本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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6話 1ページでも長く

 ダイアゴン横丁から帰って三日後のことだった。

 夕食の席で、父が「食後に書斎に来なさい」と言った。

 珍しいことではない。父の書斎に呼ばれるのは、何か大事な話がある時だ。今度は何だろう。ホグワーツ中の読書についてか、ダイアゴン横丁で本屋を半壊させた件のお説教か。

 どちらにしても、書斎に行けるのは嬉しい。あの部屋には本がある。

 食後、書斎の扉を開けた。

 お父様が大きな机の後ろに座っていた。その隣に母さま。

 そして——スネイプ先生がいた。

 スネイプ先生がいる。

 それだけで、ただの家族の話ではないとわかった。お説教にスネイプ先生は呼ばない。

 

「座りなさい、マイン」

 

 母が椅子を引いてくれた。足がつかない椅子だった。いつものことだ。

 

「ドラコは?」

「先に部屋に戻しました」

 

 ドラコがいない。ドラコを外した。

 つまり、ドラコには聞かせたくない話だ。

 嫌な予感が背中を這った。

 でも同時に、書斎の本棚が視界の端に入って、少しだけ心が安らいだ。本がある場所では、大抵のことは乗り越えられる。

 

「何の話?」

 

 父がペンを置いた。いつも手の中で回している杖も、今は机の上に置かれている。父の両手が空いているのは珍しい。何かを握っていないと落ち着かない人なのだ。父なりの「真剣モード」である。

 

「ホグワーツに入学する前に、伝えておかなければならないことがある」

「うん」

「お前の体のことだ」

 

 体のこと。魔力の暴走なら知っている。薬がないと動けないことも知っている。同い年より小さいことも知っている。今更何を——

 

「マイン」

 

 スネイプ先生が口を開いた。先生の声はいつも通り低くて平坦だ。でもいつもの平坦さとは違う、何かを慎重に選んでいる平坦さだった。

 

「お前の症状について、改めて説明する。今まで詳しく話してこなかったのは、お前が幼すぎたからだ」

「はい」

「お前の体内の魔力量は、通常の魔法使いの数十倍に達している。ほとんど常に魔力が溢れ出ている状態だ。問題は器だ」

「器?」

「魔力を収める身体のことだ。お前の身体は、お前の魔力に対して小さすぎる。例えるなら——」

 

 先生が一瞬だけ言葉を探した。

 

「コップに湖の水を入れようとしているようなものだ」

「すごくわかりやすい比喩ですね」

「褒められているのかどうか判断しかねる」

「褒めてます」

「そうか。では続ける」

 

 先生の口の端がわずかに動いた。笑ったのか引きつったのか判断がつかない。

 

「わたしの薬は、その湖の水位を一時的に下げるものだ。根本的な治療ではない。水を減らしているのではなく、蓋をしているに過ぎない」

「蓋」

「蓋には限界がある。お前が成長すれば器も大きくなるが、魔力の増加がそれを上回る可能性がある」

「先生、質問」

「何だ」

「その蓋を二重にするとか、もっと丈夫な蓋にするとかは」

「それが薬の改良だ。現在進行形で取り組んでいる」

「改良版の薬は苦いですか」

「苦い」

「今よりもっと苦いですか」

「おそらく」

「……改良しない方向はないですか」

「ない」

「ですよね」

 

 お父様が小さくため息をついた。「真面目に聞け」という顔をしている。真面目に聞いている。ただ薬の苦さは死活問題なのだ。

 

「構造的にはオブスキュラスによく似ている」

 

 先生が続けた。

 

 オブスキュラス。わたしはその名前を本で見たことがあった。

 

「オブスキュラスは魔力を抑圧された若い魔法使いに発生する。お前の場合は抑圧ではなく過剰だが、身体が魔力に耐えきれないという点では同じだ。ほとんどの場合——」

「セブルス」

 

 お父様が先生の名を呼んだ。低い声だった。「先を言うな」という声だった。

 でもわたしは理解していた。

 オブスキュラスになった魔法使いの運命を知っていた。

 

「わたし、死ぬの?」

 

