本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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51話 本好きはハリーを信じます

 

 ハリー・ポッターが四人目の代表選手に選ばれた翌日、ホグワーツは大変なことになっていた。

 まず、廊下の空気が違う。

 いつもなら「宿題が終わらない」「朝食のベーコンが足りない」「スネイプ先生に当てられたくない」みたいな、健全かどうかはともかく日常的な悲鳴が聞こえるはずだった。

 でも今日は違った。

 

「わたし、絶対トム様派」

「ええ? フェル様でしょう。あの冷たい感じがいいのよ」

「でもトム様、爽やかで素敵じゃない?」

「フェル様はブラック家よ。血統と知性と危険な雰囲気がそろってるの」

 

 女子生徒たちが、朝から派閥を作っていた。

 トム派とフェルディナンド派である。

 おかしい。

 三大魔法学校対抗試合とは、勇気と魔法と国際交流の大会ではなかったのか。

 いつから美形人気投票になったのだろう。

 しかも男子生徒もたいして変わらなかった。

 

「クラムだろ。世界的なクィディッチ選手だぞ」

「いや、フェルディナンド先輩だ。スリザリン代表みたいなものだろ」

「代表はホグワーツ代表だぞ」

「でもスリザリンの先輩だ」

「クラムの箒さばき見たことあるか?」

「フェルディナンド先輩だってクィディッチの魔王だぞ」

 最後の男子は、たぶんスリザリン生だ。

 そして、問題のハリーはというと。

 

「……僕、生き残った男の子なんだけど」

「うん」

「一応、有名人なんだけど」

「うん」

「全然、人気で勝てる気がしない」

「相手が悪いよ」

 

 わたしは正直に言った。

 ハリーは十四歳である。

 十四歳の男の子は、どうしても少しちんちくりんに見える時期がある。本人に責任はない。成長途中とはそういうものだ。

 相手は、落ち着いた黒髪美青年のトム・ジェドゥソールと、冷たい知性で周囲を黙らせるフェルディナンド・ブラック先輩と、世界的クィディッチ選手のヴィクトール・クラムである。

 これは無理だ。

 市場が悪い。

 競合が強すぎる。

 

「ハリー、大丈夫。魔法書研究会はハリーの味方だから」

「その言い方、逆に僕には魔法書研究会しか残ってないみたいに聞こえる」

「実際、かなり残存兵力は限られてる」

「マイン!」

 

 ハリーが悲しそうな顔をした。

 でも事実は大事だ。事実を隠してはいけない。新聞にも本にもそう書いてある。たぶん。

 昼休みの図書室は、いつもの三倍くらい騒がしかった。

 もちろん、図書室なので大声は出せない。出したらマダム・ピンスに消される。物理的にではないと信じたい。

 だけど、ひそひそ声が多すぎると、それはもう騒音である。

 魔法書研究会の机のまわりにも、見慣れない生徒がうろうろしていた。

 

「あの、魔法書研究会って、まだ入れますか?」

「見学だけでも」

「フェルディナンド先輩は今日いらっしゃいます?」

「ハリー・ポッターも来ますか?」

 

 目的が本ではない。

 研究会ではなく代表選手観察小屋になっている。

 わたしは机に両手を置いた。

 

「本日をもって、魔法書研究会の新規入部は停止します」

「えっ」

「そんな」

「どうしてですか?」

「本を読む気がなさそうだからです」

 

 沈黙。

 ハーマイオニーが隣で小さくうなずいた。

 

「妥当ね」

「でしょう?」

「むしろ遅かったわ」

 

