本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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66話 優勝杯を手にしたのは

 

 バグマンとクラウチが、同時に消えた。

 

 普通なら大事件である。

 

 しかしホグワーツでは、大事件が年中行事みたいな顔をして廊下を歩いている。怪物が出る。脱獄囚が出る。秘密の部屋が開く。だんだん感覚がおかしくなる。

 

 去年までなら「えっ、また怪物?」だったのに、今年は「今度は主催者が消えたのか」くらいの空気である。

 

 慣れてはいけない。

 

 人間、慣れてはいけないものがある。脱獄囚と失踪事件と、命に関わる魔法契約は、その代表格だと思う。

 

 ダンブルドア校長先生の見立てでは、バグマンはかなり怪しいらしい。

 バグマンこそが、死喰い人が化けた姿だったのではないかというのだ。

 

 たしかに怪しい。いつも笑っている人は、笑顔でだいたいのことをごまかせる。笑顔とは便利な表紙だ。中身が禁書でも、表紙が明るいと一瞬だまされる。

 

 アズカバンから脱獄囚が出ている。運営側は二人も行方不明になった。

 

 普通なら、第三の課題は中止である。

 

 けれど、炎のゴブレットの契約がそれを許さなかった。

 

 代表選手は競技から降りられない。主催者側も、簡単には中止できない。無理に止めた場合、契約がどう反動するのか分からないらしい。

 

 契約とは本当に厄介だ。

 

 わたしは本が好きだ。文字も好きだ。長い文章も好きだ。けれど、命に関わる契約書だけは別である。あれは読書ではない。罠探しだ。

 

 魔法書研究会では、ハリーがダンブルドア校長と憂いの篩という記憶を見る魔法道具で見た内容を共有してくれた。

 バーティ・クラウチに息子がいて、同じ名前だということ。カルカロフが味方を大量に売った死喰い人として裁判にいたということ。

 

 内容が重い。

 

 重すぎた。

 

「つまりカルカロフって、元死喰い人なわけ?」

 

 ロメルダが羽ペンをくるくる回しながら言った。

 

「校長なのに? 肩書きが闇鍋すぎじゃん」

 

「闇鍋というより、鍋そのものが闇だな」

 

 フェルディナンド先輩が淡々と言った。

 

「フェル先、そういうこと言うと紙面に載せたくなるからやめて」

 

「載せるな」

 

「注釈ならセーフ?」

 

「アウトだ」

 

 フェルディナンド先輩は即答した。

 

 魔法書研究会の会議は、基本的に議論と脱線と注釈掲載未遂でできている。

 

 わたしは羊皮紙に名前を書いた。

 

 ホグワーツ。ダンブルドア。

 

 ボーバトン。マダム・マクシーム。

 

 ダームストラング。カルカロフ。

 

 その横に、主催者側。

 

 バグマン。

 

 クラウチ。

 

 クラウチは消えた。

 

 バグマンも消えた。

 

 カルカロフは元死喰い人。

 

 マダム・マクシームは、ボーバトンの生徒を盾にされたら強く動けないのかもしれない。それに、トムはもしかしたら、例のあの人側についているのかもしれない。

 

 残っているのは、ホグワーツだけ。

 

「……契約を動かしている側は、ホグワーツ以外味方じゃないかもしれない」

 

 そう言うと、部屋の空気が少し冷えた。

 

 ハーマイオニーが唇を結ぶ。

 

「つまり、犯人側が契約の逃げ道を潰している可能性がある、ということね」

 

「うん」

 

 わたしは羊皮紙を見下ろした。

 

「マッチポンプだ」

 

「マッチポンプ?」

 

 ハリーが聞き返した。

 

「自分で火をつけて、自分で消火するふりをすること。今回の場合、消火する気があるかは怪しいけど」

 

 ロメルダが顔をしかめる。

 

「つまり、燃やし逃げ?」

 

「だいたい合ってる」

 

「最悪じゃん」

 

 そんな不穏の大盛りみたいな状況でも、期末試験はやってきた。

 

 期末試験は本当にすごい。

 

 脱獄囚が出ても、主催者が消えても、元死喰い人が校長席に座っていても、試験だけは予定通りやってくる。

 

