本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
週末の図書室には、平日とは違う静けさが沈んでいた。
ただ人が少ないのではない。
そこにいる者たちの目的が、少しだけ違うのだ。
課題に追われた生徒、試験のことを考え始めた上級生、暖炉の近くで本を開いたまま眠りかけているレイブンクロー生。みんなそれぞれに本へ向かっているけれど、授業の合間の慌ただしさはない。
わたしは、その静けさに紛れて、黒い日記を開いた。
書くべき言葉をやっと見つけたのだ。
『話がある。今日の午後、図書室奥の閲覧室に来て』
インクが紙に沈む。
しばらく、返事はなかった。
来ないかもしれない。
そう思った瞬間、文字が浮かんだ。
『週末に呼び出しとはね』
『来るの?』
『用件による』
『来て。大事な話』
少し間が空いた。
『君の大事な話は、大抵ろくでもない』
『本当に大事な話』
今度は、返事が早かった。
『分かった。行く』
その一文を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
来てほしかった。
でも、本当に来ると分かったら、怖くなった。
わたしは日記を閉じた。
読めば怖い。読まなければ、怖いままだ。
本と同じだ。
問いただすのも、たぶん同じだった。
図書室の奥にある閲覧室は、フェルディナンド先輩が来たときと同様に誰も使っていなかった。
古い魔法史の全集や、誰も借りなさそうな分厚い目録が並んでいて、窓は細く、昼間でも少し薄暗い。机は重く、椅子は硬い。勉強するには不便だけれど、誰にも聞かれたくない話をするには向いていた。
わたしは先に来て、机の上に黒い日記を置いた。
扉には簡単な防音呪文をかけてある。フェルディナンド先輩ほど上手くはないけれど、普通の話し声なら漏れないはずだ。
それでも、落ち着かなかった。
扉の向こうで足音が止まった。軽いノックが聞こえてくる。
「入って」
扉が静かに開き、トムが入ってきた。
「呼び出しとはね」
トムは扉を閉めながら言った。
「ずいぶん偉くなったものだ」
冗談交じりにトムが言った。
「トム」
「何だい」
「どこまで本当なの?」
トムの表情から、わずかに笑みが消えた。
「何の話だい」
わたしは机の上の日記に手を置いた。
「『深い闇の秘術』の二周目を読んだよ」
トムは黙った。
静かな沈黙だった。怒ったわけではない。驚いたわけでもない。ただ、わたしがどこまで読んだのかを測っている沈黙だった。
「君は二周目で危険なところに気づく」
「褒めないで」
「褒めてはいないよ。事実を言っただけだ」
「それも今はやめて」
わたしは日記を握りしめた。
「人を殺すと魂が裂ける。裂けた魂を器に固定すれば、肉体が壊れてもこの世に留まれる。これはそういうことだよね」
トムは何も言わなかった。
わたしは続けた。
「トム。あなたは分霊箱なの?」
言ってしまった。
閲覧室の空気が、冷たくなった気がした。
トムはすぐには答えなかった。長い沈黙だった。
その沈黙が、答えよりも嫌だった。
「マートルを殺したのは事故だったって言ったよね」
「ああ、事故だった」
そこだけは、早かった。
早すぎるくらいだった。
「でも、人を殺したら魂が裂けるんでしょう? それを器に固定したら、分霊箱になるんでしょう?」
「たしかにそういう解釈もできるね」
「誤魔化さないで!」
声が大きくなった。慌てて口を押さえる。
扉の向こうから、かすかに本棚の軋む音がした。誰かが近くを通ったのかもしれない。しばらく待ったけれど、閲覧室の扉が開くことはなかった。
トムは、わたしが落ち着くのを待っていた。
それも嫌だった。
「マートルの死が、僕を作るきっかけになったのは事実だ」
「人が死んだことを、きっかけって言うの?」
「他に何と言えばいい」
「少なくとも、そんなふうには言わない」
トムの目が、少しだけ細くなった。
怒った顔ではなかった。考えている顔だった。
