本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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45話 肉じゃがと闇の印

 

 クィディッチ・ワールドカップの日、マルフォイ邸は朝から落ち着きがなかった。

 父はいつもより早く身支度を終え、母は外出用のローブを選び、ドラコは朝食の席についた時点ですでに少し浮かれていた。

 世界大会らしい。

 クィディッチの。

 つまり、わたしにはあまり関係がない。

 

「ローゼマイン。お前は屋敷に残るように」

 

 父は平和そのものだった新聞を畳みながら言った。

 

「はい」

 

 わたしは素直に頷いた。

 ドラコが驚いた顔をした。

 

「抵抗しないのか?」

「クィディッチでしょ?」

「世界大会だぞ」

「世界図書館大会なら行きたい」

「そんなものはない」

「作ればいいのに」

 

 ドラコは、クィディッチを冒涜されたような顔をした。

 でも、仕方ないと思う。箒に乗った人たちが遠くで飛び回るのを見るより、他国の本棚を眺める方がずっと楽しそうだ。

 父は少しだけ眉間を押さえた。

 

「あの人混みで倒れられては困る。夜まで外にいることになるし、会場の環境も読めない。お前は屋敷で休んでいなさい」

「はい、お父さま。本を読んでます」

 

「西棟には近づくな」

「はい」

「客人に余計なことを聞くな」

「はい」

「本を借りるな」

「……はい」

「今の間は何だ」

「借りるのが駄目なら、見るだけならいいのかなって」

「駄目だ」

 

 厳しい。

 父と母とドラコが出かけると、屋敷は急に静かになった。

 普段も静かだけれど、今日は少し違う。家族の気配がない。父の咳払いも、母の紅茶を置く音も、兄のため息も聞こえない。

 つまり、わたしは完全に自由だった。

 

「ドビー」

「はい、お嬢様!」

 

 ドビーがぱっと現れた。

 相変わらず耳が少し下がっている。最近のドビーは、西棟の方角を見るだけで小さくなっている気がする。

 

「今日は作ってほしいものがあるの」

「お嬢様のためなら、ドビー、何でもお作りいたします!」

「日本食を作って」

 

 ドビーが固まった。

 

「にほんしょく、でございますか」

「うん。日本の料理」

「日本の料理」

 

 ドビーはとても真剣な顔で復唱した。

 その顔は、禁書を読む時のハーマイオニーに少し似ていた。情報量が多すぎる時、人はこういう顔になるのかもしれない。

 

「白いご飯と、味噌汁と、肉じゃがと、だし巻き卵が食べたい」

「白いご飯。味噌汁。肉じゃが。だし巻き卵」

「あと、浅漬けっぽいもの」

「浅漬けっぽいもの」

「厳密じゃなくていいよ。それっぽければ」

「お嬢様、料理に“それっぽい”は危険ではございませんか?」

「記憶で作る料理は、だいたいそれっぽさでできてるよ」

「難しゅうございます」

 

 ドビーはしばらく震えていたけれど、すぐに使命感を宿した顔になった。

 

「ドビー、お嬢様の食べたい日本料理をお作りします!」

 

 料理は思ったより大変だった。調味料の調達に少し苦労したらしい。

 米を洗うだけでも、ドビーはまるで高価な魔法薬の材料を扱うように慎重だった。

 

「ドビー、米を傷つけません」

「うん。えらい」

「米は繊細でございます」

「本も湿気で膨らむから気をつけてね」

「お嬢様、米と本は同じなのでございますか?」

「違うよ。本は濡らしちゃ駄目。米は水を吸わせる」

「難しゅうございます」

 

 料理は奥が深い。

 本ほどではないけれど。

 味噌汁の匂いが厨房に広がると、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 前世の朝みたいな匂い。

 この屋敷には似合わない。銀器と大理石と古い肖像画に囲まれたマルフォイ邸には、味噌汁はかなり浮いている。

 でも、浮いていてもいい。

 おいしいものは、だいたい正義である。

 食堂に料理を運んでもらい、わたしは席についた。

 湯気の立つ白いご飯。

 味噌汁。

 肉じゃが。

 だし巻き卵。

 浅漬けに近い何か。

 完璧だった。

 

「いただきます」

 