 闇の魔術に対する防衛術の試験にはボガードが出た。

 

 わたしの前に現れたのは、黒い影でも、死体でも、血まみれの誰かでもなかった。

 

 本だった。

 

 古そうで、重そうで、明らかに貴重そうな革表紙の本。

 

 その表紙に、虫がいた。

 

 一匹ではない。

 

 たくさんいた。

 

「ぎゃああああああああ!」

 

 わたしは叫んだ。

 

 ムーディ先生が後ろで何か言っていた気がする。たぶん「落ち着け」だったと思う。

 

 無理である。

 

 本に虫。

 

 これはもう闇の魔術ではない。闇の読書妨害術だ。闇の魔術に対する防衛術の試験で、闇の読書妨害術を出してくるなんて、出題者はわたしの弱点を理解しすぎている。

 

「リディクラス!」

 

 杖を振ると、虫たちは、ぽん、と音を立てて花になった。

 

 白い花。

 

 青い花。

 

 黄色い花。

 

 花びらはふわりと舞い、本の上でぺたりと平たくなった。

 

 栞になった。

 

 わたしは本を抱きしめた。

 

「よかった……本は無事……」

 

「マルフォイ。ボガードへの対処としては見事だが、抱きしめる必要はあったか?」

 

「あります」

 

 即答した。

 

 本が無事なら抱きしめる。

 

 これは防衛術以前の問題だ。人としての礼儀である。

 

 次は吸血鬼に関する問題だった。

 

 吸血鬼の習性。弱点。遭遇時の対応。

 

 わたしはそれなりに答えた。

 

 途中で「吸血鬼は夜が長いから読書時間が多そう」「でも日光が苦手なら図書館の窓際席は無理かもしれない」「血を吸うなら紙で指を切った読書家は危険なのでは?」などの疑問が湧いたが、試験中だったので我慢した。

 

 マグル学の試験では、マグル製品を実際に使う実技があった。

 

 ただし、家電ではない。

 

 ホグワーツで家電を使おうとするのは、湖の底で本を乾かそうとするくらい無謀である。魔法が濃すぎて、電気を使うものはまともに動かない。電気スタンドもトースターも、ここではただの置物だ。がんばっても光らないし、パンも焼けない。焼けたら焼けたで、それはそれで別の意味で怖い。

 

 机の上に並んでいたのは、ボールペン、シャープペンシル、ホチキス、缶切り、ファスナー付きのポーチ、折り畳み傘だった。驚くことに、魔法族の中にはファスナー付きのポーチすら使ったことない人がいるらしい。

 

 周囲の生徒たちはざわついている。それをマグル生まれの生徒たちが少し呆れた様子で見守っていた。

 

「この細い杖は何だ?」

 

「インク壺なしで書けるのか?」

 

「この金属の口は噛むのか?」

 

「傘を室内で開くと呪われるのでは?」

 

 呪われない。

 

 たぶん。

 

 少なくとも、傘そのものに呪いはない。室内で開くと不吉という話はあるけれど、それは魔法ではなく迷信だ。魔法界には本当に呪われる物があるので、迷信と本物の呪いの区別はもっと真剣につけた方がいいと思う。

 

 わたしはまずボールペンを取った。純血の子たちはボールペンの芯を出すのに失敗していた。インクを付けて書こうとした生徒もいて、減点になっていた。

 

 紙に線を引く。

 

 書ける。

 

 インク壺なしで文字が書けるというだけで、周囲から「おおっ」と声が上がった。

 

 便利だよね。

 

 分かる。

 

 でも、その感動で羽ペン文化を滅ぼすつもりはない。羽ペンには羽ペンのよさがある。インクで手が汚れるところ以外は。

 

 次にシャープペンシル。ボールペンを覚えた魔法族が次に躓くのがこのシャーペンだ。芯を少しずつ出すのとわざわざ消しゴムを使うというがよく分からないらしい。

 

 芯を出す。

 

 書く。

 

 折れる。

 

 替え芯を出す。

 

 また書く。

 

「折れたのに復活したぞ」

 

「不死鳥か?」

 

「違うよ」

 

 わたしは真顔で言った。

 

「これは不死鳥じゃなくて、替え芯」

 

