本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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 ハリー視点。


50話 名前を入れてません

 

 ダンブルドア校長がハリーの名前を呼んだ。

 ハリーは最初、聞き間違いだと思った。

 だって、そんなはずがない。僕は名前なんか入れていない。炎のゴブレットに近づいてもいない。年齢線だって越えられない。

 なのに、大広間中の視線が、いっせいにハリーへ突き刺さった。

 ざわめきが耳の奥で膨らむ。ロンが何か言った気がした。ハーマイオニーが息をのんだのも分かった。マインの方を見る余裕はなかった。ドラコがどんな顔をしていたのかも分からない。

 ハリーは、立つしかなかった。

 立って、歩くしかなかった。

 足元がふわふわしている。自分の足で歩いているというより、誰かに背中を押されているみたいだった。大広間を横切る間、何人もの生徒が僕を見ていた。驚いている顔。疑っている顔。面白がっている顔。怒っている顔。

 その全部が、ハリーには分からなかった。

 自分でも何が起きたのか分かっていないのに。

 扉を抜けると、急に音が遠くなった。案内された部屋は、大広間の隣にある控室だった。壁には古い肖像画がいくつもかかっていて、魔女や魔法使いたちが、額縁の中でこちらを見ていた。

 

「四人目だって?」

「小さいじゃないか」

「あれがポッターか」

 

 ひそひそ声が、壁のあちこちから降ってくる。

 やめてくれ、と思った。

 自分が一番聞きたいくらいだった。どうして僕なんだ。

 暖炉の前には、すでに三人が集まっていた。

 フェルディナンド・ブラックは本を読みながら座っていた。

 

「……何故、ポッターが?」

 

 責める声ではなかった。

 だからこそ、胸に刺さった。

 ヴィクトール・クラムはほとんど表情を変えなかったけれど、目だけがこちらを追っていた。そして、もう一人。

 暖炉の赤い光のそばに、見覚えのある男が立っていた。

 黒髪で、整った顔をしている。落ち着いていて、周囲がざわついているのに、一人だけ別の部屋にいるみたいだった。

 トム・ジェドゥソール。

 名前を聞いてハリーは思い出した。秘密の部屋でアルドゥスがいるときに管理をしてくれた人。マインの日記、じゃなかったか? 

 その人が、ボーバトンの代表選手として、ここにいた。

 

「……トム?」

 

 小さく呼ぶと、トムはハリーを見た。

 そして、小さく驚いたような顔をした。

 

「ハリー・ポッター」

 

 トムは、穏やかに言った。

 

「ホグワーツから二人も代表選手が?」

 

 その声は、あまりにも自然だった。

 まるで、ハリーと以前会ったことなどないみたいに。

 けれど、完全に知らないふりでもなかった。ハリーにだけには分かるくらいの目線で、ほんの少しだけ笑っている。

 背中がぞわっとした。

 どうしてこの人がここにいるんだ。

 どうしてボーバトンの代表なんだ。

 どうして、そんなに落ち着いているんだ。

 そこへ、扉が勢いよく開いた。

 

「いやあ、これは大変な夜になりましたな!」

 

 ルード・バグマンが入ってきた。顔は明るいのに、額にうっすら汗をかいている。

 

「皆さん、こちらが四人目の代表選手、ハリー・ポッター君です!」

 

 四人目。

 その言葉を聞いて、胃が重くなった。

 

「違います」

 

 思わず言っていた。

 バグマンが瞬きをした。

 

「違う?」

「僕は……名前を入れてません」

 

 部屋の中が、少しだけ静かになった。

 その静けさを破ったのは、フェルディナンドだった。

 

「年齢線をどう超えた?」

 

 静かな声だった。

 問い詰めるというより、手順を確認するような声。

 

「超えてません」

「では、誰かが入れたのか」

 

