本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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リータ・スキーター視点。


60話 虫かごの中の記者

 

 

 リータ・スキーターは、虫になりたかったわけではない。

 

 羽音のする、踏み潰されれば終わる、窓の隙間から入り込むことしかできない、あんな小さな生き物になど。

 

 なりたかったのは、読まれる記事を書く記者だった。

 

 朝食の席で誰かが新聞を広げる。見出しを見た瞬間に、手が止まる。コーヒーを飲むのも忘れる。隣の席の者に紙面を見せる。誰かが「なんだこれは」と声を上げる。

 

 その瞬間のために、リータは書いてきた。

 

 真実だけでは、人は読まない。

 

 事実だけでは、紙は売れない。

 

 清く正しく退屈な文章など、壁紙と同じだ。そこにあるだけで、誰も見ない。誰も怒らない。誰も傷つかない。誰も買わない。

 

 だから、リータは毒を混ぜた。

 

 ほんの少しの事実に、たっぷりの推測を加える。沈黙に意味を与える。視線に恋を見出す。ため息に陰謀を見つける。子どもの泣き顔に悲劇を、老人の笑顔に欺瞞を、貴族の礼節に腐敗を、英雄の沈黙に裏切りを書く。

 

 それが新聞だった。

 

 少なくとも、リータにとっては。

 

 けれど、日刊予言者新聞の編集部から自動羽ペンの音が消えた日、リータは初めて、自分の書いたものが紙面ではなく虫食い穴だったのだと知った。

 

 朝、自動羽ペンは動いていなかった。

 

 いつもなら地下から響いてくる、紙とインクと魔法の騒々しい音がない。編集部の空気は、病人の寝室のように重かった。

 

 机の上には返送された新聞の山が積まれている。

 

 購読停止通知。

 

 広告契約解除通知。

 

 名誉毀損訴訟の予告。

 

 訂正要求。

 

 謝罪要求。

 

 証拠保全命令。

 

 そのどれもが、羽音よりうるさかった。

 

「……どういうこと?」

 

 リータは、手袋をはめた指で一枚をつまみ上げた。

 

 羊皮紙には赤いインクで大きく書かれていた。

 

 《事実確認ができない新聞に広告を出すことは、当社の信用毀損につながるため》

 

 リータは鼻で笑った。

 

「信用? 広告主が信用を語る時代になったのね」

 

 けれど、誰も笑わなかった。

 

 編集長は椅子に座ったまま顔を上げない。若い記者たちは羽根ペンを握りしめたまま、誰もリータを見ようとしなかった。

 

「売れない記事を書いたのは誰? 私? 違うわ。私の記事は読まれていた。文句を言いながら、みんな読んでいた。朝食の席で、食堂で、談話室で、魔法省の廊下で。そうでしょう?」

 

 若い記者のひとりが、唇を噛んだ。

 

「読まれていたのは、昔の話です」

 

「昔?」

 

「今は、みんな羽ペン通信を読んでいます」

 

 その名前が出た瞬間、部屋の温度が一段下がった。

 テーブルの上には赤インクで注釈を書かれたリータの記事があった。日刊予言者新聞ではない、羽ペン通信の記事だ。

 

 羽ペン通信。

 

 学生の遊び半分の紙切れ。

 

 最初はそうだった。

 

 ホグワーツの子どもたちが、赤インクで噂に注釈をつけ、記事に事実確認を添え、誰が何を言ったかを分けて書く。つまらない。ひどくつまらない。毒がない。踊らない。泣かない。燃えない。

 

 けれど、そのつまらない紙が、日刊予言者新聞の喉を締めた。

 

 リータの記事が出る。

 

 羽ペン通信が、翌日に注釈を出す。

 

 《この発言は確認できない》

 

 《この表現は推測である》

 

 《当事者への取材は行われていない》

 

 《写真の撮影時刻と本文の時系列が一致しない》

 

 《同席者三名の証言と矛盾する》

 

 最初、人々は笑った。

 

 子どもが大人の新聞に赤ペンを入れている、と。

 

 だが、笑いはすぐに変わった。

 