 箸を持った、その時だった。

 廊下の向こうから、足音がした。

 この時間のマルフォイ邸は静かだ。家族は全員出かけているし、使用人の足音とも違う。もっとゆっくりしていて、ためらいがなくて、まるで自分の家の中を歩いているみたいな足音だった。

 わたしは箸を持ったまま顔を上げた。

 食堂の扉が開く。

 そこに立っていたのは、黒いローブをまとったトムだった。

 黒髪。

 整った顔。

 少年と青年のあいだの、あの見慣れた姿。

 久しぶりに見るトム・リドルだった。

 

「……トム」

 

 トムは扉のところで足を止めたまま、食卓を見た。

 

「やあ」

「今までどこに行ってたの?」

「そんなに言うほどかな?」

「だって、久しぶりだから」

 

 トムの視線はわたしではなく、ほとんど料理に向いていた。

 

「妙な匂いがする」

「日本食だよ」

「日本……アジアの島国の?」

 

 英国も島という意味では似たようなものだが、細かいことはツッコまなかった。

 

「うん。日本料理。本当はこういうご飯が食べたいんだけど、前作ってもらったとき不評だったから、ドビーにこっそり作ってもらったの」

 

 トムは食卓のそばまで歩いてきた。

 ひどく自然な足取りだった。久しぶりに戻ってきた人というより、最初からここにいる権利がある人みたいに見える。そういうところが、ちょっと腹立たしいし、ちょっとトムらしい。

 

「戻ってきたんだね」

「戻ったという表現は雑だが、否定はしない」

「じゃあ、久しぶり」

 

 トムは少しだけ黙った。

 それから、食卓を見たまま言った。

 

「……久しぶりだな」

 

 言い方はいつも通りだった。

 でも、わたしは少し嬉しくなった。

 

「食べる?」

「食べられるものなのか」

「失礼だよ。食べ物だよ」

「見慣れないものは、まず確認すべきだ」

「じゃあ、確認のために食べる?」

 

 トムはわたしを見た。

 それから、白いご飯と味噌汁と肉じゃがを順に見た。

 

「同じものを用意しろ」

 

 ドビーが、ひっと小さく息を吸った。

 

「ト、トム様にでございますか」

「他に誰がいる」

「すぐにご用意いたします!」

 

 ドビーは泣きそうな顔で走りかけて、また戻ってきた。

 

「あ、あの、お嬢様。トム様は、カトラリーはどちらを……」

「箸でいいんじゃない?」

「君は僕にこの細い棒で食べろと言うのかい?」

「そういうものだよ」

「文化的形式というわけか」

「そう」

「ならば試す価値はある」

 

 トムは当然のように椅子に座った。

 

 ドビーが震えながら、同じ膳を用意した。トムは箸を指先でつまみ、少しだけ角度を変えた。

 

「こうか」

 

 トムの持つ箸の角度はどう見てもどこかおかしかった。

 

「違う。こっち」

「非効率だな」

「慣れたら便利だよ」

「杖の方が便利だ」

「食事に杖を出すのは負け」

 

 トムは、納得していない顔で箸を持ち直した。

 そして、白いご飯をつまもうとした。

 つまめなかった。

 米粒は、箸の先からするりと逃げた。

 トムの指が止まる。

 もう一度、箸が動く。

 今度は数粒だけ持ち上がった。けれど、口元に届く前に、ぽろりと落ちた。

 わたしは耐えた。

 耐えようとした。

 でも、無理だった。

 

「ふふっ」

 

 笑い声がこぼれた瞬間、トムの視線がこちらに向いた。

 

「笑ったな」

「笑ってない」

「今、明確に笑った」

「ごめん。だって、トムが箸に負けてる」

「負けていない」

「米粒に逃げられてたよ」

「逃げたのではない。保持に失敗しただけだ」

「それを負けって言うんだよ」

 

 トムはものすごく不本意そうな顔をした。

 その顔がまたおかしくて、わたしは口元を押さえた。

 

「笑うな」

「ごめん。でも、トムにも苦手なものがあるんだね」

「苦手ではない。初見の道具に適応している途中だ」

「箸に適応中のトム」

「妙な言い方をするな」

 

 ドビーが震えながら、そっと口を挟んだ。

 

「あ、あの、トム様。スプーンをお持ちいたしましょうか」

「不要だ」

 