 書斎の空気が凍った。

 三人の大人が同時に息を止めたのがわかった。

 自分でも驚くほど普通の声で聞いていた。怖くなかったわけではない。でも、知りたかった。知らないことは怖い。知っていることは対処できる。本で学んだことだ。知識は最強の武器である。

 スネイプ先生が短く息を吐いた。

 

「確定ではない。だが——」

「マイン」

 

 父が口を開いた。声が、ほんの少しだけ震えていた。ルシウス・マルフォイの声が震えるのを、わたしは初めて聞いた。

 

「お前が生まれた時、聖マンゴの治療師に言われた。このままでは十歳まで持たないかもしれない、と」

 

 十歳。

 わたしはもう十歳の誕生日を祝った後だ。

 

「……もう過ぎてるよ?」

「ああ。過ぎた」

 

 父がスネイプ先生に目を向けた。そこにあったのは、マルフォイ家の当主が使う目ではなかった。もっと深い何か。感謝と、まだ消えない恐怖が混ざった目だった。

 

「スネイプ先生の薬のおかげだ」

 

 母が静かに口を開いた。

 

「薬が完成するまでの七年間——毎日が綱渡りでした。あなたが朝起きてくるたびに、ああ、今日も大丈夫だった、と」

 毎朝。

 父が毎日わたしの部屋を覗いていたのを知っている。母さまがよく熱がないか額に手を当てていたのを知っている。ドラコが学校から帰るたびに真っ先にわたしの部屋に来たのを知っている。

 あれは全部——生きているか確認するためだったのか。

 

「今後の薬の改良は続ける」

 

 スネイプ先生が言った。

 

「ダンブルドアとも研究を継続する。だが正直に言おう。今の魔法界でお前の症状を完全に治す方法は見つかっていない」

 

 書斎の時計がかちこち、かちこち、と時を刻んでいた。

 

「わたしはあとどのくらい生きられるの?」 

 

 声が小さかった。自分でも聞き取れないくらい。でもスネイプ先生には聞こえていた。

 

「薬の効果が維持できた場合——十年。お前の体が持つ限界が、おそらくあと十年前後だ。ただし薬の改良が進めば延びる。体の成長と共に器が広がれば延びる。逆に暴走が頻発すれば縮む。数字は目安に過ぎない」

 

「最悪の場合――」

 

 そこで先生は一度言葉を切った。

 

「ホグワーツを卒業する前に命を落とすかもしれない」

 息が止まった。

 

 卒業まで。

 あと七年。

 まだ七年もある、ではなく、七年しかないのだと、その瞬間にはっきりわかった。

 

「……卒業まで?」

 

 自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠かった。

「あくまで最悪の見立てだ」とスネイプ先生が言った。

 

「薬の改良が進めば延びる。成長に身体が追いつけば延びる。だが、現時点で保証はできない」

 

 

 わたしは天井を見上げた。書斎の天井は高い。本棚が天井近くまで届いていて、最上段にはまだ読んでいない本がある。

 

「卒業までにホグワーツの図書室の本を全部読めるかな」

 

 三人の大人が固まった。

 

「マイン——」

「図書室の蔵書は数万冊でしょう? 七年間の在学中に全部読むのが目標だったんだけど、卒業後も生きていたら、二周目もいけるかもしれない」

「マイン」

 

 お父様の声が低かった。低くて、怒りとも悲しみともつかない複雑な声だった。

 

「今の話を聞いて、最初に考えることがそれか」

「……うん」

 

 嘘をつけなかった。

 だってそうなのだ。死ぬかもしれないと聞いて最初に思ったのは読書計画だった。一日三冊、年間千冊、十年で一万冊。ホグワーツの蔵書は数万冊。足りない。全然足りない。

 

「先生」

「……何だ」

「薬の改良が成功したら、十年じゃなくなる?」

「可能性はある」

「どのくらい延びる?」

「わからん。研究次第だ」

「じゃあ研究頑張ってください。わたしが図書室の本を全部読み終わるまで」

「お前は今、余命宣告を受けたばかりだが」

「だからこそ、一日も無駄にできないんです」

 

 スネイプ先生が黙った。

 それからほんの一瞬、ほんの一瞬だけ——口の端が動いた。

 

