本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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不定期更新とは何だったのか……一気に出してしまいたくなったので本日2話目投稿です



39話 偽物のバジリスク

 

 焦げた黒い紙片。

 ハリーの腕に残った細い傷。

 ピーター・ペティグリューが消えたあと、床にはそれしか残っていないはずだった。

 けれど、黒い紙片が、ぴくりと動いた。

 

「下がれ」

 

 スネイプ先生の声がした。

 それは、いつもの嫌味な声ではなかった。短く、鋭く、命令だけでできた声だった。

 黒い紙片が、床の上で伸びた。

 紙の端が細く裂ける。裂けた部分が、蛇の舌みたいに二つに分かれる。焦げた紙だったものが、ねじれ、膨らみ、黒い鱗のように重なっていく。

 床板が軋んだ。

 黒いものが、ゆっくりと頭を持ち上げる。

 蛇だった。

 でも、ただの蛇ではない。

 

「……バジリスク?」

 

 わたしがその言葉を言った瞬間、部屋の空気が凍った。

 

「目を閉じろ!」

 

 ルーピン先生が叫んだ。

 

 ハーマイオニーが息を呑み、ハリーが反射的にロンの前に出た。ドラコは顔色を変えたまま、わたしの腕を掴んで後ろへ引いた。

 

 黒い蛇は、ゆっくりと頭を揺らした。

 目があるのか分からない。けれど、見られている感じだけはある。背中に冷たいものが這い上がる。

 シリウスが杖を構えた。

 

「本物か?」

「本物なら、今ごろ何人か死んでいる」

 

 スネイプ先生が吐き捨てるように言った。

 言い方が最悪だった。

 でも、たぶん正しい。

 

「ただし、だから安全という意味ではない。ポッター、そこを動くな。いや、動け。いや、勝手に動くな」

「どっちですか!」

「黙れ!」

 

 スネイプ先生の混乱が珍しく表に出ていた。

 それだけ危険なのだと分かって、背筋が冷える。

 黒い蛇の舌が、ちろりと揺れた。

 その頭が、ハリーの方へ向く。

 ハリーの腕から、まだ血が滲んでいる。

 

「血の匂いに反応している」

 

 フェルディナンドが低く言った。

 

「ポッター、外に出ろ。お前たちもだ」

「でも、先生たちが──」

「子どもが先に決まってる! 早く逃げろ!」

 

 ルーピン先生が珍しく怒鳴った。

 

『いい子だから落ち着いて!』

 

 わたしは、思わず蛇語で言った。

 黒い蛇が、ぴたりと止まった。

 

「……今、何をした?」

 

 スネイプ先生の声が、一段低くなった。

 

「蛇語で話しかけました」

「何で」

「蛇っぽかったので」

「蛇っぽかったので、ではない!」

 

 スネイプ先生が怒鳴った。

 けれど、その隣でハリーも小さく息を吸った。

 

『落ち着いて。僕たちは敵じゃない』

 

 ハリーの口から、柔らかい、湿ったような音が流れた。

 黒い蛇が、また少しだけ頭を傾けた。

 ルーピン先生が、信じられないものを見る顔でハリーを見た。

 ハーマイオニーも急に真剣な顔になって自分に言い聞かせる。

 

「久しぶりだけど、私にもできるわ。発音は、舌を奥に置いて、息を細く出す感じで──」

「グレンジャー?」

 

 スネイプ先生が、ものすごく嫌な予感を覚えた顔をした。

 ハーマイオニーは床を見たまま、黒い蛇へ向かって言った。

 

『いい子だから、噛まないで』

「最近の授業では蛇語も教えてるのか?」

 

 シリウスは現実逃避した。

 ドラコもわたしの前に出た。

 

「どけ、グレンジャー。スリザリンのことはスリザリンに任せろ」

「ドラコ、まさか話せるようになったの?」

「当然だ」

 

 ドラコはものすごく自信満々に言った。

 わたしは驚いてドラコを見た。

 ハーマイオニーもロンも蛇語を話せるようになっていたが、アルドゥスと接する機会が少なかった彼は結局話せるようにはならなかったはずだ。

 ドラコは顔を真っ青にしたまま、なぜか胸を張り、黒い蛇へ向かって口を開く。

 

