本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
マルフォイ邸の朝食の席には、ルシウスとナルシッサがいた。正確にはトム・リドルもいた。ただし、彼を客人と呼ぶべきか、家族会議の参加者と呼ぶべきか、ルシウスはいまだに結論を出せずにいる。
銀器は磨かれ、紅茶は香り高く、焼きたてのパンは完璧な温度で供されている。窓の外では孔雀が気品ある足取りで庭を歩き、食卓の花は昨日替えられたばかりだった。
問題は、食卓の端に積まれた手紙の束だった。
ルシウスはそれを見た。
見たくなかった。
しかし、見なかったことにしても、手紙は消えない。むしろ、開封されない手紙というものは、開封された手紙より不吉である。
この数年で、それは嫌というほど学んだ。
「ルシウス」
ナルシッサが静かに言った。
「読まないの?」
「読めば現実になる」
「もう現実よ」
「君は時々、非常に残酷だ」
ナルシッサは紅茶を一口飲んだ。
優雅だった。
この屋敷で本当に揺るがないのは、もはや妻の優雅さだけではないかと、ルシウスは思い始めていた。
ルシウスは、まず一番上にあった手紙を取った。
ドラコの手紙だ。
息子の文字は整っていた。
内容も、できれば整っていてほしい。
『父上、マインは新しいペットを飼い始めたようです。黒くて大きな犬です。本人は普通の犬だと言っていますが、僕は信用していません。グリムの可能性があります。父上も信用しないでください』
ルシウスは静かに頷いた。
「ドラコは正しい」
ナルシッサが手紙を覗き込む。
「黒い大きな犬?」
「ああ」
「昔、ホグワーツで見たことがあるわ」
ルシウスの手が止まった。
「まさか君にもグリムが見えたのか?」
「在学中に、廊下の奥を黒い犬が走っていたの。とても賢そうだったわ。あの犬の子孫かしら?」
「そんな何年も生きる犬がいてたまるか。きっと他の犬だろう」
「あら、昔の話よ」
ルシウスは続きを読んだ。
『なお、ハリーはその犬を見てグリムではないかと動揺していましたが、マインのペットだと分かり、別の意味で悩んでいました』
「ポッターは正しい」
「悩む方向が正しいの?」
「ローゼマインのペットと聞いて悩むのは正しい」
ナルシッサがくすりと笑った。
「でも、ローゼマインは動物に好かれるのね」
「好かれる動物が危険すぎる」
バジリスク。
黒い犬。
次は何だ。
ルシウスは嫌な想像をしかけ、即座にやめた。
想像は時に現実への呼び水になる。
ローゼマインに関しては、特に。
ルシウスは議事録に書き足した。
──ローゼマインの新規ペットについて。
黒い大型犬。
ドラコは信用していない。
父も信用しない。
身元確認が必要。
今後、娘が拾ってきた生き物は、犬であっても蛇であっても確認すること。
そこまで書いたところで、ナルシッサが穏やかに言った。
「本も?」
ルシウスは反射的にトムを見た。
「私が一番、身元確認に失敗した例だと言いたいのでしょうか」
トム・リドル。
かつてルシウスが書庫に眠らせていた危険物であり、今やローゼマインの魔力を制御するのに欠かせず、時折マルフォイ家の家族会議に参加してくる存在。
実は闇の帝王の過去の記憶という危険な少年だ。
ただし、便利でもあった。
この「便利でもある」という一点が、ルシウスの精神衛生に最も悪かった。
「分かっているなら話が早い」
「でも、今は役に立っているわ」
ナルシッサが言った。
ルシウスは黙った。
それが問題だった。
トム・リドルは役に立っている。
ローゼマインの危険な読書傾向を把握し、秘密の部屋の危険度をある程度管理し、バジリスクの性質にも詳しく、闇の魔術関連の知識もある。
どれも、普通の家庭には必要ない。
必要になっている時点で、マルフォイ家は何かを間違えている。
「ローゼマインにもそろそろ社交の練習が必要なんじゃないのか」
主に怪しい人を見極める練習のために。