 説明している自分が、少し面白かった。

 

 次にホチキス。

 

 先生は「ステープラー」と言っていた気がする。けれど、わたしの頭の中では完全にホチキスである。前世の言葉はしぶとい。雑草みたいに生えてくる。

 

 紙を二枚重ねる。

 

 がちゃん。

 

 留まる。

 

 周囲がどよめいた。

 

「魔法なしで紙がくっついた!」

 

「これ、契約書に使ったら危険じゃない?」

 

「それは普通に危険だと思う」

 

 契約書をホチキスで留めるかどうかの問題ではない。契約書の中身を読まないことが危険なのだ。ここは強く主張したい。

 

 缶切りは少し手間取った。

 

 マグル学の先生が期待の目で見ている。やめてほしい。前世の知識という名の反則参考書があるとはいえ、缶切りは地味に難しいのだ。

 

 なんとか開いた。

 

 勝った。

 

 ファスナー付きのポーチは簡単だった。もはやサービス問題だ。これすら分からない魔法族の子はマグル世界に顔を出さない方がいいと思う。

 

 開ける。

 

 閉める。

 

 開ける。

 

 閉める。

 

 ちょっと楽しい。

 

「ミス・マルフォイ、もう十分です」

 

「はい」

 

 名残惜しかった。

 

 折り畳み傘は、広げるところまではできた。

 

 ただし、閉じるのに少し苦戦した。

 

 あれはマグル製品の中でもかなり高度な部類だと思う。誰が最初に、布と骨をあんな小さく畳もうと思ったのか。発想がほとんど魔法使いである。

 

 先生は感心したように言った。

 

「ミス・マルフォイ、ずいぶん慣れていますね」

 

「本で読みました」

 

 嘘ではない。

 

 人生という本で読んだ。

 

 最難関は呪文学だった。

 

 元気の呪文だ。

 

 元気にする呪文なのに、試験前のわたしの元気を根こそぎ奪ってくる。矛盾している。呪文学は、自分の試験内容に責任を持つべきだ。

 

 出力を間違えると、相手が元気になりすぎるのが問題だった。

 

 元気になりすぎるとは何か。

 

 たぶん、廊下を走り回る。机の上で踊る。試験官に向かって校歌を歌う。あるいは、図書館で大声を出す。

 

 最後のものは重罪である。

 

 わたしは水滴を思い浮かべた。

 

 蛇口をひねらない。

 

 滝を作らない。

 

 湖にしない。

 

 大洪水にしない。

 

 一滴。

 

 一滴だけ。

 

「エクスヒラロ!」

 

 相手役の生徒は、ぱちぱちと瞬きをしたあと、にこっと笑った。

 

「なんか、ちょっと気分がいい」

 

 ちょっと。

 

 ちょっとである。

 

 わたしは勝った。

 

 完全勝利である。

 

 筆記試験では世界を救ったくらいの気持ちで答案用紙に名前を書いた。名前を書くのに出力調整はいらない。すばらしい。すべての魔法が筆記試験くらい安全ならいいのに。

 

 期末試験が終わると、学校全体が少し浮ついた。

 

 試験終了後の生徒は、解放された妖精に似ている。自由。軽い。ちょっと騒がしい。たまに危険。

 

 けれど、第三の課題はすぐそこだった。

 

 その日の夕方、わたしは談話室で羽ペン通信を広げた。

 

 紙面には、第三の課題直前の代表選手インタビューが載っていた。

 

 

 *

 

 

 羽ペン通信

 

 第三の課題直前、代表選手一問一答

 

 優勝杯に一番近いのは誰だ? 

 

 トライウィザード・トーナメントも、ついに第三の課題を残すのみとなった。

 第一の課題ではドラゴン。

 第二の課題では湖。

 そして第三の課題では、クィディッチ競技場に作られる巨大迷路。

 代表選手たちは、得点順に迷路へ入り、中央に置かれた優勝杯を目指す。説明だけ聞けば単純である。

 ただし、ここはホグワーツである。

 単純に終わるわけがない。

 本紙では第三の課題を前に、代表選手四名に取材を行った。

 

 フェルディナンド・ブラック(ホグワーツ代表)

 

 ──今までの課題で一番大変だったのは? 