「しゅー……しゃー……しゃらら……」

 

 部屋が沈黙に包まれた。

 

 スネイプ先生が、ゆっくりとドラコを見た。

 

「マルフォイ。今のは何だ」

「蛇語です」

「違う」

「スリザリン生としての気迫です」

「もっと違う」

「でも蛇は止まっています!」

「あきれている可能性を考えろ!」

 

 黒い蛇が、ぎしりと音を立てて首を動かした。

 その瞬間、全員の顔色が変わった。

 黒い蛇の口が、ゆっくりと開く。

 牙はなかった。

 代わりに、黒い紙の断面のようなものが何重にも重なり、その奥でインクみたいな闇が揺れていた。

 

「だめだ、アルドゥスと違って全然言うこと聞いてくれない」

 

 シリウスがわたしを見た。

 

「アルドゥス?」

「本物のバジリスクです」

「ちょっと待て」

 

 シリウスの声がかすれた。

 

「本物のバジリスクを知ってるのか?」

「今そんなことはどうでもいい!」

 

 スネイプ先生がシリウスを怒鳴りつける。

 その瞬間、黒い蛇が一気に動いた。

 ハリーに向かって、黒い口が伸びる。

 

「プロテゴ!」

 

 フェルディナンドの呪文が、ハリーの前に透明な壁を作った。

 蛇の頭が壁にぶつかり、黒いインクのように広がる。

 

「今だ!」

 

 ルーピン先生が叫んだ。 

 

「行け!」

 

 スネイプ先生が杖を振る。

 出口へ続く床板が、軋みながら開いた。

 

「ブラック、前を見ろ! フェルディナンド、後ろを塞げ! ルーピン、あれを押し返せ!」

「貴様に命令される筋合いはない!」

「なら死ぬほど的確な提案だと思え!」

 

 シリウスは舌打ちしながらも、ハリーの前に立った。

 ルーピン先生の杖先から銀色の薄い光が広がり、黒い蛇を押し返す。

 フェルディナンドはわたしたちと蛇の間に、次々とプロテゴで結界を張っていく。

 

 背後で、スネイプ先生の声が響いた。

 

「誰も振り返るな! それから、二度と私の前で蛇語の合唱をするな!」

 

 ルーピン先生の声も続いた。

 

「セブルス、今はそこじゃない!」

「そこだ! 十分大事だ!」

 

 黒い蛇の低いうなりが、床板を震わせた。

 ローブのポケットで震える音がした。

 トムの日記だ。

 こんな時に、と思ったが、ページを開く。

 ページにはすでに文字が浮かんでいた。

 

『ハーマイオニー・グレンジャーはそこにいるか?』

 

「いるけど……なんで今ハーマイオニー?」

 

 思わず話しかけて答えるとすぐに次の文が現れた。

 

『彼女から離れるな』

 

「どういう意味?」

 

 返事はなかった。

 わたしは何か言おうとして、何も言えなかった。

 代わりに、走った。

 

 地下通路の空気は、行きよりもずっと冷たかった。

 最初は、土の湿気だと思った。

 でも違う。

 この冷たさを、わたしは知っている。

 肺の中に氷を入れられるような、心の奥の明かりが一つずつ消されていくような寒さ。

 

 外に出た瞬間、それは現実となって現れた。

 

「ディメンターよ」

 

 ハーマイオニーが震える声で言った。

 通路の先、暴れ柳の根元へ続く暗がりに、黒い影があった。

 一体ではない。

 二体、三体、もっと。

 黒い外套が、音もなく揺れている。顔は見えない。見えないのに、こちらを見ているのが分かる。

 

「痛っ……!」

 

 ハリーは杖を構えるために腕を上げようとして、痛みで顔を歪めた。

 

 わたしは代わりに杖を上げる。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

 白い光が出た。

 でも、形にならない。

 

「だめ……」

 