 アーニーは深刻そうな顔で羊皮紙に何かを書いていた。

 きっと入部希望者を装ったスパイ組織の相関図でも作っているのだろう。

 パドマは新聞を広げて、早くも今日の見出しを分析している。

 ルーナは机の下を見ていた。何を見ているのか聞いてはいけない気がした。

 ハリーは、椅子に沈んでいた。

 顔色が悪い。

 昨日の今日だから当然だ。急に代表選手にされ、先生たちに問い詰められ、契約だ条項だと言われ、談話室ではお祝いされ、朝からは知らない生徒にじろじろ見られている。

 疲れていない方がおかしい。

 そしてフェルディナンドも疲れて見えた。

 ただし、ハリーとは疲れ方が違う。

 ハリーは「なぜ僕が」という疲れ方で、フェルディナンド先輩は「愚かな制度が想定以上に愚かだった」という疲れ方をしている。

 少し離れた本棚の前では、ヴィクトール・クラムが本を持ったまま、こちらを見ていた。

 読んでいるのか、見ているのか、ハリーたちを監視しているのか分からない。

 でも、ページが全然進んでいないので、たぶん見ている。

 さらに、反対側の棚にはトムがいた。

 彼は自然な顔で本を選んでいる。ボーバトンの代表選手がホグワーツの図書室を普通に使っているのは、よく考えると変なのだけど、あまりにも堂々としているので、こちらが間違っている気がしてくる。

 トムはわたしと目が合うと、軽く微笑んだ。

 わたしも小さく手を振った。

 ハリーが少し首をかしげた。

 

「マイン、トムとは知り合いなの?」

「うん。たぶん」

 

 ハリーがトムのことを覚えていないことにはわたしは触れなかった。ドラコも覚えていなかったし、皆に何らかの魔法がかかっていて以前会ったことがある相手だと認識できていないみたいだ。

 

「たぶん?」

「ちょっと説明が難しい知り合い」

 

 ハーマイオニーが頭を抱えた。

 

「あなたの“説明が難しい知り合い”は、だいたい説明しないといけない相手なのよ」

 

 それはそうかもしれない。

 でも、日記から出てきた人で、秘密の部屋に詳しくて、ボーバトンの代表選手になっていて、たぶん父とも関係があって、しかもわたしの本棚計画に理解がある人です、と言ったらどうなるだろう。

 たぶん、全員の顔が面白くなる。

 でも今はそれどころではない。

 

「とにかく、誰にも聞かれないようにしないと」

 

 わたしは杖を出した。

 

「マイン」

 

 ハーマイオニーの声が一段低くなった。

 

「何?」

「何をしようとしているの?」

「耳塞ぎの呪文。マフリアート」

「待って。あなた、範囲指定は——」

「マフリアート」

 

 唱えた瞬間、図書室全体が変な空気になった。

 耳元で、ざわざわ、ぶつぶつ、もにょもにょ、と何かが鳴り始める。

 普通の雑音ではない。

 声に近い。けれど言葉としては聞き取りにくい。

 でも、ところどころ聞こえる。

 

『本はいいですよ……』

『禁書閲覧は計画的に……』

『紙の匂いは心の栄養……』

『あなたの人生に一冊の魔法書を……』

『秘密の部屋、書庫が完成してますよ……』

『読みたい本があるなら、手段を選びすぎないことも大切……』

『でも本は汚さないでください……』

 

 図書室中の生徒が、一斉に耳を押さえた。

 

「何これ!?」

「誰かが本を売り込んでくる!」

「禁書閲覧って聞こえたぞ!」

「秘密の部屋って何!?」

「紙の匂いがどうしたって!?」

 

 ハーマイオニーがわたしの腕をつかんだ。

 

「マイン!」

「ごめん! ちょっとわたしの内面が漏れた!」

「ちょっとじゃないわ!」

 

 マダム・ピンスがこちらを見た。

 その目は、魔法生物より怖かった。

 

「ミス・マルフォイ」

 

 低い声だった。

 わたしはすぐに杖を振った。

 

「解除! 解除します! 本は静かに読むものです!」

 

 数秒後、図書室に静寂が戻った。

 ただし、全員の耳にはしばらく『本はいいですよ……』という残響が残ったらしい。

 数人の生徒が、ぼんやりと本棚に向かって歩いていった。

 布教としては成功かもしれない。

 魔法としては失敗である。

 ハーマイオニーは疲れた顔で座り直した。

 