「お前のその図太さが、案外一番の薬かもしれんな」

「褒めてますか」

「呆れている」

 

 母が泣いていた。声を出さずに、笑いながら泣いていた。

 

「この子は本当にこの子ね」

 

 父は何も言えなくなっていた。口を開きかけて、閉じて、また開きかけて、閉じた。マルフォイ家の当主が言葉を失うのは珍しい。

 

「先生、もう一つ質問」

「何だ」

「暴走が増えると寿命が縮むって言いましたよね」

「言った」

「つまり、ダイアゴン横丁で魔力が少し暴走したのは寿命に響いた?」

「多少は」

 

 父が顔を背けた。

 本屋の喧嘩が暴走の引き金だったことを、今改めて突きつけられた形だ。

 

「お父さま」

「……なんだ」

「やっぱり本屋で喧嘩しちゃだめだよ」

「わかっている」

「二度としないでね」

「わかっている!」

「わたしの残り寿命を冊数に換算すると——」

「換算するな!」

 

 スネイプ先生が咳払いをした。明らかに笑いをごまかすための咳だった。

 

「これは注意事項というより、個人的な意見だが」

「はい」

「楽しめ」

 

 わたしは目を瞬いた。

 

「ホグワーツを楽しみなさい。本を読み、友達を作れ。授業を受けろ。若い魔法使いにとって、ホグワーツでの七年間は——」

 

 先生がまた言いよどんだ。スネイプ先生がこんなに言葉に詰まるのは初めて見た。

 

「かけがえのないものだ」

 

 先生の黒い目が、一瞬だけ遠くを見た。ホグワーツ時代の自分を思い出しているのかもしれない。

 

「はい。楽しみます。図書室を中心に」

「図書室以外も楽しめ」

「善処します」

 

 書斎を出た。

 廊下を歩く。自分の部屋はこの先の階段を上がったところだ。足取りは少し重かった。薬の効果が切れかけているのと、もう一つ——さっきの話が、じわじわと胸に染みてきていたのだ。

 卒業まで生きられないかもしれない。

 怖くない、と言えば嘘になる。

 でも——

 廊下の角を曲がったところで、ドラコがいた。

 壁に背を預けて、腕を組んで立っていた。パジャマ姿だった。目が完全に起きていた。

 

「……盗み聞きしてた?」

「していない。通りがかっただけだ」

「パジャマで?」

 

 目が赤い。泣いたな。絶対泣いた。でも言わない。言ったらドラコは怒るし、わたしだって——

 

「聞いたんでしょう」

「何を」

「全部」

 

 ドラコが否定しなかった。一拍の沈黙が、肯定だった。

 

「お兄さま」

「……なんだ」

「卒業まで生きれないかもしれないんだって」

 

 ドラコの拳が白くなるほど握られた。

 

「聞いた」

「怖い?」

「怖くない」

 

 嘘だ。声が震えている。

 

「わたしはね、ちょっとだけ怖い。でもね——」

 

 兄の顔を見上げた。灰色の瞳が、廊下のランプの光で揺れている。

 

「それだけあったら、本をすごくたくさん読める」

 

 ドラコが一瞬、何も言えなくなった。それから——額を押さえた。

 

「お前は……余命を聞いて……読書計画を……」

「もっと長く読めるかもしれないでしょう?」

 

 ドラコの手が止まった。額を押さえたまま、わたしを見た。

 

「……当たり前だ」

 

 声が低く、硬かった。

 

「僕が薬を完成させる。スネイプ先生の薬より良いやつを。お前が図書室の本を全部読み終わるまで——いや、二周目が終わっても、まだ読み続けられるように」

「お兄さま」

「だから——」

 

 声が途切れた。のどが詰まったのだ。

 わたしは手を伸ばして、兄の手を握った。大きくて温かい手だった。

 

「ありがとう」

「まだ何もしてない」

「してるよ。毎日してるよ。わたしが朝起きた時に部屋を覗きに来てくれるでしょう」

 

「……知ってたのか」

「覚えてる限りずっと」

 

 ドラコが天を仰いだ。いつもの仕草だ。でも今日は、天井に向けた顔を隠すためだったかもしれない。

 

