本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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秘密の部屋編
4話 不思議な日記帳


 父の書斎は、マルフォイ家の屋敷の中でも特別な場所だった。

 勝手に入ってはいけない。書類を触ってはいけない。本棚の本を抜いてはいけない。

 そういう決まりはちゃんと知っている。

 知っているけれど、今日は仕方がなかった。

 父は外出中で、母は応接間で来客の準備をしていて、ドラコはホグワーツでいない。

 つまり書斎に入っても叱られることがない。

 いつもなら、叱る側は兄だ。「お前はまた勝手に動き回って……」と顔を顰めながら、それでも結局は抱き上げて部屋まで連れ帰ってくれる。本人は監視だと言い張っているけれど、あれはどう見ても心配だ。ドラコは口が悪いだけで、根は優しい。

 でも今、その兄はいない。

 絶好の機会だった。

 本の匂いは扉の外からでもわかる。古い羊皮紙と革表紙、それから少し乾いた埃の匂い。そこに魔法薬の残り香みたいなものが混ざっていて、胸の奥がそわそわする。

 あの中にはきっと、まだわたしの知らない本がある。

 

「少しだけ……」

 そう小さく言い訳してから、わたしは扉を押した。

 重たい扉がゆっくり開いて、薄暗い部屋が姿を見せる。

 高い天井まで届く本棚、整然と並んだ背表紙、大きな机、窓から差し込む午後の光。その光の中で埃が静かに揺れていて、まるで本たちが息をしているみたいだった。

 ――すごい。

 何度見ても、本のある部屋は美しい。父の蔵書は闇の魔術に偏っているとはいえ、本は本だ。

 走ると倒れることがあるから、わたしは足早に、でもちゃんと歩いて部屋の中へ入った。

 今朝はホグワーツにいるというスネイプ先生が調合してくれた薬をちゃんと飲んだ。あの薬がなかったら、そもそもベッドから起き上がることすらできなかったとよく母が話していた。七歳の時にようやく完成したあの薬のおかげで、わたしはこうして歩き回れるようになったのだ。それでも長時間動くと身体が軋むし、興奮すると魔力が暴れて余計に体力を削る。

 焦ってはいけない。本は丁寧に扱わないといけない。それは絶対だ。

 机の横にある棚には、古い家系図や法律関係の本が並んでいた。

 その隣には魔法史、呪文学、古代ルーン語。上の方にはたぶん、わたしに読ませるにはまだ早い本が置かれている。そういう本ほど読みたいのは、当然のことだった。

 近くにあった小さな踏み台を引き寄せて、その上に乗る。

 前は届かなかった高さにも、今なら少しだけ手が届く。同い年の子と並ぶとだいぶ小さいらしいけれど、それでも本に近づけるのはうれしい。母は「あと三つ上でもおかしくないのに」と時々困った顔をする。わたしとしては、身長のことより蔵書へのアクセスの方がよほど問題だった。

 上段の棚に手を伸ばす。

 指先が背表紙をなぞっていく。革のざらつき、箔押しの溝、古びた装丁のひび。どれも好きだ。

 その時、指先に少し違う感触が触れた。

 

「あれ?」

 

 本にしては薄い。

 横向きに差し込まれていて、ほかの本の陰に隠れるようになっている。

 隠されているものは気になる。これはもう仕方ない。

 慎重に引き抜くと、それは黒い革張りの日記帳だった。表紙には飾りもなく、題名もない。けれど手に取った瞬間、ぴり、とわずかな熱の感触が指先に走った。

 いや、わずか、ではなかった。

 わたしの掌の中で、自分の中の熱がざわりと反応する。まるで日記帳の中に閉じ込められた何かが呼応するみたいに。

 ただの日記帳ではない。

 体の不調で色々な検査を受けさせられたおかげで、自分の魔力の感覚を熱として感じる。人より魔力が多いのだと父に教えてもらった。

 わたしはすぐに机のところへ移動して、そっと表紙を開いた。

 最初のページに名前が書いてある。

 

T. M. Riddle

 