「今のは、あとで反省会ね」

「はい」

「反省文もね」

「何インチ?」

「少なくとも十二インチ」

「長い」

 

 ハリーが少しだけ笑った。

 よかった。笑えるならまだ大丈夫だ。

 わたしたちは机に身を寄せた。

 今度はハーマイオニーがきっちり範囲を指定して、まともな耳塞ぎの呪文をかけた。さすがである。内面が漏れない。

 

「まず確認しましょう」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「ハリーは自分で名前を入れていない。誰かに頼んでもいない。年齢線も越えていない。ここまでは全員一致でいいわね」

「もちろん」

「同意」

「僕も信じる」

「信じています」

「ハリーはそんな面倒な不正をするくらいなら、先にあたしたちに相談するだろうしね」

 

 最後のルーナの言葉は、信頼なのか失礼なのか分からなかった。

 でもハリーは少し救われた顔をした。

 アーニーだけが、むうっとした顔をしていた。

 

「ただ、ハリーが選ばれるなら、セドリックでも良かったじゃないかとは思う」

「アーニー」

「いや、もちろんハリーを疑っているわけではない。だがハッフルパフから代表が出なかったことに、僕はひどく歴史的不均衡を感じていて——」

「アーニー」

「それにセドリックは公平で、優秀で、背も高くて——」

「アーニー」

 

 ハーマイオニー、パドマ、わたしが同時ににらんだ。

 アーニーは背筋を伸ばした。

 

「すまない。今のは余計だった」

「かなり余計だった」

「非常に余計だったわ」

「記事にすると炎上する発言ね」

 

 言葉でボコボコにされたアーニーは、しゅんとした。

 でも完全には諦めていない顔だった。ハッフルパフの誇りはしぶとい。

 

「それで、第一の課題よ」

 

 パドマが新聞を畳んだ。

 

「クラウチは“勇気を試すもの”と言ったのね?」

「うん。内容は知らされない。杖だけ持って臨むって」

「杖だけ」

 

 ハーマイオニーの顔が険しくなる。

 

「防具もなし?」

「参考書を持ち込めないなんて……」

 

 わたしは思わず胸を押さえた。

 

「マイン、そこじゃない」

「でも大事だよ。知識なしで危険に突っ込ませるなんて野蛮だよ」

「それは同意するわ」

 

 フェルディナンド先輩が、それまで閉じていた本を静かに置いた。

 

「勇気を試す、という表現は曖昧すぎる。過去の大会記録から見れば、危険生物、呪いの解除、閉鎖空間での探索、敵性魔法への対処などが候補に入る」

「危険生物」

 

 ハリーの顔がさらに白くなった。

 

「過去には死亡者も出ている」

「先輩、今それを言う必要ありますか?」

「事実だ」

「事実は時々、人を殴ります」

 

 フェルディナンド先輩はわたしを見た。

 

「それと、私はしばらく魔法書研究会を抜ける」

「えっ」

 

 ハリーが顔を上げた。

 

「どうしてですか?」

「追加条約に抵触する可能性がある」 

 

 聞き慣れない言葉に、わたしたちは一斉にハリーを見た。

 

「追加条約?」

「えっと……昨日、先生たちと審査員たちが相談して、追加の取り決めを作ったんだ。ホグワーツが二人いると不公平だから、代表選手同士が意図的に妨害しないとか、競技外の安全は主催者が責任を持つとか、そういう……」

「何それ」

 

 わたしは眉をひそめた。

 

「ハリーは勝手に巻き込まれたのに、さらに条約まで足されたの?」

「ダンブルドア校長は反対してた。でも、他校が納得しなくて」

「うわあ」

 

