本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
ハリーが先頭を走っている。ハーマイオニーがその背を追い、わたしもローブの裾を握りしめて地面を蹴った。さらにその奥で、ルーピン先生の長い足音が、誰よりも切迫した拍子を刻んでいた。
気がついたら城の外に出ていた。
ピーター・ペティグリューの姿は見当たらない。
「あれ、みんなは?」
いつの間にか、ドラコやルーナたちは後ろをついてきていなかった。
「はぐれたのかも」
わたしたちの行く手を遮ったのはロンだった。
「……やあ」
ロンは、こちらに気づくと、少しばかり気まずそうに手を上げて挨拶をする。わたしたちは急にロンが現れたことに驚いて立ち止まった。
胸の前で、痩せた灰色のネズミを両手で抱えている。
その姿はずいぶんと小さく、頼りなかった。
「スキャバーズ、生きてた。だから、その……悪かったよ、ハーマイオニー。クルックシャンクスのせいにして」
ハーマイオニーが目を丸くした。
ロンが謝るところを見た、というより、ロンが謝る前に逃げなかったことに驚いている顔だった。
「それから、マインも」
「わたし?」
「お前の犬が食べたとか言って、悪かった」
何か変だ。
ピーター・ペティグリューを追っていたはずなのに、なぜかロンに遭遇して、いなくなったはずのスキャバーズと遭遇する?
ハリーがロンの謝罪をぶった切り、尋ねた。
「ロン、ピーター・ペティグリューを見なかった?」
「え? ピーター・ペティグリュー?」
ロンは急に言われた言葉に頭が追いついていないようだった。
ルーピン先生は、地図を握ったまま動けずにいた。ロンとスキャバーズを見て怒りをあらわにしている。
「お前だったのか!」
ロンの腕の中で、スキャバーズが激しく身をよじった。全身で逃げようとしている。
「スキャバーズ! 待て!」
「ロン、危ない!」
ハリーが叫ぶ。
ロンが振り返った。
「ハリー!? なんで──」
その言葉は、途中で凍りついた。
地面を、低く、滑るように、黒い影が走ってきた。
大きな黒い犬。
グーテンベルク。
わたしは息を呑んだ。
「グーテンベルク……?」
けれど、グーテンベルクはわたしを見なかった。
いつもなら──そう、いつもなら、まずわたしのそばに来る。少しだけ偉そうに座って、撫でてもいい、という顔をする。本を読んでいるわたしの足元に体を預けてくる、そういう犬だった。
でも今、黒い犬の目はわたしを通り抜けていた。
まっすぐ、ロンの腕の中のネズミだけを見ていた。
獲物を狙う目だった。
スキャバーズが甲高く鳴いた。
その悲鳴が、合図だったのかもしれない。
グーテンベルクが跳んだ。
「うわっ!」
ロンが転んだ。
グーテンベルクがロンのローブに食らいつく。ロンは必死にスキャバーズを抱え込み、スキャバーズは引き裂かれそうな悲鳴を上げ、ハリーが飛び出そうとし──
「退け」
空気を裂く声がした。
振り返ると、フェルディナンドが、杖を構えていた。
その顔を見た瞬間、背筋が冷えた。
いつもの冷たさではない。
冷たさには、まだ温度がある。 けれど、今のフェルディナンドの顔には、温度というものがなかった。
これは、殺そうとしている顔だ。
「フェルディナンド先輩……?」
わたしの声は、自分でも驚くほど小さかった。
フェルディナンドの杖先は、まっすぐグーテンベルクに向いている。
「退け、ローゼマイン」
「何を──」
「それは犬ではない」
ハリーが、フェルディナンド先輩の前に立ちはだかった。
体の小さなハリーが、精一杯背筋を伸ばしている。痩せた背中越しに、暴れる犬とロンが見える。
「やめろ!」
「退け、ポッター」
「殺す気か」
「当然だ」
フェルディナンド先輩の声は静かだった。
静かすぎて、逆に怖かった。
「こいつはシリウス・ブラックだぞ」
その名前が落ちた瞬間、世界が一瞬だけ止まった。
風が止んだ。
「グーテンベルクはわたしのペットです! シリウス・ブラックじゃありません」
「ローゼマイン」
フェルディナンド先輩の声が、低くなった。
「お前は何も知らない」
グーテンベルクはロンのローブをくわえたまま、ぐっと大地に踏ん張った。
「うわあああ!」
ロンの体が、地面の上を引きずられていく。
「ロン!」
ハリーが叫ぶ。
黒い犬は、ロンとスキャバーズを引きずったまま、暴れ柳の根元へ走った。
