か来たんですか?」

「孫だよ」

 

 扉の向こうから、若い男の人の声がした。

 

「お祖父様。いらっしゃるんでしょう。ホグワーツの件でお話を聞きたいんです」

「今日はやめておきなさい、ロルフ」

「まずは確認だけです。お話だけでもいいので」

「その言い方をする記者は、だいたい記事にするんだよ」

 

 記者。

 わたしは、その単語に反応した。

 危険生物より危険な職業が来た。

 ニュート先生が扉を開けると、そこに立っていたのは、まだ若い魔法使いだった。整ったローブに、手帳。羽根ペン。人を見る目つきが、ただ眺めているだけではない。相手の言葉の裏や、部屋の配置や、靴についた土まで見ていそうな目だった。記者の目だ。全部見られている気がする。

 

「ロルフ・スキャマンダーです。日刊予言者新聞で、魔法生物を担当しています」

 

 ロルフは礼儀正しく頭を下げた。

 

「ローゼマイン・マルフォイです」

「ハリー・ポッターです」

 

 わたしも頭を下げた。ハリーも続いた。

 

「ハリー・ポッターか。お噂はかねがね。君はホグワーツの3年生だったね? 誕生日はいつごろ?」

「え、8月です」

「ありがとう。ローゼマインは?」

「ホグワーツの2年生です。誕生日は7月です」

「年齢確認は大事なんだ、さて、本題だけど」

 

 ロルフは丁寧に名前と年齢を手帳に書き留めて、本題に入った。

 

「ホグワーツに危険生物が出たと聞いたんだが」

「ロルフ。その件は慎重に扱うべきだ」

 

 ニュート先生が静かに言った。

 

「分かっています。だから、お祖父様に止められる前に直接確認しに来ました」

「止められる理由を理解しているのなら、止まるべきではないかな」

「理解しているからこそ、他の記者に抜かれる前に知りたいんです」

 

 ロルフさんは、そこでわたしたちを見た。

 

「君は危険生物に餌を与えていた生徒?」

 

 わたしは背筋を伸ばした。

 ここは、きちんと答えなければならない。アルドゥスは危険だ。でも、ただの怪物として処分されていい存在ではない。だから、誤解のないように、正確に、慎重に言葉を選ぶ必要がある。

 

 なのに、わたしの口から出たのは、まったく違う言葉だった。

 

「わたしは巨大なキュウリを育てていました」

 

 沈黙が落ちた。

 ハリーが、ゆっくりこちらを見た。

 ニュート先生も、ロルフさんも、わたしを見た。

 グーテンベルクだけが、目を閉じた。あきらめている目だった。

 待って。

 今のは違う。

 巨大なキュウリなど育てていない。いや、魔法を使えば可能かもしれないけれど、今はそういう問題ではない。

 

「……巨大なキュウリ?」

 

 ロルフさんが手帳に視線を落としかけたので、わたしは慌てた。

 

「違います! 今のは違います! アルドゥスは──」

 

 今度こそ言おうとした。

 けれど、口が勝手に動いた。

 

「とても礼儀正しい、細長い校長先生です」

 

 ハリーがむせた。

 ニュート先生が目を瞬いた。

 ロルフさんの羽根ペンが止まった。

 

「細長い校長先生」

 

 ロルフさんが困惑した声で繰り返す。

 

「違います!!」

 

 わたしは叫んだ。

 

「今のはわたしが言いたかったことではありません! アルドゥスはバジリ──」

「バジル味のパンです」

 

 わたしは自分の口を両手で塞いだ。

 分かった。

 これは、わたしの失言ではない。失言にしては方向性がおかしすぎる。

 そして、こんな嫌がらせをする相手に、わたしは一人だけ心当たりがあった。

 トムだ。

 絶対にトムだ。

 日記は、いつも通り鞄に入っている。ニュート先生のおうちには魔法生物がたくさんいると聞いていたから、あとでトムにも話してあげようと思って持ってきたのだ。

 その親切心への返答が、巨大なキュウリである。

 許しがたい。

 腹立たしい。

 腹立たしいが、少しだけ賢い。

 いや、やっぱり腹立たしい。

 

