本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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ハリー視点です。



65話 迷路に入る前の警告

 

 ドラコ・マルフォイが、最近よそよそしい。

 

 ハリーはそのことに、思っていた以上に腹を立てていた。

 

 一年の時なら、気にしなかったと思う。

 

 あの頃のドラコは、廊下で会えば嫌味を言い、クィディッチでは挑発し、スリザリンの席からこちらを見てにやにや笑うような相手だった。ハリーだって、ドラコを見るたびに身構えていた。友達どころか、できれば関わりたくない相手だった。

 

 だが、今は違う。

 

 ローゼマイン・マルフォイが入学してきてから、色々なことが変わった。

 

 ナメクジ食らえで洗濯機のようにぐるぐる回された。

 

 秘密の部屋でバジリスクと遭遇した。

 

 シリウス・ブラックが無罪だと分かった。

 

 魔法書研究会ができて、新しい友人が増えた。

 

 思い返すと、ろくでもないことばかりだった。

 

 ろくでもないことしかない、と言ってもいい。

 

 そして、そのろくでもないことの中心に、なぜかドラコはだいたい一緒にいた。

 

 相変わらず嫌味は言う。

 

 相変わらず面倒くさい。

 

 相変わらず、ロンとは会話開始三秒で小競り合いになる。

 

 けれど、クィディッチでは良いライバルだと思っていた。

 

 第二の課題では助けてくれた。スネイプに鰓昆布のことで交渉してくれた。ものすごく嫌そうな顔をしていたし、ハリーに渡す時も「僕はお前を助けたのではなく、ホグワーツの代表選手が馬鹿にされるのを防いだだけだ」と言っていたが、それでも助けてくれた。

 

 少なくとも、友達に近い何かではあると思っていた。

 

 それなのに、最近のドラコは、ハリーと目を合わせない。

 

 魔法書研究会で同じ机についても、地図の話をしても、クラウチの名前が出ても、必要なことだけを言って、すぐに黙る。ハリーが話しかけると、答えはする。だが、その後で必ず視線を逸らす。

 

 まるで、ハリーを見ると、何かまずいことを思い出すみたいに。

 

 それが腹立たしかった。

 

 友達かどうかはさておき、嫌味くらいは言ってほしい。

 

 避けられるくらいなら、いつものように「お前の髪は今日も箒の事故現場だな」と言われる方がまだましだった。

 

「おい、ドラコ」

 

 魔法書研究会の活動後、図書室から出てすぐの廊下で、ハリーはとうとうドラコを呼び止めた。

 

 ドラコは足を止めた。

 

 振り返った顔は、いつもより疲れて見えた。青白い顔、薄く結ばれた唇、少し沈んだ目。普段ならすぐ飛んでくるはずの嫌味もない。

 

 これはもう相当まずい。

 

 ドラコ・マルフォイから嫌味を取ったら、残るのは高価そうなローブと面倒くさい家柄だけだ。

 

「何だ」

 

「最近、僕を避けてるだろ」

 

「自意識過剰だな」

 

「そういうのはいい」

 

 ハリーが言うと、ドラコは一瞬黙った。

 

 いつものドラコなら、ここで鼻で笑う。お前と話すほど暇じゃないとか、勇者の相手は一日一回で十分だとか、髪を整えてから出直せとか、何かしら言ってくる。

 

 だが、何も言わなかった。

 

 その沈黙が、ほとんど答えだった。

 

「何かあるなら言ってよ」

 

 ハリーは一歩近づいた。

 

「それとも、僕が何かした?」

 

 ドラコの顔がわずかに歪んだ。

 

「お前が何かしたわけじゃない」

 

「じゃあ何だよ」

 

「……第三の課題には出るな」

 

 ハリーは眉をひそめた。

 

「炎のゴブレットの契約がある。出ないなんてできない」

 

「分かっている!」

 

 ドラコの声が少し荒くなった。

 

 ハリーはむっとした。

 

「じゃあ、なんでそんなこと言うんだよ」

 

「分かっていても言うことくらいある」

 

「何それ」

 

「お前にはないのか」

 

「あるけど、今それを言われると腹が立つ」

 

「僕も常に腹が立っている」

 

「何に?」

 

「だいたい全部にだ!」

 