 フェルディナンドは、あっさり言った。

 僕は一瞬、返事に詰まった。

 疑われていない。

 少なくとも、フェルディナンドは、僕が自分でやったとは考えていないらしい。

 それなのに、安心しきれなかった。フェルディナンドの言い方は冷静すぎた。まるで僕が危険な目に遭っているというより、欠陥のある魔法道具を検分しているみたいだった。

 また扉が開いた。

 今度は、ダンブルドア校長、マクゴナガル先生、スネイプ先生、バーティ・クラウチ、それにマダム・マクシームとカルカロフ校長が入ってきた。

 空気が一気に重くなった。

 

「これは受け入れられませんわ」

 

 マダム・マクシームが、真っ先に言った。

 

「ホグワーツから二人? 公平性に反しますわ」

「まったく同感ですな」

 

 カルカロフ校長が、冷たい笑みを浮かべた。

 

「ダンブルドア、これはどういうことです? あなたの学校だけが、二人の代表選手を出すとは」

「わしにも、分からぬことが多い」

 

 ダンブルドア校長は僕を見た。

 怒ってはいない。けれど、いつもの柔らかさとも違った。

 

「ハリー。君は、自分の名前を炎のゴブレットに入れたのかね?」

「入れてません」

 

 自分でも驚くくらい、声が強く出た。

 

「誰か年上の生徒に頼んだかね?」

「いいえ」

「年齢線を越えようとしたかね?」

「してません!」

 

 言ったあと、喉が熱くなった。

 どうして僕が、こんなことを聞かれなきゃならないんだ。

 僕は、何もしていない。

 スネイプ先生が、じっと僕を見ていた。あの目を見ると、何もしていなくても何か悪いことをした気になる。

 

「ポッターが真実を述べている保証は?」

「セブルス」

 

 マクゴナガル先生の声が鋭くなった。

 

「今は、生徒を追い詰める場ではありません」

「追い詰めるも何も、すでにこの生徒は三大魔法学校対抗試合の契約に巻き込まれておりますが」

 

 巻き込まれている。

 その言葉で、また胸が重くなった。

 契約。

 僕の意思とは関係なく、僕はもう何かに縛られている。

 カルカロフ校長が、苛立ったように手を広げた。

 

「ならば、改めて選び直せばよい。他校ももう一人ずつ名前を入れ、炎のゴブレットに選ばせるべきでしょう」

「それはできません」

 

 クラウチが硬い声で言った。

 

「炎のゴブレットは、すでに代表選手を選出しました。選出された代表選手は、契約上、競技に参加しなければならない」

「では、ホグワーツが有利なままということですか」

 

 カルカロフ校長の目が細くなった。

 

「二人の代表選手を持つ学校と競うなど、ごめんですな」

 

 バグマンが、困ったように笑った。

 

「まあまあ、イゴール。まだ何か方法があるかもしれませんし——」

「新しい契約を結べばいいですわ」

 

 穏やかな声が割り込んだ。

 全員の視線が、マダム・マクシームへ向いた。彼女は扇子をパタパタとさせながら、静かに言った。

 

「代表を選び直すのは難しいでしょう。炎のゴブレットが既に選出を終えたのなら、そこを変えるのは危険ですわ。けれど、追加の条項を結ぶことはできるはずですわよね」

「追加の条項?」

 

 マクゴナガル先生が警戒するように聞いた。

 

「ホグワーツから二人出たことで生じる不公平を打ち消すための契約ですわ。たとえば、代表選手と校長の意図的な妨害を禁じる。各校は自校の代表以外にも、四人目の代表選手の安全確保に協力する。ホグワーツの二人が、学校単位で共同して点を稼ぐことはできない。そういった形で」

 

 バグマンは、ぱっと顔を明るくした。

 

「いい! 実にいい案ですな! 競技の興行性も保たれるし、公平性も——」

「興行性の問題ではありません」

 

 マクゴナガル先生が冷たく言った。

 でも、クラウチは顎に手を当てていた。

 