「ハリー」

 

 ロルフさんが、今度はハリーを見た。

 

「君も見たのかな。ホグワーツの危険生物を」

 

 ハリーは警戒しながらも、頷こうとした。

 

「見ました。あれは本当に──」

 

 ハリーの顔が固まった。

 次の瞬間、ハリーの口から出たのは、低く、重々しい声だった。

 

「僕は長いマフラーを見ました」

 

 わたしは、ハリーを見た。

 ハリーも、自分の口を押さえた。

 

「違う! 今の違います!」

「長いマフラー」

 

 ロルフさんが困惑した声で繰り返す。

 

「生きているマフラーかな?」

「違います! すごく大きくて長い──」

「とても長い縄です」

 

 ハリーは天井を見上げた。

 

「……これ、呪いか?」

「たぶんトム」

 

 わたしは小声で言った。

 

「トム?」

「あとで説明する。たぶん、今は説明できない」

 

 なぜなら、説明しようとしたら、わたしの口から「親切なインク瓶です」とか出る気がするからだ。

 ロルフさんは、記者らしく目を細めた。

 

「なるほどなるほど。証言に干渉が入っている可能性があるね」

「そうです!!」

 

 わたしは勢いよくうなずいた。

 

「わたしたちは本当のことを話そうとしています。でも、口から違うことが出ます。何がなんだか」

「では、質問を変えるよ。君たちは、その生物を危険だと思う?」

 

 これは答えられるかもしれない。危険かどうかなら、真実は単純だ。

 

「はい。とても危険です」

 

 言えた。

 

「言えました!!」

 

 ハリーもほっとした顔をする。

 ロルフさんはすぐに手帳へ書き込んだ。

 

「危険であることは認める、と」

「でも、悪い子ではありません」

 

 今度も言えた。

 

「よし!」

 

 わたしはこぶしを握った。ロルフさんが少し引いていた。

 でも分かってきた。たぶんトムは、アルドゥスの居場所や具体的な情報を話そうとすると邪魔している。けれど、考え方や意見までは完全には止めていない。

 面倒な男である。でも、穴はある。

 

「危険ではあります。でも、目を隠して、ご飯をあげて、外に出ないようにして、ちゃんと話を聞けば──」

「話を聞けば?」

 

 ロルフさんが促した。

 

「危害を加えたりはしません。少なくとも、何も考えていない怪物として扱うのは違うと思います」

 

 今度は、ちゃんと言えた。

 ロルフさんの表情が少し変わった。記者の顔だった。面白がっているというより、何かを掴もうとしている顔。

 

「君は、その生物に意思があると考えている」

「もちろん、あります」

「意思疎通も可能だと?」

 

 わたしは口を開いた。

 

「はい」

 

 蛇語を話せるから、と言いかけて言葉が変換される。

 

「古代の早口言葉が得意なんです」

 

 わたしは黙った。

 ハリーも黙った。

 ロルフさんも黙った。

 ロルフさんは、残念そうに眉をひそめる。

 

「核心部分の証言が、明らかに歪められていて使い物にならない。これを記事にしたら、『ホグワーツに巨大なキュウリと長いマフラー』という、日刊予言者新聞でもさすがに厳しい紙面になる」

「さすがに、なんですね」

 

 ハリーが小声で言った。

 

「新聞にも限度はあるからね。たぶん」

 

 たぶん。

 その一言に、ハリーが少しだけ複雑そうな顔をした。

 ロルフさんは、その表情に気づいたのか、ハリーを見る。

 

「新聞が書くことが、いつも真実とは限らないんだ。僕が言うのもなんだけど」

 

 ハリーは黙った。

 シリウス・ブラック。日刊予言者新聞。殺人犯。裏切り者。脱獄囚。

 そこに書かれている言葉が、全部本当とは限らない。

 もちろん、全部嘘とも限らない。

 でも、紙に印刷されたからといって、それだけで真実になるわけではない。

 ロルフさんは、手帳をしまった。

 