 知らない名前だった。

 少なくともマルフォイ家の親戚ではないし、父がよく口にする名でもない。装丁も質素で、父の趣味とはあまり思えなかった。

 それなのに書斎の、それも棚の奥に紛れ込んでいる。

 つまり、ただの古い日記ではない。誰の日記だろう。

 何枚かページをめくる。

 全部真っ白だった。

 

「変なの」

 

 名前以外、何もない。

 白紙の日記帳なんてどう考えても怪しい。でも怪しい本ほど面白いことがある。経験上、だいたいそうだ。

 机の上には羽ペンとインク壺が置かれていた。

 少しだけ考えてから、わたしは白いページに字を書いた。

 

『誰の日記帳なんだろう』 

 

 インクが紙に染み込んで――そのまま消えた。

 

「え?」

 

 思わず声が漏れた。

 今、確かに文字を書いたはずなのに、まるで水の中に溶けるみたいに紙の奥へ吸い込まれて消えてしまった。跡形もない。

 心臓がどくどく鳴る。怖いというより、面白くて仕方がなかった。

 指先がじんじんする。興奮のせいで魔力がわずかに漏れ始めている。落ち着かないと。深呼吸を一つして、意識的に魔力を抑える。暴走したら元も子もない。ここで倒れたらドビーに見つかって大騒ぎになる。

 数秒後、真っ白なページの上に、見えない手が書くように新しい文字が浮かび上がった。

 

『はじめまして。僕はトム・リドル。君の名前は?』

 

 わたしは息を呑んだ。

 本が返事をした。

 正確には日記帳だけれど、紙の向こうから返事が来たのだ。そんなものがあるなんて、聞いたことがない。少なくとも、わたしは初めて見る。今まで読み漁った数百冊の中にも、こんな道具の記述はなかった。

 すごい。

 ものすごくロマンがある。

 わたしは急いで羽ペンを持ち直した。手が少し震えていた。興奮で、ではなく——いや、やっぱり興奮だった。

 

『わたしはローゼマイン・マルフォイ。あなたは本なの?』

 

 文字はまた吸い込まれて、すぐに返事が現れる。

 

『マルフォイ家のお嬢様、はじめまして。僕はホグワーツに通っていた学生の記憶だ。インクより長持ちできるように保存したんだ』

 

 記憶の保存。なんて素晴らしい技術だろう。本だって著者の記憶を紙に写し取ったものだけれど、これはもっと直接的だ。対話ができる本。著者に質問ができる本。これはもう、本好きにとっての至高ではないか。

 

『すごい。わたしは来年からホグワーツに通うの』

 

『未来の後輩だね。聞きたいことがあったら何でも教えよう』

 

『じゃあ、トム。ホグワーツのことを教えて。図書館はどれくらい広い? 図書館には何冊本があるの? 禁書の棚にはどんな本があるの? 閲覧制限は厳しい? 写本の保管状態は? 蔵書の分類体系はデューイ式? それとも独自? 古代ルーン語の原典はどこの棚にあるの?』

 

 返事がぴたりと止まった。

 不思議に思って待っていると、ゆっくり文字が浮かぶ。

 

『そんなに一気には答えられないよ。君は本が好きなのかい?』

 

『好きだよ』

 

『学校の様子や入学した後の他のことは気にならないのかい?』

 

 少しだけ考える。

 でも、今のわたしにとって一番大事なのはやっぱり本だった。友達とか寮とか成績とか、そういうのは本を読むための環境に過ぎない。

 

『本の方が大事だよ。ホグワーツにはたくさん本があるんでしょう? 』

 

『ずいぶん熱心だね』

 

『ホグワーツに入学したら、図書館の本を全部読み尽くしたいからね』

 

『その情熱を別のことにも向けた方がいいんじゃないか?』

 

『本以上に大事なことが?』 

 

 返事が来るまでの間が、さっきより少し長かった。

 その沈黙がなんとなくおかしくて、わたしはページを見ながら小さく笑う。

 変な日記帳だ。ダウンロードに時間がかかるパソコンみたい。

 

『君は、その……そんなに本が好きなのか?』

 

『うん。すごく好き。家族の次くらいに大事。読む時だけなら同じくらいかも』

 