「追加条項か……古い魔法契約に対し、参加者全員と主催者が同意する形なら、不可能ではない」

 

 カルカロフ校長は不満そうだったが、マダム・マクシームも少し考え込んでいた。

 

「少なくとも、ホグワーツだけが利益を得る形でないなら、検討の余地はありますわ」

 

 ダンブルドア校長は首を横に振った。

 

「ハリーは、すでに本人の意思なく魔法契約に巻き込まれておる。そこへさらに契約を重ねることには、慎重であるべきじゃがのう」

 

 クラウチの顔が固くなった。

 

「しかし、校長。現状では、他校に不利益が生じます」

「不利益を調整するために、被害者である未成年者をさらに縛るのかね?」

 

 部屋の空気が冷えた。

 ダンブルドア校長の声は穏やかだった。でも、その奥に怒りがあった。

 マダム・マクシームが眉を寄せた。

 

「ダンブルドア、あなたの言い分は理解できますわ。けれど、ボーバトンもダームストラングも、この大会に生徒を出しています。ホグワーツだけが二人の代表を持つ形になるのは、受け入れがたいことです」

「その通りですな」

 

 カルカロフ校長がすぐに続けた。

 

「この少年が被害者だというなら、なおさらです。何者かの策略によって、ホグワーツが利益を得る形になるなど認められませんわ」

「利益?」

 

 マクゴナガル先生の声が鋭くなった。

 

「あなたには、この子が利益に見えるのですか?」

「感情論を言っているのではありません、マクゴナガル先生」

 

 カルカロフ校長は冷たく言った。

 

「制度の問題です」

 

 バグマンが両手を上げた。

 

「まあまあ、皆さん。マダム・マクシームの案は悪くありませんよ。むしろ、全員にとって現実的です。ポッター君を外せないなら、せめて競技の公平性を保たなければならない」

「ルード」

 

 ダンブルドア校長が言った。

 

「これは興行の問題ではない」

「もちろんですとも!」

 

 バグマンは慌てて言った。

 

「もちろん、ポッター君の安全も第一です。だからこそ、追加条項で安全面を明文化するのです。各校が協力する。主催者側が責任を持つ。代表選手同士の妨害も禁止する。ほら、むしろ守りが厚くなる!」

 

 守りが厚くなる。

 そう聞くと、確かに悪くないように思えた。

 でも、ダンブルドア校長の顔は少しも緩まなかった。

 

「契約とは、守るためだけのものではない。縛るものでもあるのじゃよ」

 

 その言葉に、僕は息をのんだ。

 縛る。

 僕はもう、炎のゴブレットに縛られている。

 そこへ、さらに何かを重ねる。

 マダム・マクシームが静かに口を開いた。

 

「ですが、校長先生」

 

 声は柔らかかった。

 

「何もしなければ、ハリー・ポッターは“不正をしたホグワーツ二人目の代表”として扱われ続けますわ。彼自身が望んでいなくても、他校の反感は彼に向くでしょう。観客も、新聞も、そう見ますわ」

 

 パドマがいたら、同じことを言いそうだと思った。

 新聞。

 見出し。

 四人目の代表。

 僕の名前。

 

「追加契約は、彼を縛るためではありません。彼が不正によって利益を得たのではないと、全員で認めるためのものですわ」

 

 ダンブルドア校長は、なぜかトムをじっと見ていた。トムは微笑んでいる。

 

「あの」

 

 ハリーは声を出した。

 全員がこちらを見る。

 喉が詰まりそうになったけれど、言わなきゃいけない気がした。

 

「僕は、本当に名前を入れてません。誰かが入れたなら、誰がどうやって入れたんでしょうか」

 

 沈黙。

 それを破ったのは、フェルディナンドだった。

 

「炎のゴブレットに錯乱の呪文をかけた可能性がある」

 

 マクゴナガル先生が顔を上げた。

 

「ブラック、そんな話をどこで?」

「私は炎のゴブレットについて、卒業論文の主題として研究しています」

 

