本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
44話 その本は借りてはいけない
夏休みになってマルフォイ家へ帰った日、家にはすでに客人がいた。
父は「しばらく滞在なさる」と言った。
母は「失礼のないように」と言った。
ドラコはその二つを聞いて、背筋を伸ばした。
わたしも背筋を伸ばした。
つまり、偉い人である。
マルフォイ家では、偉い人に失礼をしてはいけない。これは本に書いてあったわけではないが、食卓の空気を三回ほど読めば分かる。
問題は、その偉い人が、わたしたちが帰る前から家にいたことだった。
玄関ホールに入った瞬間、空気が違った。
いつものマルフォイ邸は静かだ。広いし、磨かれているし、誰も大声を出さない。だが、その日の静けさは少し違った。音がないというより、音を立ててはいけないような静けさだった。
ドビーが荷物を受け取りに出てきた。
出てきたが、いつもよりさらに小さく見えた。耳は下がり、目は泳ぎ、わたしのトランクを持つ手が震えている。
「ドビー、大丈夫?」
「ド、ドビーは大丈夫でございます、お嬢様」
まったく大丈夫そうではなかった。
父が軽く咳をした。
「ローゼマイン。余計な詮索はしなくていい」
「はい、お父さま」
余計な詮索。
つまり、詮索すると余計になる何かがある。
わたしは心の中で、その情報を棚に置いた。
「二人とも、西棟には近づくな」
父は朝食の際に新聞を畳み、いつもより少しだけ低い声で言った。
西棟。
書斎があるところだ。
わたしはパンにジャムを塗りながら首をかしげた。
「書斎には行っていい?」
「西棟には近づくなと言った」
「書斎は西棟だよね?」
「書斎の奥はだめだ」
「書斎には行っていい?」
父が黙った。
母が紅茶を飲んだ。
ドラコが頭を抱えた。
「お前はどうして、禁止事項の輪郭を確かめるところから始めるんだ」
ドラコがあきれたように言う。
「輪郭が分からないと、守りようがないよ」
「守る気がある人間の発言ではない」
失礼だ。
わたしはちゃんと守る気がある。ただし、禁止範囲を正確に把握する必要があるだけだ。図書館でも禁書棚と通常棚の境界は大事である。境界が曖昧だと、うっかり禁書を読む事故が起きる。事故なら仕方ない。
「お客様って、誰?」
わたしが聞くと、母が静かに微笑んだ。
「大切なお客様よ」
「本を読む人?」
母は微笑んだままだった。
父は新聞を開き直した。
ドラコはなぜかさらに顔色を悪くした。
なるほど。
答えられないらしい。
でも、わたしはあまり気にしないことにした。
なぜなら、西棟には古い客間があるだけで、書庫ではない。つまり、お客様がいても、わたしの読書計画にはあまり関係がない。もしお客様が本を持っているなら少し関係があるけれど、今のところ本を持っているという情報はない。
情報がないなら、分類は保留である。
わたしは朝食を終えると、アストリアに手紙を書いた。
『そろそろシリウス・ブラック事件の調査も、小冊子にまとめたら一区切りにできると思うんだ。次の魔法書研究会の活動ではビブリオバトルをしたい』
ビブリオバトル。
好きな本を紹介して、聞いた人たちが一番読みたくなった本を選ぶ、読書布教の戦いである。
本好きによる、本好きのための、平和で文化的で、たぶん少しだけ本気になる活動だ。
『事件調査ばかりだと、研究会というよりミステリー同好会みたいになるでしょ? たまには本そのものについて語り合う会にしたい』
書きながら、わたしは少し反省した。
魔法書研究会は、いつの間にか裁判記録を読み、新聞記事を切り抜き、相関図を広げ、アーニーの推理を訂正する会になっていた。
いや、楽しかった。
楽しかったけれど、だいぶわたしが想定していた本好きの集まりから遠ざかっていた気がする。