 また少し間が空いた。

 

『家族は大事なのか?』

 

 唐突な質問だった。でも、答えるまでもない。

 

『当然だよ。お父さまもお母さまもドラコも、わたしにとっては大切な家族だもの。わたしが病気でずっと部屋にいても、みんなそばにいてくれたから。ドラコなんか、わたしのために魔法薬の勉強まで始めたんだよ。自分で薬を調合できるようになるんだって。不器用なくせに』

 

 返事が来るまで、今度はかなり長い間があった。

 おかしいな。ダウンロードどころかフリーズしたみたいだ。 

 

『……僕も本が好きなんだ。良ければ最近読んだ本の話を聞きたい』

 

 話題が変わった気がしたけれど、本の話ならいくらでもできる。

 トムに最近読んだ本の話をする。彼はあまり児童書には詳しくなかったが、最近読んだばかりの教科書の知識は豊富だった。闇の魔術に対する防衛術の教科書について語り始めたら止まらなくなって、トムの返事がやけに詳しかったのが印象的だった。本が好きなのは事実なのだろう。

 

 なんだか思っていたより、話しやすい。

 日記帳なのに。

 

 いや、日記帳だからかもしれない。紙の向こうの相手は、わたしの見た目を知らない。年齢より幼く見えることも、具合が悪くてすぐ横になることも、魔力が暴走して周りに迷惑をかけることも知らない。ただ、本の話をしてくれる。それがとても心地よかった。

 

『ねえ、トム。ホグワーツの図書館の司書になるのって難しい?』

 

『君は本当に本が好きなんだね』

 

『大事だから』

 

『勉強すればきっとなれるよ』

 

 わたしは目を輝かせた。

 

『本当に!?』

 

『もちろん』

 

『じゃあ頑張る! まずは入学して、図書委員会を作って、仲間を集めて…あ、禁書の棚のアクセス権も欲しいな。先生に取り入るしかないかな。いい先生いる? 本好きの先生』

 

『……君の行動力が少し怖い。まだ入学前だろう?』

 

『入学してからじゃ遅いの。準備は早い方がいいでしょう?』

 

 ホグワーツの図書館事情に詳しいトムに色々な質問をしていると、廊下の向こうからドビーの声が聞こえた。

 

「お嬢様、どちらにいらっしゃいますか? お薬の時間でございます!」

 

 しまった。薬の時間だ。

 わたしは急いで日記帳を閉じた。

 棚に戻すべきか、一瞬迷う。けれど、戻したら次にいつ読めるかわからない。こんな貴重なものを簡単に手放せるわけがない。対話ができる本だ。こんなもの、手放す方がどうかしている。

 結論はすぐに出た。

 持っていく。

 スカートのポケットにそっと日記帳を滑り込ませる。

 叱られるかもしれない。父が戻ったら気づくかもしれない。ドラコが帰ってきたら絶対に怒る。「お前は本のためなら何でもする気か」と呆れた顔をするだろう。

 うん、する。

 それよりも、この先この日記帳ともっと話せる方が大事だった。

 最後にもう一度だけ開いて、急いで書く。

 

『また後で話そう、トム。薬の時間なの』

 

 すぐに返事が浮かんだ。

 

『薬? 君、体が弱いのか?』

 

『大丈夫。死なない程度には元気だから。それより、また本の話がしたい。今度はトムのおすすめを教えて。ホグワーツの図書室にあるやつがいいな』

 

『君、勝手に持ち出す気だな?』

 

『うん。もっと本の話がしたいから』

 

 少し間があって、それから短く文字が浮かぶ。

 

『いつでも喜んで』

 

 わたしは小さく笑って本を閉じた。

 父の書斎の扉をそっと閉めながら、胸の中で思う。

 今日はすごく良い日だ。

 だって、新しい本——ううん、たぶんそれ以上のものを見つけたのだから。

 ドビーの声がまた聞こえる。急がないと。薬を飲まないと、明日は起き上がれなくなるかもしれない。

 でも、ポケットの中の日記帳の重みが心地よくて、足取りはいつもより少しだけ軽かった。

 

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