本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
ハリー視点です。
ハリー・ポッターは、その夜、夢を見た。
悪夢だった。
夢の中で、ハリーは重いカーテンのかかった部屋にいた。テーブルには磨かれた銀の燭台、暖炉には青白い炎が揺れている。壁には古そうな肖像画が並び、床には高そうな絨毯が敷かれていた。
いかにも闇の帝王が密談をする部屋だった。
そこまではよかった。
問題は、闇の帝王本人が、あまりにもくつろいでいたことだった。
ヴォルデモート卿は、背の高い椅子に深く腰かけ、本を読んでいた。片手に薄い磁器のカップを持っていた。まるで午後のお茶を楽しむ貴族のようだった。
足元には巨大な蛇がいる。
アルドゥスだ、とハリーは夢の中で思った。
秘密の部屋のバジリスク。目を合わせたら死ぬはずの、あの巨大な蛇である。
『ホグワーツはいずれ押さえる必要がある』
ヴォルデモート卿が蛇語で言った。
声は冷たかった。冷たいはずだった。だが、膝元でアルドゥスがゆっくり寝返りを打ったせいで、いまいち恐怖が締まらなかった。
『魔法省ではなく?』
青年も蛇語で言った。顔はよく見えない。
『魔法省は押さえる。新聞も押さえる。だが、それだけでは足りない』
『足りない?』
『法は大人を従わせる。新聞は群衆を動かす。だが、ホグワーツを押さえれば、子どもたちの未来を作れる』
ハリーの背筋に冷たいものが走った。
ホグワーツ。
その言葉だけが、夢の中で妙にはっきり聞こえた。
『教育か』
『教育だ』
ヴォルデモートの声は穏やかだった。
『教師の言葉は命令に聞こえない。試験は選別に見えない。寮の点数は躾に見える。禁書室の鍵は安全管理に見える。子どもはそこで、自分が何者かを覚える』
『君の話は教育じゃない』
青年が言った。
『分類だ』
ヴォルデモートの指が止まった。
『分類は必要だ。力ある者。従う者。使える者。危険な者。早く見極めねばならぬ』
『危険な者、ね』
青年は薄く笑った。
『たとえば、ハリー・ポッターとか?』
ハリーの心臓が跳ねた。
『ハリー・ポッターは殺す』
ヴォルデモートは迷いなく言った。
その言葉は、呪文より冷たかった。
『奴は象徴だ。生きているだけで、愚か者どもに希望を与える。あの傷も、名前も、すべてが邪魔だ。ホグワーツを押さえるなら、まず奴を消す』
ハリーの額の傷が、じくりと痛んだ。
『本当にそれは正しいのか?』
青年の声は軽かった。だが、その奥には刃物のようなものがあった。
ヴォルデモートの赤い目が細くなる。
『何が言いたい』
『君はハリーを殺そうとした。けれど死ななかった。君は消え、あの子は生き残った。しかも、ただ生き残っただけじゃない。一時は触れることができなくなった』
『母親の犠牲だ』
『それはそうだろうね』
青年はあっさり認めた。
『でも、それだけで全部説明できるのかな』
暖炉の火が揺れた。
ハリーは動けなかった。
『ハリーは蛇語を話す。他人で範囲を設定したはずの認識阻害魔法が効かなかった。偶然とは思えない』
傷がまたズキズキと痛んだ。
『小さいのより蛇語が上手いのはたしかだ』
アルドゥスが少し頭を上げて、話した。
『お前までそんなことを言うのか』
ヴォルデモート卿は、その巨大な頭に手を伸ばした。
撫でた。
ハリーは固まった。
闇の帝王が、バジリスクを撫でた。
しかもアルドゥスは、少し気持ちよさそうにしている。
これは悪夢なのか。
それとも、闇の帝王の休日なのか。
『私は前にお前と話して、昔の理想を思い出した』
ヴォルデモート卿は青年を見た。
『昔の理想?』
『知識を集め、選ばれた者がそれを扱う。愚かな者に世界を任せず、理解する者が導く。なに、簡単なことよ。ハリー・ポッターなど敵ではない。いや、敵にならないようにすればいいだけのこと』
ふと、ヴォルデモートと目が合った気がしてハリーは凍りつく。ヴォルデモートが薄っすらと笑みを浮かべていたからだ。
ヴォルデモートは手をゆっくりハリーの方に伸ばしてきた。ハリーは気づかれた、と思った。
そう思った瞬間、扉が開いた。
「お茶のおかわりをお持ちしました!」
甲高い声が響いた。
ドビーだった。
銀の盆を両手で掲げ、真剣そのものの顔で入ってくる。
「ドビーは、お茶が冷めないよう、全力でお仕えいたします!」
ハリーは叫びそうになった。
なぜドビーがここにいる?