 わたしは杖を握った。

 けれど、手が震えていた。

 守護霊を出せたことがない。ルーピン先生に教わった時だって、ちゃんとしたものは何も出せなかった。本のことを考えても、図書室のことを考えても、形にならなかった。

 楽しいだけでは足りない。

 分かっている。

 分かっているけれど、今は──

 その時だった。

 

 銀色の光が、暗闇を切った。

 何か大きい猫だ、と思った。

 レッサーパンダだった。

 銀色のレッサーパンダが、吸魂鬼たちの前に現れた。

 夜の闇が、押し返される。

 ディメンターの黒い外套が、風に煽られたように揺れた。レッサーパンダの銀の光が、通路いっぱいに広がった。

 ディメンターたちが後退した。

 一体、また一体。

 黒い影が、銀色の光に押し返されていく。

 わたしは、息を忘れて見ていた。

 レッサーパンダは一度だけ、こちらを見たような気がした。

 静かで、強い光。

 その光は、図書室の窓から差し込む朝の光に似ていた。紙の上の文字を、読めるようにしてくれる光。

 やがてディメンターたちは、通路の奥へ退いた。

 寒さが少しだけ薄れる。

 ハリーがその場に崩れ落ちた。ハーマイオニーが慌てて支える。

 助かった。

 誰かが、わたしたちを助けた。

 

「今のは……」

 

 わたしが呟くと、ハーマイオニーがわたしを見た。

 その顔が、変だった。

 驚いているのに、どこか納得している。

 まるで、答えを知ってしまった人の顔だった。

 

 ディメンターが退いたあとも、寒さは体の奥に残っていた。

 

 ハリーは青い顔をしていた。ハーマイオニーはロンを支えながら、何かを必死に考えている顔をしていた。

 

「医務室に行きましょう」

 

 ハーマイオニーの言葉にわたしは頷いた。

 

 

 

 

 

 医務室の扉が開いた瞬間、マダム・ポンフリーが悲鳴に近い声を上げた。

 

「またあなたたちですか!」

 

 その言い方には、驚きよりも怒りよりも、深い疲労があった。

 気持ちは分かる。わたしたちだって、好きで医務室に通っているわけではない。

 ロンはハーマイオニーとドラコに両側から支えられ、顔を真っ白にしていた。片足は変な方向には曲がっていない。けれど、曲がっていないから大丈夫、というものでもなさそうだった。ハリーの腕には布が巻かれている。血は止まりかけているけれど、ピーター・ペティグリューに切られた傷だと思うと、見ているだけで胸がざわざわした。

 

「ベッドへ! そちらのウィーズリーは右のベッド! ポッターはその隣! ローゼマイン・マルフォイ、あなたも座りなさい!」

「わたしは怪我してません」

「顔色が怪我人です!」

 

 顔色は怪我に分類されるらしい。

 わたしは反論できず、ベッドの端に座らされた。ドラコはまだロンを支えていたので、珍しく素直にマダム・ポンフリーの指示に従っている。ハーマイオニーはハリーの腕を心配そうに見つめていた。

 

 医務室にはすでに先客がいた。

 ダンブルドア先生がベッド脇の椅子に座っていた。

 半月眼鏡の奥で静かに目を細めながら、一枚の新聞を読んでいる。

 日刊予言者新聞だ。

 普通の朝刊ではなかった。

 大きな黒い文字が、紙面の上で踊っている。

 

 号外 シリウス・ブラック冤罪か

 ピーター・ペティグリューに生存の疑い

 十二年前の爆発事件、捜査に重大な疑義

 

 ダンブルドア先生のそばには、ルーナ、パドマ、アーニーが立っていた。

 ルーナはいつものように少し斜め上を見ていて、パドマは真剣な顔で新聞の端を押さえ、アーニーは胸を張っている。胸を張るには、まだ早い気もした。

 

「ルーナ、パドマ、アーニー……どこにいたの?」

 

 わたしが尋ねると、パドマがこちらを見た。

 

「ハーマイオニーに頼まれたことを片付けたの。私たちが調べたことをまとめて、ロルフ・スキャマンダー記者にふくろう便で送ったわ。それから、ダンブルドア校長にも会いに来たの」