 

「第二の課題の水中だ。視界、呼吸、時間制限、人質の安全確認。どれも地上とは条件が違う。第一の課題のドラゴンは危険ではあったが、危険の形が見えていた。水中は違う。何が起きているかを把握するまでに時間がかかる」

 

 ハーマイオニー注:湖を事故報告書みたいに語らないでください。でも、だいたい正しいです。

 

 ──自分以外で一番警戒している強力なライバルは? 

 

「全員だ。トム・ジェドゥソールは知識と魔法の使い方が読みにくい。ビクトール・クラムは判断が速く、身体能力も高い。ハリー・ポッターは想定外の行動を取る」

 

 パドマ注:ハリーだけ評価項目が「想定外」。事件記事なら、かなり嫌な見出し。

 

 ──優勝杯を取る自信はどれくらいある? 

 

「ある。だが、それより優先すべきこともある」

 

 ロメルダ注:優先すべきことってなになに、恋? 

 編集部注:ロメルダの主観が入ってます。

 

 

 トム・ジェドゥソール(ボーバトン代表)

 

 ──今までの課題で一番大変だったのは? 

 

「第二の課題で、人質が過剰な防御呪文に守られていた時かな。あれは面倒だった。通常の安全対策なら読みようもあるけど、防御そのものが暴走気味で、力任せのくせに妙に頑丈だったから困ったよ」

 

 ロメルダ注:トム様、ブクマちゃんの暴走防御に負けたのちょっと面白い。

 

 ──自分以外で一番警戒している強力なライバルは? 

 

「フェルディナンド・ブラック。彼は勝つためだけに動かない。ああいう相手は厄介だ。勝利条件を一つに絞らない者は、予測しにくい」

 

 アーニー注:勝利条件は一つではない、でも真実はいつも一つだ。

 

 編集部補足:推理漫画の読み過ぎです。

 

 ──優勝杯を取る自信はどれくらいある? 

 

「迷路というからには、優勝杯は一番到達しにくいところに置かれるはず。そこへ行けばいいだけだ」

 

 アストリア:自信を聞いたら、経路の話が返ってきました。怖いです。

 

 ルーナ注:迷路は、迷う人のためだけにあるわけじゃないものね。迷わない人を迷わせるためにもあるの。

 

 

 ヴィクトール・クラム(ダームストラング代表)

 

 ──今までの課題で一番大変だったのは? 

 

「第一の課題。ドラゴンの卵を半壊させてしまった時だ」

 

 ルーナ:卵は、割れる前にも卵だもんね。たとえ中身が叫ぶ謎でも。

 

 ──自分以外で一番警戒している強力なライバルは? 

 

「ポッター。予想と違う動きをするし、箒が上手い」

 

 ロン注:分かる。ハリーは作戦じゃなくて、素で予想外なんだ。

 

 ──優勝杯を取る自信はどれくらいある? 

 

「ある。取るために入る」

 

 パドマ注:短くてコメントとして強い。

 

 

 

 ハリー・ポッター(第四の学校)

 

 ──今までの課題で一番大変だったのは? 

 

「卵の謎を解く時。第一の課題も第二の課題も大変だった。でも、何をすればいいか分からない時間が一番きつかった。金の卵を開けると叫び声みたいな音がして、どうすればいいのか全然分からなくて。結局、助けてもらって何とか分かって良かった」

 

 ローゼマイン注:謎を解く時間が最もきついのは、ある意味大物。課題はなんだかんだうまく行ったってことだからね。

 

 ──自分以外で一番警戒している強力なライバルは? 

 

「フェルディナンド。勝つことだけを考えているわけじゃないのに、勝ちそうだから。クラムはすごく強いし、トムは何を考えているか分からない。でも、フェルディナンドは危ないところを先に見つけて、そこに対策を立てていく感じがする」

 

アーニー注:親戚同士の争いは財産争いに発展する可能性が高い。そういえば、ブラック家の当主争いってまだ続いていたんだったかな?  

 

 編集部注:不適切な注釈があったのでリータり*1ました。

 

 ──優勝杯を取る自信はどれくらいある? 