 日刊予言者新聞を読む前に、羽ペン通信の訂正欄を待つ者が増えた。朝刊を開いても、そこに書かれたことを信じるのではなく、「これは明日どう直されるだろう」と考える者が増えた。

 

 新聞は、信じられなくなった瞬間に紙束になる。

 

 燃料としては使える。

 

 包み紙にもなる。

 

 だが、朝食の席で広げる価値は消える。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 リータは言った。

 

「学生のお遊びに、大人が怯えているだけじゃない。訂正? 注釈? 確認? そんなものを待っていたら、事件は腐るわ。読者は生きた記事を求めているのよ」

 

「読者は、嘘を読まされることに飽きたんだ」

 

 別の声がした。

 

 編集長だった。

 

 リータは振り向いた。

 

 編集長は、ひどく老けて見えた。昨日まで自分の記事に大見出しをつけていた男が、今日には罪人のような顔をしている。

 

「嘘?」

 

 リータは、口紅を塗った唇を吊り上げた。

 

「嘘なんて書いていないわ。私は可能性を書いたの。沈黙の裏を読んだの。読者が知りたいことを書いたのよ」

 

「違う。読者が覗きたいものを書いたんだ」

 

「それの何が悪いの?」

 

 編集長は答えなかった。

 

 その沈黙で、リータはすべてを理解した。

 

 彼らは尻尾を切るつもりなのだ。

 

 新聞が売れていたときは、リータの記事を一面に置いた。抗議が来ても、刷った。被害者が泣いても、煽った。広告が増えれば、褒めた。

 

 そして今、新聞が死にかけると、すべてをリータ一人の責任にする。

 

 なんて都合がいい。

 

 なんて新聞社らしい。

 

「私を切れば済むと思っているの?」

 

「もう済まない」

 

 編集長は机の上に一通の封筒を置いた。

 

 魔法省の封蝋が押されていた。

 

「魔法省法務部からだ。君に出頭命令が出ている」

 

「名誉毀損くらいで?」

 

「未登録アニメーガスの疑いだ」

 

 部屋の空気が、凍った。

 

 リータは笑おうとした。

 

 笑うべき場面だった。馬鹿馬鹿しい、と言うべきだった。くだらない嫌がらせだと、紙面に書いてやるべきだった。

 

 けれど、喉が動かなかった。

 

 若い記者たちが、初めてリータを見た。

 

 その目にあったのは恐怖ではない。

 

 軽蔑だった。

 

 それが一番、腹立たしかった。

 

 リータは封筒をつかむと、編集部を出た。

 

 背中に誰の声もかからなかった。

 

 それも腹立たしかった。

 

 階段を下りながら、彼女は頭の中で次の一手を考えていた。

 

 日刊予言者新聞が潰れるなら、別の紙面に書けばいい。

 

 新聞社はひとつではない。

 

 読者は、まだいる。

 

 事件は大きい。日刊予言者新聞の破綻、羽ペン通信の台頭、魔法省による言論弾圧。書きようはいくらでもある。

 

 自分が書けば、記事になる。

 

 自分が書けば、売れる。

 

 リータは煙突飛行粉で移動し、その足で『週刊魔女』の編集部へ向かった。

 

 『週刊魔女』。

 

 恋愛、社交、宝飾、占い、人気魔法使いの素顔、名家の婚約、舞踏会のドレスローブ批評。日刊予言者新聞より軽く、しかし社交界への影響力は馬鹿にできない。

 

 あそこなら分かるはずだ。

 

 綺麗ごとだけでは紙面は作れないことを。

 

 読者は、少し毒のある記事を求めていることを。

 

 受付の魔女は、リータの姿を見るなり顔を強張らせた。

 

「編集長に会わせてちょうだい」

 

「お約束は」

 

「言えばわかるわ。リータ・スキーターよ」

 

 名前を出せば扉は開く。

 

 これまでは、そうだった。

 

 受付の魔女は奥へ消え、しばらくして戻ってきた。

 

「編集長は、本日はお会いできないとのことです」

 

「本日は?」

 

「今後も、です」

 

 リータは目を細めた。

 