ヴォルデモート卿にお茶のおかわりを運ぶドビーは、あまりにも見たくない光景だった。
「砂糖は一つでよろしかったでしょうか!」
「二つだ」
ヴォルデモート卿が答えた。
答えるな。
ハリーは夢の中で叫んだ。
「アルドゥスさまには追加のお肉をお持ちしました!」
『おお、飯の時間か』
アルドゥスが嬉しそうに頭を上げた。身体を起こすと太ったお腹の具合がよく分かる。
もう駄目だった。
悪夢としての体裁が完全に壊れた。
いや、ある意味悪夢なのかもしれなかった。
*
ハリーは布団の中で飛び起きた。
息が荒い。
額に汗をかいている。
傷痕がズキズキする。
ただ、ものすごく嫌なものを見た気分だった。
ヴォルデモート卿の夢を見た。
ハリーを殺すと言っていた。
これは本来なら、すぐに誰かに話すべきことだった。
けれど。
くつろいだ様子の闇の帝王。
ドビー。
アルドゥスのおかわり肉。
ハリーは枕を抱えた。
ロンに話したら、たぶん「お前、疲れてるんだよ」と言う。
ハーマイオニーに話したら、夢、精神接続、闇の魔術、睡眠不足について、ものすごく長い説明が始まる。
ドラコに話したら、顔色を悪くしてから怒る。
マインに話したら、たぶん目を輝かせて言う。
「その部屋、本棚あった?」
一番駄目だった。
ハリーは決めた。
夢は夢だ。
これは誰にも言わない。
少なくとも、ヴォルデモート卿が砂糖二つでお茶を飲んでいたことだけは、絶対に言わない。
今日はホグズミード行きで、チョウと出かける約束をしている。嫌なことはあまり考えたくない。
ホグワーツで一緒に過ごすことはあっても、二人きりで出かけられる機会はめったにない。
ハリーは朝から、何度もローブの袖を直し、はねた髪を少しだけ押さえようとして、何度も失敗した。
ハリーはシリウスにもらった両面鏡を取り出した。
「シリウス、朝からごめん」
「んあ、ハリーか。どうした?」
シリウスが寝起きの顔で目をこすりながら現れた。
ハリーはシリウスと両面鏡を交換し、時折電話のように話すことが増えていた。電話のように声をかければ気軽に話せるところが便利だ。
「はねた髪をどうにかしたいんだけど、シリウス、何かいい方法知らない?」
「それはな、かなり難しい」
「そんなに?」
「少なくとも、闇の魔術より厄介な場合がある」
「絶対に嘘だろ」
「ポッター家の髪を甘く見るな」
シリウスは重々しく言った。
「ジェームズもそうだった。水をつけても駄目。櫛を使っても駄目。整髪剤も駄目。呪文を使っても、最終的に髪が勝つ」
「髪が勝つなよ」
「勝つんだ。あいつの髪は常に勝利していた」
ハリーは鏡の中の自分の髪を見た。そんなところに父親と共通点があったのかと思った。
「嬉しくない遺伝だ」
「いや、いい遺伝だぞ。遠くからでもポッターだと分かる」
「今は分からなくていい」
シリウスはにやりとした。
「今日は何かあるのか?」
「いや、別に。ホグズミードに行くだけだよ」
「ホグズミードに行くのか?」
両面鏡越しにシリウスがそう言った瞬間、ハリーは嫌な予感を覚えた。
シリウスの目が輝いていた。
犬が「散歩」という言葉を聞いた時の目だった。
「ああ、うん」
「俺も行こう」
「え」
「少しだけだ。邪魔はしないさ」
邪魔をする人間は、たいてい最初にそう言う。
ハリーはそう思った。
思ったが、口には出せなかった。
チョウとの約束がある。
けれど、シリウスはずっと閉じ込められていた。アズカバンにいて、逃げて、隠れて、普通の休日なんてほとんどなかった。
ホグズミードに行きたいと言われて、駄目だとは言いにくい。
少しだけなら。
途中で別行動すればいい。
チョウも、たぶん分かってくれる。
たぶん。
ハリーは、その「たぶん」が非常に危険な言葉だと、この時点では気づいていなかった。
待ち合わせ場所にチョウが現れた。チョウは、いつものローブではなかった。
淡い水色のブラウスに、濃紺のカーディガンを羽織っている。襟元には小さな白いリボンが結ばれていて、派手ではないのに、目がそこへ行く。スカートは膝下まである灰色のプリーツで、歩くたびに柔らかく揺れた。
全体としてはきちんとしているのに、制服ほど堅くはない。ホグズミードに出かけるために少しだけおしゃれをした、という感じだった。