 即答だった。

 トムは箸を握り直した。

 今度はさっきより少し慎重だった。指先の角度を調整し、力を入れすぎないようにして、米をつまむ。

 今度は落ちなかった。

 トムは一口食べた。

 沈黙。

 ドビーが息を止めている。

 わたしも少し緊張した。

 

「……悪くない」

「本当?」

「淡白だが、他の料理を受け止める余地がある。単体で完結させるものではなく、組み合わせで機能する食材だな」

「ご飯をそんなふうに分析する人、初めて見た」

「ただ白いだけだと思って食べる方が鈍い」

「でも、最初は箸に負けた」

「まだ言うのか」

 

 トムは不愉快そうに眉を寄せた。

 でも、本気で怒っているわけではなさそうだった。

 

 味噌汁を飲んだトムは、少し黙った。

 

「塩気の奥に深みがある。派手ではないが、残る味だ」

「日本食の良さが分かるの?」

「分かるかどうかを判断するために食べている」

「つまり分かるんだ」

「君は本当に結論を急ぐ」

「本を読む時は急がないよ」

「嘘をつけ。続きを知りたくて夜更かしするくせに」

 

 反論できなかった。

 肉じゃがも、だし巻き卵も、トムは一つずつ分析するように食べた。

 その仕草は、本を読む時に似ていた。

 文字ではなく、味を読んでいる。

 

「そういえば」

 

 味噌汁のおかわりを当然のように受け取りながら、トムが言った。

 

「今年からボーバトンに編入することになった」

「え?」

 

 わたしは箸を止めた。

 

「ボーバトン?」

「ああ」

「フランスの?」

「他にどこのボーバトンがある」

「なんで?」

「必要だからだ」

 

 出た。

 トムの説明になっていない説明である。

 

「トムは代表選手になりたいの?」

「いや。卒業資格がほしいんだ。ホグワーツだと編入が難しいんだが、ボーバトンは柔軟だった」

 

 卒業資格。

 わたしは箸を持ったまま、しばらくトムを見た。

 まさかトムの口から、そんな現実的な言葉が出るとは思わなかった。

 日記も就活を始めるんだろうか。

 

「トム、フランス語話せるの?」

「当然だ」

「箸は持てないのに?」

「言語と箸を同列に扱うな。マインは話せないのか?」

「読むのはできるけど、話す方はそこまで」

「君らしい」

 

 好きな本の原書を読むのに言語は覚えても、話す機会がなければなかなか話せるようにはならない。日本でも魔法界でもそれは変わらなかった。

 

「『深い闇の秘術』は読み進めているか」

 

 トムは唐突に話題を変えた。

 味噌汁の湯気が、急に薄くなった気がした。

 

「読んでるよ」

「読み終えたのか」

「まだ。難しいから、少しずつ読んでる」

 

 トムの目が少し細くなった。

 

「君が?」

「うん。何その反応」

「君は本を前にすると、たいてい無謀な速度で読み進める」

「無謀じゃないよ。真剣なだけ」

「夜更かしして倒れる読み方を、真剣とは呼ばない」

「それは、続きを知りたい本が悪い」

「責任転嫁だな」

 

 反論できなかった。

 

「あの本は、急いで読んだら駄目な気がする。言葉の意味も難しいし、書いてあることも危ないし、分かった気になって読み進める方が怖い」

「怖い?」

「うん。普通の本なら、分からないところを飛ばしてもあとで戻ればいい。でも、あの本は飛ばし読みしたら、変なところだけ頭に残りそう。だから、少し読んで、考えて、別の本で確認して、また戻ってる」

 

 トムは少し黙った。

 

「慎重だな」

「本に対しては慎重だよ」

「禁書に対しても、だろう」

「禁書だから、もっと慎重」

「それでも読むのか」

「読むよ。知らないまま怖がるのは嫌だから。怖い本なら、どこが怖いのか知りたい」

 

 トムはわたしを見ていた。

 少しだけ、興味深そうに。

 

「途中まで読んだ感想は」

「とても興味深い」

「それだけか」

 

 トムは鼻で笑い飛ばすような顔をした。

 

「今まで読んだ本とは全然違う。魂と肉体を別々の構成要素として扱う考え方は、概念とは理解していたけど、魂の扱いが禁忌な理由を改めて知ったよ。治療呪文や魔法薬学の本は、基本的に肉体をどう保つか、傷をどう閉じるか、呪いをどう抜くかに寄ってる。でも、あの本は“肉体が失われても自己は保存できるのか”という方向に進んでいて、かなり異質だった」

