本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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トム・リドル視点


40話 トム・リドルの因果

 

 秘密の部屋は、静かだった。

 濡れた石の匂い。

 天井の高い空間に、ぽつり、ぽつりと水音が響く。

 トムは本を読んでいた。

 古い魔法史の本だ。

 大して面白くはない。だが、退屈を埋めるには十分だった。

 その時だった。

 部屋の奥で、空気が歪んだ。

 石床の上に、黒い炎が灯る。

 小さな火だった。だが、色が濃い。炎というより、インクを燃やしたような黒だった。

 トムは本から視線を上げた。

 黒い炎が跳ねる。

 そこから、何かが転がり出た。

 小柄な男だった。

 みすぼらしい。

 薄い髪。尖った鼻。水っぽい目。

 服は乱れ、息は荒く、顔は汗と涙で濡れている。片手には、黒く焦げた紙片を握りしめていた。

 男はしばらく石床に這いつくばっていた。

 それから、顔を上げる。

 トムを見た。

 そして、その顔が、醜く安堵に歪んだ。

 

「やりました……!」

 

 男は叫ぶように言った。

 

「ハリー・ポッターの血を、手に入れました!」

 

 トムは、何も答えなかった。

 水音が落ちる。

 ぽつり。

 男の呼吸だけが、秘密の部屋に不釣り合いなほど騒がしかった。

 

「……何の話だ」

 

 トムは静かに言った。

 男は一瞬、ぽかんとした。

 

「え……?」

「お前は誰だ?」

 

 男の顔から、血の気が引いていく。

 

「な、何を……。そんな、あなた様が……私に……」

「名は」

 

 トムの声に、男はびくりと肩を震わせた。

 

「ピ、ピーター・ペティグリューでございます」

 

 ペティグリュー。

 知らない名ではない。

 死んだとされている男。シリウス・ブラックに殺されたと記録された男。

 だが、目の前の男は生きている。

 そして、ハリー・ポッターの血を持ってきたと言っている。

 

「続けろ」

 

 トムは言った。

 

「数時間前に……あなた様が、私に命じられたのです。この紙を渡して……追い詰められたら、ハリー・ポッターの血を吸わせろと。そうすれば、ご主人様に会わせてやると……!」

 

 ピーターは、黒い紙片を差し出した。

 トムはそれを見た。

 焦げた黒い紙。

 それはトムの日記の切れ端だった。

 血を吸った痕跡がある。

 

 条件付きの逃走の術式。血を保存する術式。ルーン文字や闇の魔術を上手く応用した見事な術式だった。

 出来は悪くない。

 むしろ、かなりよくできている。ホグワーツで姿現しが使えないことを考慮した上手いやり方だ。

 問題は、その術式に見覚えがあることだった。

 トムはまだ、それを作っていない。

 だが、自分なら作れる。

 自分なら、そう作る。

 そして、これほど嫌なほど自分好みの手順を、他人が偶然組むとは思えない。

 つまり、答えは一つしかない。

 

 ピーター・ペティグリューが嘘をついているのではない。

 順番が狂っている。

 

「……タイムターナーか?」

 

 トムは呟いた。

 ピーターは理解できない顔をした。

 それも当然だ。

 この男が時間魔法を理解していたら、その方が驚きである。

 トムはもう、彼を見ていなかった。書庫にある本の中から時間魔法に関連する本を取り出す。

 

 ホグワーツにタイムターナーが持ち込まれている可能性。

 珍しい道具ではある。だが、絶対にありえないものではない。

 特に、優秀な生徒が過密な履修を望み、教師たちがそれを許したなら。

 十二科目。

 通常の時間割では不可能な履修。

 それを可能にするために、タイムターナーを使う。

 トムは学生の頃、十二科目取得するためにタイムターナーを学校から借りていた。

 

 所有していたわけではない。

 正式に貸し出され、記録され、返却させられた。

 少なくとも、表向きは。

 授業に出る。

 教師の目を盗む。

 禁書を読む。

 誰かを誘導する。

 アリバイを作る。スリザリン生として彼はかなり上手にタイムターナーを活用していた。

 

 だが、その経験を通じて、タイムターナーは便利な道具ではなく、むしろ不自由な道具だと理解している。

 なぜなら、それは過去を変えるものではなく、すでに成立した過去の裏側に自分の行動を滑り込ませる道具だから。

 時間は従順な召使いではない。

 命令したつもりの者に、命令された通りの行動を取らせる、冷たい檻だ。

 トムはその感覚を覚えている。

 便利さよりも、不快さを。

 

 今年のホグワーツにタイムターナーを与えられそうな生徒がいるとすれば。

 トムは、ひとりの少女の名を思い浮かべた。

 

 ハーマイオニー・グレンジャー。

 

 知識への欲が強く、全科目を取ろうと考えそうな子だ。

 彼女なら、持っていてもおかしくない。

 トムは日記に魔力を込めた。マインが手に取る。

 ページに文字を浮かべた。

 