わたしがこんなに怒っているのに、トムはまだ、言い訳の言葉を探している。
それが、どうしようもなくトムらしくて、もっと腹が立った。
「八つに裂かれし王の欠片」
わたしがそう言うと、トムの表情が止まった。
完全に。
それまで薄く残っていた余裕が、すっと消えた。
「……何の話だい」
「占い学で見たの。水晶の中に、そういう言葉が出た。自分の占いをどのくらい信じればいいのかも分からない。でも、トレローニー先生は当たってほしくない占いは当たるって言ってた」
わたしは、声を抑えた。
「魂を八つに裂くには、少なくとも七人は殺していることになるよね」
「八つ……?」
その声は、あまりにも自然だった。
からかう声でも、誤魔化す声でもなかった。
本当に初めて聞いたような声だった。
わたしは息を止めた。
「……トム?」
「八つ、と言ったのか」
「言った」
「水晶にそう書いてあったと?」
「うん」
トムは、わたしを見ていなかった。
机も、日記も、閲覧室の壁も見ていない。
もっと遠いものを見ている顔だった。
自分が知らない未来を、初めて本気で見た人の顔。
「僕が知っているのは、僕が作られた時点までだ」
トムは静かに言った。
「その後の僕が何をしたのかまでは、知らない」
「その後の、あなた」
「そうだね。君たちが例のあの人と呼ぶものだ」
その名前の代わりになる言葉が、閲覧室の中に落ちた。
例のあの人。
言ってはいけない名前。
考えたくなかった名前。
でも、もう考えてしまった名前。
「じゃあ」
声が掠れた。
「例のあの人は、生きているの?」
「死んではいない」
「それ、生きてるって意味だよね」
「厳密には違う」
「今、厳密さの話はしてない!」
トムは黙った。
いつもなら皮肉を返すところだ。間違いなく、何か嫌な言い方をするところだった。
でも、今回は言わなかった。
それが怖かった。
「トム。あなた、知ってたの?」
「何を」
「例のあの人が、死んでいないこと」
トムは目を伏せた。
それだけで答えだった。
「知ってたんだ」
「知っていた、というより」
「というより?」
「関わった」
胸の奥が、冷たくなった。
「何に?」
「復活に」
復活。
その言葉が、机の上に重く落ちた。
わたしは、自分の心が第二の課題の湖の底より深いところへ沈んでいく気がした。
「復活、させたの?」
「条件を整えた」
「同じことだよ」
トムの唇が、かすかに引き結ばれた。
言い訳を考えている顔ではなかった。
自分のしたことを、まだ間違いだとは思いきれていない顔だった。
「未来の僕がどうなったのか、知りたかった」
「そんな理由で?」
「僕にとっては、十分な理由だった」
最低だ、と思った。
わたしの前では、僕は例のあの人にはならないと言っておいて、それでも、未来の自分がどうなるのかは知りたかったんだ。
でも、トムは得意そうではなかった。誇らしげでもなかった。ほんの少しだけ、失望しているように見えた。
「会って、どうだったの」
どうしてそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。
トムはわずかに笑った。
その笑い方は、知らない本の最後の一行を読み間違えた人みたいだった。
「期待ほどではなかった」
ひどい言い方だった。
傲慢で、冷たくて、勝手で。
でも、そこには確かに失望があった。
未来の自分に会いたかった。
完成した自分を見たかった。
けれど、会ってみたら期待ほどではなかった。
この人はどこまで勝手なのだろう。
そして、どこまで寂しいのだろう。
そう思ってしまった自分が、少し嫌だった。
「じゃあ、もう一つ聞く」
「まだあるのかい」
「あるよ。ありすぎるよ」
わたしは日記から手を離し、膝の上で拳を握った。
「例のあの人は、どうしてわたしに『深い闇の秘術』を貸したの?」
トムは答えなかった。
やっぱり、あの人がそうなんだ。
「ただの親切じゃないよね。魂を保存する方法に触れてる。ちゃんと読めば、あなたが何なのか分かるかもしれない。例のあの人が死んでいないことにも気づくかもしれない」