「理解はしているようだな」

 

 トムは少し満足そうにうなずいた。

 

「本の中の話としてはね」

 

 トムの目が少し細くなった。

 

「本の中の話?」

「うん。理論としては興味深い。でも、実践するものではないと思う」

「なぜだ」

 

「本のページを破って保存するようなものだから」

 

 トムは黙った。

 怒ったのかもしれない。

 でも、ここはごまかしてはいけない気がした。

 

「一つの完成された本のページを破って、箱に入れて保存しても、本が傷つくだけだよ」

「子どもらしい倫理だな」

「悪い?」

「悪くはない。弱いだけだ」

「弱くても、ないよりはいいよ」

 

 トムの目から、ほんの少し温度が消えた。

 興が冷めたのだと思った。

 たぶん、わたしの答えは、トムが期待していたものではなかった。

 

「君は、あれを使って生きようとは思わなかったのか」

「思わなかった」

「まだ読み終えていないのに?」

「途中までで十分、嫌な予感はした」

 

 わたしは少し考えた。

 

「魂を裂くんだよね?」

「ああ」

「魂が減ってしまったら、本を読むときに感動する魂も減るってことだよね?」

 

 トムは黙った。

 沈黙が落ちた。

 さっきまで温かかった食卓が、急に広くなったように感じる。

 

「……何?」

「だって、感動するのは魂でしょ? 胸がぎゅっとなったり、涙が出たり、続きが気になって眠れなくなったり、登場人物の幸せを祈ったりするのは、たぶん魂の方だよ。そこを減らしたら、本を読んでも感動が薄くなるかもしれない」

「君は」 

 

 トムは、ゆっくりと言った。

 

「魂は読書のためにあると思っているのか」

「全部ではないけど、読書は大事なことだよ」

「大事だが……」

「うん。とても」

 

 わたしは真剣だった。

 

「本を読んで感動できなくなったら意味がない」

 

 トムはまた黙った。

 

「それは、生きているというより、ただページをめくっているだけだよ」

 

 トムはしばらく何も言わなかった。

 それから、わたしの茶碗の横に落ちていた米粒を見た。

 

「箸の扱いも満足にできない者に、随分と言うな」

「まだ根に持ってる」

「持っていない」

「絶対持ってる」

 

 トムは答えなかった。

 その代わり、箸でだし巻き卵を完璧につまんだ。

 上達が早かった。

 

 

 *

 

 

 翌朝のマルフォイ邸の朝食の空気は、昨日味噌汁を食べたときとはまったく違っていた。

 父は新聞を読んでいた。

 母は紅茶に珍しく砂糖を入れず、ドラコはパンを小さくちぎったまま、皿の上をぼんやり見ている。

 昨夜、父たちはかなり遅く帰ってきた。ドラコはいつもより口数が少なく、母はわたしの頭を撫でる手に、ほんの少し力を入れた。父は「今日はもう寝なさい」とだけ言って、詳しい説明をしなかった。

 

 父の手元にある日刊予言者新聞の一面には、大きな見出しが躍っていた。

 

 クィディッチ・ワールドカップ会場で騒動

 死喰い人残党か 複数名、首を吊った状態で発見

 魔法省、身元確認を急ぐ

 

 わたしは、見出しを二度読んだ。

 クィディッチ・ワールドカップ。

 騒動。

 死喰い人残党。

 首を吊った状態で発見。

 文字は読める。意味も分かる。けれど、組み合わせると、急に嫌な感じがした。

 

「お父さま」

「何も聞くな」

「まだ何も言ってません」

「顔に書いてある」

 

 ドラコが低い声で言った。

 

「読まない方がいい。気分のいい話じゃない」

「死喰い人が吊るされていたの?」

 

 ドラコの手が止まった。

 父の新聞を持つ指に、力が入る。

 母が静かにわたしを見た。

 その沈黙だけで、新聞の見出しよりずっと多くのことが分かってしまった。

 

「……見たの?」

 

 わたしはドラコを見た。

 

「その人たち」

 

 ドラコは唇を噛んだ。

 