アストリアからの返事は、思ったより早く届いた。
『とても素敵だと思います。わたしも紹介したい本があります。できれば、ただ有名な本ではなく、その人が最近読んだおすすめの本を選ぶ会にしたいです』
さすがアストリア。
分かっている。
ただ本を紹介するのではなく、その人が何を好きで、何を大事にしているのかが見える本を選ぶ。すばらしい。アストリアは静かだけれど、たまに読書家としてかなり攻めたことを言う。
わたしは返事を書こうとして、ふと考えた。
皆なら、何を選ぶだろう。
ハーマイオニーはたぶん、分厚くて正確で、脚注が多い本を選ぶ。ロンは「読みやすい本」と言いながら、クィディッチ関係の本を持ってきそうだ。パドマは新聞かルポ。アーニーは推理小説。ルーナは、たぶん誰にも予想できない本。
そんなことを考えていると、ドビーが手紙を持ってきた。
「お嬢様。ハリー・ポッター様とハーマイオニー・グレンジャー様からでございます」
「ありがとう、ドビー」
ハリーからの手紙は簡潔だった。
『マイン、元気にしてる? 僕は最近シリウスの家に滞在しているよ。シリウスがその方がいいって言ったんだ。休みの間はそっちに手紙を送ってほしい』
それに対して、ハーマイオニーの手紙はびっくりするほど長文だった。長々と全科目履修の過酷さとタイムターナー使用の忠告が書いてある。最後に少しだけハリーに触れた箇所があった。
『ところで、ハリーが最近例のあの人につけられた傷痕が酷く傷むらしいの。呪いによる傷痕や、古い魔法の痕跡について、あなたの知っている本に関連するものはないかしら。私が読んだ本では、似た症例は見つけられなかったの。何か気づいたことがあれば教えて』
わたしは少し考えてから返信文を書いた。
『呪いによる傷痕そのものについては、治療呪文や呪い返しの本に載っていることが多いと思う。でも、何年も経ってから強く痛むというのは、ただの傷痕というより、傷をつけた魔法そのものがまだ何かの形で残っている可能性があるんじゃない?』
その後にアストリアと魔法書研究会でビブリオバトルをしないか相談していて、おすすめの本があったら持ってきてほしいと書き加えておいた。ハリーの方にも同じように書いておいた。
その日の夜、父は帰ってくるなりわたしとドラコを呼び止めた。何やら重大な話があるようだった。
「今年、ホグワーツではトライウィザード・トーナメントが開催される」
父は重々しく言った。
わたしとドラコは、並んで父の前に座っていた。
「トライウィザード?」
「三校対抗試合だ。ホグワーツ、ボーバトン、ダームストラングの三校から代表者を選び、魔法の技量を競う伝統ある大会だ」
「他の学校の生徒が来るの?」
「ああ」
それは、少し面白そうだった。
他の学校。
他の授業。
他の教科書。
他の図書室。
わたしの中で、急に期待が高まった。
「お父さま、他校の図書室って見学できる?」
「交流の第一声がそれか。他校の生徒が来るだけだ」
「そうなんだ。じゃあ、本を貸し借りすることはできるかな?」
「大事なのは、マルフォイ家の者として他校の生徒と適切に交流することだ」
父はそこで、なぜか満足そうに言った。
「そのために、今日から語学の授業を増やす」
わたしとドラコは同時に固まった。
「……語学?」
ドラコの声がかすれた。
「ボーバトンはフランス系の学校だ。ダームストラングには各地の生徒がいる。最低限、挨拶と社交会話くらいはできなければならない」
「父上、僕はすでに基礎は」
「増やす」
「はい」
ドラコは負けた。
早かった。
わたしは考えた。
「フランス語で『どんな本が好きですか』は?」
「最初に覚える文ではない」
「でも必要だよ」
「必要になる状況を作るな」