「それは私も思っていたわ。友達付き合いは良いみたいだけど、アストリア以外のスリザリン生との交流が浅いのが気になるのよね」
ナルシッサが頷く。
ローゼマインは魔法書研究会を作って楽しくやっているようだったが、暇さえあれば本を読んでいて社交的とはいい難かった。
「セラディーナからブラック家の招待状が来ていたな。あそこのクリスマスパーティーなら、知り合いが多くて練習にはぴったりだろう」
「あら、行かせてしまっていいの? セラディーナの目的はフェルディナンドの妻探しではないかしら」
「現実的に無理だろう。あの虚弱さだぞ」
ルシウスはブラック家の招待状に手紙を添えてローゼマインにふくろう便を送った。
返事はすぐに来た。
『お父さま、お母さま。ブラック家のパーティーは参加します。クリスマス休暇といえば、アルドゥスは今、ニュート・スキャマンダーさんのところで保護されています。とても寂しいので、今度クリスマス休暇に会いに行きたいです。クリスマス休暇の最初の日なので、ブラック家のパーティーとは被らなそうです。ハリーも会いたいと言っていました。蛇語が分かる人が少ないので、アルドゥスも喜ぶと思います』
ルシウスは眉間を押さえた。
バジリスクの面会希望でろくなことが起きる気がしない。
「ハリー・ポッターは、こんな時期に校外をうろうろしていていいのか?」
シリウス・ブラックが脱獄してから周囲は警戒体制だ。特に狙われているハリー・ポッターは危機感を抱いていると思っていたが、どうも違うらしい。
「ニュート・スキャマンダーは色々な魔法生物を飼っているそうですね。僕も機会があれば行ってみたかったものです」
トムがのんびりした口調で言った。
「蛇語が分かるなら、バジリスクと話せるものね」
ナルシッサは、少し楽しそうだった。
「シシー。楽しそうにしないでくれ」
「だって、珍しいわ」
食卓で紅茶を飲んでいたトムが微笑んだ。
「ハリー・ポッターは貴重な蛇語話者ですからね」
ルシウスはトムを睨んだ。
「君も楽しそうにしないでくれ」
「どうするの? 反対するの?」
「だが、反対すると、ローゼマインは勝手に行く」
ルシウスは椅子に背を預けながら言った。
ナルシッサは頷いた。
「そうね」
「護衛をつける」
ルシウスは言った。
「こっそり?」
ナルシッサが訊いた。
「もちろんだ」
「ローゼマインに知られたら怒るわね」
「知られないように気をつける。ニュート・スキャマンダーの屋敷に、護衛付きで行くという名目なら、通せないことはない。危険生物の専門家の管理下だ。魔法省に余計な口を挟ませるよりはましだ」
「賢明です」
「君に賢明と言われると、不安になる」
「なぜです?」
「君の賢明さは、いつも倫理の端を歩く」
トムはしばらく沈黙した。
否定しないのがまた腹立たしい。
ルシウスは羊皮紙を引き寄せ、羽根ペンで書き留めた。
──アルドゥス面会の件。
護衛を手配。
ポッターから目を離さない。
ローゼマインからもっと目を離さない。
バジリスクからは絶対に目を離さない。
ただし、バジリスクの目は見ない。
書いていて、何の職務命令なのか分からなくなった。
「今年のクリスマスプレゼントは何にしようかしら」
「ドラコは箒磨きセットがいいんじゃないか。マインは本だろう」
ローゼマインがニュート・スキャマンダーのもとから無事に帰ってきた翌朝、ルシウスはようやく一息つけると思っていた。久しぶりに家族集まっての朝食でドビーが新聞を持って入ってきた。
持ってきた、というより、差し出した。
両手で。
震えながら。
ルシウスは、その時点で嫌な予感がした。
「ご主人様、日刊予言者新聞でございます」
「ドビー」
「は、はい、ご主人様」
「その震え方は何だ」
「ドビーは、震えてなどおりません、ご主人様」
新聞の端が小刻みに揺れていた。
嘘をつくなら、せめて紙面を揺らすな。
ルシウスは新聞を開いた。
そして、閉じた。
見なかったことにしよう。
そう思った。