「叫び声がして、テントの方で火が見えて、みんなが走っていて……それで、空を見たら」

 

 ドラコはそこで言葉を切った。

 

「人が、浮いていた」

 

 わたしは新聞を見た。

 記事の書きっぷりは見事だが、不安を掻き立てるような文章だった。

 魔法省は治安維持に努めた。

 観客の避難誘導は迅速だった。

 身元不明の魔法使いたちは現在調査中。

 現場で闇の印が確認されたとの情報もあるが、魔法省は否定も肯定もしていない。

 大人の言葉だと思った。

 怖いことを、怖くないように包む言葉。

 失敗を、失敗に見えないように並べる言葉。

 

「怖いニュースだね」

 

「ふん、当然の報いだ」

 

 食堂の入口から声がして、そちらを見る。

 見たことのない男だった。

 痩せた男だ。

 年齢は父より少し若いようだ。落ち着きのない目をしていて、唇の端に何かを噛み殺したような笑みが浮かんでいた。

 何より、父を見る目がひどかった。

 敵対心。

 敵意。

 嫌悪。

 

「ルシウス」

 

 その人は、父の名前を呼んだ。

 呼んだだけなのに、刺したように聞こえた。

 

「バーティ」

 

 父は新聞を畳んだ。

 畳み方が、とても丁寧だった。

 丁寧すぎる動作は、たいてい怒っている時のものだ。

 

「朝食の席に遅れるとは、随分と余裕だな」

「君の屋敷で眠ると、悪夢を見る」

「それはお気の毒に」

「こんないい屋敷に住んで、子どももいて、さぞかし平穏な生活を送っているんだろうな」

 

 父とバーティと呼ばれた人の間に、見えない火花が散った。

 ドラコが固まっている。

 母は紅茶を手にしたまま、完全に優雅な顔をしている。すごい。わたしなら絶対に顔に出る。

 わたしは小さく手を上げた。 

 

「あの」

 

 二人の視線がこちらに向いた。

 

「新しいお客さんですか?」

「こいつは客ではない」

 

 父が即答した。

 

「客だ」

 

 バーティという人も即答した。

 どっちだろう。

 

 バーティは、トムを見た瞬間、呼吸を止めた。

 さっきまで父に向けていた敵意が、まるで刃物を鞘に戻すみたいに消える。

 代わりに、もっと厄介なものが浮かんだ。

 崇拝。

 熱。

 怖いくらい真剣な目。

 

「我が──」

「やめろ」

 

 トムが短く言った。

 バーティの言葉が、そこで切れた。

 父の眉間にしわが寄る。ドラコは完全に固まっている。母だけが、紅茶を持つ手を止めずにいる。すごい。マルフォイ家の母は強い。

 バーティは、ゆっくりと頭を下げた。 

 

「……失礼いたしました。何とお呼びすればいいでしょう」

「トムでいい」

 

 バーティの顔が、すごいことになった。

 わたしは思わず見てしまった。

 人は、尊敬と困惑と恐怖と納得できない気持ちを同時に抱くと、こういう顔になるらしい。

 トムの昔の知り合い……ってことなのかな?

 

「それは、あまりにも」

「命令だ」

「……はい」

 

 バーティは従った。

 でも、納得はしていない顔だった。

 

 朝食のあと、わたしは新聞をもう一度読もうとした。

 しかし、父に回収された。

 バーティは父に敵意を向け続けているし、ドラコは昨日のことをあまり話したがらないし、母はドラコに「今日はあまり無理をしないのよ」とだけ言う。

 情報が足りない。

 怖いニュースなのに、分からないことが多すぎる。

 

 そう思っていたら、昼前にふくろうが来た。

 ハーマイオニーからの手紙だった。

 手紙はいつもより厚かった。

 嫌な予感がした。

 そして、予感は当たった。

 ハーマイオニーの手紙には、クィディッチ・ワールドカップ会場で起こったことが、新聞より詳しく書かれていた。

 詳しすぎた。

 なぜ新聞よりハーマイオニーの方が詳しいのか。

 新聞社はハーマイオニーを記者として雇った方がいいのではないか。

 手紙によると、ハーマイオニーたち三人は事件現場に居合わせて、ハリーが危うく犯人扱いされるところだったという。事件の現場では魔法省職員のハウスエルフ、ウィンキーが犯人扱いされたらしい。ハウスエルフが杖を持って闇の印を出すなんて考えにくい。