『ハーマイオニー・グレンジャーは、そこにいるか?』

 

 すぐに、ローゼマインの気配が揺れた。

 

「いるけど……なんで今ハーマイオニー?」

 

 声に出している。

 不用心な子だ。

 トムは続けた。

 

『彼女から離れるな』

 

 秘密の部屋へ意識を戻すと、ピーター・ペティグリューはまだ床に膝をついていた。

 黒い紙片を握りしめ、怯えと期待の混じった目でトムを見上げている。

 

「ご主人様に会えますか?」

 

 トムはピーターを見下ろした。

 ハリー・ポッターの血。

 つまり、ヴォルデモート卿の敵の血。

 これは復活の儀式に使えるものだ。

 

 ピーターの言う「ご主人様」。

 それが本当に自分の未来なのだとしたら。

 会いたいか。

 そう問われれば、答えは決まっている。

 知りたい。

 自分が何になるのか。

 どこまで行き着くのか。

 その未来の自分は、自分に値するものなのか。

 あるいは、失敗作なのか。

 未来の自分ほど、読む価値のある本はない。

 トムは微笑んだ。

 

「ああ。お前は道を開いた」

 

 ピーターの顔に、醜い安堵が浮かんだ。

 ヴォルデモート卿は随分な人材不足らしい。こんな男を手下にしていいのか。

 

 いや、手下としては使いやすいのかもしれない。

 弱く、臆病で、裏切りやすく、命令に縋る。

 駒としては下等だが、使い捨てるには向いている。

 ただし、書庫には向いていない。

 ネズミは紙をかじる。

 その一点だけで、ローゼマインなら敵認定するだろう。

 

 

 

 

 しばらく経って、日記の向こうからローゼマインの気配が強くなった。

 彼女がページを開く。

 インクが落ちる。

 

『さっきの、トムがやったの?』

 

 トムは日記へ意識を戻した。

 

『さっきの、とは?』

 

 ローゼマインの筆跡は、いつもより少し乱れていた。

 

『ピーター・ペティグリューが黒い紙を使って逃げた。そのあと、バジリスクみたいなものが出た』

 

 また黒い紙か。

 もっと正確な情報が必要だ。

 

『順を追って説明してくれ。何があった?』

 

 ローゼマインは説明した。

 ピーター・ペティグリューはロンのネズミ、スキャバーズだったこと。

 シリウス・ブラックは冤罪だったこと。

 ピーターがハリーの両親を売り、マグルを殺し、シリウスに罪を着せたこと。

 追い詰められたピーターが、ハリーに命乞いをし、隙を見て腕を切ったこと。

 血が黒い紙に吸われたこと。

 黒い炎が上がり、ピーターが消えたこと。

 そして、黒い紙片からバジリスクに似たものが現れたこと。

 ひとつずつ、情報が揃っていく。

 

 ローゼマインの疑念。

 秘密の部屋に突如現れたピーター。

 黒い紙片の術式。

 

 予想は、確信に変わった。

 これから、トムがやるのだ。

 だが、今この時点では、まだやっていない。

 

『僕は今回は何もしていない』

 

 トムは書いた。

 余計な一文は足さなかった。

 まだ、と書けば、ローゼマインは怪しむ。

 彼女は鈍くない。むしろ、妙なところで鋭い。

 

 おそらくハーマイオニー・グレンジャーが、もうすぐタイムターナーを取り出す。

 時間の輪は閉じようとしている。

 そして、トムはその輪の中へ入らなければならない。

 秘密の部屋で、ピーターがまだ膝をついている。

 

「そこで待っていろ」

「は、はい……」

「そして覚えておけ、ペティグリュー」

 

 トムは静かに言った。

 

「お前は救われたのではない。使われただけだ」

 

 ピーターは何も言わなかった。

 

 世界が歪む。

 ローゼマインの小さな体ごと、日記も過去へ引き戻される。日記に魂があるトムもそれは同じだった。

 魔力が巻き戻る。空気が逆向きに流れる。まだ落ちていない血が、まだ流れていない血管の中へ戻っていく。

 トムはその感覚を受け止めた。

 時間を戻すというのは、過去を書き換えることではない。

 すでに閉じたページの余白に、あとから必要な一文を書き込みに行くことだ。

 

 トムは普段、日記の切れ端を分散して置いていた。一つはマルフォイ家に、もう一つは秘密の部屋に置いてある。それを利用することで姿くらましが不可能なホグワーツ内での移動を可能にしていた。

 新しい切れ端に魔力をこめて、条件を満たせば秘密の部屋に移動する術式を織り込む。マインの言ってたバジリスクもどきを移動後に出現させるように設定するのを忘れない。

 バジリスクの燃料はローゼマインの魔力だ。

 長くは保たない。

 長く必要でもない。

 

 トム・リドルは、三階の女子トイレから外に出た。あたりに人はいない。

 目的のものは、すぐに見つかった。

 床板の隙間を、灰色のネズミが走っている。

 小さく、汚らしく、臆病で、しぶとい。

 逃げるためだけに生き延びた男。

 