 ドラコは言ってから、しまった、という顔をした。

 

 ハリーは少しだけ目を細めた。

 

 何かある。

 

 絶対にある。

 

 廊下には誰もいなかった。夕方の光が窓から差し込み、石の床に長い影を落としている。遠くで誰かの笑い声が聞こえたが、ここだけは妙に静かだった。

 

 ドラコはしばらく黙っていた。

 

 それから、吐き出すように言った。

 

「バーティ・クラウチは、父親の方じゃない。息子だ」

 

「ごめん、どういうこと?」

 

「その顔をするな。僕だって説明したくてたまらないわけじゃない」

 

「説明して」

 

「命令するな」

 

「お願いだから説明して、ドラコ」

 

 ドラコはものすごく嫌そうな顔をした。

 

 だが、その嫌そうな顔は、少しだけいつものドラコに近かった。

 

「いいか、バーティ・クラウチには死喰い人の息子がいる。名前は父親と同じ。公式には死んだことになっているが、僕は見たことがある」

 

「そんなことって……」

 

「ハリー、例のあの人はお前を殺そうとしている」

 

 ハリーは息を止めた。

 

 それは、この前見た夢の通りじゃないか。

 

「どこでそれを──」

 

 言いかけて、ハリーは止まった。

 

 緑の暖炉。

 

 ヴォルデモート。

 

 アルドゥス。

 

 そして、銀の盆を持って現れたドビー。

 

 あの夢が本当なら。

 

 あれが、ただの夢ではなく、どこか実際の場所を見ていたのだとしたら。

 

 ドビーがそこにいたということは。

 

 ハリーの喉が乾いた。

 

「ドラコ」

 

 声が少し掠れた。

 

「もしかして、ヴォルデモートは、君の家にいるの?」

 

 ドラコの表情が凍った。

 

 その顔は、どんな言葉よりも正直だった。

 

「その名前を口に出して言うな。僕は何も言っていない」

 

「でも──」

 

「何も言っていない」

 

 ドラコは低く繰り返した。

 

 ハリーの胸の奥が冷たくなる。

 

 マルフォイ邸でドビーは働いている。

 

 ドラコがヴォルデモートを知っているということは、もしかして。

 

「マインも知ってるの?」

 

 ハリーが聞くと、ドラコは目を逸らした。

 

「知らない。ただの客人だと思っている」

 

「客人」

 

「そうだ」

 

「どんな客人だと思ってるの」

 

「……本好きの客人だと」

 

 ハリーは一瞬、言葉を失った。

 

 あの闇の帝王を、本好きの客人と。

 

 マインならあり得る。

 

 妙にあり得る。

 

 マインの頭の中では、世界はだいたい本棚と読書仲間で分類されているのかもしれない。危険人物も、本を読めば少し安全側に寄ると思っている節がある。いや、それで本当に闇の帝王を本好きの客人扱いしているのだったら笑えない。

 

「だったら、知らせないと」

 

「やめろ」

 

 ドラコの声が鋭くなった。

 

「ハリー、頼む。他のみんなには言わないでほしい」

 

 頼む。

 

 ドラコがそう言った。

 

 命令でもなく、嫌味でもなく。

 

 頼みだった。

 

 ハリーは言葉を失った。

 

 ドラコ・マルフォイが丁寧に頼んでいる。

 

 ホグワーツで最も珍しい魔法生物を見た気分だった。

 

「なんで」

 

「言えば、僕だけでは済まない。家も、母上も、マインも巻き込まれる」

 

「でも、君は僕に言った」

 

「お前が死んだら困る」

 

「困る?」

 

「そうだ」

 

 ドラコはいつものように顎を上げようとして、うまくいかなかった。

 

「お前が死ねば、マインが悲しむ。魔法書研究会の連中も騒ぐ。ウィーズリーはうるさい。グレンジャーは泣きながら怒るに違いない。シリウス・ブラックはたぶん窓から飛び出す。ブラック家の窓が何枚割れるか分からない。フェルディナンド先輩は関係者を全員詰める。父上は面倒ごとに巻き込まれ、頭痛薬と胃痛薬を一気に飲む。つまり迷惑だ」

 

 ハリーは少しだけ目を細めた。

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

「君は?」

 

「僕はお前が死んでも関係ない」

 

「本当に?」

 