だが、新聞というものは、閉じても現実を消してはくれない。むしろ、閉じた瞬間に、紙面の見出しが頭の中でより鮮明になる。
ホグワーツにバジリスク。
ルシウスは、ゆっくりと新聞を開き直した。
一面だった。
大きな黒い活字が、品のないほど堂々と踊っている。
「ローゼマイン!」
その後しばらく説教が続いた。
バジリスクは面会する生き物ではない。
秘密の部屋は書庫にする場所ではない。
新聞の一面に載るような魔法生物と親しげにするな。
ローゼマインは、最初から最後まで納得していない顔だった。
「ですが、お父さま。アルドゥスはニュート・スキャマンダーさんの管理下にいますし、ロルフさんの記事も、ハグリッドさんの冤罪を晴らす意味では有益です」
「今は記事の公益性について話しているのではない」
「では、バジリスクの面会手続きについてですか?」
「違う」
ルシウスは額を押さえた。
ドラコは妹の横で、できるだけ無関係な顔をしていた。だが、時折ローゼマインの袖を引いている。余計なことを言うな、という兄としての努力らしい。
努力は、あまり実っていなかった。
それでも、クリスマス休暇は過ぎていった。
ブラック家のパーティーに行き、必要な挨拶を済ませ、ローゼマインが書庫に消えないよう目を配り、ドラコが妹の薬の時間を管理し、ナルシッサが何事もなかったかのように優雅に微笑み、ルシウスは胃薬を必要量だけ増やした。
必要量、という言葉の定義については考えないことにした。
やがて休暇は終わり、ドラコとローゼマインはホグワーツへ戻った。
屋敷は静かになった。
静かだった。
あまりに静かで、ルシウスは一瞬だけ、今年の厄介事は全て終わったのではないかと思った。
その考えが甘かったことを、彼は朝刊で知ることになる。
クリスマス休暇明けから数週間経ったある日の朝、ドビーが新聞を持って入ってきた。
持ってきた、というより、差し出した。
両手で。
震えながら。
ルシウスは妙な既視感に時間が巻き戻ったことを疑った。
「ドビー」
「は、はい、ご主人様」
「またバジリスクか?」
「いえ! バジリスクではございません!」
新聞の端が小刻みに揺れていた。
ナルシッサが静かにカップを置いた。
「今度は何かしら」
「楽しみにするな」
「楽しみにはしていないわ。備えているだけ」
「君は本当に合理的だ」
ルシウスは新聞を受け取った。
バジリスクではないことを祈った。
少なくとも、同じ問題が二度続くことはないだろう。
そう思って新聞を開いた。
確かに、バジリスクではなかった。
だが、良くなったわけではなかった。
シリウス・ブラック事件、再検証へ
ピーター氏死亡認定に重大疑義
正式審理なき収監か 現場記録に複数の矛盾
ルシウスは、ほんの少しだけ安堵した。
シリウス・ブラック。
ピーター・ペティグリュー。
アズカバン。
正式審理なき収監。
どれも厄介な言葉ではある。
ブラック家に関係する以上、ナルシッサにも無関係ではない。魔法省の不手際が絡むなら、純血家の社交にも波紋は広がるだろう。
だが、少なくともバジリスクではない。
娘が名付けた巨大蛇ではない。
秘密の部屋を書庫にした話でもない。
娘には関係がない。
そう思った瞬間、ルシウスは署名欄を見た。
ロルフ・スキャマンダー=魔法生物担当。
ルシウスの安堵は、そこで少し揺らいだ。
「……なぜ魔法生物担当が、冤罪事件を追っている」
ナルシッサが新聞を覗き込んだ。
「ロルフ・スキャマンダー。先日のバジリスクの記事を書いた方ね」
「言わなくていい」
ルシウスは記事本文に目を落とした。
そして、数行後に見つけた。
──ホグワーツ魔法魔術学校の自主研究会「魔法書研究会」が集めた資料によると、当時の現場記録には複数の矛盾があり……
ルシウスは、静かに目を閉じた。
関係があった。
娘である。
結局、娘である。
彼は新聞を畳んだ。
静かに畳めた自分を褒めたい気分だった。
「誇りに思うべきなのか、胃薬を飲むべきなのか分からん」
「両方でいいのでは?」
ナルシッサが言った。