「どういう意味?」

 

 受付の魔女は、明らかに言いたくなさそうだった。

 

 だからこそ、リータは聞き逃さなかった。

 

「言いなさい」

 

「週刊魔女では、今後リータ・スキーター氏の記事を掲載する予定はございません」

 

「なぜ?」

 

「社交界で嫌われすぎました」

 

 短い言葉だった。

 

 だから、深く刺さった。

 

 嫌われすぎました。

 

 怒られた、ではない。

 

 訴えられた、でもない。

 

 信用できない、ですらない。

 

 嫌われた。

 

 週刊魔女の読者は社交界の魔女たちだ。貴族夫人、商家の娘、婚約前の令嬢、婚約後の令嬢、結婚市場を眺める母親たち。噂を好み、恋愛記事を好み、他人の失敗を少しだけ楽しみ、自分の失敗は絶対に載せられたくない人々。

 

 その彼女たちが、リータを嫌った。

 

 読んでいたくせに。

 

 噂していたくせに。

 

 リータの記事を暖炉の前で広げ、紅茶を飲みながら笑っていたくせに。

 

「私の記事は売れるわ」

 

「以前は」

 

「今でも売れる」

 

「売れても、載せられません」

 

「雑誌なのに?」

 

「雑誌だからです」

 

 受付の魔女は、ほんの少しだけ声を低くした。

 

「私たちは、読者に嫌われたくありません」

 

 リータは何か言おうとした。

 

 しかし、その瞬間、記憶が勝手によみがえった。

 

 ホグワーツ。

 

 レイブンクロー塔の青いカーテン。高い窓。夜の図書室。羊皮紙。インク瓶。羽根ペン。

 

 彼女は、最初から嘘つきだったわけではない。

 

 レイブンクローに組み分けされた時、リータは誇らしかった。賢さを認められた気がした。観察することが好きだった。人の言葉を覚えるのが得意だった。教師の説明を整理し、友人の主張の矛盾を見つけ、掲示板の小さな告知から学校の動きを読むのが好きだった。

 

 校内新聞に入った。

 

 最初の記事は、魔法史の授業時間変更についてだった。

 

 正確だった。

 

 誰が、いつ、なぜ、どの教室に移動するのか。ビンズ先生が前年度の時間割を読み上げてしまったこと。訂正までに何分かかったか。困った生徒が何人いたか。すべて書いた。

 

 誰も読まなかった。

 

 次の記事は、図書室の貸出規則変更についてだった。

 

 正確だった。

 

 誰も読まなかった。

 

 その次は、寮対抗クィディッチの練習場所割り当てをめぐる不公平についてだった。

 

 正確だった。

 

 少しだけ読まれた。

 

 けれど、反応は薄かった。

 

 その翌週、リータは初めて見出しに一文を足した。

 

 《グリフィンドール優遇か? 練習場割り当てに疑惑》

 

 疑惑。

 

 便利な言葉だった。

 

 誰も嘘とは言えない。

 

 誰も事実とも言い切れない。

 

 けれど、目を引く。

 

 その記事は読まれた。

 

 談話室で回し読みされた。廊下で話題になった。グリフィンドール生が怒り、スリザリン生が笑い、レイブンクロー生が議論し、ハッフルパフ生まで「本当なの?」と聞きに来た。

 

 リータは覚えている。

 

 その時の音を。

 

 紙がめくられる音。

 

 自分の名前が呼ばれる音。

 

 誰かが記事について話す音。

 

 正しい記事を書いた時には、聞こえなかった音。

 

 あの日、彼女は知った。

 

 読まれない正しさは、存在しない。

 

 読まれる疑惑は、世界を動かす。

 

 それからだった。

 

 リータの記事は、少しずつ変わった。

 

 「事実」は「関係者によれば」になった。

 

 「沈黙」は「否定しなかった」になった。

 

 「偶然」は「意味深な一致」になった。

 

 「仲が良い」は「親密な関係」になった。

 

 「泣いていた」は「心を引き裂かれた様子」になった。

 

 教師は眉をひそめた。

 

 友人は距離を取った。

 