フェルディナンドの杖が光る。
ルーピン先生が叫んだ。
「やめろ!」
その声と同時に、暴れ柳の枝が、まるで鞭のようにしなって振り下ろされた。
地面が揺れる。
枝が空気を裂き、誰も近づけない。
黒い犬は、ロンと鼠を引きずったまま、暴れ柳の根元へ呑まれるように消えた。
ハリーが迷わず走り出した。暴れ柳がハリーに襲いかかる。
「ハリー!」
ハーマイオニーが叫んだ。
ルーピン先生が木の幹の一つを押すと、暴れ柳の動きが止まった。
「私から離れるんじゃないよ」
暴れ柳の根元に空いた穴は、思っていたよりもずっと狭かった。
頭上で、太い枝が空気を打つたびに、土ぼこりがぱらぱらと落ちてくる。
わたしたちは細い通路を進んだ。頭上で、暴れ柳の枝が地面を叩く音が、遠雷のように響いている。
「ハリー、待って!」
ハーマイオニーが、声を殺して叫ぶ。
「待てない!」
ハリーの声が、前から返ってきた。
当然だと思った。
ロンが連れて行かれた。
待てるはずがない。
通路はやがて上り坂になり、わたしたちは古びた木の床板の下へ出た。
頭上に、四角く光が漏れている。
その先は、ほこりっぽい部屋だった。
壊れた家具。破れたカーテン。傷だらけの壁。長く人が住んでいない家特有の、湿った木と古い布の匂い。
わたしたちが床下から這い上がった時、ロンは床に倒れていた。
顔は紙のように白く、片足を押さえている。歯を食いしばり、呼吸が浅い。骨が折れているのかもしれない。
それでも、腕の中には、まだスキャバーズを抱えていた。
ぼろぼろのペットを、決して放そうとしなかった。
そして、その前に、グーテンベルクがいた。
グーテンベルクはわたしたちを見た。
次の瞬間、その輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
骨が伸びる。 毛が引く。 四本足だったものが、人の腕と脚へほどけていく。
フェルディナンドとどこか似た面影を持つハンサムな男がそこにはいた。
長い黒髪が肩に落ちている。
けれど、目だけが、おそろしく強い。
シリウス・ブラック。
ハリーが杖を向けた。
手が震えていた。
「グーテンベルクが、シリウス・ブラック?」
わたしは目の前で起こったことが信じられずに首を横に振る。
「動くな」
シリウスは、ハリーを見た。
その顔に浮かんだ表情を、わたしはうまく言葉にできなかった。
懐かしさと、痛みと、焦りと、後悔と、それらが何年もかけて層を成し、今、一気に押し寄せたような顔だった。
その目には、ハリーではない誰かが、一瞬だけ重なって映っていた。
「ハリー……」
「お前が父さんと母さんを……!」
ハリーの声は震えていた。
その震えのなかには、怒りだけでなく、泣きたいのを必死で堪えるような震えも混じっていた。
その時、床下から最後の足音がした。
フェルディナンドが暗がりから姿を現した。
杖先には、まだあの青白い光が灯っている。
一歩、前に出る。
「シリウス・ブラック」
その声は、外で聞いた時よりも、ずっと低かった。
外では刃だった声が、ここでは抜き身の剣のような音になっている。
シリウスの視線が、ゆっくりとフェルディナンドへ移った。
「……誰だ」
「忘れたか」
フェルディナンドの杖先が、わずかに上がった。
「お前が殺した者たちの中に、私の家族だった人たちがいた」
部屋の空気が、変わった。
見えないところで、何かが軋む音がした。
シリウスが眉をひそめる。
「俺が殺した……?」
「孤児院の子どもたちだ」
フェルディナンドの声が、かすかに揺れた。
その揺れに、わたしは初めて気づいた。
この人の声がこんな揺れ方をするのを、これまで一度も聞いたことがなかった。
「院長と、子どもたち。お前が私の家族を殺したあの日──お前は笑っていた! お前が、何もかも吹き飛ばしたんだ」
初めてだった。
フェルディナンド先輩が、そんなふうに話すのを見るのは。
いつも冷たく、整っていて、感情を見せない人だった。
図書室でいつも同じ位置で本を読む人だった。
書類を一枚ずつ揃えてからでなければ、机を立たない人だった。
けれど今、この人の言葉の奥にあるものは、まったく整っていなかった。
何年も奥に沈めていたものが、無理やり水面に押し上げられて、震えながら呼吸をしている。
そういう声だった。
「私に家族と呼べるものがあるとしたら、あの孤児院だけだった」