「君は今日も合理的だ」
「ローゼマインたちは、正しいことをしたのでしょう?」
「そうだ」
ルシウスは認めた。
それは認めるしかなかった。
正式な裁判もなくアズカバンへ送られたのであれば、再検証されるべきだ。ピーター・ペティグリューの死亡認定が指一本に基づいていたなら、疑義は当然だ。現場記録に複数の矛盾があるなら、そこを突くのは報道として正しい。
正しいのに、なぜ娘が関わっているのか。
「しかも、また一面だ」
ルシウスは呟いた。
「最近、ローゼマインは一面と縁があるわね」
「縁を切りたい」
「新聞に載るのは影響力がある証です」
トムが言った。トムはシリウス・ブラックの記事にはさほど興味を示さなかった。だが、ピーター・ペティグリューの名が出た時だけ、ほんのわずかに目を細めた。
――ブラック家当主候補、幼少期は孤児院に
メイン記事の隣に書かれた記事を発見し、ルシウスの指が止まった。リータ・スキーターの記事だった。
向かいに座っていたナルシッサが、そのわずかな変化を見逃すはずもない。
「何か?」
「……読まない方がいいかもしれない」
「では読みます」
ナルシッサはそう言い、ルシウスが新聞を畳むより早く、手を伸ばした。
ルシウスは一瞬だけ躊躇したが、結局それを渡した。彼女はブラック家の娘だ。ブラック家の醜聞を隠したところで、彼女が傷つかないわけではない。
ナルシッサは新聞を広げた。
記事は、フェルディナンド・ブラックの出生と幼少期について書いていた。オリオン・ブラックの庶子。母はセラディーナ・ロウル。だが彼は、幼い頃から母のもとで育てられたわけではない。
預けられていた場所は、ロンドン郊外の小さな孤児院。
運営していたのは、魔法界から半ば忘れられたスクイブだったという。
記事には、その孤児院の名まで載っていた。
ナルシッサはしばらく黙って読んでいた。
ページをめくる音だけが、食堂に響いた。
ルシウスは紅茶に手を伸ばしたが、口はつけなかった。
「随分と、よく調べたものだ」
「ええ」
ナルシッサの声は冷えていた。
「よく調べたわね。死人の墓を掘るように」
ナルシッサは新聞から目を離さなかった。
記事は、淡々と事実らしきものを並べている。だが、その並べ方には悪意があった。
ブラック家の血を引く者が、魔法族の名門で育てられなかったこと。
母親がロウル家の血を引きながら、息子を手放したこと。
スクイブの孤児院で育った子供が、今になってブラック家の当主候補と呼ばれていること。
どの一文も、丁寧な言葉で書かれている。だからこそ、余計に醜い。
「フェルディナンドは、これを読むだろうか」
ルシウスが言った。
「読むでしょう」
ナルシッサは即答した。
「自分の記事を読まないほど、あの子は愚かではありません」
「読むべきではない記事もある」
「読まなければ他人に先に読まれるだけよ」
その言葉に、ルシウスは何も返せなかった。
純血社会では、知らないことは弱みになる。自分のことなら、なおさらだ。どれほど残酷な記事でも、本人だけが読まずに済むことはない。
ナルシッサは紙面の一箇所で指を止めた。
そこには、孤児院の元関係者の証言が載っていた。
――あの子は礼儀正しかった。けれど、誰かが迎えに来る音には敏感だった。車の音がすると、窓の方を見た。自分の迎えではないと分かると、本に戻った。
ナルシッサの指先が、かすかに震えた。
ルシウスは見てしまった。
見なかったふりをするには、あまりにも痛ましい震えだった。
その表情は、怒りではなかった。
もっと静かで、もっと深いものだった。
「セラディーナは」
ナルシッサはゆっくりと言った。
「母親にはなれなかったのね」
ルシウスは黙った。
その言葉は、断罪のようでいて、どこか哀れみも含んでいた。
「彼女にも事情はあったのでしょう。ロウル家の立場。ブラック家との関係。オリオン叔父様のこと。正妻ではない女がブラック家の血を持つ男を産むということが、どれほど危ういかも分かるわ」