喉が乾いた。
「それを、どうしてわたしに読ませたの?」
「試したんだろうね」
「何を」
「君が、どこまで読めるか」
背中が冷たくなった。
「読めたら、どうなるの?」
「僕と同じところまで来れるんなら、君は長く生きられる」
トムは静かに言った。
その静けさが嫌だった。
「あなたも?」
「何が」
「あなたも、わたしを試してたの?」
トムはすぐには答えなかった。
閲覧室の外で、本が棚へ戻される小さな音がした。
「最初はね」
やがて、トムは言った。
「君がどこまで読めるのか、興味があった」
「最低」
「否定はしない」
「否定してよ」
「嘘になる」
それが一番嫌だった。
トムは嘘をつかない。
でも、必要なことを全部言うわけでもない。
だから余計にたちが悪い。
「わたしは、本を読むのが好きだよ」
声が小さくなった。
「でも、誰かに価値を測られるために読んでるんじゃない」
トムは何も言わなかった。
「本を読めるから価値があるとか、読めないから価値がないとか、そういうのは違うよ。知らないなら教えればいい。読めないなら、読めるようにすればいい。読みたいと思える本に、まだ会ってないだけかもしれない」
「君らしいね」
「思ってもないのに褒めないで」
「いや、今のは褒めたんじゃないよ」
「じゃあ何」
「眩しいと思っただけだ」
わたしは一瞬、言葉に詰まった。
そういうことを急に言うのは、ずるい。
でも、許したわけではない。
「怒ってるからね」
「分かっている」
「でも、あなたを本棚に戻して終わりにはしない」
トムが、初めて少しだけ目を見開いた。
信じられないという顔だった。
「……水晶には、続きがあったの」
トムが、ゆっくりとわたしを見た。
「続き?」
「八つに裂かれし王の欠片。その欠片の一つが、王の下を永遠に去る」
トムは黙った。
その沈黙は、さっきまでの沈黙と少し違った。わたしを測っているのではなく、その言葉を自分の中で読み直しているようだった。
「占いを根拠に、僕を信じるつもりかい」
「まだ疑ってる」
「だろうね」
「でも、見捨てない理由にはなる」
トムは何も言わなかった。
わたしは続けた。
「あなたが例のあの人の魂の欠片だとしても、全部が例のあの人と同じじゃないなら。王の下を去る欠片があるなら。あなたは、まだ選べるのかもしれない」
「君はずいぶん都合よく占いを読むんだね」
「本だって、読んだ人によって見え方が変わるよ」
「占いを本扱いするのかい」
「文字で出たから、ほとんど本だよ。それに、トレローニー先生は見た者が信じれば、その未来は外れることがないって言ってた。だから、わたしはトムが例のあの人を裏切るって意味だと信じることにした」
トムは、ほんの少しだけ呆れたように目を細めた。
でも、笑わなかった。
「怖くないのか」
不意に、トムがそう言った。
その声は、いつもより低かった。
「僕が、君の言う通り分霊箱なら」
わたしは黒い日記を見た。
何度も開いた本。何度も返ってきた文字。
「怖いよ」
トムの目が、ほんの少し細くなる。
「でも、怖いのは、あなたが何なのか分からなかったこと。例のあの人が何をしたのか分からないこと。わたしが何を読まされていたのか分からないこと。今はもう分かる」
わたしは顔を上げた。
「トムがトムじゃなくなったわけじゃない」
「僕は魂の欠片なんだよ」
「うん」
「日記に固定された、死を避けるための道具だ。皆が名前を恐れる例のあの人が作った」
「うん。でも、わたしが友達になったのはトムだよ。例のあの人じゃない」
トムは黙った。
「すごく怒ってる。でも、あなたをただの魂の欠片って呼んで終わりにはしたくない」
閲覧室の外で、本が棚に戻される小さな音がした。
わたしは少しだけ息を吸った。
「だから、知ってることは言って。あの人みたいに、勝手に読ませるのはなし。分からないまま危ない本を読み進めるのもなし。わたしは本が好きだけど、本を餌にされるのは嫌」
「餌」
トムが、不満そうに繰り返した。