 フェルディナンドは、淡々と言った。

 

「三大魔法学校対抗試合に用いられる選出魔法は強力ですが、完全ではありません。対象者本人が紙を入れなければならないという条件は存在せず、ただ入れられた名前を認識します。名前、所属、参加意思、この三つを古い契約魔法がどう認識するかには揺らぎがあります」

 

 何を言っているのか、半分くらい分からなかった。

 でも、スネイプ先生が黙っている。

 ダンブルドア校長も、フェルディナンドの話を遮らない。

 

「さらに、炎のゴブレットそのものに錯乱の呪文をかけることは、理論上可能です。たとえば、存在しない四校目を認識させ、その学校の唯一の代表としてポッターの名を受理させる」

「馬鹿な」

 

 カルカロフ校長が吐き捨てた。

 

「そのような高度な魔法を、誰が——」

「高度だから不可能、という結論は危険です」

 

 フェルディナンドの声は変わらなかった。

 

「そもそも、本人が入れていなくても契約が成立するなら、炎のゴブレットは欠陥だらけです。伝統という言葉で放置されていただけでしょう」

 

 部屋が、変な静けさに包まれた。

 僕はフェルディナンドを見た。

 それは、僕を助けるために言ってくれているのだろうか。

 たぶん、そうなんだと思う。

 でも言い方がひどい。

 僕が無実だと言う代わりに、「炎のゴブレットは欠陥品だ」と言い切った。僕を庇っているのか、炎のゴブレットを罵っているのか、どちらなのか分からない。

 けれど、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 少なくとも、この部屋の中に一人は、僕が自分で名前を入れたとは思っていない。

 

「……つまり」

 

 クラウチが低く言った。

 

「何者かが、ポッター君を競技に参加させるために、炎のゴブレットを欺いた可能性がある」

「その可能性は高いでしょう」

 

 フェルディナンドが答えた。 

 

「目的は?」

 

 スネイプ先生が言った。

 僕の方を見ながら。 

 

「ポッターを殺すことか、利用することか、あるいは名前そのものを契約に組み込むことか」

 

 名前そのもの。

 その言葉が、妙に耳に残った。

 ハリーの名前。

 ハリー自身ではなく、ハリーの名前が必要だった。

 そんなことを考えると、寒気がした。

 

 その後は、先生たちと審査員たちの話し合いになった。追加条項を作る。四人目の代表選手として扱う。ただし、ホグワーツが学校単位で二重に有利になることは避ける。校長や代表選手の各代表への意図的な危害や妨害は禁じる。競技外での安全確保については主催者側が責任を負う。

 ハリーには、難しい言葉ばかりだった。

 ただ一つだけ分かった。

 ハリーは、逃げられない。

 

「最初の課題は、勇気を試すものです」

 

 クラウチが言った。 

 

「内容は代表選手には知らされません。杖だけを持って臨むことになります」

 杖だけ。

 ハリーは、自分のローブの中にある杖を意識した。

 それだけで、何と戦えというんだ。

 やがて、解散になった。

 マクゴナガル先生が僕の肩に手を置いた。

 

「ポッター。今夜はグリフィンドール塔へ戻りなさい。明日、改めて話します」

「はい」

 

 声がかすれた。

 

 

 部屋を出たとき、トム・ジェドゥソールが近づいてきた。

 暖炉の火が、彼の横顔を赤く照らしていた。

 さっきまで先生たちや審査員たちに囲まれていたせいで、ハリーは少しぼんやりしていた。頭の中では、まだ「契約」「四人目」「最初の課題」という言葉がぐるぐる回っている。

 それでも、彼が近づいてきた瞬間、ハリーは顔を上げた。

 やっぱり見覚えがあった。

 黒髪。整った顔。穏やかな声。

 

「……やっぱりトムだよね?」

 