ナルシッサは新聞を畳まなかった。
むしろ、紙面を見つめたまま続けた。
「けれど、それでも」
そこで一度、声が途切れた。
「それでも、フェルディナンドは待っていたはずよ」
ルシウスは紅茶のカップを静かに置いた。
音を立てないようにしたつもりだったが、受け皿に触れた陶器の音が、やけに大きく聞こえた。
「母親になるには、産むだけでは足りない」
ナルシッサは言った。
「抱くことも、迎えに行くことも、名前を呼ぶことも、必要だったはず」
「セラディーナは、迎えに行けなかったのかもしれない」
「ええ」
ナルシッサは頷いた。
「行けなかったのかも、行かなかったのかもしれないわね。どちらかは分からないわ」
そして、静かに目を伏せた。
「でも、フェルディナンドにとっては同じよ」
ルシウスはその言葉の重さを理解した。
事情がある。理由がある。家の都合がある。安全のためだった。守るためだった。いつか迎えに行くつもりだった。
大人はいくらでも言い訳を持てる。
だが、子供にとってはただ一つだ。
迎えは来なかった。
ナルシッサは続けた。
「もし私が、ブラック家に逆らえない立場で、ドラコやローゼマインを守るためには手放すしかないと言われたら……何を選んだかしら」
「お前なら手放さない」
ルシウスは即座に言った。
ナルシッサは夫を見た。
「なぜ、そう言い切れるの?」
「知っているからだ」
それは理屈ではなかった。
ルシウスはナルシッサが息子をどう見てきたかを知っている。ローゼマインの小さな体をどれほど気にかけているかも知っている。
マルフォイ家は、決して慈悲深い家ではない。
ルシウス自身も善人ではない。
だが、ナルシッサは子供を手放す女ではない。
たとえ世界を敵に回しても、最後にはその手を伸ばす女だ。
ナルシッサは、ほんの少しだけ表情を崩した。
「買いかぶりすぎだわ」
「いいや」
ルシウスは短く答えた。
「事実だ」
沈黙が落ちた。
暖炉の火が静かに揺れている。
ナルシッサはふくろうが運んできた手紙を受け取り、ルシウスに手渡した。
「ルシウス、ローゼマインから手紙が来ているわ」
ルシウスは封を切った。
中の文面は、珍しく怒っているような筆致だった。字の端が少し乱れている。
『お父さま、お母さま。大変です。グーテンベルクがシリウス・ブラックでした』
ルシウスは持っていたティーカップを落とした。
磁器が床で砕ける音がした。
ドビーが悲鳴を上げた。
ナルシッサは手紙を覗き込んだ。
「あら」
「あら、ではない」
「それなら、昔見た犬もシリウスだったのかもしれないわね」
「なぜ懐かしそうなのだ」
「走るのがとても速かったのよ」
「そういう問題ではない」
ルシウスは両手で顔を覆った。
バジリスクの次に、シリウス・ブラック。
娘のそばで寝ていた黒い犬が、犬ではなかった。
成人男性だった。
しかも、シリウス・ブラックだった。
ルシウスは一瞬、政治的判断も、家同士の関係も、冤罪再検証もすべて忘れた。
ただ、父親として思った。
殺すか。
いや、ブラック家の新しい当主をそう簡単には殺せない。
「今後、ローゼマインが飼いたがる生き物は、すべて身元確認を行う」
ルシウスは議事録に書き足した。
──グーテンベルクの件。
正体はシリウス・ブラック。
娘の「普通の犬」は信用しない。
ドラコの警戒心は正しい。
今後、生き物を見たらまず本物かどうか疑う。
「少し出かけてきます」
突然、トムが言った。ルシウスは顔を上げた。
「どこへ」
「アルバニアの方に」
「その用事は、マルフォイ家に災厄を持ち込むものではないだろうな」
トムは沈黙して微笑みを深めた。
ルシウスは頭を抱えた。
「沈黙するな」
「客人を連れて戻ります」
「誰だ」
「戻った時に分かります」
トムはそれだけ言うと、玄関から外に出た。
「トムが玄関から外に出るなんて珍しいわね」
ナルシッサに言われてからルシウスはたしかにと思った。