 

「正直、分からない。勝ちたいとは思っている。でも、それより、生きて戻る。優勝杯を取っても、戻れなかったら意味がないから」

 

 ハーマイオニー:ええ、その順番でお願いします。優勝より先に、生還です。

 

 編集部総括

 

 以上、代表選手四名の一問一答をお届けした。

 フェルディナンド・ブラックは、湖を事故報告書にしながらも冷静に全員を警戒。

 トム・ジェドゥソールは、質問を受けても迷路の構造を考え始める。

 ヴィクトール・クラムは、短い言葉でだいたい全部を終わらせる。

 ハリー・ポッターは、第四の学校代表として今日も本人の意思と周囲の心配を背負っている。

 優勝杯に一番近いのは誰か。

 得点上は、先に迷路へ入る者が有利である。

 実力上は、全員に勝機がある。

 誰が何をやらかしても不思議ではない。

 繰り返すが、ここはホグワーツである。

 巨大迷路がただの巨大迷路で終わる保証は、どこにもない。

 なお本紙編集部は、全代表選手の健闘と生還を祈っている。

 

 

 *

 

 

 最後が不穏だけど、このご時世だと仕方がないのかな。

 

 フェルディナンドは相変わらず隙がない。文章にしても隙がない。

 

 トムは穏やかに見えて、言葉の端に刃物を隠している。

 

 クラムは短い。短いけれど重い。

 

 ハリーは一番普通で、一番心配になる。でも、他の選手からしたら想定外の存在のようだ。

 

 普通の人が異常な競技に放り込まれていると、普通であることがかえって目立つ。

 

「薬の時間だ」

 

 声がした。

 

 顔を上げると、ドラコが立っていた。

 

 薬瓶を持っている。

 

「あ、もうそんな時間?」

 

「第三の課題が始まる前に飲んでおけ」

 

 ドラコは薬瓶をわたしの前に置いた。

 

 わたしは羽ペン通信を畳み、瓶を手に取った。

 

 スネイプ先生の薬である。

 

 スネイプ先生の薬は、苦い。

 

 まずい。

 

 飲む前から舌が身構える。

 

 胃が「またか」とため息をつく。

 

 わたしは蓋を開けた。

 

 匂いが、いつもより薄い気がする。

 

「……今日の薬、匂いが弱いね」

 

「体調のせいだろう」

 

 ドラコが言った。

 

 わたしは瓶の中をのぞいた。

 

「スネイプ先生が、飲みやすさに目覚めたのかな」

 

「ありえない」

 

 即答だった。

 

 そこだけはドラコらしかった。

 

 わたしは少し安心して、薬を飲んだ。

 そして、固まった。

 

 苦くない。

 

 いや、まったく苦くないわけではない。奥の方に、苦味の残骸みたいなものはある。けれど、いつもの舌を踏みにじるような苦さがない。喉に引っかかる臭さもない。

 

 代わりに、妙な甘さがあった。

 

 甘い? 

 

 スネイプ先生の薬が? 

 

 甘い? 

 

 それは、禁書の表紙に「初心者にも安心」と書いてあるくらい信用できない。

 

「お兄さま」

 

 わたしは言った。

 

「これ、苦くない」

 

「飲んだならいい」

 

 ドラコはそう言った。

 

 わたしは瞬きをした。

 

 飲んだならいい? 

 

 ドラコが? 

 

 わたしの薬に関して、用量も、匂いも、瓶のラベルも、服用後の反応も確認せずに? 

 

 いつものドラコなら、まず薬瓶を奪い取る。

 なのに、今日のドラコは何もうろたえなかった。

 

 嫌味も言わなかった。

 そういえば。

 今日のドラコは、一度も嫌味を言っていない。

 

 それはおかしい。

 

 ドラコから嫌味を取ったら、紅茶から茶葉を抜いたようなものだ。

 

「お兄さま、だよね?」

 

 考えようとした。

 けれど、考えがページの端から湿っていく。

 文字がにじむ。

 

 行がずれる。

 手元で、かぼちゃジュースのグラスが倒れた。

 オレンジ色がテーブルの上に広がる。

 

 あ、新聞。

 羽ペン通信が濡れる。

 それは困る。

 