 彼女は不当に解雇された。

 そこからハーマイオニーの文章の熱量が変わった。

 明らかに変わった。

 死喰い人残党の首吊りも怖い。

 闇の印の話も怖い。

 でも、ハーマイオニーの怒りは、そこから恐ろしいほど一直線にハウスエルフの労働問題へ向かっていた。

 すごい。

 事件から労働問題へつなぐ速度が、アーニーが推理を明後日の展開に繋げる速度に似ている。

 

 手紙にはこうあった。

 

『ウィンキーは、十分な弁明の機会も与えられずに解雇されたの。ハウスエルフだからというだけで、主人の都合で切り捨てられるのはおかしいわ。これは個人の問題ではなく、制度の問題よ。魔法書研究会でも取り上げるべきだと思うの』

 

 わたしは手紙を読み終えて、ドビーを見た。

 ドビーはわたしの横で、妙に緊張した顔をしていた。

 

「ドビー」

「はい、お嬢様」

「ウィンキーって知ってる?」

 

 ドビーの耳が、ぴんと立った。

 

「知っております。クラウチ家の屋敷しもべ妖精でございます」

「解雇されたって」

「……はい」

 

 ドビーの声が少し小さくなった。

 

「ハウスエルフにとって、解雇は、とても、とても大きなことでございます」

「そうだよね」

「ねえ、お父さま。ウィンキーをうちで雇えないかな」

 

 父はなぜか一瞬バーティを見た。バーティは肩をすくめる。

 

「残念ながら我が屋敷にハウスエルフの空きはない。ドビーを解雇したら別だが」

「本当でございますか?!」

 

 ドビーはなぜかとても嬉しそうに言った。父はなぜかとても苦々しい顔をした。

 

「今のは冗談だ」

 

 ドビーがしょぼんとした顔になった。

 父の冗談は、誰も幸せにしなかったようだ。

 

 わたしは手紙をもう一度見た。

 死喰い人の残党が首を吊った状態で発見された。

 それだけでも十分怖い。

 でも、その下には、新聞に大きく載らない怖さがあるらしい。

 誰かが吊られた。

 誰かが解雇された。

 誰かが沈黙させられた。

 新聞は、その全部を同じ大きさでは扱ってくれない。

 

「この件は魔法書研究会の議題にしよう」

 

 わたしは言った。

 ドビーが目を丸くした。

 

「お嬢様、魔法書研究会でございますか」

「うん。なんだかんだ魔法書だけ読んでいても、魔法界の仕組みは分からないし」

 

 ハーマイオニーへの返事を書き始める。

 

 書きながら、わたしは少しだけ首を傾げた。

 魔法書研究会。

 本好きが集まる会として作ったはずが、最近はなぜか事件調査、裁判記録、新聞分析、労働問題まで扱っている。

 おかしい。

 でも、本には世界が書かれている。

 なら、世界の問題を読むのも、たぶん読書の一種である。

 返事の最後に、わたしはこう書いた。

 

『ハウスエルフの労働問題なんて考えたことなかった。ビブリオバトルをやったあとの次の議題にしよう。ハウスエルフといえば、昨日ドビーに日本食を作ってもらったんだ。とても美味しかったよ』

 

 その日の夕方、ハーマイオニーからの返事は驚くほど早く来た。

 

『ウィンキーについて議題にしてくれてありがとう。ところで、ドビーについてだけど、あなたがドビーを大切にしていることは分かっているつもりよ。でも、ドビーが無理をしていないか、過剰な労働をしていないか、不当な罰を受けることになってないかは気をつけてほしいの』

 

 わたしは少し反省した。

 ドビーに日本食を作ってもらったのは、楽しかった。

 でも、楽しかったから問題がない、という話ではないのかもしれない。

 羊皮紙を取り出して、返事を書く。

 

『分かった。ドビーが断れるか、休めるか、失敗しても罰を受けないかを、ちゃんと考えるね。ハウスエルフの仕事が少しでも楽になれば、本を読む時間も増えるかもしれないよね。読書人口を増やす意味でも大事な議題だと思う』  

 

 ハーマイオニーから返ってきた手紙は驚くほど短かった。

 

『読書は関係ありません』

 

 ……関係あるよね? 

 

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