「関係ない」

 

 ドラコは即答した。

 

 即答しすぎて、嘘に聞こえた。

 

「君、心配してるよね」

 

「していない」

 

「してる」

 

「していない」

 

「じゃあ、なんで教えたんだ」

 

「危機管理だ」

 

「友達を心配してるんじゃなくて?」

 

「誰が友達だ!」

 

 ドラコは叫びかけて、廊下に声が響いたことに気づき、すぐに口を閉じた。

 

 ハリーは、こんな状況なのに笑いそうになった。

 

 笑う場面ではない。

 

 ヴォルデモートがマルフォイ邸にいるかもしれない。バーティ・クラウチの息子が生きているかもしれない。第三の課題は罠かもしれない。

 

 だが、ドラコ・マルフォイが「友達」という単語にだけ全力で反応しているのが、どうしようもなくおかしかった。

 

「分かったよ」

 

「何がだ」

 

「君が、友達じゃない僕をわざわざ危機管理してくれてるってこと」

 

 ドラコはこめかみを押さえた。

 

「とにかく、他のみんなには言うな」

 

 ハリーは迷った。

 

 ロンに言うべきだ。

 

 ハーマイオニーに言うべきだ。

 

 魔法書研究会に言うべきだ。

 

 ダンブルドアに言うべきだ。

 

 でも、言えば、ドラコだけでは済まないという。

 

「フェルディナンドは知っておくべきだよね? 同じように課題に参加するわけだし」

 

「ああ。でも、他のみんなには言うな」

 

「ロンにも?」

 

「特にウィーズリーには言うな。あいつは悪気なく顔に全部出る」

 

「それは否定できない」

 

「グレンジャーにもだ。彼女は正しいことをしようとする。そして正しいことは、たいてい僕の家にとって致命的だ」

 

「君の家やばいね」

 

「あと、マインには絶対に言うな」

 

「それは……」

 

「言ったら、あいつは本人に確認しに行く」

 

 ハリーは黙った。

 

 マインなら行きかねない。

 

 しかもたぶん、本を持って行く。

 

 最悪だった。

 

「分かった。フェルディナンドだけに言う」

 

「頼む」

 

 また、頼む。

 

 ハリーはうなずいた。

 

 言えないことがある。

 

 でも、言えるぎりぎりのところまで言った。

 

 ハリーには、それが分かった。

 

 

 *

 

 

 フェルディナンドはまだ図書室にいた。

 

 机の上には、炎のゴブレットに関する古い規約書と、羊皮紙が何枚も広げられている。第三の課題前だというのに、相変わらず落ち着いていた。

 

 いや、落ち着いているように見えただけかもしれない。

 

 落ち着いている人間は、普通、羊皮紙の端に「不測の死亡時の契約処理」と書いたりしない。

 

「話があります」

 

 ハリーが言うと、フェルディナンドは顔を上げた。

 

「座れ」

 

 驚いた様子はなかった。

 

 それが、少し怖かった。

 

 ハリーは椅子に座り、しばらく言葉を探した。

 

「第三の課題で、何か起きるかもしれません」

 

「根拠は」

 

 すぐに聞かれた。

 

 フェルディナンドは、感情より先に根拠を聞く。

 

 ハーマイオニーは根拠を聞いた後に感情を添えるが、フェルディナンドは根拠を聞いて、羊皮紙を一枚増やす。

 

「僕がスネイプのところで見た名前は、バーティ・クラウチの息子の可能性が高そうです。死喰い人で、死んだとされている男です。ヴォルデモートは死喰い人を利用して僕を殺そうとしているみたいです」

 

 フェルディナンドの表情は変わらなかった。

 

 ただ、羽ペンを置いた。

 

 その動作だけで、部屋の温度が少し下がった気がした。

 

「誰から聞いた」

 

「それは言えません」

 

「情報源を秘匿する理由は?」

 

「その人と、その人の家族の安全に関わるからです」

 

 フェルディナンドはハリーを見た。

 

 目が静かだった。

 

 何かを察したようにも見えたが、追及はしなかった。

 

「そうか」

 

「驚かないんですか」

 

「驚いている」

 

「全然そう見えません」

 

「顔に出すと、後輩が不安になる」

 

「今の返答で少し不安になりました」

 