父は疲れたように言った。
こうして、夏休みの読書時間は語学に削られることになった。
悲劇である。
ただし、フランス語の先生に最初に教えてもらった好きな本の聞き方はしっかり覚えた。
「お前それしか覚える気がないだろ」
「そんなことないよ。『この本を借りてもいいですか』も覚える」
「社交はどこへ行った」
社交は、たぶん本を借りたあとに発生する。
*
わたしは、西棟へ行くつもりはなかった。
本当だ。
父にも母にもドラコにも、何度も言われている。
西棟には近づくな。
だから、わたしは近づかないつもりだった。少なくとも、自分から積極的に近づく予定はなかった。
ただし、世の中には不可抗力というものがある。
たとえば、廊下の向こうから蛇語が聞こえるとか。
しかも、その中に聞き覚えのある、低くて太くて、どことなく「肉がほしい」と言いそうな響きが混ざっているとか。
「……アルドゥス?」
わたしは足を止めた。
西棟には近づくな。
父の声が頭の中に響く。
でも、アルドゥスっぽい蛇語が聞こえる。
これは困った。
近づくな、という命令は、こちらから近づく場合に適用される。けれど、蛇語の方から耳に入ってきた場合、それは向こうが近づいてきたとも言えるのではないだろうか。
つまり、わたしはまだ命令を破っていない。
たぶん。
「確認だけ」
わたしは小さく言った。
確認は大事だ。
確認しないまま巨大蛇を放置する方が危険である。
父もきっと、危機管理として理解してくれるはずだ。
してくれない気もする。
でも、今は確認が先だ。
わたしは本を抱え直し、そろそろと西棟へ向かった。
廊下は静かだった。
絵画たちはみんな眠ったふりをしている。ずるい。絶対に起きている。普段なら「また本を持った小さい令嬢が来た」とか言うのに、今日は額縁ごと目をそらしている。
絵画にまで見捨てられた気がした。
角を曲がると、扉が半分だけ開いていた。
中から、蛇語が聞こえる。
一つはアルドゥス。
もう一つは、細くて、なめらかで、どこか上品な口調だった。
わたしは扉の隙間から、そっと中を覗いた。
そして、固まった。
「……わあ」
部屋の中には、蛇が二匹いた。
一匹はアルドゥス。
大きな体をゆったり丸め、目にはいつもの目隠しを巻いている。秘密の部屋では見慣れた姿だけれど、マルフォイ邸の客間にいると圧がすごい。家具の方が遠慮している。椅子が「自分はここにいていいのでしょうか」と言っている気がする。
『アルドゥス、なんでここにいるの?』
『呼ばれた』
部屋にはもう一匹いた。
黒みがかった艶のある体。赤い目。床を滑る動きは、蛇というより、ほどけた絹の帯みたいだった。
綺麗な蛇だった。
怖いけど、綺麗。
そのそばに、人が立っていた。
黒いローブ。細い体。赤い目。
顔は、かなり怖かった。
具体的に言うと、禁書棚の奥で「読むな」と背表紙に書いてある本くらい怖かった。
普通なら逃げる。
父にも母にもドラコにも、西棟には近づくなと言われている。つまり、この人がその理由である可能性が高い。しかも蛇が二匹いる。しかも片方はバジリスクである。完全に危険だ。
でも、その人の机の上には本があった。
一冊や二冊ではない。
何冊も積まれている。開いたままの本もある。背表紙は古く、紙は良さそうで、たぶん禁書棚の奥で偉そうにしている種類の本だった。
怖い。
でも、本。
危険。
でも、本。
禁止。
でも、本。
「あの」
気づいたら、声をかけていた。
赤い目がこちらを向く。
部屋の空気が少し重くなった。
「……何だ」
低い声だった。
たぶん普通の子どもなら泣く。
でも、わたしは机の上の本を見ていた。
「その本、何を読んでるんですか?」
部屋が静かになった。
アルドゥスが、目隠しの向こうでこちらを見た気がした。