言葉が、少しだけ途切れた。
「それを、お前が奪った」
シリウスは、しばらく黙っていた。
その沈黙が、言い訳を探しているようには、見えなかった。
むしろ、まったく違う場所を見つめているようだった。
遠い、灰色の通りを。
ずっと閉じこめてきた一日を。
「……あの時、そこにいたのか」
「いた」
「なら」
シリウスの声が、急に鋭くなった。
「見なかったのか?」
「何を」
「ピーターだ」
シリウスは、ロンの腕の中のスキャバーズを指さした。
スキャバーズが、びくりと震えた。
まるで、その指先が刺さったかのように。
「あいつがいた場所から、何か逃げなかったか。ネズミだ。小さな、汚いネズミ。指の足りないネズミが、近くにいなかったか」
フェルディナンド先輩の表情が、止まった。
ほんのわずかに、目の奥が揺れた。
ろうそくの炎が、風のない部屋でひとりでに揺らいだような揺らぎだった。
「……ネズミ」
「思い出せ」
シリウスは一歩近づいた。
ハリーが杖を強く握り直す。
けれどシリウスは、ハリーではなく、フェルディナンドだけを見ていた。
「俺はピーターを追っていた。あいつが裏切った。あいつがジェームズたちを売った。俺はあいつを追い詰めた。だが、あいつは通りの真ん中で叫んだんだ。俺が裏切り者だと。俺がジェームズを殺したのだと。そして──」
「爆発」
フェルディナンド先輩が、呟いた。
その声は、ほとんど自分でも気づかずに漏れたようだった。
シリウスが、ゆっくり頷く。
「あいつは自分の指を切り落とした。そして、ネズミになって逃げた。あいつが俺に罪を着せたんだ。ジェームズとリリーを売ったのも、マグルを大勢殺したのも、全部あいつだ!」
部屋が、凍った。
わたしの息も、止まった。
指一本。
パドマの声が頭の中で蘇る。
──指一本では死亡確定にできないはず。
今、目の前で、その小さな違和感が一本の線になって、過去まで一直線に伸びていく。
スキャバーズが、ピーター・ペティグリュー?
フェルディナンドの顔から、血の気が引いていく。
唇がわずかに開いた。
「……いた」
その声は、とても小さかった。
大の大人が、子どもの頃の声に戻ってしまったような、そんな小ささだった。
「私は……皆がどこに行ったのか探していて……でも、周りには爆発で飛び散った身体しかなくて……」
フェルディナンド先輩の呼吸が、乱れた。
その肩が、わずかに上下するのを、わたしは初めて見た。
「その中を、ネズミが逃げていた」
シリウスは、目を閉じた。
「それがピーターだ」
「嘘だ」
フェルディナンドが言った。
けれど、その声はもう、さっきまでのように鋭くなかった。
刃の代わりに、薄い氷のような響きしか残っていなかった。
「嘘だ。なら、私は何のために今まで……」
言葉が、途切れる。
自分の憎しみを支えていた足場が、突然崩れたような顔だった。
長い長い年月、唯一の支えにしてきた一本の柱を、自分の手で抜きかけている。
そんな顔だった。
ハリーは、ロンの腕の中のスキャバーズを見た。
声が、かすれていた。
「それが、ピーター・ペティグリュー……?」
「そうだ」
ルーピン先生が言った。
顔色が悪そうだ。目だけは、はっきりと光っていた。
「シリウスとジェームズとピーターは、学生時代に違法のアニメーガスになった。人狼だった私のために」
「そんな、私先生のために言わなかったのに」
ハーマイオニーが嘆く。
「後で説明する。今はこいつだ」
ルーピン先生はそう言って、ロンの腕の中のスキャバーズを見た。
「ロン。ネズミをこちらへ」
「嫌だ!」
ロンは叫んだ。
声がひっくり返っていた。
「スキャバーズだぞ! 僕のネズミだ! 十二年も飼ってたんだぞ!」
「十二年」
シリウスが低く、笑った。
笑い方を半分忘れた人間の、笑いだった。
「ずいぶん長生きのネズミだな」
スキャバーズが、暴れた。
ロンの腕の中で、その動きが、急にネズミらしくなく見えた。
怯えている。
でも、ただの動物が怯えているのではない。
人間が、自分の正体を暴かれそうになって、震えているように見えた。
シリウスがすばやくスキャバーズを掴む。ルーピン先生も杖を向けた。
「やめろ!」
ロンが叫ぶ。
シリウスとルーピン先生の杖先から、白い光が二筋、走った。
光が交わったところで、スキャバーズの体が、ぐにゃりと床に落ちた。