「そうか。では忘れろ」

 

「忘れられません」

 

 フェルディナンドは淡々とうなずいた。

 

「お前が言うことを信じる」

 

 ハリーは拳を握った。

 

「それでも、僕は第三の課題に出なきゃいけない」

 

「ああ、そうだ」

 

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 

「死なないための対策を立てる」

 

 フェルディナンドは即答した。

 

 あまりに冷静だった。

 

「私も、優勝杯に限らず、課題中に君が死にそうになったら助ける」

 

 ハリーは顔を上げた。

 

「助けるって」

 

「そのままの意味だ」

 

「でも、あなたも代表選手です」

 

「だから何だ」

 

「競技中なのに」

 

「競技より命が優先される。これは規約違反にはならない」

 

「本当に?」

 

「少なくとも、死体になってから抗議するよりは勝算がある」

 

「言い方」

 

 フェルディナンドの声は淡々としていた。

 

「ハリー、私はもう目の前で誰かが死ぬのを見たくない」

 

 その言葉で、ハリーは黙った。

 

 フェルディナンドは、ハリーの前髪をそっと上げ、額の傷を見るように触れた。乱暴ではなかった。けれど、確かめるような手つきだった。

 

「君がいなくなったら、シリウスがどれだけ悲しむか分かる」

 

「……シリウスは」

 

 ハリーは言いかけて、止まった。

 

 シリウスは、名付け親だ。無罪が証明されてから、彼は息子のように自分を可愛がってくれている。

 

 そのシリウスが、自分が死んだら。

 

 窓から飛び出すというドラコの言葉が、急に笑えなくなった。

 

「家族同然だろう」

 

 フェルディナンドが言った。

 

「絶対に殺させはしない」

 

 その言葉は静かだった。

 

 けれど、冗談ではなかった。

 

 ハリーはしばらく何も言えなかった。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼は生きて戻ってからにしろ」

 

 フェルディナンドは羊皮紙を引き寄せた。

 

「対策を始める」

 

「何をすればいいんですか」

 

「まず、ポリジュース薬対策だ」

 

 フェルディナンドは羽ペンを走らせた。

 

「第三の課題では、誰かが誰かに化けている可能性を前提にする。君に化ける者、私に化ける者、代表選手以外に化ける者。いずれもあり得る」

 

「本人しか知らないことを聞く?」

 

「ああ。だが、単純な合言葉は危険だ。ウィーズリーが聞いたら、三分後には双子に漏れ、十分後には全校生徒が歌にしている可能性がある」

 

「ありそうで嫌です」

 

「質問形式にする。答えが一つではなく、本人の反応まで含めて確認する」

 

「たとえば?」

 

 フェルディナンドは少し考えた。

 

「シリウスが初めてグーテンベルクとしてマインに洗われた時、失ったものは?」

 

「尊厳?」

 

「正解だが、広すぎる」

 

「広すぎるんですか」

 

「ブラック家は尊厳を失う機会が多い」

 

「それもそうですね」

 

 フェルディナンドは淡々と書き続けた。

 

「次。マインが舞踏会に持ち込もうとして、ドラコが没収したものは?」

 

「本」

 

「それでは弱い。マインは常に本を持ち込もうとする。みんな知っていることだ」

 

「確かに」

 

「では、君と私だけの質問も作る」

 

「僕たちだけの?」

 

「課題中に私が私であることを証明し、君が君であることを証明するためだ」

 

 ハリーは少しだけ緊張した。

 

「何にします?」

 

 フェルディナンドは真面目な顔で言った。

 

「君が助けを求める前に、まず何をするか」

 

「立ち止まる」

 

「その次は」

 

「相手が本物か確認する」

 

「その次は」

 

「……無茶をしない?」

 

「最後だけ信用できない」

 

「そこは信じてください」

 

「努力する」

 

 努力する、という返答が一番信用できなかった。

 

 フェルディナンドはさらに書く。

 

「次に、助けを求める声への対応」

 

 ハリーは顔を上げた。

 

「第二の課題で他の人質も助けようとした君のことだ。課題中、誰かが助けを求めても、即座に近づくな。それが他の選手であってもだ」

 

「でも、本当に助けが必要だったら」

 

「敵は君が助けると知っている」

 