黒い蛇が、ゆっくりと首をもたげる。
赤い目の人は、しばらく黙っていた。
「私を見て、最初に聞くことがそれか」
「え?」
「他にあるだろう」
言われてみれば、あるかもしれない。
あなたは誰ですか、とか。
どうしてここにいるんですか、とか。
アルドゥスを連れてきたのはあなたですか、とか。
その綺麗な蛇は噛みますか、とか。
いろいろある。
でも、本が気になったのだから仕方ない。
「だって、本を読んでたから」
「……そうか」
その人は、ほんの少しだけ目を細めた。
怒っているようにも、面白がっているようにも見える。怖い人の表情は読み取りづらい。注釈がほしい。
そのとき、黒い蛇がすっと近づいてきた。
『あなた、こちらの言葉が分かるのね』
上品な声だった。
蛇語なのに上品、というのも変だけれど、確かにそう聞こえた。アルドゥスの声が大きな古い扉だとしたら、この蛇の声は銀の鍵みたいだった。
わたしは少し考えてから、蛇語で答えた。
『少しだけ。アルドゥスに教わった』
『まあ』
黒い蛇は首をかしげた。
『あの子が、先生をしているの?』
あの子。
わたしはアルドゥスを見た。
大きい。
とても大きい。
目隠しをしていても部屋の半分を占領している。
それを、あの子。
蛇の感覚は難しい。
『アルドゥスはいい先生だよ。お肉が好き』
『それは先生の説明ではなく、食事の説明ね』
黒い蛇が、少し笑った気がした。
蛇が笑うところはあまり見たことがないけれど、今のはたぶん笑った。
『怖くないの?』
『あなたが? 全然』
『わたくしも。あの方も。この部屋も』
わたしは少し考えた。
『怖いかも。でも、本があるから』
『まあ正直ね。あなたは命と本を天秤にかける子なのね』
『本は重いから』
『そういう意味ではないわ』
『ナギニ、こちらへ』
赤い目の人がそう呼んだから、それがこの蛇の名前らしい。
ナギニは、その人の足元へ戻ると、静かにとぐろを巻いた。
その仕草は、わたしを追い払えというものではなかった。むしろ、少しだけ場所を空けてくれたように見えた。
赤い目の人も、それに気づいたらしい。
「ナギニが、嫌わないとはな」
「嫌われなかった?」
「今のところは」
「よかったです」
「普通は、そこで安堵する前に恐れるものだ」
「でも、嫌われるよりはいいです」
その人は黙った。
赤い目が、わたしを上から下まで見た。
本を見る目に少し似ていた。
ただし、好きな本を見る目ではない。傷み具合や欠けたページを確かめる目だった。
「お前は蛇語が話せるのか」
「はい」
「はい、で済ませることではない。学んだのか」
「たぶん」
「たぶん、で蛇語を覚える者があるか」
「アルドゥスがゆっくり話してくれるので」
「そういう問題ではない」
その人はため息交じりにいう。
「パーセルマウスは血に宿ることが多い。アブラクサス・マルフォイはそうではなかったはず。よくここまで話せるようになるものだ」
アブラクサス・マルフォイはわたしの祖父だ。この人は祖父の知り合いなのだろうか。
「それって褒めてるんでしょうか」
「評価している」
ナギニがしゅるりとわたしを見上げた。
『この方が評価なさるのは、悪いことではないわ』
『そう?』
『ええ。たいていのものは、見る価値もないと思っていらっしゃるもの』
それはそれで怖い。
わたしはその人を見た。
怖い顔。
怖い雰囲気。
でも、本を読んでいて、蛇語が話せて、ナギニに信頼されている。
「本を読むんですね」
「読む」
「じゃあ、悪い人じゃないかもしれない」
言ってから、少し失礼だったかなと思った。
でも、その人は怒らなかった。
ただ、わたしを見る目が少し冷えた。
「本を読む者は皆善人だと思うのか」
「少なくとも、本を開きもしない人よりは信用できます」
「子どもの判断だな」