「ハーマイオニーが?」

 

 わたしが見ると、ハーマイオニーは神妙な顔をして目を逸らした。ルーナが続ける。

 

「ロルフはすぐに裁判の担当者を調べたの。そしたら、その人が全部隠蔽してたことが分かったんだって」

「もちろん、僕の推理も大きかった」

 

 アーニーが自信満々に言った。パドマがツッコむ。

 

「あなたの推理は、途中でシリウス・ブラックがスリザリンの継承者という説に戻りかけたわ」

「可能性を検討するのは研究の基本だろう?」

「検討したあと捨てるのも研究の基本よ」

 

 この二人は、医務室でも通常運転だった。

 その時、医務室の扉が再び開いた。

 入ってきたのは、ルーピン先生、スネイプ先生、そしてシリウス・ブラックだった。三者とも戦闘後でとても疲れた顔をしている。

 

 マダム・ポンフリーがシリウスを見て、薬瓶を取り落としかけた。

 

「校長!」

「大丈夫じゃ、ポピー」 

 

 ダンブルドア校長は静かに言った。

 

「少なくとも今夜、この部屋で彼が誰かを傷つけることはない」

「校長先生」

 

 ハリーがベッドから身を起こした。

 

「シリウスは犯人じゃありません」 

 

 シリウスが、はっとしたようにハリーを見た。

 その目は、痛いくらいまっすぐだった。

 

「ピーター・ペティグリューが生きていました。ロンのネズミだったんです。スキャバーズが、ピーターでした。父さんと母さんを売ったのも、シリウスに罪を着せたのも、マグルたちを殺したのも、ピーターです」

 

 ロンがベッドの上で青い顔のまま頷いた。

 

「僕の部屋で寝ていました……」

 

 言い方のせいで、医務室に一瞬だけ別の沈黙が落ちた。

 わたしも小さく言った。

 

「わたしのペットも、犬だと思っていたらおじさんでした」

「マイン、今その話に合流するな」

 

 ドラコが即座に言った。

 シリウスは非常に気まずそうな顔をした。

 

「その件は、後で謝る」

「美味しいご飯をあげてたのがまさかおじさんだったなんて」

「ふっ、やめろ、ローゼマイン」

 

 スネイプ先生は笑いを誤魔化すような声で言った。

 

「ブラックはそのうち別の罪状で捕まるかもしれん」

 

 ルーピン先生がダンブルドア先生の方を向いた。

 

「校長、ハリーの言う通りです。ピーターは生きていました。私もこの目で確認しました。シリウスは無実です」

 

 ダンブルドア校長の視線が、ゆっくりスネイプ先生へ移る。 

 

「セブルス」

 

 スネイプ先生はものすごく不服そうな顔をした。

 苦い薬を飲まされたというより、苦い薬を調合した本人が自分で飲む羽目になった顔だった。

 

「……ピーター・ペティグリューが、本当の犯人でした。ブラックは冤罪でした」

 

 シリウスが口の端を上げた。

 

「もう一回」

「黙れ、ブラック」

「聞き逃した」

「二度目は呪い付きになるが?」

 

 杖を構える二人にルーピン先生が疲れた声で言った。

 

「シリウス、セブルス、頼むから医務室で始めないでくれ」

「始めたのは向こうだ」

 

「あの人たち、本当に大人なの?」

 

 ハーマイオニーがあきれたように言った。

 ダンブルドア校長は新聞を丁寧に畳んだ。

 そして、ふっと微笑んだ。

 

「よく書けた記事じゃ」

「そこですか?」

 

 ハリーが思わず言った。

 

「そこじゃよ、ハリー」

 

 ダンブルドア校長は穏やかに答える。

 

「真実は、ただ正しいだけでは届かん。読まれ、理解され、消される前に広がらねばならん。この記事は、その役目を果たしておる」

 

 パドマの顔が、少しだけ引き締まった。

 嬉しいというより、何かを深く受け止めた顔だった。

 その時、医務室の扉が乱暴に開いた。

 

「ダンブルドア!」

 