 小さく呼んだ。

 その瞬間、トム・ジェドゥソールの表情が変わった。

 本当に、ほんの一瞬だった。

 目を見開くほどではない。声を上げるほどでもない。

 

「君は」

 

 トムは言いかけて、言葉を止めた。

 そして、すぐにいつもの穏やかな顔に戻った。戻るのが早すぎて、逆に不自然だった。

 

「……僕を覚えているのかい?」

「はい。前に会いましたよね。マインの親戚……いや、日記だよね?」

 

 言いながら、少し変だと思った。

 親戚じゃなくて日記。

 自分で言っておいて、何だそれはと思う。

 でも、そうだ。彼は秘密の部屋によく来ていた。アルドゥスの世話もよくしてくれた。マインの魔法道具のような存在だったはすだ。

 トムは、ハリーをじっと見ていた。

 その目が、急に冷たくなったような気がした。

 

「おかしいな」

 

 彼が、小さくつぶやいた。 

 

「え?」

「いや」

 

 トムは微笑んだ。

 その微笑みは、とてもきれいだった。

 でも、きれいすぎた。

 

「大変な夜だったね、ハリー・ポッター」

「……はい」

「同じ代表選手として、改めてよろしく」

 

 トムは手を差し出した。

 一瞬、迷った。

 何かがおかしい。

 この人は、さっき驚いた。ハリーが覚えていることに驚いた。

 それなのに、何事もなかったみたいに笑っている。

 

 ハリーは、差し出された手を握った。

 指先が触れた瞬間、トムの目が細くなった。

 次の瞬間だった。

 彼の袖口から、杖が滑り出た。

 

「え——」

 

 声を出すより早く、杖先が僕に向けられていた。

 近すぎる。

 握手している手で僕の手を固定したまま、トムはほんの少しだけ身を寄せた。

 笑顔のまま。

 

「オブリビエイト」

 

 白いものが、頭の中で弾けた。

 音が遠くなった。

 全部、水の中に沈んでいくみたいだった。

 何かを忘れてはいけない。

 そう思った。

 この人を知っている。

 マインのそばにいた。

 前に会った。

 今、杖を——。

 思考がほどけていく。

 ほどけた糸が、誰かの指で巻き取られていく。

 トムの声だけが、妙にはっきり聞こえた。

 

「おかしいな。認識阻害魔法はかけたはずなのに」

 

 認識阻害。

 その言葉を覚えておかなきゃいけない。

 絶対に。

 でも、覚えておこうとした瞬間、その言葉の輪郭が消えた。

 認識……何? 

 僕は、何を考えていたんだっけ。

 握手。

 炎のゴブレット。

 秘密の部屋。

 トム・リドル。

 トム? 

 トム・リドルって、誰だっけ? 

 

 目の前の青年が、ハリーの手を離した。

 ハリーは一度まばたきをした。

 どうして、ここに立っているんだろう。

 部屋を出ようとしていたはずだ。マクゴナガル先生に、グリフィンドール塔へ戻りなさいと言われて。そうだ。僕は戻らなきゃいけない。ロンとハーマイオニーに説明しないといけない。

 なのに、目の前には黒髪の青年が立っていた。

 彼は穏やかに微笑んでいる。

 

「ハリー?」

「……はい?」 

 

 ハリーは、少し間の抜けた声を出した。

 相手は、何も不自然なことなどなかったみたいに、手を差し出した。

 

()()()()()()だよね、自己紹介させて。僕はトム・ジェドゥソール。ボーバトンの代表選手だ。よろしくね」

「え、あ……はい」 

 

 ハリーは反射的に、その手を見た。

 握手。

 さっきも、握手をしたような気がする。

 いや、していない。

 たぶん、していない。

 そんな気がするだけだ。

 

「ハリー・ポッターです」

 

 ハリーは手を握った。

 トムの指先が少し冷たかった。

 

「大変なことになったね」 

 

 トムは、優しい声で言った。

 