 けれど、読者は増えた。

 

 リータは正しさを捨てたのではない。

 

 読まれるために、正しさの形を変えただけだ。

 

 ずっと、そう思っていた。

 

「お引き取りください」

 

 週刊魔女の受付の声で、リータは現在に戻った。

 

 目の前には、閉じられた扉がある。

 

 その向こうに、かつてなら自分を招き入れた編集部がある。

 

 だが、今は開かない。

 

 リータは唇を歪めた。

 

「ずいぶん立派になったのね。読者に嫌われない記事だけを載せるなんて」

 

「少なくとも、読者を敵に回す記事は載せません」

 

「読者は敵じゃないわ。獲物よ」

 

 言ってから、リータは少しだけ黙った。

 

 受付の魔女の顔から、完全に表情が消えた。

 

 その瞬間、リータは悟った。

 

 いま自分は、言ってはいけない本音を言ったのだ。

 

 記者としてではなく、虫としての本音を。

 

 リータは踵を返した。

 

 背後で扉は開かなかった。

 

 だが、まだ終わりではない。

 

 紙面がないなら、紙面を作らせればいい。

 

 編集長がいないなら、編集長の首を縦に振らせるだけの記事を持っていけばいい。

 

 そして、そのための獲物は、魔法省にいた。

 

 ルード・バグマン。

 

 魔法ゲーム・スポーツ部の顔役。派手で、軽薄で、賭け事が好きで、口が滑りやすい男。しかもトライウィザード・トーナメントに関わっている。紙面になる匂いしかしない。

 彼は小鬼と金銭トラブルで揉めていた。

 

 リータは、バグマンを好きではなかった。

 

 だが、利用しやすい男ではあった。

 

 彼の周囲にはいつも、笑い声と噂と、書類にしづらい金の匂いが漂っている。ああいう男は、少しおだてれば話す。少し脅せばもっと話す。

 

 日刊予言者新聞が潰れた今、魔法省の腐敗とトーナメントの裏側を暴けば、週刊魔女も手のひらを返す。

 

 社交界が嫌った?

 

 かまわない。

 

 社交界は、次の醜聞が出れば必ず読む。

 

 リータは魔法省の廊下で、ルード・バグマンの姿を見つけた。

 

 派手なローブ。大きな腹。人懐こい笑み。どこから見ても、いつものバグマンだった。

 

 ただ、歩き方が少し違った。

 

 いつもの彼なら、廊下のあちこちに声をかける。肩を叩く。冗談を言う。相手が困っていても、賭けの話をねじ込む。

 

 その日のバグマンは、誰にも声をかけなかった。

 

 笑顔を浮かべてはいたが、その笑顔は少し遅れて顔に貼りつくようだった。

 

 リータはそれを、疲労だと解釈した。

 

 あるいは、追い詰められた者の硬さだと。

 

 どちらにせよ、記事になる。

 

 リータは角を曲がり、人目のない場所で姿を変えた。

 

 体が縮む。

 

 世界が巨大になる。

 

 手足が細く硬くなり、背に翅が収まる。

 

 虫になること自体に、ためらいはなかった。

 

 ためらうなら、最初から記者などできない。

 

 甲虫になったリータは、壁際を這い、床の隙間を抜け、バグマンの執務室へ忍び込んだ。

 

 部屋には、賭け事のメモ、トーナメント関連の書類、未処理の羊皮紙、飲みかけの紅茶があった。

 

 リータは机の脚を登った。

 

 声が聞こえた。

 

「……余計な羽音が増えたな」

 

 リータは止まった。

 

 バグマンの声だった。

 

 しかし、口調が違った。

 

 あの男は、こんなふうに言わない。

 

 ルード・バグマンなら、「おやおや、また何か飛んでるな!」くらいの軽さで言うはずだ。羽音に苛立つより、冗談にする男だ。

 

 リータは動かなかった。

 

 虫は、動かなければ見つからない。

 

「アレスト・モメンタム」

 

 しまった、魔法を使われた。

 そう思った瞬間、上から透明なグラスが落ちてきた。

 