 コーネリウス・ファッジが飛び込んできた。新聞記事でよく見たことがある顔だ。

 山高帽を片手で押さえ、顔を真っ赤にしている。怒りと焦りと汗が、全部いっしょに服を着て歩いているみたいだった。

 

「これはどういうことだ! 日刊予言者新聞が、勝手にこんな号外を出しておる! シリウス・ブラック冤罪だと!? ピーター・ペティグリュー生存だと!?」

 

 ファッジはそこまで叫んで、シリウスを見た。

 固まった。

 

「ブ、ブラック!」

 

 シリウスは片手を上げた。

 

「どうも。真犯人ではありません」

「自分で言うな!」

 

 わたしとロンが同時に言った。

 ファッジは杖を抜こうとしたが、ダンブルドア校長が静かに立ち上がっただけで、その手が止まった。

 

「コーネリウス。ここは医務室じゃ。負傷者もいる。まずは声を落とすことを勧める」

「声を落としていられるか!」

 

 ファッジは新聞を握りしめた。

 

「私は今、魔法省でとんでもない報告を受けたところなのだぞ! 十二年前のシリウス・ブラック事件の担当者の一人が、セラディーナ・ロウルの愛人だったことが判明した! しかも、その男が記録整理と証言管理に関わっていた!」

 

「カシアン・セルウィンですね」

 

 フェルディナンドが言った。

 今、そこに初めて気づいた。

 フェルディナンドもいつの間にか医務室の入口に立っていた。偽のバジリスクを処理してから来たのだろう。顔色は悪い。けれど、姿勢だけは崩れていない。

 ファッジがぎょっとする。

 

「なぜ君が知っている」

「ブラック家に関わる人間なら、知っています。財産管理をしていた男ですから」

 

 その声は冷たかった。

 さっきまで家族を殺された憎しみに震えていた人と同じ人だとは思えないほど、表面は整っている。けれど、整いすぎているものは、逆に危ない。

 

「大臣、ピーター・ペティグリューが真犯人でした。アニメーガスだったのです。ハリーを傷つけてから、バジリスクのような呪いを出して逃走しました」

 

 ファッジは額の汗を拭った。

 

「分かった、魔法省としては、ピーター・ペティグリューが十二年前の事件に深く関与していた可能性を重大に受け止める。いや、受け止めねばならん。だが、それだけではない」

 

 嫌な予感がした。

 ファッジは新聞の見出しを指で叩いた。

 

「ホグワーツで発生したバジリスク騒動についても、ピーター・ペティグリューの関与が強く疑われる」

「え」

 

 わたしは思わず声を出した。

 ドラコが、すばやくわたしの袖を掴んだ。

 

「黙れ」

「でも」

「黙れ」

「アルドゥスは」

「黙れ!」

 

 兄の圧が強い。

 ファッジは気づかず、勢いよく続けた。

 

「なにしろ、今夜も逃亡時にバジリスクのような呪いを発生させたというではないか! ホグワーツ内の怪物騒動、石化事件、危険生物の出現、これらがすべてピーター・ペティグリューの潜伏工作の一環だった可能性は否定できん!」

 

 医務室が静かになった。

 否定できる。

 少なくとも、わたしは否定できる部分をいくつか知っている。

 アルドゥスは、ピーターの潜伏工作ではない。

 昔から秘密の部屋にいた。

 お腹を空かせていた。

 わたしが餌をあげた。

 書庫予定地でもある。

 ……言えない。

 言ったら、別の裁判が始まる。

 ハリーが複雑そうな顔で口を開きかけた。

 

「でも、本物のバジリスクは──」

 

 ドラコが今度はハリーを睨んだ。小声で尋ねる。

 

「何だよ」

「お前は今、シリウス・ブラックの冤罪を晴らしたいのか、それともマインが秘密の部屋の巨大蛇に餌をやっていた話を正式な議題にしたいのか」

 

 ハリーは黙った。

 しばらく黙った。 

 

「……前者」

「なら賢くなれ」

 

 ドラコが言った。

 ロンがベッドの上で呻いた。

 