 手を伸ばそうとした。

 指が動かなかった。

 床が近づいてくる。

 

 違う。

 

 わたしが倒れている。

 

 視界の端で、ドラコの靴が見えた。

 そこで、わたしの視界は真っ暗になった。

 

 

 

 *

 

 

 次に目を開けると、白い天井が見えた。

 ホグワーツで白い天井を見るときは、だいたい良くない。

 たいてい医務室で、たいていマダム・ポンフリーがいて、たいていわたしは怒られる。

 

「目が覚めましたか、ミス・マルフォイ」

 

 マダム・ポンフリーの声がした。

 

 わたしは瞬きをした。

 

 頭が重い。

 

 体も重い。

 

 本を読みすぎて寝落ちしたときの重さではない。あれは幸せな重さだ。これは違う。濡れた毛布を内側から着せられているような重さだった。

 

「……第三の課題は?」

 

 声がかすれた。

 

 マダム・ポンフリーの眉間にしわが寄る。

 

「あなたはまず、自分の体の心配をなさい」

 

「してます。でも、第三の課題が気になります」

 

「それは体の心配ではありません」

 

 正論だった。

 

 正論は苦い。スネイプ先生の薬くらい苦い。今日の薬は苦くなかったけれど。

 

 そこで、わたしは思い出した。

 

 苦くなかった薬。

 

 甘かった薬。

 

 苦いはずのものが、苦くなかった。

 

 ぞわ、と背中が冷えた。

 

「先生。わたし、薬を飲んで……」

 

「まだ飲んでないと聞きましたが」

 

 マダム・ポンフリーの声が少し低くなった。

 それだけで、わたしの嫌な予感は大きくなった。

 

「第三の課題は?」

 

「もう始まっています。あなたが行かなくても終わるんだからじっとしてなさい」

 

 わたしは起き上がった。

 

「寝ていなさい!」

 

「無理です!」

 

 無理だった。

 

 体は重い。頭はぼんやりしている。けれど、第三の課題が始まっている。

 

 寝ている場合ではない。

 

「ミス・マルフォイ!」

 

 マダム・ポンフリーの制止を背中に受けながら、わたしは寝台から降りた。

 

 足元がふらついた。

 

 情けない。

 

 でも、倒れなかった。

 

 倒れなかったので勝ちだ。わたしの勝利基準はかなり低い。

 

 医務室を出て、廊下を急ぐ。

 

 走っているつもりだった。

 

 たぶん、他の人から見れば早歩きにもなっていなかったと思う。けれど、わたしとしては全力疾走である。虚弱体質の全力疾走は、健康な人の小走りよりずっと切実なのだ。

 

 競技場に近づくにつれて、歓声が聞こえてきた。

 

 喜んでいる声だった。

 わたしは胸を押さえた。

 

 間に合った? 

 誰かが戻ってきた? 

 

 足をもつれさせながら観客席の方へ出ると、そこには人の波があった。ホグワーツ生も、ボーバトン生も、ダームストラング生も、教師たちも、みんな立ち上がっていた。

 

 視線の先に、トムがいた。

 ボーバトンのローブを揺らしながら、優勝杯を手にしている。

 

 銀色の杯が夕方の光を受けて輝いていた。まるで舞台の中央に置かれた小道具みたいだった。けれど、あれは小道具ではない。三校対抗試合の優勝杯だ。

 

 ボーバトン生たちが歓声をあげている。

 

 誰かが花束を投げた。青い花が宙を舞った。トムの近くにいた生徒がそれを拾って、笑いながら掲げる。

 

 トムは完璧な笑みを浮かべていた。

 

 礼儀正しく、穏やかで、美しい笑み。

 ボーバトン生が彼を取り囲んで祝っている。

 

 誰かが「優勝だ!」と叫んだ。

 

 トムが優勝した。

 

 それ自体は、驚くことではない。トムは強い。頭も回る。外面もいい。たぶん、迷路に本棚があったらもっと早かった。

 

 でも。

 

「ハーマイオニー!」

 

 わたしは近くにいたハーマイオニーを見つけて、声をかけた。

 

 ハーマイオニーが振り返る。

 

「マイン! 起きて大丈夫なの?」

 