 かん、と硬い音がして、世界が透明な壁に囲まれた。

 

 リータは反射的に飛ぼうとした。

 

 翅がグラスに当たる。

 

 硬い。

 

 逃げ道がない。

 

「まさか自ら現れるとは驚いた。もう逃げられない、スキーター女史」

 

 バグマンの顔が、巨大な窓の向こうから覗き込んできた。

 

 笑っていた。

 

 だが、その笑みはやはり遅い。

 

 顔の筋肉だけが、命令されたように動いている。

 

 リータはグラスの中で翅を震わせた。

 

 どうして分かった。

 

 その問いを、虫の口では言えなかった。

 

「お前は、よく飛ぶ」

 

 バグマンは言った。

 

「窓の隙間、鍵穴、花瓶の陰、髪飾りの裏。誰も見ていないと思っている場所に入り込む。実に便利な才能だ」

 

 彼はグラスの下に羊皮紙を滑り込ませた。

 

 リータは完全に閉じ込められた。

 

「だが、便利なものほど、勝手に飛ばれると困る」

 

 その言い方に、リータは違和感を覚えた。

 

 バグマンではない。

 

 いや、姿はバグマンだ。声もバグマンだ。魔法省の廊下を堂々と歩き、職員たちも疑っていなかった。

 

 それなのに、何かが違う。

 

 バグマンは軽薄だ。

 

 この男は、軽薄なふりをしている。

 

 バグマンは金に弱い。

 

 この男は、何かに仕えている。

 

 リータの足が、グラスの内側を引っかいた。

 

 きい、と小さな音がした。

 

 男はそれを聞いて、満足そうに目を細めた。

 

「記事を書きたいんだろう?」

 

 リータは動きを止めた。

 

「自分は悪くない。新聞社に利用された。魔法省に弾圧された。羽ペン通信に潰された。そう書きたい。実に分かりやすい筋書きだ」

 

 リータは苛立った。

 

 その筋書きは、彼女が考えていたものだった。

 

「しかし、あの方がお望みなのは、あなたの記事ではない」

 

 空気が、変わった。

 

 リータには、その言葉の意味が分からなかった。

 

 あの方。

 

 魔法省の大臣か。

 

 編集長か。

 

 それとも、社交界の誰かか。

 

 けれど、ルード・バグマンがそんな言い方をするだろうか。

 

 バグマンなら「上がうるさくてね」と笑う。

 「こいつはちょっとまずいんだ」と肩をすくめる。

 「ああ、賭けにできないのが残念だ」と冗談を言う。

 

 あの方がお望みだ、などと、祈るような声では言わない。

 

「余計な混乱は、もう要らないんだよ」

 

 男は続けた。

 

「羽ペン通信は、今のところ都合がいい。事実を書き、注釈をつけ、信用される。信用される紙面は、利用価値がある。だがお前は違う。お前は誰の命令も聞かず、誰の利益も考えず、自分の名前が読まれることだけを望む」

 

 グラスの中で、リータは震えた。

 

 怒りだった。

 

 恐怖ではない。

 

 少なくとも、彼女はそう思いたかった。

 

「私は記者よ」

 

 声にはならなかった。

 

 翅が鳴っただけだった。

 

 男は笑った。

 

「いいや。今のお前は虫だ」

 

 その瞬間、リータは初めて本気で飛び上がった。

 

 グラスにぶつかる。

 

 落ちる。

 

 また飛ぶ。

 

 ぶつかる。

 

 男はその様子を、ひどく静かに見ていた。

 

 バグマンなら、慌てるはずだった。

 

 大声を出すはずだった。

 

 机の上の紅茶をこぼすはずだった。

 

 この男は、こぼさなかった。

 

「未登録アニメーガスを捕獲しました」

 

 男は、呼び鈴を鳴らして言った。

 

 すぐに魔法省の職員が数人、執務室に入ってきた。

 

 男はその時には、もういつものルード・バグマンの顔に戻っていた。

 

「いやあ、びっくりしたよ! まさか私の机の上に、こんな大物記者が飛び込んでくるとはね! いや、大物と言うには少々小さいかな?」

 