髪は下ろしていて、片側だけを銀色のピンで留めている。火の光が当たると、そのピンが小さく光った。
かわいい。今までで一番かわいい。
ハリーは、何か言うべきだと思った。
似合っている、とか。
そのマフラー、いいね、とか。
今日寒いね、とか。
彼女はハリーを見て、柔らかく笑った。
「……その、ローブじゃないんだ」
チョウは一瞬きょとんとして、それから少し笑った。
「うん。今日は休みだから」
ハリーは頷いた。少しの間沈黙が広がる。
「ハリー、遅くなって悪かった」
突然シリウスが現れて、ハリーに微笑みかけた。シリウスは笑うと顔の良さが際立つ。腹立たしいほどにイケメンだった。
「ハリー?」
チョウは困惑したように首を傾げた。そんな姿もかわいかった。
「あ、えっと、チョウ。こっちはシリウス」
「知ってるわ」
チョウは礼儀正しく微笑んだ。
礼儀正しすぎた。
シリウスもにこやかに笑った。
にこやかすぎた。
「君は、チョウか。ハリーから話は聞いている」
「そうですか。私も、ハリーからお話は」
聞いている、とは言わなかった。
ハリーはそこで、かなりまずいかもしれないと思った。
「今日、二人で出かけるんだと思ってた」
チョウが言った。
「その、そうなんだけど」
「そうなの?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
ハリーは自分の返事が最悪だったことを悟った。
遅かった。
シリウスは横で、散歩を断られた犬みたいなしょげた顔をしていた。
「三人で出かけようと思って!」
ハリーは慌てて言い直す。今度はチョウの顔色が少し曇った。
「そうか! あー、まずは三本の箒に行くか?」
シリウスが気を取り直して明るく言った。
「バタービールでも飲もう」
「ハリー、先にハニーデュークスに寄らない?」
チョウも明るく言った。
明るいのに、空気は冷たい。
ハリーには分からなかった。
三本の箒とハニーデュークスの順番で、なぜ人はこんなに冷たい笑顔になれるのか。
「えっと……近い方から?」
「どっちも近いわ」
チョウが言った。
「どちらでもいい」
シリウスが言った。
どちらでもよくない声だった。
ハリーは、ロンならどうするか考えた。
たぶん空気を読まずに「そんなとこよりゾンコの悪戯専門店を見に行こうぜ」と言う。
ハーマイオニーならどうするか考えた。
たぶん最初から予定表を作っている。
ドラコならどうするか考えた。
そもそもこんな状況を作らなそうだ。
誰も参考にならなかった。
「じゃあ……ハニーデュークスに行って、そのあと三本の箒で」
「いいわ」
「構わない」
二人は同時に言った。
全然よくなさそうだった。
ハリーは歩き出した。
右にチョウ。
左にシリウス。
チョウとの楽しいデートになるはずだった。
実際には、ハリーは二人の間で、何かの裁判に連れて行かれる証人のような気分になっていた。
ハニーデュークスに入ると、甘い匂いがした。
棚には色とりどりの菓子が並んでいる。チョウは少しだけ表情を和らげ、綺麗な箱入りの砂糖菓子を手に取った。
「これ、かわいい」
「本当だね」
ハリーはチョウがニコニコしているのを見て、ほっとして言った。
すると、シリウスが横から覗き込んだ。
「ジェームズは昔、こういうのをポケットに詰め込みすぎて溶かした」
「父さんが?」
「ああ。ローブの中が大惨事だった。リーマスが呆れて、俺はもっと詰めれば色が混ざるんじゃないかと思ってもっと詰めた」
「詰めないでください」
チョウが思わず笑った。
空気が少しだけ緩んだ。
ハリーは助かったと思った。
そこへ、店の入口のベルが鳴った。
振り向いたハリーは、見なければよかったと思った。
フェルディナンド・ブラックが立っていた。
なぜいる。
いや、ホグズミードだからいてもいい。いてもいいが、なぜ今なのか。
フェルディナンドはハリーたちを見て、ほんの少し眉を上げた。
「……珍しい組み合わせだな」
「偶然です」
ハリーは即答した。
何が偶然なのか、自分でも分からなかった。
シリウスがフェルディナンドを見た。
フェルディナンドもシリウスを見た。
ブラック家の人間が、菓子屋の中で向かい合った。