 フェルディナンドの声は冷たいくらいだった。

 

「君はそこを突かれる。誰かの悲鳴、友人の声、シリウスの声、マインの声、グレンジャーやウィーズリーの声。何が聞こえても、まず止まれ」

 

 ハリーは拳を握った。

 

「そんなの、できるか分かりません」

 

「できなければ死ぬかもしれない」

 

 ハリーは何も言えなかった。

 

「そして、君が死ねば、君だけで終わらない」

 

 フェルディナンドは続けた。

 

「シリウスは崩れる。ブラック家は混乱する。マインは倒れて死にかける。ドラコは絶対に『僕は関係ない』と言いながら三日寝込む。ウィーズリーは怒鳴る。グレンジャーは泣きながら全員を論破する。ついでにスネイプ教授がご機嫌になるかもしれないが、それはそれで最悪だ」

 

 言っていることはほとんどドラコが言っていた内容と似ていたが、最後だけおかしかった。

 

「最後も僕の責任なんですか」

 

「そうだ」

 

「ひどい」

 

「だから、できるようにしなさい」

 

 厳しい言い方だった。

 

 でも、そこに突き放す冷たさはなかった。

 

 むしろ、絶対に生かすという前提で話しているように聞こえた。

 

「あなたもです」

 

 ハリーは言った。

 

 フェルディナンドが顔を上げる。

 

「死なないでください」

 

「善処する」

 

 ハリーたちは準備を進めた。

 

 競技に勝つための準備ではない。

 

 生きて戻るための準備だった。

 

 

 

 *

 

 

 

 第三の課題について知らされるため、代表選手たちはクィディッチ競技場に集められた。

 

 ハリーは競技場に足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まった。

 

 いつもの競技場ではなかった。

 

 芝生の上に、見慣れない濃い緑の壁がいくつも伸びている。まだ完成してはいないようだったが、それでも、いくつもの生け垣が曲がりくねって立ち上がり、競技場の中央を少しずつ飲み込んでいた。

 

「迷路だ」

 

 クラムが短く言った。

 

「その通り!」

 

 バグマンが両手を広げて、明るく言った。

 

 その声はいつも通り大きかったが、ハリーには少しだけ無理をしているようにも聞こえた。アズカバンの集団脱獄以来、学校中がざわついている。誰もが平気なふりをしていたが、平気な者などいないはずだった。

 

「第三の課題は、この競技場に作られる迷路で行われる。代表選手諸君は、得点順に時間差で迷路へ入る。中央に置かれた優勝杯に最初に触れた者が、トライウィザード・トーナメントの勝者だ」

 

 優勝杯。

 

 いよいよだ。

 

 ハリーは無意識に拳を握った。

 

「中には障害物が配置される」

 

 バグマンは説明を続けた。

 

「魔法生物、呪文、謎かけ、そのほか各校の先生方が用意した試練だ。もちろん、命に関わる危険がないよう、運営側で管理する」

 

 その言葉に、トム・ジェドゥソールが薄く笑った。

 

「命に関わる危険がないトライウィザード・トーナメントとは、随分と斬新ですね。もはや別競技では?」

 

 バグマンの笑顔が一瞬固まった。

 

「はは、もちろん、安全対策は万全にするという意味だよ」

 

「安全対策が万全なはずの大会で、過去に死人が出ているのは、実に魔法界らしいですね」

 

「ははは!」

 

 バグマンは笑った。

 

 笑うしかなかった。

 

 フェルディナンドは迷路を見ていた。

 

 生け垣の高さ。通路の幅。観客席からの死角。入口の数。たぶん、そういうものを数えている。

 

「視界が悪い」

 

 彼は短く言った。

 

「代表選手同士の誤認が起きやすい」

 

「さすがにそんなこと」

 

 ハリーは小さく言った。

 

「重要だ」

 

 フェルディナンドはハリーを見ずに答えた。

 

「迷路では、敵より先に味方を見誤る」

 

 嫌な言い方だった。

 

 でも、否定できなかった。

 

 トムが生け垣の葉を一枚指先で摘まむように見ている。

 

「燃やせば早いのでは?」

 

「だめです」

 

 バグマンが即答した。

 

「まだ何も言っていませんよ」

 

「言いましたよね、今!」

 

 クラムがぼそりと言った。

 