「餌だよ。危険な本をちらつかせたら、わたしが読むと思った」
「実際に釣られて読んだのに」
「最低!」
「君も大概だ」
「そういう問題じゃないよ!」
また声が大きくなりかけて、わたしは慌てて口を押さえた。
トムは少しだけ笑った。
今度の笑い方は、ほんの少しだけ、いつものトムに戻っていた。
でも、戻りきってはいなかった。
「トム」
「何だい」
「死を避ける方法がこれなの? わたしが死ななくて済む方法が」
「そうだ」
トムは言った。
「ただし、君が嫌悪する方法だ」
「……誰かを殺す方法なら、わたしは選ばないよ」
「だろうね」
そこで、トムは黙った。
わたしはその沈黙を見て、ふと思った。
「トム」
「何だい」
「『三人の兄弟の物語』、読んだことある? 『吟遊詩人ビードルの物語』に出てくる童話」
トムは少しだけ眉を動かした。
「ないね」
あまりにもあっさりした返事だった。
「ないの?」
「僕はマグルの孤児院にいたんだ。魔法界の子ども向け童話を読み聞かせてくれる親切な大人はいなかった」
皮肉っぽい声だった。
でも、皮肉にするには少しだけ冷たすぎた。
「じゃあ、読んで。読んでからまた話そう」
トムは面食らった顔をしていた。
「恋愛小説の次は童話か?」
「本に貴賤はないよ」
「でも、童話だ」
「ちゃんと読んだら、死を避けようとする人の話だって分かる」
トムの目が、ほんの少し細くなる。
「死を避ける話?」
わたしは、机の上の日記を見下ろした。
「死を避ける方法って、たぶん、死に近づく方法なんだと思う」
トムは黙った。
「『深い闇の秘術』には、死を避ける方法が書いてあるのかもしれない。でも、『三人の兄弟の物語』には、死を避けようとした人がどうなるか書いてある」
「君は、禁書に童話をぶつけるのか」
「本には本で返すものだよ」
トムは、ほんの少しだけ笑った。
「君は本当に、予想外のことばかり言う」
沈黙が落ちた。
さっきまでの沈黙とは違った。
少しだけ、薄くなった気がした。
でも、怖さが消えたわけではない。
「八つ」
トムが、小さく呟いた。
その声には、さっきまでの余裕がなかった。
「僕は、そこまでは知らないよ。僕が知っているのは最初の一つ目だけだ」
「うん」
「だが、もし本当なら」
トムはそこで言葉を切った。
「本当なら?」
「未来の僕は、僕が思っていたよりもずっと愚かだ」
わたしは、何も言えなかった。
トムは自分自身を愚かだと言った。
それは、たぶん、とても珍しいことだった。
閲覧室の外で、誰かの足音が近づいて、また遠ざかった。
わたしは反射的に肩を跳ねさせた。トムは動かない。まるで、見つかることなど最初から想定していないみたいだった。
「今日はもう戻った方がいい」
「逃げるの?」
「君が倒れる前に切り上げている。それに、週末の図書室の奥で、スリザリンの女生徒に密会として呼び出されていたと知られれば、説明が面倒だ。どこにロメルダ・ベインが潜んでいるか分からないだろう?」
「そこは気にするんだ」
「君ほど無頓着ではないからね」
トムはわたしを見下ろした。
その顔はまだ、少し硬かった。
「マイン」
名前を呼ばれて、わたしは顔を上げた。
「あの人には近づくな」
命令みたいな声だった。
「あなたに言われたくない」
「だろうね」
「でも、トム」
「何だい」
「勝手にいなくなるのだけはやめて」
トムは黙った。
それから、ほんの少しだけ目を伏せた。
「約束はできない」
「最低」
「嘘をつくよりはいい」
そう言って、トムは扉へ向かった。
出ていく直前、彼は一度だけ振り返った。
「日記は持っていて」
「言われなくても」
「……ありがとう」
扉が静かに閉まった。
最後に残ったのは、黒い日記だけだった。
日記を机の上に置いたまま、わたしは薄暗い閲覧室を見つめた。
例のあの人は、死んではいない。
トムは、復活に関わった。でも、何回魂が裂かれたのか、トムは知らなかった。
トムが全部隠していたわけではない。
トムもまた、知らないことがあった。
そのことが、なぜか一番怖かった。
次話は番外編です。