 職員たちは笑わなかった。

 

 状況が状況だった。

 

 リータはグラスの中からバグマンを見上げた。

 

 彼は明るく笑っている。

 

 派手で、軽薄で、少し間の抜けた魔法省職員の顔で。

 

 けれど、一瞬だけ。

 

 職員のひとりが証拠保全の呪文を唱え、グラスが宙に浮いたその瞬間だけ、男の目がリータを見た。

 

 そこには、笑いがなかった。

 

 憐れみもない。

 

 嫌悪すらない。

 

 ただ、役目を終えた道具を見る目だった。

 

 リータは理解できなかった。

 

 それでも、ひとつだけ分かった。

 

 自分は、ルード・バグマンに捕まったのではない。

 

 少なくとも、自分の知っているルード・バグマンに捕まったのではない。

 

 

 魔法省の取調室は、日刊予言者新聞の編集部より静かだった。

 

 壁は灰色。机は黒。窓はない。羽音が響きすぎる部屋だと、リータは思った。

 

 彼女は人間の姿に戻され、杖を取り上げられた。

 

 向かいに座った法務官は、分厚い書類をめくっていた。表情の薄い男だった。こういう男は嫌いだ。怒鳴らない。脅さない。記事にしにくい。

 

「リータ・スキーター。あなたには、未登録アニメーガスとしての変身、無許可での私有地侵入、盗聴、未成年者への違法取材、裁判資料に関する不正入手、複数の名誉毀損および精神的損害についての訴えが出ています」

 

「ずいぶん並べたわね。見出しには向かないわ」

 

「見出しを書く場ではありません」

 

「私は記者よ」

 

「現在は違います」

 

 リータは、初めて法務官を正面から見た。

 

 その一言は、罵倒より痛かった。

 

「日刊予言者新聞は?」

 

「本日付で発行停止。清算手続きに入ります」

 

「週刊魔女は?」

 

「あなたの記事の掲載を拒否したと聞いています」

 

 リータは目を細めた。

 

「魔法省は雑誌の編集方針まで把握しているの?」

 

「訴訟関係者からの聴取です」

 

「ああ、そう。みんな急に被害者になるのね」

 

「被害者です」

 

 法務官は淡々と言った。

 

「あなたが記事にした人々は」

 

 机の上に、一枚の羊皮紙が置かれた。

 

 そこには名前が並んでいた。

 

 記事にされた人々。

 

 誤解された人々。

 

 笑いものにされた子どもたち。

 

 事実でない恋愛をでっち上げられた生徒。

 

 政治的意図を捏造された家。

 

 怪物のように書かれた者。

 

 聖人のように祭り上げられた者。

 

 どちらも、その後の人生を記事に引きずられた。

 

 リータはその紙を見た。

 

 見たくなかった。

 

「大げさね」

 

 声が少し掠れた。

 

「新聞に書かれたくらいで、人は死なないわ」

 

「本当にそう思っていますか」

 

 リータは答えなかった。

 

 法務官は、机の上に小さな透明の箱を置いた。

 

 中には、銀色の細い輪が入っていた。

 

 虫の脚にでも嵌めるような、小さな、小さな輪。

 

「あなたは本日から、魔法省登録管理下のアニメーガスとして扱われます。変身は許可制。無断変身は禁止。定期的な確認出頭。変身時には識別輪の装着。報道関係業務への従事は、裁判終了まで禁止」

 

「……私を、飼うつもり?」

 

「管理です」

 

「同じことよ」

 

「いいえ」

 

 法務官は、ようやく少しだけ目を細めた。

 

「飼育される生き物には、少なくとも飼い主の責任があります。あなたには、ご自身の責任を負っていただく」

 

 リータは笑った。

 

 今度は、乾いた音になった。

 

「上手いことを言ったつもり?」

 

「記録に残しますか」

 

「残せば? どうせ誰も読まないでしょう」

 

 言った瞬間、自分の言葉が自分に返ってきた。

 

 誰も読まない。

 

 その恐ろしさを、リータは誰より知っていた。

 

 読まれない文章は、存在しないのと同じだ。

 