「燃やすのは、減点か?」

 

「減点どころではないよ!」

 

 バグマンの額に汗が浮かんだ。

 

 代表選手たちが強すぎると、説明係も大変らしい。

 

 バグマンの説明が終わると、代表選手たちはそれぞれ競技場を見回した。

 

 クラムは通路の曲がり方を確認し、トムは生け垣をどの程度までなら合法的に無力化できるか考えている顔だった。フェルディナンドは、すでに何かを考え始めている顔だった。

 

 ハリーも戻ろうとした。

 

 その時、バグマンに声をかけられた。

 

「ハリー、少しいいかい?」

 

「はい?」

 

「いやあ、君の箒さばきのことを思い出してね。第一の課題の時も見事だった。あの時の旋回は、シーカーらしい判断だったよ」

 

 クィディッチの話だった。

 

 ハリーは少しだけ気が緩んだ。

 

 最近は、闇の帝王、クラウチ、ポリジュース薬、炎のゴブレットの契約、死なないための対策、そんな話ばかりだった。

 

 クィディッチの話は、久しぶりに普通の話に思えた。

 

「ありがとうございます」

 

「君はプロになろうと考えたことはあるかい?」

 

「プロ?」

 

「もちろん、今すぐという話じゃない。だが、君には反応の速さがある。国際試合でも通用するかもしれない」

 

 ハリーは少し困った。

 

 プロのクィディッチ選手。

 

 考えたことがないわけではない。けれど、今の自分の未来は、そんな明るいものとして想像しにくかった。

 

「今は、第三の課題で精一杯です」

 

「それもそうだ!」

 

 バグマンは笑った。

 

「だが、若者は未来を考えるべきだよ。優勝杯の先にも人生はある。私なら紹介できる」

 

 ハリーは、その言葉に少しだけ胸が詰まった。

 

 優勝杯の先。

 

 戻ってこられたら、の話だ。

 

 その時だった。

 

 競技場の端、禁じられた森へ続く方から、何かがふらりと現れた。

 

 最初は、ただの影に見えた。

 

 だが、近づくにつれて、それが人間だと分かった。

 

 ボロボロのローブ。泥にまみれた靴。乱れた髪。片手は胸元をつかみ、もう片方の手は宙を探るように揺れている。

 

 ハリーは息を呑んだ。

 

「クラウチさん?」

 

 そこにいたのは、バーティ・クラウチだった。

 

 だが、ハリーが知っている魔法省高官の姿ではなかった。きちんと整えられた服も、冷たいほど正確な口調もない。目は落ちくぼみ、顔は土気色で、唇はぶつぶつと何かを呟いている。

 

「クラウチさん!」

 

 バグマンが駆け寄った。

 

 ハリーも反射的に後を追った。

 

 クラウチは二人を見ているようで、見ていなかった。

 

「……会議……遅れる……議事録……息子……いや、仕事を……命令は……規則……規則が……」

 

 言葉がばらばらだった。

 

 まるで、いくつもの記憶が壊れた棚から落ちてきているみたいだった。

 

 しかもその棚が、魔法省の書類棚なので、落ちてくる単語がいちいち堅い。

 

「クラウチさん、しっかりしてください」

 

 バグマンが肩を支えようとする。

 

 クラウチはびくりと震えた。

 

「触るな! 私は……私は命令を……いや、ダンブルドア……ダンブルドアは……稟議を……いや違う、時間が……」

 

 その瞬間、クラウチの目が急に焦点を結んだ。

 

 ハリーを見た。

 

 今度は、確かに見ていた。

 

「ダンブルドア」

 

 クラウチは掠れた声で言った。

 

「ダンブルドアのところに連れて行ってくれ」

 

 ハリーの背筋が冷えた。

 

 さっきまでの壊れたような声とは違った。今のクラウチは、ほんの一瞬だけ正気に戻っているように見えた。

 

「何があったんですか?」

 

 ハリーが聞くと、クラウチの目が揺れた。

 

「時間がない。彼に……彼に伝えなければ……」

 

「誰に?」

 

「ダンブルドアだ!」

 

 クラウチは突然、ハリーのローブをつかんだ。

 

 指が異様に冷たかった。

 

「連れて行け。今すぐ。私は……私は、長くは……」

 