「今の証言は記事にはしにくい」

 

 そこで少し間を置いた。

 

「なお、今の証言を正確に全部書くと、『巨大なキュウリに餌をあげる少女』という記事になる。そちらなら書けないことはないが、オカルト雑誌になってしまう」

「書かないでください」

「書きません」

 

 ロルフは苦笑した。ニュート先生も苦笑した。ハリーも笑っていた。

 ロルフは気を取り直して真剣な顔をして、ニュート先生を見つめる。

 

「お祖父様に聞きたい。僕の情報筋では、お祖父様が保護しているバジリスクがホグワーツに出た危険生物という話が出ています」

 

 わたしはハリーと顔を見合わせる。

 

 この人はそこまで知っているのか。

 

「否定はしないよ」

「バジリスクといえば、目を合わせると死に至る生物です。それでも、お祖父様は処分を反対すると?」

 

 ロルフの目は鋭かった。ニュート先生は穏やかにたしなめるような声で話す。

 

「庭にいる害虫じゃないんだ、ロルフ。空腹が苦手なだけの貴重な魔法生物だ。千年近く、ホグワーツにいた生き物だ。人間が見つけた途端に、所有者のような顔をして、生かすか殺すかを決める。それを当然だと思うなら、私たちは少し傲慢すぎる」

「ありがとうございます。記事に書かせていただきますね」

 

 ロルフが足早に去ろうと立ち上がる。

 

「あの、ロルフさん」

 

 わたしは思わず声をかけた。

 

「なんでしょう?」

 

「わたしたち、学校の部活動でシリウス・ブラックの事件について調べてるんです。そうしたら、日刊予言者新聞の初期報道に載っていた事件に居合わせたはずの未成年の少年がその後全く出てこないのが気になって……何かご存知ではないでしょうか」

「うーん、僕が記者になる前の昔の事件だからね。先輩に聞いて調べてみるよ」

「ありがとうございます!」

 

 ロルフはわたしたちを見て微笑んだ。

 

「何か気になるネタがあったらいつでも教えてくれ。魔法生物以外でもかまわないよ。それではお祖父様、来週の朝刊を楽しみにしててくださいね。今度こそ一面に載ってみせます」

 

 ロルフは張り切った様子で今度こそ屋敷を後にした。

 

「ロルフがすまないね。生物学者になるかと思ったのに、なぜか日刊予言者新聞の記者になって魔法生物関連の事件ばかり追っているんだ。奥でお茶でも飲まないかい?」

 

「奥でお茶でも、と言いたいところだけれど……その前に、会っていくかい?」

 わたしは顔を上げた。

「アルドゥスにですか?」

「そうだよ。ただし、約束は守ること。絶対に目隠しを外さない。正面に立たない。急に近づかない。大きな声を出さない」

「はい!」

「返事が元気すぎて少し不安だね」

 ニュート先生はそう言いながら、奥の扉へ向かった。

 

 ニュート先生が扉の前で杖を振ると、扉の表面に銀色の線が走った。鍵が外れる音が一つ、二つ、三つ。さらに、見えない膜のようなものがすうっと薄くなった。

 

「この部屋は外から中が見えないようにしてある。中から外も、ほとんど見えない。匂いと振動には反応するから、ゆっくり入って」

 

 扉が開く。

 中は、広い石造りの部屋だった。

 床には厚い砂と平たい石が敷かれていて、奥には暖炉のように赤く光る魔法石が置かれている。空気は少し乾いていて、暖かい。洞窟と温室の中間みたいな匂いがした。

 そして、その中央に、長い長い体が丸まっていた。

 アルドゥスだ。

 以前より、少し痩せて見えた。少なくとも、ちょっと前までの肥満体型からは脱していた。頭には分厚い黒布の目隠しが巻かれていて、さらにその上から魔法の留め具がかけられていた。