「わたし、明日からもっとちゃんと薬を飲むよ。時間通りに。一回も忘れない」

「当たり前だ」

「それから、無理な暴走はしないように気をつける」

「ああ」

「本屋で怒っても、なるべく深呼吸する」

「なるべく、じゃなくて絶対にしろ」

「……八割くらい」

「十割にしろ!」

 

「本が傷つけられたら無理かもしれない」

「そこは譲れないのか」

「譲れない。命に関わっても」

「命に関わるから譲れって言ってるんだ!」

「本が傷つくのも命に関わるよ。わたしの精神的な命に」

「精神的な命って何だ!」

 

 気がついたら、二人とも笑っていた。

 泣いているのか笑っているのかわからない顔だった。たぶん両方だった。

「わたしね、日々を大切に生きようと思う」

「ああ」

 

「毎日、一冊でも多く読む。一ページでも多く読む。読みたい本は後回しにしない。会いたい人には会う。言いたいことは言う。先延ばしにしない。だって——明日も同じように本が読めるかどうか、わからないから」

 

 ドラコがわたしの頭に手を置いた。ぽんと叩くんじゃなくて、そっと、撫でるように。

 ドラコの手が、少しだけ震えていた。

 

「……寝ろ」

「うん」

 

「世界にはホグワーツ以外にも図書室がある。全部読み尽くすまで絶対に死ぬな」

 

 ドラコが廊下を去っていった。

 部屋に戻って、ベッドに座った。

 薬を飲む。苦い。人生は苦い。でも今日は、この苦さの意味がわかった。

 この苦さが、わたしを生かしている。一日分の命の味がする。

 

 日記帳を開いた。

 

『トム、今日お父様とスネイプ先生から話があった。わたしの体のこと。あと十年くらいしか生きられないかもしれないって』

 

 返事が来るまで、いつもより長い間があった。

 

『……詳しく聞いていいか?』

 

『魔力が多すぎて体が耐えられないんだって。でも薬の改良が進めば延びるかもしれないし、確定じゃないよ』

 

『それを聞いて、君はどう思った?』

 

『十年で何冊読めるか計算した』

 

日記帳に文字が出てこない。

 

『トム? フリーズした?』

『いや。予想通りの答えすぎて逆に処理に時間がかかった』

『ひどい』

『君のその一貫性は、ある意味では救いだな。最も不吉な宣告を受けても、本の心配をする人間を僕は他に知らない』

『褒めてる?』

 

『考えている。色々と』

 

 トムの返事がいつもと少し違った。素直じゃないのはいつも通りだけれど、言葉の選び方がぎこちない。何かを計算しているような、でも計算がうまくいっていないような。

 

『トムは心配してくれてるの?』

 

『心配に決まっているじゃないか。僕たち友達だろう?』

 

『ありがとう、トム』

 

『一つ聞いていいか』

『何?』

『薬はちゃんと飲んでいるか?』

 

 さっきも聞かれた台詞だ。スネイプ先生に。お父さまに。ドラコに。そして今、トムに。

 

『飲んでるよ。苦いけど』

『忘れるなよ。君は本に夢中になると全てを忘れるだろう』

『忘れないよ。今日から忘れない。約束する』

『約束か。……いいだろう。僕が毎日確認する。書き込みがあったら、最初に「薬は飲んだか」と聞く。答えるまで本の話はしない』

『えっ それは厳しい』

『命に関わる問題だ。本の話を人質に取る以外に君を従わせる方法がない』

『……トム、わたしの扱い方が上手くなってきたね』

『観察の結果だ』

『ちょっと悔しい』

『悔しがっている場合ではない。薬を飲め。寝ろ。ホグワーツの図書室が待っている。一万冊の一冊目が待っている。それを見に行くために、今日は寝るんだ』

 

 一万冊の一冊目。

 その言葉が、胸にすとんと落ちた。

 

『うん。おやすみ、トム』

『おやすみ、マイン』

 

 日記帳を閉じた。

 

 怖いけど。

 怖いけど、泣いている暇はない。泣いている間に一ページ読める。一ページの向こうに新しい世界がある。新しい世界を知るたびに、生きていることが嬉しくなる。

 だから、生きよう。一日でも長く、一ページでも多く。

 

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