 それはひどい。

 契約に巻き込まれた未成年に、さらに契約を重ねる。

 魔法界は時々、本当に制度設計が雑である。

 古い本なら味があるけど、古い制度は味では済まない。

 フェルディナンド先輩は淡々と言った。

 

「私はホグワーツ代表だ。ポッターも形式上は代表として扱われる。研究会で情報を共有しすぎれば、競技上の協力と見なされる可能性がある」

「でも、ハリーは被害者ですよ」

「だからこそだ。余計な隙を作るべきではない」

 

 ハリーが黙り込んだ。

 フェルディナンド先輩は、別に冷たく突き放しているわけではないのだと思う。

 ただ、この人は優しさを布で包んで渡すということを知らない。剥き出しの鉄板みたいな形で置いていく。

 

「それに、私は一人で対処する方が向いている」

 

 先輩は本を手に取った。

 

「そもそも、私が名前を入れた理由は、優勝や名誉ではない。炎のゴブレットを卒業論文の主題にしているからだ」

「卒業論文」

 

 ハリーが呆然と繰り返した。

 

「そのために代表選手になったんですか?」

「当事者にならなければ観測できない契約魔法がある」

「観測」

「炎のゴブレットが選出時にどのような契約を形成し、代表選手の意思、名前、所属をどう処理するのか。実地で確認できる機会は滅多にない」

 

 沈黙。

 わたしは思った。

 この人、やっぱりだいぶおかしい。

 

「つまり、危ない大会に論文のために参加したんですか?」

「正確には、危険な古代魔法契約の実例に接触するためだ」

「同じです」

「違う」

「同じです」

 

 ハーマイオニーが額に手を当てた。

 

「信じられない。学術的好奇心で命を危険にさらすなんて」

 

 ルーナが首をかしげた。

 

「でも、フェルディナンド先輩が本気で勝つつもりなら、かなり大変そうだね」

「うん」

 

 わたしはうなずいた。

 

「やるからには手段を選ばず勝つ人だと思う」

「否定はしない」

 

 フェルディナンド本人が否定しなかった。

 しないんだ。

 ハリーがますます疲れた顔になった。

 

「僕、第一の課題の前からもう負けそうなんだけど」

「大丈夫。ハリーには運と友達と、なぜか死なない実績がある」

「それ、励まし?」

「かなり励ましてる」 

 

 ハリーはため息をついた。

 そのとき、くすくす笑う声が聞こえた。

 振り向くと、女子生徒たちが数人、こちらを見ていた。

 彼女たちは胸元に小さなバッジをつけている。

 一つには、黒髪の青年の横顔とともに、

「トム・ジェドゥソールを応援しよう」

 もう一つには、銀と黒の意匠で、

「フェルディナンド・ブラックを応援しよう」

 と書かれていた。

 しかも、角度を変えると文字が光る。

 無駄に出来がいい。

 

「見て。トム様バッジ」

「こっちはフェル様」

「ハリー・ポッターのは、まだないの?」

「あるわけないじゃない」

 

 彼女たちは悪気なく笑っている。

 でも、ハリーの肩が少し落ちたのが分かった。

 わたしはバッジをじっと見た。

 なるほど。

 バッジ。

 推しを可視化する道具。

 しかも衣服につけられる。

 情報の拡散性が高い。

 これは使える。

 

「あれ、作れる?」

 

 わたしが聞くと、ハーマイオニーが目を細めた。

 

「何を考えているの?」

「ハリーのバッジ」

「……それは、悪くないわね」

 

 パドマがすぐに羊皮紙を引き寄せた。

 

「見出しとしては、“ハリーを信じる”が一番強いわ」

「少し硬いな。“ハリーは入れてない”は?」

「事実だけど、バッジとして情緒がないわ」

「“勝手に選ばれました”」

「それは本人がかわいそう」

「“契約被害者です”」

「新聞の社会面みたいになるわね」

「“がんばれハリー”」

「普通すぎる」

 

 ルーナが静かに言った。

 