子ども。
まあ、子どもだけれど。
「本は、読む者を善くするとは限らぬ」
その人は机の上の本に指を置いた。
「力を与えるだけだ。読む者が愚かなら、愚かなまま力を得る。読む者が弱ければ、弱さを補う道具を得る。読む者が恐れていれば、恐怖を隠す言葉を得る」
「じゃあ、読む者が本好きなら?」
赤い目が、ほんの少し細くなった。
「際限がなくなる」
「それは、ちょっと分かる」
「だろうな」
なぜか納得された。
「お前はアブラクサス・マルフォイを思い出させる」
「おじいさま? ほとんど話したことがないです」
「あの人も本が好きだった……ジャンルはかなり偏っていたが」
その人は、机の本の山から一冊を選んだ。
黒い革表紙だった。
古く、重そうで、表紙に触れる前から冷たい気配がする本。
題名は、金ではなく、ほとんど黒に近い銀で刻まれていた。
『深い闇の秘術』
どう考えても、読んではいけない本だった。
ただ、読んではいけない本ほど、題名の付け方がうまい。
「これ、題名からしてだいぶ怪しい本ですね」
「怪しいなどという言葉で済ませる本ではない」
赤い目が、静かにわたしを見た。
「お前は、魔力に体が耐えられないのだったな」
わたしは黙った。
なぜこの人はそのことを知っているのだろう。
「この屋敷で、お前ほど騒がしい異常を隠せると思うか」
異常。
さらりと言われた。
少しむっとしたけれど、間違っているとは言い切れない。わたしはだいたい隠しきれていない。
「その体で、それだけの魔力を抱えている。普通なら、とっくに壊れている」
「壊れてません」
「まだ、だ」
それはそう。
でも言い方というものがある。
「この本には、死、魂、肉体、魔力の結びつきについて記されている」
「治療書ではなさそうです」
「治療書ではない。だが、愚かな治療師が知らぬことは載っている」
「スネイプ先生に怒られそう」
「セブルスは怒るだろうな」
その人は少しだけ口元を歪めた。
スネイプ先生とも知り合いなんだ、とわたしは思った。
つまり、スネイプ先生に怒られる可能性がかなり高い。知人経由の怒りは逃げにくい。
その人は黒い本を、わたしの前に置いた。
「お前がこれをただ恐ろしい本として閉じるのか。あるいは、使える知識を拾えるのか。見てやる」
見てやる。
その言い方は、優しくなかった。
ナギニが、わたしの足元で静かに言った。
『お読みなさいな。ただし、気をつけて』
『気をつける?』
『この方の本は、贈り物ではありません。試験ですわ』
『試験』
『ええ。噛まれずに読めるか、見ていらっしゃるの』
『本が噛む?』
『比喩よ』
『比喩、難しい』
『だからこそ、慎重にお読みなさい』
蛇に読書指導された。
人生は何が起こるか分からない。
「読んで、分からなかったら質問してもいいですか?」
赤い目が、ほんの少し細くなる。
「質問の質による」
「厳しい」
「知識を求めるなら、相応の頭を使え」
「本は優しく読ませてくれるものもあります」
「これは優しい本ではない」
「でしょうね」
わたしは本を両手で受け取った。
重い。
危険な本は、物理的にも重いことが多い。たぶん責任の重さである。
「ありがとうございます」
「礼は要らぬ。結果を見せろ」
「読書感想文?」
「違う」
「要約?」
「違う」
「じゃあ、何を見せれば?」
その人は、わたしを見た。
「お前が何を理解したかだ」
「それ、ほぼ読書感想文では?」
「違う」
「要約に考察をつける形式?」
「違う」
「じゃあ、自由記述?」
「お前は本当に試験という言葉を何だと思っている」
学校で出されるものだと思っている。
わたしは本を抱える手に、少しだけ力を込めた。
「分かりました」
「分かった顔ではないな」
「読む前なので」
読む前に分かった顔をする方が失礼である。