次の瞬間、ネズミの輪郭が、膨らんだ。
骨が伸びる。
毛が消える。
小さな体が、人の形へ、ねじれるように変わっていく。
やがて床の上に、みすぼらしい小柄な男が、丸まっていた。
薄い髪。
尖った鼻。
水っぽい目。
前歯の目立つ顔。
ピーター・ペティグリュー。
死んだはずの男が、そこにいた。
「……嘘だろ」
ロンが、呟いた。
ハリーは何も言わなかった。
ただ、ピーターを見ていた。
その目が、わたしにはとても怖かった。
怒りでも、憎しみでもない。
ただ、何かを確かめている目だった。
目の前のこの男のせいで、自分には父も母もいないのか、という事実を、確かめている目だった。
「ハリー……」
ピーターが震える声で言った。
「ハリー、違うんだ。私は、私は仕方なく──」
「僕の名前を呼ぶな」
ハリーの声は、低かった。
ピーターは、シリウスを見て、ルーピン先生を見て、フェルディナンドを見た。
最後に、わたしを見た。
その目は、助けを求める目だった。
でも、助けてほしい相手を、間違えている。
わたしは本を助けることはある。人も助けたいと思う。
でも、いま目の前にいるこの人は、助けられたくて怯えているのではなく、罰から逃げたくて怯えている。
それは、まったく違うものだ。
フェルディナンドがゆっくりと杖を上げた。
「お前か」
その声は静かだった。
外で犬に向けた声と、同じ温度を取り戻していた。
「お前が、殺したのか」
「ち、違う! 私は、私はあの方に逆らえなかった! 仕方なかったんだ!」
「あの方?」
ハリーの声が鋭くなる。
ピーターの喉が、ひゅっと鳴った。
「あ、あ……」
言葉が、出ない。
口が動いているのに、音にならない。
ピーターは自分の喉を押さえた。目が恐怖で見開かれ、白目に血が滲んでいく。
「ロン、君なら分かるだろう?」
「……は?」
突然ロンのことを言い始めるピーターに、ロンは眉をひそめる。
「いつも、有名人の隣にいる。友人の影にいる。自分より有名で、自分より勇敢で、自分より選ばれている友達の隣で、笑っていなきゃならない」
「やめろ」
「分かるだろう? 自分だけが置いていかれる感じを。自分だけが、いなくてもいいみたいな感じを」
ロンの耳が赤くなった。怒りなのか、図星なのか、分からない。
けれど、次の瞬間、ロンは杖を握りしめた。
「……分かるよ」
ピーターの顔に、卑しい安堵が浮かんだ。
「だろう?」
「でも、分かることと、友達を売ることは違う」
ロンは吐き捨てるように言った。
「僕はハリーにむかつくこともある。何もかも嫌になることもある。でも、だからって、ハリーを殺す側には行かない!」
「もう、十分だ」
フェルディナンドが言った。
杖先に、再び冷たい光が集まる。
「殺す」
「待って、殺さないで!」
ハリーが叫んだ。
「こいつは証人だ!」
「証人?」
フェルディナンドの声が震えた。
その震えが、刃を持った手を、いっそう恐ろしく見せた。
「こいつは、私の家族を殺した」
「だから証言させるんだ!」
ハリーも叫んだ。
「父さんと母さんのことも、シリウスの冤罪のことも、フェルディナンド先輩の家族のことも、全部!」
「生かしておく価値があると?」
「ある!」
その時だった。
床下から、別の足音がした。
荒々しく、苛立った、規則正しい足音。
マントの裾が床を擦る音まで、はっきり聞こえる。
「まったく」
低く、不機嫌な声が、闇から響いた。
「この学校の生徒は、なぜ毎年、死に急ぐ競技会でも開いているかのように動くのか」
階段から現れたのは、スネイプ先生だった。
いつも通り、むすっとしている。
ただ、今夜のむすっとには、いつもより明確な理由があった。
片手には、小瓶を握っている。
わずかに湯気の立つ、紫色の液体。とてもまずそうだ。
その後ろから、ドラコが顔を出した。
「マイン!」
「ドラコ!?」
わたしは、思わず声を上げた。
「なんでここに」
「お前のメモでスネイプ先生を呼びに行ったからだ!」
「わたしのメモ?」
「そうだ! “ルーピン先生は薬を飲んでいません。スネイプ先生を呼んで”って、お前の字で書いてあった!」
覚えがない。
まったくない。
でも、ドラコは嘘をついている顔ではなかった。
というより、今のドラコは怒りすぎていて、嘘をつく余裕がない。
「あとで説明しろ」
「わたしが説明してほしい!」
「黙りなさい」
スネイプ先生の声が落ちた。