 読まれない記者は、いないのと同じだ。

 

 その日、リータ・スキーターは魔法省の監視室で変身させられた。

 

 記録係が羊皮紙に時刻を書き込む。二人の法務官が見ている。逃げられないよう、部屋の換気口には細かい銀網が張られている。

 

 屈辱的だった。

 

 虫になることではない。

 

 虫になるところを、見られることが。

 

 変身した瞬間、世界は巨大になった。

 

 机の木目が溝になり、羊皮紙の端が壁になり、人間の靴が建物のように見える。

 

 リータは小さな甲虫の体で、床の上にいた。

 

 誰にも気づかれず入り込むための姿。

 

 誰より近くで聞くための姿。

 

 誰の秘密にも触れられるはずだった姿。

 

 その脚に、銀の輪が嵌められた。

 

 かちり、と音がした。

 

 小さな音だった。

 

 だが、リータには輪転機が止まる音のように聞こえた。

 

「登録番号、記録」

 

 頭上で声がした。

 

「対象、リータ・スキーター。形態、甲虫。特徴、硬質の翅、触角、眼鏡状の模様。未登録期間、長期。今後、無許可変身を確認した場合、即時拘束」

 

 リータは羽を震わせた。

 

 飛べる。

 

 まだ飛べる。

 

 銀網のない隙間を探せば、どこかへ行ける。魔法省の取調室など、完璧な密室ではない。完璧な密室など存在しない。どんな部屋にも隙間はある。どんな人間にも油断はある。

 

 けれど、脚の銀輪が冷たかった。

 

 その輪には、逃げれば鳴る魔法がかけられている。変身を解いても残る。記事より正確に、彼女の所在を示す。

 

 リータは、初めて理解した。

 

 自分はもう、誰かの秘密を覗く虫ではない。

 

 誰からも見張られる虫になったのだ。

 

 数日後、魔法界には新しい朝刊が届いた。

 

 日刊予言者新聞ではなかった。

 

 紙面の上部には、控えめな題字があった。

 

 《羽ペン通信》

 

 大見出しは煽っていなかった。

 

 写真も泣いていなかった。

 

 記事は、日刊予言者新聞の破産手続きと、違法取材疑惑と、未登録アニメーガス摘発について、順番に、冷静に、退屈なほど丁寧に書いていた。

 

 リータは魔法省の管理室で、それを読まされた。

 

 読まない自由はなかった。

 

 法務官が確認のため、紙面を机に置いたからだ。

 

 記事の最後には、短い注釈があった。

 

 《本紙は、リータ・スキーター氏本人への取材を申請したが、現在、法務上の理由により回答は得られていない。今後、本人の反論が確認でき次第、掲載する》

 

 リータは、その一文を見つめた。

 

 反論。

 

 載せるつもりなのだ。

 

 彼女の言い分を。

 

 彼女の声を。

 

 彼女の、書きたいことを。

 

 ただし、確認したうえで。

 

 注釈をつけたうえで。

 

 事実と意見を分けたうえで。

 

 ひどく、退屈なやり方だった。

 

 ひどく、公平だった。

 

 だからこそ、リータは初めて本気で怒った。

 

 悪意ある沈黙よりも、都合のいい捏造よりも、読者を酔わせる大見出しよりも、その退屈な公平さが、リータ・スキーターの敗北をはっきり示していた。

 

 彼女を怪物にしない。

 

 被害者にもしない。

 

 英雄にも、悪魔にも、虫にも還元しない。

 

 ただ、何をしたのかを書く。

 

 それはリータが一番軽蔑していた新聞だった。

 

 そして、かつてレイブンクローの少女だった頃、彼女が最初に書いていた新聞でもあった。

 

 リータは紙面から目を離し、管理室の窓を見た。

 

 窓の外には、朝の光があった。

 

 飛べそうな空だった。

 

 けれど、銀の輪が脚に触れている。

 

 羽音を立てても、誰も振り向かない。

 

 もう誰も、リータ・スキーターの羽音を記事だとは思わない。

 

 ただの虫の音だと思うだけだった。

 

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