トムは日記の切れ端を媒介に自由に行き来できるらしい。マルフォイ家にもよく顔を出すかと思えば、ホグワーツの秘密の部屋で過ごすこともあるという。秘密の部屋を自室扱いしているのは問題だが、自分の子どもではないので特に口を挟む予定はない。
だが、ホグワーツに行くのと違って、アルバニアに移動するなら足で移動するしかないのかもしれない。
ナルシッサが紅茶を注ぎ足した。
「客人なら、良い茶器を用意した方がいいわね」
「必要ない」
「でも、客人なのでしょう?」
「トムが連れてくる客人だぞ」
「なら、なおさら無作法はできません」
正しいが、そういう問題ではない。
ふくろうがまた手紙を運んできた。
マインからだった。
『お父さま。わたし、知らないうちに冤罪の脱獄囚を犬として保護してたんですよ』
マインはかなり腹を立てているようだった。ルシウスがブラック家を敵に回せないことを書いても、なかなか納得した様子がなかった。
「訴えるのはシリウスでも、ブラック家とは仲良くしたいものね」
ナルシッサが悩ましげに呟いた。彼女は在学時代からシリウス・ブラックとは折り合いが悪かった。グリフィンドールに入ってスリザリン生全てを敵のように扱っていたからだ。
せっかくフェルディナンドと上手くやっていたのに、そのシリウスが当主になり、マインとギクシャクすることになるのは問題だ。
娘のところで寝ていたと聞いて殺意はわくが、どうしようもない家同士の事情があるのだ。
「どうしたものか」
ルシウスたちの悩みを救ったのはドラコからの鶴の一声だった。
『父上、シリウス・ブラックの件ですが、本で示談に持ち込むのはどうでしょうか』
「ドラコはだんだん対処能力が高まっているな。フェルディナンドに一筆書くとしよう」
ブラック家からローゼマインに三十冊本を送ることで合意が取れた。こうして、ブラック家とマルフォイ家の友好関係は保たれた。
ナルシッサは、静かに新しいカップをルシウスの前に置いた。
「でも、ルシウス」
「何だ」
「今年も無事に終わりそうでよかったわね」
ルシウスは深く息を吐いた。
確かに。
ローゼマインは生きている。
ドラコも無事だ。
バジリスクはスキャマンダー氏の管理下にある。
シリウス・ブラックの事件は再検証された。
マインの飼っていた犬は犬ではなかったが、少なくとも示談で済んだ。
ピーター・ペティグリューの死亡認定に疑義が出たのは大事件だが、真実が明らかになるなら悪いことではない。
今年も、ひどかった。
だが、終わった。
「そうだな」
ルシウスは目を閉じた。
「今年も、無事に──」
「ただいま戻りました」
声がした。
ルシウスは、ゆっくりと目を開けた。
食堂の入口に、トム・リドルが立っていた。
黒髪。整った顔。礼儀正しい微笑。
問題は、その後ろにもう一人いたことだ。
白い顔。
赤い目。
人間から少し遠い輪郭。
黒いローブ。
ルシウスの思考は、そこで止まった。
止まったまま、再起動しなかった。
かつて跪いた存在。
恐怖と忠誠と屈辱の中心。
死んだはずの、いや、消えたはずの名。
闇の帝王が、マルフォイ家の食堂に立っていた。
トムは、まるで図書室から借りてきた本を紹介するように言った。
「僕の客人です」
客人。
客人と言った。
ナルシッサは紅茶のカップを静かに置いて微笑んだ。
「ドビー。客人用の茶器を」
ルシウスは妻を見た。
今、茶器の話をしている場合なのか。
だが、客人を前に茶器を出さないマルフォイ家など、ナルシッサには存在しないらしい。
完璧すぎて、現実味がなかった。
闇の帝王は食堂を見回し、最後にルシウスを見た。
「世話になる、ルシウス」
ルシウスは、考えるのをやめた。
考えなければ、胃も痛まないかもしれない。
そう思った。
もちろん、痛かった。
アズカバンの囚人編終わりました!次回からは炎のゴブレット編です。
闇の帝王の早期復活に驚かれてる方が多いですが、ピーターと違って、トムは未来の自分がいる場所にある程度あたりをつけて行動したので早めに復活できました。マルフォイ家の居候が増えました。