「足より心が痛い……スキャバーズが、犯罪者だったなんて。同じベッドで寝かせるんじゃなかった」

「折れているのは足だけにしておけ、ウィーズリー」

 

 ドラコが返した。

 ハーマイオニーは、非常に苦い顔をしていた。

 真実を大切にする人の顔だ。けれど、全部の真実を一度に並べたら、医務室の床が抜けることも分かっている顔だった。

 

「表現の問題ね」

 

 ハーマイオニーが小さく言った。

 

「ピーターが逃亡時にバジリスク型の呪詛生物を出したのは事実。だから、“バジリスク騒動への関与疑い”は……完全な虚偽ではないわ」

「ハーマイオニーが政治家みたいなこと言ってる」

 

 ロンが言った。

 

「黙って、ロン。私も今、自分でかなり嫌になってるの」

 

 ダンブルドア先生がファッジを冷たく見た。

 

「大臣、いくらなんでもピーター・ペティグリューのせいにしすぎではないかのう?」

「ピーター・ペティグリューに責任がなければ困るのだ!」

 

 ファッジが叫んだ。

 正直だった。

 正直すぎて、逆に清々しい。

 

「魔法省は、十二年前の捜査に重大な問題があった可能性を認めざるをえない。だが、ピーター・ペティグリューが現在も危険な闇魔術を扱い、ホグワーツで危険生物騒動を起こしていたとなれば、話は別だ。これは一連の犯罪行為として再構成できる!」

「再構成」

 

 パドマが低く繰り返した。

 その声には警戒がにじんでいた。

 

「それは、事実を整理するという意味ですか。それとも、都合よく並べ直すという意味ですか」

 

 ファッジが口をぱくぱくさせた。

 

「君は?」

「パドマ・パチルです。ロルフ・スキャマンダー記者に資料を送りました」

「君が!」

「はい」

「なぜそんなことをした! 魔法省に先に連絡すべきじゃないのか?」

「魔法省に先に送ったら、もみ消されるかもしれないと思ったからです」

 

 医務室の空気が、さらに冷えた。

 マダム・ポンフリーが薬瓶を置く音だけが、やけに大きく響いた。

 ルーナがふんわりと言った。

 

「大人が十二年もネズミを見つけられなかったなら、子どもがふくろうを飛ばしても仕方ないと思うな」

 

 言い方はやわらかい。

 内容は鉄球だった。

 アーニーが頷いた。

 

「魔法書研究会の地道な調査の成果です。もちろん、僕の推理力も──」

「三割ね」

 

 パドマが言った。

 ダンブルドア先生は、ほっほっと笑った。

 

「若い学生たちの努力は、時に古い記録棚を開けるものじゃ」

「校長、記録棚どころか魔法省の壁が崩れかけておるのですが!」

 

 ファッジが悲鳴のように言った。

 

「崩れる壁なら、崩れる理由があったのじゃろう」

 

 ダンブルドア先生の声は穏やかだった。

 けれど、そこには譲らない硬さがあった。

 

「コーネリウス。今夜必要なのは、誰かに都合のよい物語を急いで作ることではない。負傷者の治療。証言の保全。ピーター・ペティグリューの追跡。そして、シリウス・ブラックに対する処分の停止じゃ」

「処分の停止……」

 

 ファッジは苦々しく繰り返した。

 シリウスが黙ってハリーを見た。

 ハリーはベッドの上でまっすぐファッジを見返している。

 

「シリウスを連れて行かないでください」

 

 ハリーは言った。

 

「ピーターが犯人です。僕たちは見ました。ルーピン先生も、スネイプ先生も、フェルディナンド先輩も見ました。ロンのネズミがピーターだったんです」

 

 スネイプ先生が、心底嫌そうに頷いた。

 

「不本意ながら、ポッターの言う通りだ」

 

 フェルディナンドも静かに口を開いた。

 

「私も証言します。ピーター・ペティグリューは生きていた。あの日、現場から逃げたネズミがいたことも、思い出しました」

 

 その声は静かだった。

 静かすぎて、痛かった。

 ファッジは唇を噛んだ。

 

「……正式な手続きに従い、再調査する」

 

 パドマがすばやくメモを取った。

 