 その言葉の途中で、また目の焦点が外れかけた。

 

 バグマンが慌てて言った。

 

「ハリー、君がダンブルドアを連れてきた方が早いかもしれない。私はここでクラウチさんを見ている」

 

「でも──」

 

「急いでくれ。彼をこの状態で城まで連れて行くのは難しい」

 

 ハリーは迷った。

 

 フェルディナンドの声が頭をよぎる。

 

 助けを求める声に、即座に近づくな。

 

 まず止まれ。

 

 見る。

 

 確認する。

 

 でも、今はバグマンがいる。

 

 クラウチは明らかに異常だった。

 

 しかも、ダンブルドアに会わせろと言っている。

 

 もし本当に重要なことを知っているなら。

 

 もし遅れたら。

 

「分かりました」

 

 ハリーは走り出した。

 

 競技場を抜け、城へ向かう。息が上がる。額の傷は痛まない。だから安全、というわけではない。もうそんな単純なものではないことを、ハリーは知っていた。

 

 廊下を駆け抜け、階段を上がり、校長室へ向かう。

 

 ガーゴイルの前で、ハリーは息を切らして立ち止まった。

 

「レモンキャンデー」

 

 何も起きなかった。

 

 ハリーは焦った。

 

「ええと、砂糖羽ペン。蜂蜜キャンディ。かぼちゃパイ。糖蜜タルト。蛙チョコレート。百味ビーンズ」

 

 ガーゴイルは動かない。

 

「こんな時に合言葉を変えるなよ! 僕は今、本当に急いでいるんだ。絶対何か甘いものだろ! それとも、ダンブルドアが急に健康志向になったのか?!」

 

 ハリーは思わず叫んだ。

 

 その時、背後から穏やかな声がした。

 

「なかなか切実じゃな、ハリー」

 

 ハリーは振り返った。

 

 ダンブルドアが廊下の向こうから歩いてきていた。銀色の髭が揺れ、青い目がハリーをまっすぐ見ている。

 

「先生!」

 

「わしはまだ甘党じゃよ。それで、何があった?」

 

「クラウチさんです。競技場の近くに。ボロボロで、正気じゃないみたいで。でも急に、先生のところに連れて行けって」

 

 ダンブルドアの表情が変わった。

 

 穏やかさが消えたわけではない。だが、その奥の鋭さが急に見えた。

 

「誰が一緒にいる」

 

「バグマンさんです。僕が先生を呼びに行く間、見ているって言ってました」

 

「急ごう」

 

 ダンブルドアはそう言うと、信じられないほど速く歩き出した。

 

 ハリーはほとんど走るようについていった。

 

 競技場へ戻るまでの時間が、妙に長く感じられた。

 

 戻ったら、クラウチが何かを話す。

 

 第三の課題の前に、何かが分かる。

 

 そう思っていた。

 

 だが、競技場の端に戻った時、そこには誰もいなかった。

 

 バグマンもいない。

 

 クラウチもいない。

 

 風が生け垣を揺らしているだけだった。

 

「……ここです」

 

 ハリーは息を切らしながら言った。

 

「ここに、二人ともいました」

 

 ダンブルドアはすぐには答えなかった。

 

 地面を見た。草の乱れ、泥の跡、生け垣の影。何かを探すように杖を軽く動かす。

 

 ハリーの胸が嫌な音を立てた。

 

「僕、置いて行くべきじゃなかった」

 

 思わず言った。

 

 ダンブルドアはハリーを見た。

 

「君は助けを呼びに行ったのじゃ、ハリー」

 

「でも、いなくなった」

 

「そうじゃな」

 

 ダンブルドアの声は静かだった。

 

 ハリーは、迷路になりかけた競技場を見た。

 

 優勝杯。

 

 第三の課題。

 

 クラウチ。

 

 ポリジュース薬。

 

 ドラコの警告。

 

 闇の帝王。

 

 全部が、また一つにつながった気がした。

 

 そして、その中心に、自分がいる。

 

 ハリーは寒気を覚えた。

 

 ディメンターが近くにいるわけでもないのに、競技場の空気は急に冷たくなった。

 





地味にハリーのフェルディナンドの呼び方がフェルディナンド呼びに変わっています。ハリーの中では親戚枠に格上げされました。
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