「大丈夫じゃないけど、大丈夫。ハリーたちは?」

 

 ハーマイオニーの顔が曇った。

 

「まだ戻ってきていないわ」

 

「フェルディナンド先輩も?」

 

「ええ。フェルディナンド先輩も。ヴィクトールも、まだ」

 

 ロンがそばで落ち着かなさそうに拳を握っていた。

 

「でも、トムが杯を取ったってことは、課題は終わりなんだろ? だったら、すぐ戻ってくるはずだよな?」

 

 そうだ。

 

 そうでなければおかしい。

 

 トムが優勝杯を手にした。なら、迷路の中心にはもう到達された。競技は終わった。残りの代表選手は、救護班なり教師なりに誘導されて戻ってくるはずだ。

 

 戻ってくるはず。

 

 なのに、心臓が嫌な音を立てた。

 

 薬のせいかもしれない。

 

 頭の奥に、まだ甘さが残っている。苦くない薬の甘さ。信用できない甘さ。

 

 そのとき、迷路の入口の方でざわめきが起きた。

 

「クラムだ!」

 

 誰かが叫んだ。

 

 観客席がまた揺れた。

 

 ヴィクトール・クラムが戻ってきた。

 

 ローブは裂けていた。頬には泥がついている。片足をかばうように歩いていて、肩で息をしていた。それでも、彼は自分の足で立っていた。

 

 ダームストラング生たちが低い歓声をあげた。

 

 拍手が起きる。

 

 クラムは片手を上げて、それに短く応えた。

 

 笑わなかった。

 

 いつもの無口なクラムといえばそうなのかもしれない。けれど、それにしても表情が硬かった。負けた悔しさだけではない。もっと別のものを見た顔だった。

 

 彼は一度、トムの持つ優勝杯を見た。

 

 それから、迷路の奥を見た。

 

 目が暗い。

 

 深い水の底を見てきた人みたいだった。

 

「……ヴィクトール、怪我してる」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

 ロンが身を乗り出す。

 

「でも歩いてる。大丈夫そうだ」

 

 大丈夫そう。

 

 その言葉は、ほんの少しだけわたしを安心させた。

 

 クラムは傷だらけだけど、戻ってきた。自分の足で歩いている。なら、ハリーもフェルディナンドも、きっと戻ってくる。

 

 戻ってくるはずだ。

 

 クラムは教師に何かを聞かれて、短く答えていた。こちらまでは聞こえない。

 

 けれど、彼はもう一度だけ迷路を見た。

 

 その目が、気になった。

 

 わたしがクラムに何があったのか聞こうとした、その時だった。

 

 迷路の入口で、また誰かが叫んだ。

 

「ポッターだ!」

 

 観客席が一斉に動いた。

 

 わたしも顔を上げる。

 

 迷路の入口付近に、二つの影があった。

 

 ハリー。

 

 フェルディナンド先輩。

 

 胸の奥から、息が漏れた。

 

 よかった。

 

 戻ってきた。

 

 そう思った瞬間、体の力が少し抜けた。

 

 ハリーもフェルディナンド先輩も戻ってきた。

 

 迷路は怖い。契約はもっと怖い。主催者が消えている三校対抗試合など、料理で言えば鍋に蓋をしたまま爆発音がしている状態である。けれど、戻ってきたなら、まだ大丈夫だ。

 

 周囲から拍手が起きた。

 

「ポッター!」

 

「ブラック!」

 

「惜しかったな!」

 

「でもよくやった!」

 

 観客席が一気に明るくなる。

 

 人間は、安心したい生き物なのだと思う。誰かが戻ってきた。立っている。見える。だから大丈夫。そういうことにしたい。

 

 わたしも、そういうことにしたかった。

 

 トムが優勝杯を持っている。

 

 クラムは傷だらけだけど、自分の足で戻ってきた。

 

 ハリーとフェルディナンド先輩も戻ってきた。

 

 なら、これはもう終わりの場面のはずだった。

 

 優勝者に拍手して、惜しかった代表選手にも拍手して、みんなで大広間に戻って、食事をして、羽ペン通信の次号で「第三の課題、波乱の決着!」みたいな見出しをつける。

 

 ロメルダならたぶん、こう書く。

 