 

 暖かい石の上で丸まっているアルドゥスは、少しだけ眠そうに見えた。

 

『アルドゥス』

 

 わたしは、できるだけ静かに呼んだ。

 アルドゥスの頭が、ゆっくりこちらを向いた。

 ハリーが隣で息を呑む。

 グーテンベルクは、わたしの足元でじっとしていた。尻尾も振らない。吠えもしない。ただ、黒い耳だけが少し後ろに倒れている。賢い犬は、危険なものの前で余計なことをしないのだ。

 わたしは、蛇語で話しかけた。

 

『久しぶり。元気だった?』

 

 自分の口から出る音は、やっぱり少し不思議だった。人間の言葉ではない。喉の奥を細く通るような、擦れる音。けれど、意味はちゃんと分かる。

 アルドゥスは、しばらく黙っていた。

 それから、低い音で答えた。

 

『久しぶりだな、餌係』

『餌係じゃないよ。ローゼマインだよ』

『小さい、温かい、餌を持ってくるもの』

『認識がだいたい餌で構成されてる』

 

 ハリーが横で小さく言った。

 

『お前も来たのか』

『うん、アルドゥスに会いたかったんだ。元気?』

『言葉は通じないが快適に過ごしている。そちらの生き物は? 匂いを感じる』

『グーテンベルクだよ。わたしの犬』

 

 アルドゥスは、さらに続けた。

 

『食べられるものか?』

『違う!!』

 

 わたしとハリーの声がそろった。

 ニュート先生がすぐに一歩前へ出た。

 

「アルドゥス。あの子は食べ物ではないよ」

 

 もちろんニュート先生は蛇語は話せない。けれど、わたしたちの反応とグーテンベルクの固まり方で、だいたい察したらしい。

 アルドゥスは不満そうに、長い体を少しだけ動かした。

 

『それなら食べない。もう寝る』

 

 グーテンベルクは、静かにわたしの後ろへ移動した。

 賢い犬である。

 賢い犬は、自分を食べ物候補に入れる相手と必要以上に親しくしない。

 ニュート先生は、アルドゥスの体の様子を少し離れた場所から確認していた。鱗の艶、呼吸、体の巻き方、頭の向き。何もかもを、怖がるでもなく、油断するでもなく見ている。

 

「食欲は安定している。目隠しにも少し慣れてきた。まだ環境の変化には敏感だけれど、最初より落ち着いているよ」

「よかった」

 

 わたしは胸をなでおろした。

 本当によかった。

 秘密の部屋で見つけたとき、アルドゥスは空腹だった。何かを食べたがっていた。あのまま誰かに見つかっていたら、きっと「危険だから処分」と言われていた。

 でも今、アルドゥスは暖かい石の上で丸まり、名前を呼ばれ、餌の時間を覚え、こちらの声に返事をしている。

 

『また来るね』

 

 わたしが言うと、アルドゥスはゆっくり頭を下げた。

 

『分かった。継承者にもよろしく伝えろ』

『分かった』

 

 トムのことかな? 

 

 部屋を出る直前、ハリーが振り返った。

 目隠しをされた大きな蛇は、暖かい石の上でまた体を丸めていた。怖い。危険。近づけば死ぬかもしれない。

 でも、ハリーはさっきより少しだけ静かな顔で見ていた。

 

「危険だけど、アルドゥスが悪いわけじゃない」

 

 ハリーがぽつりと言った。

 わたしはうなずいた。

 

「うん」

 

 グーテンベルクは、ハリーの足元で何も言わなかった。

 ただ、黒い耳を伏せたまま、扉が閉まるまでアルドゥスのいる部屋を見ていた。

 

 その後ニュート先生は、わたしたちを静かな部屋へ案内してくれた。

 大きな窓がある部屋だった。窓の外にはロンドンの景色が見えるはずなのに、実際には草地と小さな池が広がっていた。魔法使いの家は、本当に外観を信用してはいけない。詐欺に近い。でも素敵なので許す。