「君も驚いただろう」

「はい。僕、名前なんて入れてないんです」

「もちろん」

 

 即答だった。

 ハリーは少し驚いた。

 

「信じるんですか?」

「君が自分で入れたにしては、あまりにも困惑しているからね」

 

 トムは軽く笑った。

 

「それに、君が本当に何か企んでいたなら、もう少し上手に隠すだろうに」

 

 ハリーは曖昧に笑った。

 でも、胸の奥に小さな違和感が残っていた。

 何かを忘れた気がする。

 今、この人と会う前に、何か大事なことがあった気がする。

 白い光。冷たい声。ほどける糸。

 けれど、思い出そうとすると、頭の中がつるりと滑った。

 何も引っかからない。

 

「疲れているんだろう」

 

 トムが言った。

 

「今夜は、あまり考えすぎない方がいい」

「……そうですね」

 

 ハリーはうなずいた。

 そうするしかなかった。

 

 

 

 ハリーがグリフィンドールの談話室へ入ると、空気が爆発した。

 

「ハリー!」

「すごいぞ!」

「四人目の代表だ!」

「どうやったんだ?」

「年齢線を越えたのか?」

 

 誰かが叫び、誰かが笑い、誰かがハリーの肩を叩いた。

 やめてくれ、僕は名前を入れてない。

 そう言いたかったのに、声がうまく出なかった。

 グリフィンドールの談話室は、いつの間にかお祝いみたいな雰囲気になっていた。誰かがどこからか菓子を出している。双子が僕に向かって大げさにお辞儀をした。

 

「ホグワーツ代表、ハリー・ポッター殿!」

「しかも正規代表じゃない、謎の追加代表!」

「響きはいいけど、だいぶ不吉だぞ」

「ありがとう、ジョージ。今それを言う必要があった?」

「僕はフレッドだ」

「今それもどうでもいい!」

 

 何人かが笑った。

 ハリーは笑えなかった。

 

 

 人の間を抜けて、やっとロンとハーマイオニーを見つけた。

 ハーマイオニーは真っ青だった。怒っているみたいに唇を引き結んでいる。ロンは、いつものように口を開けて何か言おうとしていたけれど、何も言えていなかった。

 

「ハリー」

 

 ハーマイオニーがハリーの腕をつかんだ。

 

「入れてないのよね?」

「入れてない」

「誰かに頼んでもいない?」

「頼んでない」

「年齢線を越えようとした?」

「してない」

「でしょうね」

 

 ハーマイオニーは、きっぱり言った。

 その言い方に、少しだけ息ができるようになった。

 

「あなたがそんな危ない契約に自分から飛び込むなら、まず私にやり方を聞きに来るはずだもの」

「そこ?」

「そこよ」

 

 ハーマイオニーは真剣だった。

 ハリーはほっとしていいのか分からなかった。

 ロンはまだ黙っていた。

 

「ロン」

 

 僕が呼ぶと、ロンはびくっとした。

 

「僕、本当に入れてない」

「……分かってる」

 

 ロンは、少し遅れて言った。

 

「本当?」

「分かってるって」

 

 でも、ロンの顔は晴れなかった。

 僕の胸が、また重くなる。

 

「信じてない?」

「違う!」

 

 ロンは、慌てたように言った。声が少し大きくなって、近くにいた何人かがこちらを見た。

 

「違うんだ、ハリー。僕は、お前が自分で名前を入れたなんて思ってない。そんな馬鹿なことするわけないだろ。いや、お前はたまに馬鹿なことするけど、これは違う」

「そこは最後まで庇ってよ」

「庇ってるだろ!」

 

 ロンはそう言ってから、急に黙った。

 何かを飲み込むみたいに、唇を引き結ぶ。

 

「……でも、ムカつかないわけじゃない」

 

 その言葉は、思っていたよりも小さかった。

 ハリーは何も言えなかった。

 ロンはハリーを見ていなかった。床の絨毯をにらんでいる。まるで、そこに誰か嫌な相手がいるみたいに。

 