「“ハリーはハリー”は?」

「深いけど伝わらない」

 

 アーニーが手を挙げた。

 

「“セドリックでも良かった”は——」

「黙って」

 

 全員に言われて、アーニーはまたしゅんとした。

 ハリーは困ったように、でも少しだけ笑っていた。

 

「僕のバッジなんて、本当に作るの?」

「作るよ」

 

 わたしはきっぱり言った。

 

「トムとフェルディナンド先輩とクラムに人気で負けるのは仕方ない」

「仕方ないって言い切られると傷つく」

「でも、信じてくれる人がいるって見えるのは大事だよ」

 

 ハリーが黙った。

 ハーマイオニーが小さくうなずいた。

 

「そうね。噂に対抗するには、態度を見せる必要があるわ」

「記事も書けるわ」

 

 パドマの目が光った。

 

「“四人目の代表、疑惑ではなく被害か”」

「新聞すぎる」

 

 図書室の向こうでは、クラムがまだこちらを見ていた。

 トムも、本を選ぶふりをしながら、こちらの様子を見ているように思えた。

 フェルディナンドは、静かに席を立った。

 

「ポッター」

「はい」

「生き残れ」

 

 それだけ言って、フェルディナンドは本を抱えて去っていった。

 ハリーはぽかんとした。

 

「今の、応援?」

「たぶん」

「たぶん?」

「フェルディナンド先輩にしては、かなり優しい」

 

 ハーマイオニーが真顔で言った。

 

「ええ。最大級ね」

 

 ハリーは複雑な顔でうなずいた。

 こうして、魔法書研究会はハリーの無実を信じること、第一の課題について調べること、そしてハリー応援バッジを作ることを決めた。

 大会はまだ始まってもいない。

 なのに、ホグワーツはもうだいぶおかしい。

 でも、本と友達とバッジがあるなら、たぶん戦える。

 少なくとも、何もないよりはずっといい。

 わたしは羊皮紙の端に、もう一つ案を書き足した。

 

『本好きはハリーを信じます』

 

 ハーマイオニーがそれを見て、ため息をついた。

 

「マイン、それは完全に魔法書研究会の宣伝よ」

「ばれた?」

「ばれるわ」

 

 でも、消せとは言われなかった。

 

 

 

 

 

 状況が変わったのは一週間後だった。トム・ジェドゥソールがフラー・デラクールと付き合っているという噂があっという間に広まると、女子生徒の何割かがフェルディナンド派閥に移動した。

 それを、ガチ恋勢という。

 わたしがそう呼んだ。

 ハーマイオニーには「何その不穏な分類」と言われたけれど、現象としてはそれが一番近かった。

 トム派だった女子生徒たちは、朝まではトム・ジェドゥソールの微笑みに倒れ、昼にはフラー・デラクールの存在に打ちのめされ、噂が広まった後の夕方にはフェルディナンド先輩の黒髪と冷たい目つきに救いを見出していた。

 切り替えが早い。

 本棚の整理より早い。

 しかも、移動先がより安全というわけでもない。

 フェルディナンド先輩は、優しい人ではある。

 でも、近づきやすい人ではない。

 たぶん、冬の湖に落ちる方がまだ温かい。

 

「つまり、トム・ジェドゥソールに恋人ができた可能性が発生したため、恋愛的可能性を失った一部の生徒が、フェルディナンド・ブラックへ支持対象を移した、ということね」

 

 パドマが羽根ペンを走らせながら言った。

 

「記事にしないでね」

 

 ハリーが疲れた声で言った。

 

「しないわ。まだ」

「まだ?」

「現象としては面白いもの」

 