わたしは本を抱え直した。
「じゃあ、わたし戻ります。西棟に来たのがバレると怒られるので」
「もう遅いだろう」
「まだバレてないかもしれません」
「お前の家族は、それほど鈍くない」
「……ですよね」
扉に向かいかけて、ふと思い出す。
「まだあなたの名前を聞いていないです」
赤い目が少し細くなった。
でも、その人は名乗らなかった。
「聞いていないのなら、知らなくていい」
「じゃあ、お客様?」
「それでいい」
部屋を出る前に、アルドゥスが小さく蛇語で言った。
『また来る?』
『怒られなかったら』
ナギニがしゅるりと首を傾けた。
『怒られても来るでしょう?』
わたしは少し考えた。
『本を返すときに、また来る』
『待っているわ』
ナギニは満足そうだった。
わたしは黒い本を抱えて、西棟を後にした。
もちろん、すぐに怒られた。
父はわたしを見るなり、顔をこわばらせた。
「ローゼマイン」
「はい」
「その本は何だ」
わたしは本を少しだけ後ろに隠した。
重いので、あまり隠せなかった。
「借りました」
「誰から」
「お客様に」
父の顔色が変わった。
ドラコは、廊下の向こうで完全に固まった。
母だけが、静かに目を閉じた。
「西棟へ行ったのね」
「蛇語が聞こえたので、確認を」
「確認、ね」
母の声が優しかった。
優しかったけれど、かなり怖かった。
父は本の題名を見た。
そして、珍しく一瞬だけ言葉を失った。
「……『深い闇の秘術』」
「病気を理解する手がかりになるかもしれないって」
「誰が言った」
「お客様が」
父は目を閉じた。
ドラコは壁に手をついた。
「父上」
「分かっている」
「これは、まずい本なのでは」
「分かっている」
父は二回言った。
たぶん本当にまずいのだと思う。
でも、わたしは本を抱え直した。
「お父さま、おじいさまも本が好きだったってなぜ教えてくれなかったんですか?」
「あの方がそんなことをおっしゃったのか? 父上は本が好きというより……いや、まあいい」
父は何かを誤魔化すように咳払いした。
その後、わたしは母に薬を飲まされ、父に説教され、ドラコに「お前はどうして生きているだけで事件を拾ってくるんだ」と言われた。
ひどい。
事件を拾ったのではない。
本を借りただけである。
父は驚くことに本を没収したりはしなかった。きっと客人がとても偉い人だったからだろう。
その夜、わたしは自室でトムに日記を開いた。最近はトムと会うことがめっきり減り、日記で話すことが増えた気がする。彼がどこにいるのかも不明だ。
それでも毎日魔力を注いで話をすることは忘れなかった。
『トム。今日、西棟のお客様に会った』
返事は少し遅れた。
『会ったのか』
『うん。アルドゥスとナギニがいた。ナギニは上品な蛇だった。蛇語が話せる人だったよ』
今度の返事は、さらに遅かった。
『何を話した』
『本の話』
トムの文字は、いつもより細い。
機嫌が悪いのか、警戒しているのか、どちらだろう。
わたしは少し迷ってから、書いた。
『あと、『深い闇の秘術』を渡された。わたしが何を理解するか見るって』
しばらく、何も浮かばなかった。
日記のページが、白いまま沈黙する。
やがて、文字が現れた。
『あれを渡したのか』
あれ。
トムはその本を知っているらしい。
『知ってるの?』
『あれは本というより扉だ。開けた者を開ける前には戻さない』
随分抽象的な言い方だ。
『面白かった?』
今度の返事は、すぐだった。
『僕にはね。君がどう解釈するのか楽しみだ』
わたしは黒い本を見た。
トムがそこまで言うなら、やっぱり面白い本に違いない。
問題は、読む前からすでに怒られていることだった。
奇しくも44話で運命を感じました。
勘の良い読者の方もいましたが、タイトルはそういう意味もあります。