「なんでまたお前なんだよ、とは思う。シーカーに選ばれたときも、シリウス・ブラックのときも、傷痕のことも、今度のこれも。いつも目立つのはハリーだ。なんでいつもお前なんだよって、思う」

 

 責める声じゃなかった。

 でも、痛かった。 

 

「僕が聞きたいよ」

 

 そう言うと、ロンは一瞬、顔を歪めた。

 

「……だよな」

 

 ロンは、拳をぎゅっと握った。

 

「分かってるんだ。お前が悪いんじゃないって。分かってる。でも、分かってるのに、腹が立つことってあるだろ」

 

 ハリーはうなずくしかなかった。

 ある。

 たぶん、ある。

 ロンはしばらく黙っていた。

 それから、ぽつりと言った。

 

「僕、ピーター・ペテグリューのこと、思い出した」

 

 談話室の騒ぎが、遠くなった気がした。

 ピーター・ペティグリュー。

 ロンが、ずっとスキャバーズだと思っていた男。

 ロンの家にいて、ロンのベッドで寝て、ロンのポケットに入って、ロンの家族の中に紛れ込んでいた裏切り者。

 

「ピーターがさ、言ったんだ」

 

 ロンの声が低くなった。

 

「お前だって同じだ、みたいなこと。友達に嫉妬するだろう、置いていかれたって思うだろう、分かるだろうって。あいつ、僕がハリーにムカつく気持ちを見て、そこにつけ込もうとしたんだ」

 

 ロンは、苦いものを噛んだみたいな顔をした。

 

「すごく嫌だった」

 

 その一言だけで、十分だった。

 ロンがどれだけ嫌だったのか、分かった気がした。

 

「僕は、ムカつくことはある。お前ばっかりって思うこともある。何で僕じゃなくて、何でまたハリーなんだって思うこともある」

 

 ロンは、やっと僕を見た。

 

「でも、それとこれは違う」

 

 はっきりした声だった。

 

「僕はハリーの友達だ」

 

 ハリーの胸の奥が、ぎゅっとなった。

 

「ムカついても、それは変わらない。羨ましくても、腹が立っても、変わらない。ピーターみたいに、そういう気持ちを言い訳にして裏切ったりしない」

 

 ロンは、少しだけ顔を赤くした。

 言ってから恥ずかしくなったみたいだった。

 

「だから、その……僕が変な顔してても、疑ってるわけじゃない。怒ってる相手を間違えそうになってるだけだ。羨ましすぎるぞこのやろうとは思う」

「ロン」

「でも、間違えない」 

 

 ロンは言った。

 

「お前は名前を入れてない。誰かが勝手にやった。だったら、怒る相手はお前じゃない」

 

 ハーマイオニーが、黙ってロンを見ていた。

 いつものように訂正しようとはしなかった。

 ハリーも何を言えばいいのか分からなかった。

 ありがとう、と言うには軽すぎる気がした。

 でも、何も言わないのも違う気がした。

 

「……僕、ロンが友達でよかった」

 

 ハリーがやっとそう言うと、ロンはますます赤くなった。

 

「そういうの、真面目に返すなよ」

「真面目に言ったんだけど」

「だからだよ!」

 

 ロンが叫ぶと、ハーマイオニーが少しだけ笑った。

 

「今のは、ロンにしてはかなり立派だったわ」

「“ロンにしては”って何だよ!」

「褒めてるのよ」

「絶対ちょっと馬鹿にしてるだろ!」

 

 ハリーは少しだけ笑った。

 胸の中の硬いものが、ほんの少し緩んだ。

 ロンはまだ複雑そうな顔をしていた。たぶん、全部すっきりしたわけじゃない。ハリーが代表に選ばれたことに、ムカついていないわけでもない。

 でも、ロンはハリーの横にいた。

 それだけで、十分だった。

 

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