 パドマは真剣だった。

 新聞好きの真剣さは、ときどき怖い。

 魔法書研究会の机の上には、今日も本と羊皮紙と、なぜか大量の応援バッジが置かれていた。

 炎のゴブレットが四人目の代表選手としてハリーを選んでから、ホグワーツには妙な応援熱が生まれていた。

 ただし、熱の向かう先はかなり偏っている。

 クィディッチ好きの男子生徒はクラムを応援している。

 スリザリン生の多くと、なぜか一部の男子生徒はフェルディナンド先輩を応援している。

 そして、ハリーを応援しているのは、主に魔法書研究会だった。

 ハリーは生き残った男の子なのに。

 四人目の代表選手なのに。

 命の危険があるのに。

 人気投票になると、十四歳のちんちくりんは、顔のいい年上と世界的クィディッチ選手に勝てないらしい。

 世間は厳しい。

 

 ロンが、机の上のバッジを一つつまみ上げる。

 銀色の地に、整った文字でこう書かれていた。

『トム・ジェドゥソールを応援しよう』

 

「これ、また増えてる」

 

 ロンが嫌そうな顔をした。

 

「トムの応援バッジだね」

「いや、それは見れば分かるよ。問題は、なんで魔法書研究会の机にあるんだってこと」

「資料として回収したの」 

 

 わたしは答えた。

 

「資料?」

「集団心理の」

「絶対ろくでもない資料だ」

 

 ロンはバッジを裏返した。

 そこには何も書かれていなかった。

 けれど、ロンが指で表面をこすった瞬間、バッジの文字がぐにゃりと歪んだ。

 そして、別の言葉に変わる。

 

『魅力は校則違反』

 

 その下で、小さな絵が動いた。

 銀髪の女の人らしき絵がぽーんと吹っ飛んでいった。

 銀髪の女の人は、たぶんフラーだ。

 

「これは駄目よ」 

 

 ハーマイオニーが低い声で言った。

 場の空気が一瞬で冷える。

 

「ヴィーラの血を持っているからって、誰かを意図的に惑わせていると決めつけるなんて、完全に偏見だわ。しかも蹴飛ばす絵なんて最低」

「うん。最低」

 

 わたしもうなずいた。

 

「最低だけど、技術は高いね。文字の変化がなめらかだし、絵もちゃんと動いてる」

「褒めないで」

「はい」

 

 ハーマイオニーに怒られた。

 でも、本当に技術は高かった。

 使い道が最悪なだけで。

 

 ハリーがバッジを見つめて、遠い目をした。

 

「僕の悪口バッジより、方向性が複雑になってる気がする」

「ハリーの悪口バッジ?」

 

 アストリアが首を傾げた。

 

「汚いぞポッターって書いてあるバッジをつけてる生徒を見かけたんだよ」

「嫌なやつらだ」

 

 ロンが言った。

 

「でも、恋愛が絡むと陰湿ね」

 

 ハーマイオニーがばっさり言った。

 まったくその通りだった。

 悪意に恋愛感情が混ざると、たいてい面倒くさくなる。

 本に対する独占欲もかなり面倒くさいけれど、本は蹴飛ばされない。

 いや、蹴飛ばしたらわたしが許さない。

 パドマは、バッジを真剣に見つめていた。

 

「見出しにするなら、『応援バッジ、恋愛偏見に発展』かしら」

「記事にしないでってば」

 

 ハリーが言った。

 

「まだしないわ」

「まだって言うなよ」

 

 次にアーニーが、別のバッジを手に取った。

 黒地に銀の縁取り。

 端正な文字で書かれている。

 

『フェルディナンド・ブラックを応援しよう』

 

「これは普通に見えるね」

 

 アーニーが言った。

 その瞬間、アストリアが静かに首を横に振った。

 

「アーニー、触らない方がいいですよ」

 

 遅かった。

 アーニーがバッジを押す。

 文字が黒い炎のように揺れた。

 そして、堂々と変わった。

 

『我らが魔王!』 

 

 バッジの中の小さなフェルディナンドが、黒いローブをひるがえし、背後に雷を落としていた。

 無駄にかっこいい。

 かなり腹立たしいくらい、似合っていた。

 