「今の発言、記録しました」

「君は新聞記者か!」

「学生でも取材はできます」

 

 ファッジは頭を抱えた。

 それから、逃げるように話題を戻した。

 

「ただし、バジリスク騒動についてもピーターの関与を調べる。これは決定だ。今夜の呪詛生物の件がある以上、無関係とは言えん」

 

 わたしは、また口を開きかけた。

 ドラコが、わたしの袖をさらに強く引いた。

 

「アルドゥスを守りたいなら黙れ」

 

 その言葉で、わたしは黙った。

 

 マダム・ポンフリーが、ついに両手を腰に当てた。

 

「校長! 大臣! 先生方! 政治も冤罪もバジリスクの話も、廊下でなさってください! ここは医務室です! 私は骨を治すので忙しいのです!」

 

 その一喝で、医務室の全員が少しだけ我に返った。

 ロンが小さく手を上げた。

 

「僕の骨、優先でお願いします……」

「当然です!」

 

 マダム・ポンフリーは薬を手に取り、ロンに向かって歩いていった。

 

「ごめんな、怪我させてしまって。杖返すよ」

 

 シリウスはロンに申し訳なさそうに謝り杖を返した。

 大人たちが医務室を出ていったあと、部屋の中には妙な疲労だけが残った。

 

 わたしはもう一度、ダンブルドア校長の持つ号外を見た。まだ頭の中を整理できずにいた。ベッドの端に座り、ローブのポケットから日記を取り出した。

 

 わたしは羽根ペンを取り出し、ページを開く。

 

『さっきの、トムがやったの?』

 

 少し待つ。

 白いページの上に、黒いインクがゆっくり浮かび上がった。

 

『さっきの、とは?』

 

 わたしは眉を寄せた。

 知らないふりなのか、本当に知らないのか。

 トムはこういう時、どちらにも見える返事をするから困る。

 

『ピーター・ペティグリューが黒い紙を使って逃げた。そのあと、バジリスクみたいなものが出た』

 

 インクがしばらく止まった。

 それから、次の文字が浮かぶ。

 

『順を追って説明してくれ。何があった?』

 

 その言葉を見た瞬間、少しだけ胸が冷えた。

 トムが知らない。

 

 わたしは、周りをちらりと見た。

 ドラコはまだロンのベッドの近くにいる。ハーマイオニーはハリーの腕の傷を見つめて、何か考え込んでいる。誰も、こちらを見ていない。

 わたしは小さく息を吸って、書き始めた。

 

『ピーター・ペティグリューはロンのネズミのスキャバーズだった。シリウス・ブラックは冤罪だったの。ピーターがハリーの両親を売って、マグルも殺して、シリウスに罪を着せた。ピーターは追い詰められて、ハリーに助けを求めるふりをした』

 

 そこまで書いて、手が止まった。

 ハリーの腕の傷を見る。

 まだ布の下に隠れている。

 でも、さっきの光景は目に焼きついていた。ピーターがハリーの手にすがり、謝りながら、袖口からナイフを出した瞬間。

 わたしは続きを書いた。

 

『ピーターはナイフでハリーの腕を切った。そしたら、血が黒い紙に吸い込まれた。紙は黒い炎を出して、ピーターはその場から消えた』

 

 今度は、トムの返事が早かった。

 

『黒い紙?』

『うん。黒い紙。普通の紙じゃなかった。血を吸ったみたいに見えた。燃えたけど、燃え尽きなかった。そのあと、黒い蛇みたいなものになった。バジリスクみたいで、先生たちはそれを対処するのに手こずってるみたいだった』

 

 ページの上で、インクがしばらく滲んだ。

 

『また君がアルドゥスを呼び出したわけではないのか?』

 

『うん。アルドゥスじゃない。本物じゃなかった。目を見ても誰も死ななかった。でも、怖かった』

 

『それで、何で僕が疑われてるんだ?』

『黒い蛇がアルドゥスにそっくりだったから』

 

 返事はすぐに来なかった。

 トムが考えている時、日記のページは妙に静かになる。

 ただの紙に戻ったみたいに、白く、黙って、こちらを待たせる。

 しばらくして、文字が現れた。

 