背景には蛙チョコレートと百味ビーンズ。
場所に対して、血縁の空気が重すぎる。
「シリウス」
「フェルディナンド」
二人は短く名前を呼び合った。
ハリーはチョウの横で小さくなった。
今日はただ、チョウとホグズミードを歩く日だったはずだ。
それなのに、名付け親が来た。
さらにブラック家の親戚まで増えた。
この場に魔法書研究会のメンバーがいないだけ、まだましなのかもしれない。
いたら間違いなく記事になってしまう。
フェルディナンドはハリーを見た。
「ハリー」
「はい」
「恋人との外出に保護者を同伴させたのか」
「違います」
「では何だ」
ハリーは言葉に詰まった。
チョウがこちらを見る。
シリウスも見る。
フェルディナンドも見る。
ハリーは、人生でかなり情けない答えを口にした。
「……分かりません」
「一番悪い答えだな」
正論だった。
あまりにも正論だった。
ハリーは何も言い返せなかった。
チョウが小さく息を吐いた。
怒られる。
今度こそ怒られる。
ハリーはそう思った。
けれど、チョウはハリーを見上げ、少しだけ頬を赤くした。
「……もしかして」
「うん?」
「家族を私に紹介してくれようとしたの?」
ハリーは固まった。
その発想はなかった。
まったくなかった。
シリウスは名付け親だ。家族のような人だ。フェルディナンドも、広い意味ではシリウスの親戚だ。
つまり、見方によっては家族紹介に見えなくもない。
いや、普通は見えない。
だが、チョウはそう受け取ったらしい。
ハリーは口を開いた。
違う、と言うべきだった。
これは誤解だ。シリウスがついてきて、断れなくて、途中で別行動にすればいいと思っていたら、全部失敗しただけだ。
けれど、チョウは少し嬉しそうだった。
シリウスも、ものすごく嬉しそうだった。
フェルディナンドは、何もかも分かったような顔をしていた。たぶん半分くらい分かっていて、半分くらい呆れている。
ハリーは、今ここで「違う」と言ったら、全員が傷つく気がした。
だから、人生でかなり情けない返事をした。
「……うん。まあ」
ひどい。
自分でもひどいと思った。
だが、チョウは嬉しそうに笑った。
「そういうことなら、先に言ってくれればよかったのに」
「ごめん」
「びっくりしたわ。急に大人の人が一緒だったから」
「うん。本当にごめん」
謝罪だけは本心だった。
シリウスは横で、少し照れたような顔をしていた。
自分がハリーの家族として紹介されたことが、嬉しかったらしい。
その顔を見ると、ハリーはもう何も訂正できなかった。
フェルディナンドは棚から小さなかわいらしい菓子箱を一つ取った。
「初対面の挨拶としては、これくらいが無難だろう」
「え、そんな」
「これでも私はハリーの叔父だ。受け取っておけ」
チョウは驚きながらも受け取った。
「ありがとうございます」
シリウスが小声で言った。
「お前、そういうの慣れてるな」
「慣れたくて慣れたわけではない」
「だろうな」
二人は、なぜか少しだけ同情し合っていた。
ハリーは、事態が収束したのか悪化したのか分からなかった。
ただ、チョウは機嫌を直していた。
シリウスは嬉しそうだった。
フェルディナンドは冷静だった。
つまり、ハリー以外はだいたい落ち着いていた。
その後、四人は三本の箒へ向かった。
チョウはハリーの隣で、さっきよりずっと楽しそうにしていた。
シリウスは、ジェームズの昔話を始めた。半分くらいは面白く、半分くらいはチョウに聞かせていいのか分からない内容だった。
フェルディナンドは、ときどきブラック家の話を補足した。その補足は冷静すぎて、シリウスが嫌そうな顔をした。
ハリーはバタービールを飲みながら思った。
夢のことを話さなくてよかった。
ヴォルデモート卿が優雅にバジリスクとお茶を飲み、砂糖二つと答え、ドビーがアルドゥスに追加の肉を持ってきた話まで加わっていたら、今日の混乱はもう収拾がつかなかった。
チョウが笑っている。
シリウスも、どこか満足そうにしている。
フェルディナンドは、最後にハリーへ静かに言った。
「ハリー」
「はい」
「次からは、予定を分けろ」
「そうします」
ハリーは深くうなずいた。
少なくとも、同じミスだけはしないようにしようと思いながら。