「魔王……」

 

 ハリーがつぶやいた。

 

 ハーマイオニーは頭を押さえていた。

 

「どうして応援バッジが、どれもこれも本人に迷惑な方向へ進化するの? 純粋に応援するものはないのかしら」

「推しへの感情が強すぎるからじゃないかな」

 

 わたしは真面目に答えた。

 

「強すぎる感情は、だいたい文章と魔法を狂わせる」

「あなたが言うと説得力がありすぎるわ」

 

 ハーマイオニーの視線が痛い。

 わたしは何もしていない。

 少なくとも、今回は。

 

「でもさ」

 

 ロンがフェルディナンドのバッジを覗き込みながら言った。

 

「スリザリン生はこれ喜ぶんじゃない?」

「喜ぶと思う」

 

 アストリアが静かに言った。

 

「フェルディナンド先輩の支持層は、冷徹さや威圧感も含めて支持しているから」

「それ、応援なの?」

「畏怖と応援は、近いところにあるのかもしれないですね」

 

 アストリアの言葉は、妙に説得力があった。

 わたしは羊皮紙に書き留めた。

 畏怖と応援は近い。

 あとでトムに聞いてみよう。

 

「じゃあ、ハリーのは?」

 

 ロンが言った。

 その瞬間、魔法書研究会の全員が、机の端に置かれたバッジを見た。

 金色の地。

 赤い文字。

 中央には、剣を持ったハリーの絵。

 ただし、絵はルーナが描いた。

 だから、ハリーはどこか勇者というより、少し眠そうな妖精狩りの少年みたいになっている。

 髪はいつも以上にはねている。

 丸眼鏡は大きすぎる。

 剣は妙に立派。

 足元には、なぜか小さなキノコが生えている。

 

「これは……」

 

 ハリーが絶句した。

 わたしは胸を張った。

 

「魔法書研究会が総力を上げて作った、ハリー応援バッジだよ!」

「総力を上げるところ、そこだった?」

「大事だよ。世論戦だから」

「世論戦」

 

 ハリーは力なく繰り返した。

 最初、このバッジはもっと普通だった。

 

『ハリー・ポッターを応援しよう』

 それだけだった。

 でも、普通では勝てない。

 相手は、世界的クィディッチ選手と、我らが魔王と、美女と恋愛騒動中のトム・ジェドゥソールである。

 普通の応援では埋もれる。

 そこで、魔法書研究会は考えた。

 まず、アーニーが「ハリーには英雄性が必要だ」と言った。

 パドマが「見出しとして強い言葉がいる」と言った。

 ハーマイオニーが「本人の意思を無視した誇張はよくない」と言った。

 ロンが「でもちょっとかっこいい方がいい」と言った。

 アストリアが「伝承風にすればいいのでは」と言った。

 ルーナが「剣を持たせたら、見えないものも切れるかもしれないわ」と言った。

 そして、わたしが「本の主人公っぽくしよう」と言った。

 その結果、生まれたのがこれだった。

 バッジを押すと、文字が変わる。

 

『生き残った勇者ハリー』

 剣を持ったハリーが、よく分からない煙のようなものを斬る。

 煙の中から、なぜか紙片が舞う。

 たぶん契約書だ。

 ルーナの絵なので、深読みしてはいけない。

 でも、深読みすると少し怖い。

 

 ハリーはバッジをじっと見た。

 バッジの中の小さなハリーは、剣を掲げていた。

 少し頼りなさそうで、でも逃げてはいなかった。

 ルーナの絵は不思議だ。

 変なのに、ときどき本質を突いてくる。

 

「……悪くないかも、というか、最高だよ」

 

 ハリーが小さく言った。

 ロンがにやっと笑う。

 

「だろ? 少なくとも『汚いぞポッター』よりずっといい」

「比較対象が低すぎる」

 