「ピーター・ペティグリュー」

 

 名を呼ばれた瞬間、ネズミは石になったように止まった。

 トムは笑わなかった。

 笑うほどの相手ではない。

 

「見事だな。十二年もネズミとして生き延びたのか」

 

 ネズミは後ずさる。

 

「逃げるな」

 

 短く命じるだけで、動きが止まった。

 命令されることに慣れている。

 命令する側ではなく、命令される側として。

 

「人間の姿に戻れ」

 

 ネズミは震えたまま動かない。

 

「二度言わせるな」

 

 灰色の体が歪んだ。

 骨が伸び、毛が引き、みすぼらしい男が床に膝をつく。

 ピーター・ペティグリューは、怯えた目でトムを見上げた。

 

「だ、誰だ……」

「お前に逃げ道をやる者だ」

 

 トムは指先に黒い紙片を挟んだ。

 血を吸い、道を開き、恐怖を模造する紙。

 まだピーターはそれを持っていない。

 これから持つ。

 そして、持たせるために、トムはここに来た。

 因果とは、時に実に美しい。

 

「追い詰められたら、これを使え」

 

 ピーターは近づかない。

 

「ハリー・ポッターの血を吸わせろ」

 

 その名に、ピーターの喉が鳴った。

 

「ハリー・ポッターの……血……?」

「そうだ」

 

 トムは一歩近づいた。

 

「お前のご主人様が欲しがる血だ」

 

 ピーターの震え方が変わった。

 恐怖に、期待が混じる。

 卑しい希望が混じる。

 

「ご主人様……」

「名を言えるか?」

 

 ピーターは固まった。

 

「あ、あの方は……」

「言え」

 

 口が動く。

 けれど、音は出ない。

 やはり同じだ。

 名前を封じている。

 配下には名ではなく恐怖だけを与える。

 自分を理解させず、ただ崇拝させる。

 

「僕の名前を言えないようにしているのか」

 

 トムは静かに歓喜した。

 

「たしかに、僕ならそうする」

 

 都合の悪いことを話せないようにする魔法。トムはそれを得意としていた。

 単に沈黙させるのではない。特定の名、特定の事実、特定の関係だけを喉の奥で潰す。相手は話そうとする。だが、言葉は形になる前に崩れる。

 弱い者を従わせるには、恐怖だけでは足りない。恐怖は時に叫びになる。必要なのは、叫びそのものを奪う仕組みだ。

 マルフォイ家に潜伏している間、トムは自分の過去に関する資料を洗い直した。

 古い新聞。家系図。魔法省の記録。残された痕跡。

 それらを読んで確信した。

 未来の自分は、その魔法をよく使いこなしていた。

 言えない名。

 語れない過去。

 口にできない恐怖。

 良い趣味をしている。

 

 「名前を言ってはいけないあの人」というのは死喰い人が言い始めた呼称に違いない。

 

「やはりお前は、未来の僕の下僕だったわけだ」

 

 ピーターの顔が引きつる。

 

「お前は……いったい……」

「お前が理解する必要はない」

 

 トムは黒い紙片をピーターの手に押しつけた。

 黒い紙が肌に触れた瞬間、ピーターの手の甲に薄い染みが走る。

 インクのような、血管のような模様。

 

「ひっ……!」

「逃げ道が欲しいのだろう?」

 

 ピーターはあわてて紙片を握りしめた。

 

「追い詰められたら、ハリー・ポッターに縋れ。命乞いをしろ。お前が得意なことをすればいい」

 

 ピーターの唇が震える。

 

「そして、隙を見て傷をつけろ。少量でいい。血が紙に触れれば道は開く」

「道……」

「お前のご主人様を復活させる道だ」

 

 ピーターの目に、すがるような光が宿る。

 

「ご主人様に……会えるのか……?」

「会える」

 

 トムは優しく言った。

 

「ただし、勘違いするな。これは救いではない」

 

 ピーターはトムを見上げる。

 

「取引だ。お前は血を運ぶ。僕はお前に道を開く」

 

 ピーターは黒い紙片を抱え込むように握った。

 

「なぜ……」

 

 かすれた声が漏れた。

 

「なぜ、そんなことを……?」

 

 トムは少し考えた。

 それから、当然のことのように答えた。

 

「見てみたいんだ」

 

 ピーターは理解できない顔をした。

 

「僕が、どんな大人になるのか」

 

 廊下の遠くで、足音がした。

 時間が迫っている。

 

「行け、ペティグリュー」

 

 ピーターは、また小さなネズミへと変わっていく。

 灰色のネズミは、床板の隙間へ滑り込んだ。

 トムはその姿が消えるのを見届けた。

 これでいい。

 数時間後、ピーターは追い詰められる。

 ハリー・ポッターの血を紙片に吸わせる。

 秘密の部屋へたどり着く。

 トムに再会する。

 

 そして時間は、予定通りに進み始めた。

 





暗躍するトム・リドルでした

次回はローゼマインの時間逆行です
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