 トム様、優勝杯ゲットでボーバトン沸いた件。なお迷路、普通に怖すぎ。

 

 だめだ。

 

 紙面としては軽すぎる。

 

 でも、今はその軽さにすがりたかった。

 

 ハリーの眼鏡が、夕方の光を反射した。

 

 わたしは、そこでようやく気づいた。

 

 ハリーは、拍手に応えていない。

 

 手を振らない。

 

 笑わない。

 

 誰の声にも反応しない。

 

 ただ、そこに立っている。

 

 いや、立っているというより、立たされているみたいだった。体だけが迷路の外に出てきて、心はまだ中に置き去りにされている。

 

 フェルディナンド先輩は、そのそばにいた。

 

 いた、という言い方は違う。

 

 フェルディナンドは、地面に崩れるように横たわっていた。

 

 最初、観客席の誰もそれを理解していなかった。

 

 わたしも、理解したくなかった。

 

 フェルディナンド先輩は、きっと寝ているだけだと思った。疲れているだけ。怪我をしているだけ。いつものように、少し眉をひそめて、あとで「無駄に騒ぐな」と言うだけ。

 

 そうでないと困る。

 

 だって、フェルディナンド先輩は、いつも先を読んでいる人だ。

 

 危ない場所に行くなら、危ないと知っている。

 

 罠があるなら、罠があると分かっている。

 

 死ぬかもしれないなら、死なないための手を打っている。

 

 そういう人だ。

 

 だから、倒れているなんて変だ。

 

 倒れているなら、起き上がるはずだ。

 

 起き上がらないなら、それは本当に変だ。

 

 拍手が、少しずつ乱れた。

 

 ぱらぱらと遅れていた手の音が、途切れていく。

 

 誰かの笑い声が止まった。

 

 ハリーがフェルディナンド先輩のそばに膝をついて泣きながら抱きついている。

 

 その動きで、観客席の空気が変わった。

 

 拍手はもう、ほとんど聞こえなかった。

 

 ハリーの手が震えていた。

 

 彼は自分の杖を見た。

 

 それから、フェルディナンド先輩を見た。

 

 眼鏡の奥の緑の目が、何かを探しているようだった。答え。許し。訂正。今起きていることが間違いだと示す、たった一行の注釈。

 

 でも、注釈はなかった。

 

 フェルディナンド先輩は動かなかった。

 

 わたしは、一歩踏み出そうとした。

 

 足が動かなかった。

 

 薬のせいだ。

 

 そう思いたかった。

 

 でも、たぶん違う。

 

 怖かった。

 

 フェルディナンド先輩が動かないことが。

 

 ハリーがあんな顔をしていることが。

 

「ハリー……?」

 

 ハーマイオニーの声が震えた。

 

 ロンが何か言おうとして、言葉にならなかった。

 

 先生たちが動き出す。

 

 マダム・ポンフリーの声。

 

 ダンブルドア校長先生の足音。

 

 マクゴナガル先生の鋭い叫び。

 

 それでも、ハリーの声だけが、妙にはっきり聞こえた。

 

「僕が……」

 

 小さな声だった。

 

 でも、その場にいた全員の耳に届いた。

 

「僕が、フェルディナンドを……」

 

 世界が、息を止めた。

 

 ハリーは、もう一度フェルディナンド先輩を見た。

 

 それから、壊れたみたいに言った。

 

「フェルディナンドを、殺してしまった」

 

 

 薬の甘さが、喉の奥に戻ってくる。

 

 吐き気がした。

 

 だめ。

 

 まだ倒れちゃだめ。

 

 フェルディナンド先輩のところに行かないと。

 

 ハリーに聞かないと。

 

 トムに、何を知っているのか問いたださないと。

 

 それなのに、膝から力が抜けた。

 

 視界が傾く。

 

 誰かがわたしの名前を呼んだ。

 

 ドラコの声ではなかった。

 

 そうだ。

 

 ドラコはどこ? 

 

 最後にそう思ったのを最後に、わたしはもう一度、真っ暗な方へ落ちていった。

 

*1
【リータる】曲解した解釈を出すこと。または、訂正級のミスをだすこと。





次回ハリー視点です。
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