 ハーマイオニーが言った。

 でも、少し笑っていた。

 そのとき、図書室の入口がざわめいた。

 誰かが息をのむ音がした。

 振り返ると、トム・ジェドゥソールが立っていた。

 隣にはフラー・デラクール。

 銀色の髪が、図書室の光を受けてさらりと揺れる。

 トムはいつものように穏やかに微笑んでいた。

 フラーは、こちらの机の上に並んだバッジを見て、片眉を上げた。 

 

「面白そうなものがあるのね」

 

 綺麗な声だった。

 ハーマイオニーが、問題のトムバッジをさっと隠そうとした。

 でも、遅かった。

 フラーの視線は鋭かった。

 彼女は机に近づき、バッジを一つ指先で持ち上げた。

 

『トム・ジェドゥソールを応援しよう』

 

 そして、表面を軽く押した。

 

『魅力は校則違反』

 

 小さな絵の中で、フラーが飛ばされていく。

 ロンが椅子の上で固まった。

 ハリーが目を閉じた。

 アーニーが「これは事件だ」という顔をした。

 パドマが羽根ペンを握った。

 ハーマイオニーが怒りで震えた。

 わたしは、できれば本棚の陰に隠れたかった。

 フラーは、バッジを見つめた。

 それから、にこりと笑った。

 とても美しい笑顔だった。

 怖かった。

 

「魅力が校則違反なら、この学校は毎日大量の違反者を出しているのではなくて?」

 

 誰も何も言えなかった。

 トムが、隣で静かに笑った。

 

「僕も違反者に含まれるのかな」

「もちろん」

 

 フラー先輩は即答した。

 

「あなたは常習犯でしょう」

 

 トムの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。

 ほんの少しだけ。

 でも、わたしは見た。

 見てしまった。

 わたしは羊皮紙の端に小さく書いた。

 フラー先輩、強い。

 トムは咳払いをした。

 

「それで、これは?」

 

 今度はフェルディナンドのバッジを手に取る。

 押す。

 

『我らが魔王!』

 

 バッジの中のフェルディナンドが、黒い炎を背負って立った。

 トムは数秒見つめたあと、穏やかに言った。

 

「……本人には見せない方がいいね」

「同感」

 

 ハリーが即答した。

 最後に、フラーがハリーのバッジを手に取った。

 押す。

 

『生き残った勇者ハリー』

 

 剣を持った小さなハリーが、煙のようなものを斬った。

 フラーは少し目を細めた。

 

「これは素敵ね」

「え」

 

 ハリーが顔を上げた。

 

「あなたに似ているわ。少し困っていて、でも逃げていない」

 

 ハリーは真っ赤になった。

 ロンが隣でにやにやした。

 ハーマイオニーは満足そうにうなずいた。

 ルーナはにこにこしていた。

 

「キノコもいいでしょう?」

「ええ。とても神秘的」

「それは、たぶん見えない応援なの」

「素敵ね」

 

 フラーとルーナは、なぜか通じ合っていた。

 わたしはよく分からなかった。

 でも、本にもたまに、読者を選ぶ本がある。

 たぶん、そういうことだ。

 トムはハリーのバッジを見て、薄く笑った。

 

「生き残った勇者ハリー、か」

「やめろよ」

 

 ハリーが警戒した。

 

 わたしは机の上の三種類のバッジを見た。

 恋愛怨念のトムバッジ。

 畏怖と信仰のフェルディナンドバッジ。

 魔法書研究会がいじりたおした、剣を持ったハリーバッジ。

 どれもまともではない。

 でも、まともではないなりに、今のホグワーツをよく表していた。

 炎のゴブレットは代表選手を選んだ。

 でも、生徒たちは勝手に推しを選んだ。

 そして、推しへの感情は、応援になり、噂になり、偏見になり、バッジになり、たまに絵まで動かす。

 魔法ってすごい。

 人間って面倒くさい。

 本の方がずっと静かだ。

 ただし、今この瞬間だけは、わたしも少しだけ楽しかった。

 

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