『血で起動する逃走用の闇魔術だろう。僕は今回は何もしていないよ』

 

 わたしは日記を見つめた。

 

『じゃあ、誰が?』

 

 トムから返事は来なかった。

 医務室の中では、マダム・ポンフリーがロンに薬を飲ませている。ロンが「まずい」と呻いている。ドラコが「薬なんだから当然だ」と言っている。

 

 その時、ハーマイオニーがわたしのそばに来た。わたしは日記をローブのポケットに突っ込む。

 

「マイン」

「なに?」

 

 ハーマイオニーの顔は、いつもよりずっと硬かった。

 怒っているのではない。怖がっているのでもない。

 何かを、必死に考えている顔だった。

 

「あなた、ドラコに頼んだ?」

「お兄さまに何を?」

「スネイプ先生を呼びに行くように」

 

 わたしは瞬きをした。

 

「頼んでないよ」

「本当に?」

「本当に。だってわたし、あの時そんな余裕なかったし」 

 

 あの混乱の中で、ドラコに丁寧なメモを書いている余裕なんてない。そもそもわたしは、そんな手回しのいい人間ではない。本のことなら手回しするけれど、それ以外はだいたい後手である。

 

「でも、ドラコは言ってたわ。あなたの字で、“ルーピン先生は薬を飲んでいません。スネイプ先生を呼んで”って書いてあったって」

「うん。わたしも聞いた。誰かが代わりにやったのかな?」

「あなたの字だった?」

「たぶん、お兄さまがそう言うなら。でも、わたしは書いてない」

 

 ハーマイオニーは唇を噛んだ。

 

「そう」

 

 その声が、変だった。

 

「ハーマイオニー?」

 

 ハーマイオニーは、わたしの手首を掴む。

 冷たい手だった。

 

「私もよ」

 

 わたしにしか聞こえないくらいの小声だった。

 

「え?」

「私も、パドマたちに頼んでないの」

 

 わたしは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

「頼んでないって……ロルフさんに手紙を出してって?」

「そう!」

 

 ハーマイオニーは小さく頷いた。

 

「パドマたちは、私に頼まれたって言っていた。でも、私は頼んでない。そんな指示、出していないの」

「でも、パドマたちは実際に手紙を出した」

「ええ」

「その手紙のおかげで、号外が出た」

「ええ」

「ドラコは、わたしのメモでスネイプ先生を呼びに行った」

「ええ」

「でも、わたしたちはどちらも頼んでない」

「そう」

 

 ハーマイオニーの声が、少し震えた。

 

「それって、ものすごく変じゃない?」

 

 おかしい。

 とてもおかしい。

 

 スネイプ先生が来なければ、ルーピン先生の薬は間に合わなかったかもしれない。間に合わなければ、ルーピン先生は人狼になっていた。

 ロルフに手紙が届かなければ、号外は出なかったかもしれない。号外が出なければ、ファッジはシリウスの件をその場で握りつぶしたかもしれない。

 どちらも、必要だった。

 必要だったけれど、わたしたちはやっていない。

 

「誰かが、わたしたちの代わりにやった?」

 

 わたしが言うと、ハーマイオニーは首を横に振った。

 

「違うと思う」

「どうして?」

「メモはあなたの字だった。パドマたちへの伝言も、私が言いそうな内容だったから」

「じゃあ、どうやって?」

 

 わたしはそこで、言葉を止めた。

 ハーマイオニーの目を見た。

 彼女は、もう答えにたどり着いている顔をしていた。

 

「辻褄を合わせるには、私たちが戻らなきゃいけない」

「待って。戻るって、どこに?」

「少し前。ドラコにメモを渡す前。パドマたちにロルフへの手紙を頼む前」

「でも、それをやったのは、わたしたちじゃないんでしょ? 今更どうするの?」

 

 ハーマイオニーの言っている意味が分からずに首を傾げる。

 

「だから、これからやるの」

 

 ハーマイオニーは静かに言った。

 

「もう起きてしまったことを、起きたことにするために」

 

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