一言で、部屋の温度がさらに下がった。
その視線は、シリウス・ブラックとルーピン先生に向いていた。
黒い目が、冷たく細くなる。
「ルーピン。ブラック。やはり、貴様らは──」
スネイプ先生が、杖を上げかけた。
けれど、その途中で、視線が止まった。
床に這いつくばる、小柄な男。
ピーター・ペティグリュー。
スネイプ先生の顔から、表情が、すうっと消えた。
「……これは」
部屋の空気が、さらに重くなった。
空気そのものに、何か別の重力が加わったような感覚だった。
シリウスが、唇を歪めた。
「なぜお前がここにいる、スニベルス」
「黙れ、ブラック」
スネイプ先生の声は、低かった。
だが、その杖先はもう、シリウスだけを向いてはいなかった。
ピーターを見ている。
ぼろ布のような男を、まるで見たくないものを無理やり目に焼きつけるように、見ていた。
ルーピン先生が、静かに言った。
「セブルス。薬を」
スネイプ先生は一瞬、ルーピン先生を睨んだが、息を吐いた。
「飲め」
小瓶を、突き出す。
「この状況で貴様が変身でもすれば、全員まとめて病棟送りでは済まない」
「分かっている」
ルーピン先生は小瓶を受け取り、一気に飲んだ。
飲み干す喉の音が、部屋にやけに響いた。
スネイプ先生はそれを確認してから、再びピーターへ視線を戻した。
「死んだはずではなかったのか」
ピーターは、震え上がった。
「セ、セブルス、私は──」
「お前だったのか」
スネイプ先生の声は、氷のようだった。
ピーターの呼吸が、いっそう浅くなる。
フェルディナンドがもう一度杖を上げた。
「退いてください、先生」
「何をするつもりだ、フェルディナンド」
「殺します」
「手助けしてやりたいところだが、教師としては見過ごせないな」
意外だった。
けれど、すぐに分かった。
スネイプ先生はピーターを許していない。たぶん、誰よりも嫌悪している。
それでも、ここで殺すことが、どれほどまずいかも分かっている。
ピーターは床に膝をついたまま、這うようにハリーへ近づいた。震え、泣き、息を詰まらせながら、哀れな小動物みたいに近づいてくる。
「ハリー……頼む。君はジェームズに似ている。ジェームズはいつも私に優しくしてくれた」
「ジェームズの名前を出すな!」
シリウスが叫んだ。
ピーターはびくりと肩を震わせた。
けれど、引き下がらなかった。
「助けてくれ。私は死にたくない。私は……私は、怖かっただけなんだ」
その言葉は、あまりにもみじめだった。
部屋の誰も、ピーターを信じていない。
シリウスは今にも飛びかかりそうだったし、フェルディナンドが今にも死の呪文を唱えようとしているのをスネイプ先生が止めている。
でも、ハリーだけは動かなかった。
許したのではない。
同情したのでもない。
ただ、ここで殺させないと言ったのは、ハリーだった。
ピーターはそれを分かっていた。
分かっていて、そこにすがった。
「君だけだ、ハリー。君だけが、私を殺すなと言ってくれた」
「黙れ」
「ありがとう……ありがとう、ハリー」
ピーターが、ハリーの手に縋りついた。
その瞬間、嫌な感じがした。
握手ではない。
感謝でもない。
何かを確かめるような、湿った手つきだった。
「ハリー、離れて!」
わたしが叫ぶより早く、ピーターの袖口から銀色の光がこぼれた。
ナイフだった。
ハリーが息を呑んだ。
「っ──!」
ピーターはハリーの手を握ったまま、ハリーの腕を切った。
赤い血が、一筋、流れた。
部屋の空気が凍る。
ピーターは、泣き笑いみたいな顔で言った。
「すまない、ハリー。本当に、すまない」
ピーターはもうハリーを見ていなかった。
彼のもう片方の手には、黒い紙片が握られていた。
ハリーの血が、その上に落ちた。
ぽたり。
黒い紙が、脈打った。
インクが血を吸うように広がる。
「貴様!」
シリウスが吠えた。
スネイプ先生の呪文とルーピン先生の呪文が放たれたのは同時だった。
続けてフェルディナンドの死の呪文が放たれる。
ピーターの手の中で、黒い紙片が燃えた。
黒い炎だった。
インクを燃やしたような煙が吹き上がる。
黒い煙がピーターを吸い込んでいった。
「逃がすか!」
フェルディナンドが飛びかかった。
だが、次の瞬間にはもう、そこにピーター・ペティグリューはいなかった。
焦げた黒い紙片。
ハリーの腕に残った傷。
それだけだった。