 ハリーは、窓のそばに立っていた。さっきより少し表情は柔らかい。けれど、重いものが消えたわけではない。

 ニュート先生は、遠慮がちにハリーの隣に立った。

 

「シリウス・ブラックのことはもう聞いたのかな」

 

 ハリーの肩が、少しだけ動いた。

 

「……はい、裏切り者だと聞きました」

「君のお父さんの友人だった、と」

「知ってたんですか」

「少しだけね」

 

 ニュート先生は、窓の外を見た。

 

「危険だと言われるものは、たくさんある。魔法生物にも、人にも。危険なものが本当に危険ではない、とは言わない。危険なものは危険だ。近づけば傷つくこともある」

 

 ハリーは黙って聞いていた。グーテンベルクは、わたしの足元に座っている。けれど、耳だけが、ハリーとニュート先生の方を向いていた。

 

「ただね、ハリー。危険であることと、悪であることは同じではないんだ」

 

 ニュート先生の声は、静かだった。

 

「もちろん、悪いことをした者を許せという意味ではない。誰かを傷つけたなら、その責任はある。だが、評判や恐怖だけで決めつけると、見落とすものもある」

「でも、みんな言ってます。ブラックが悪者だって」

「みんなが言っていることが、いつも間違っているわけではない。けれど、いつも正しいわけでもない」

 

 ハリーは唇を結んだ。

 

「じゃあ、どうすればいいんですか」

「急いで結論を出さないことだよ。怒りながらでもいい。疑いながらでもいい。けれど、見ることをやめないことだ」

 

 見ることをやめない。

 それは、少し本に似ていると思った。最初の一頁だけで本の価値を決めてはいけない。表紙が怪しい本もあるし、題名がひどい本もあるし、前書きが長すぎて腹が立つ本もある。でも、読み進めないと分からないことがある。

 ただし、本当に危険な本もあるので、その場合は慎重に読まなければならない。

 

 グーテンベルクは、じっとハリーの方を見ていた。

 黒い犬の目は、何も言わない。

 でも、何かを聞いているようだった。

 

 

 帰るころには、わたしはとても疲れていた。

 主に、ニフラーに何度も持ち物を狙われたせいである。髪飾り、留め具、栞、グーテンベルクの首輪の金具、ハリーの眼鏡、ニュート先生のボタン。

 ニフラーは平等だった。相手を選ばない。光るものの前では、すべての人間と犬が等しく被害者である。

 

「やっぱり、飼うのはだめですか」

「やめた方がいい」

 

 ニュート先生はきっぱり言った。

 

「キラキラしているものは全部持っていくからね」

「でも、本は持っていきませんよね?」

「本に金具がついていたら持っていくよ」

「だめですね」

 

 即決だった。

 本を傷つける可能性があるなら、どれほどかわいくても同居は難しい。わたしには守るべき本がある。今日だけで栞を三枚取られた。あれが本についていたら、と思うと体が冷える。

 ニフラーは、棚の上からこちらを見ていた。

 わたしも見返した。

 分かり合える。

 分かり合えるからこそ、同じ屋根の下で暮らしてはいけない相手だった。

 屋敷を出ると、ロンドンの空気はさっきより少し冷たく感じた。

 ハリーは、行きよりは少しだけ口数が増えていた。シリウス・ブラックが父の友人だったことは、何も軽くなっていない。怒りも、悲しみも、裏切られたような気持ちも、消えたわけではないだろう。

 でも、危険なものを危険なものとして見たうえで、それでも決めつけない大人がいる。

 それを知っただけで、少しだけ息がしやすくなったのかもしれない。

 グーテンベルクは、ハリーの少し後ろを歩いていた。黒い大きな犬。

 ハリーはふと振り返り、その頭を軽く撫でた。

 グーテンベルクは、返事をしなかった。

 ただ、ほんの少しだけ、ハリーの手に頭を預けた。

 わたしはそれを見て、満足した。

 

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