本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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ハリー視点。


67話 第三の課題

 

「ポッター」

 

 朝食の途中で、マクゴナガル先生に呼び止められた。

 

 ハリーはフォークを持ったまま顔を上げた。

 

 第三の課題の日に、マクゴナガル先生から声をかけられる。

 

 それだけで、胃の中のトーストが急に石になった気がした。

 

「ポッター、朝食が終わったら、大広間脇の小部屋へ来なさい」

 

「小部屋、ですか?」

 

「代表選手の家族が来ています」

 

 家族。

 

 その言葉を聞いた瞬間、ハリーの頭には、反射的にダーズリー一家の顔が浮かんだ。

 

 バーノンおじさん。

 ペチュニアおばさん。

 ダドリー。

 

 もしあの三人がホグワーツに来ていたら、第三の課題どころではない。バーノンおじさんは大広間で怒鳴り、ペチュニアおばさんは浮いているろうそくを見て卒倒し、ダドリーはたぶんデザートだけ食べて帰る。

 

 いや、きっと双子にカナリアクリームを盛られて鳥になるのがオチだ。

 

 しかし、すぐに別の可能性に思い至って、ハリーは息を止めた。

 

 シリウス? 

 

 シリウスが来たのか? 

 

 胸の奥が、急に熱くなった。

 

 ハリーは朝食をほとんど味わえないまま終えた。ロンが「大丈夫か?」と聞いてきたが、うなずくことしかできなかった。ハーマイオニーは何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局「気をつけて」とだけ言った。

 

 小部屋の扉の前に立ったとき、ハリーは妙に緊張した。

 

 ドラゴンの前に立ったときとは違う。湖に潜る前とも違う。

 

 扉の向こうに、誰かが自分を待っている。

 

 それだけのことが、こんなに怖くて、こんなに嬉しい。

 

 ハリーは扉を開けた。

 

「ハリー!」

 

 最初に聞こえたのは、ウィーズリーおばさんの声だった。

 

 次の瞬間、ハリーは強く抱きしめられていた。

 

「まあ、痩せたんじゃないの? ちゃんと食べているの? まったく、どうして学校というところは子どもを迷路に入れようと思うのかしら!」

 

「母さん、ハリーが息できてないよ」

 

 ビルの声がして、ようやく腕が少し緩んだ。

 

 ハリーは顔を上げた。

 

 ビル・ウィーズリーが笑っていた。長い髪を後ろで束ね、相変わらず銀行員というより、呪いを解くために古代遺跡へ入っていく人に見える。

 

 そして、その横に。

 

「よお、ハリー」

 

 シリウスがいた。

 

 以前より少し顔色がいい。痩せてはいるけれど、目は生き生きしていた。まるで、長い間閉じ込められていた犬が、ようやく外の匂いを吸えたみたいだった。

 

「シリウス!」

 

 ハリーは駆け寄った。

 

 シリウスは笑って、ハリーの肩を抱いた。

 

「今日はちゃんと家族席にいる。犬としてじゃなくてな」

 

「よかった」

 

 本当に、それしか言えなかった。

 

 シリウスがここにいる。

 

 隠れていない。怯えていない。少なくとも今は、堂々とハリーの家族として立っている。

 

 それだけで、第三の課題のことを少しだけ忘れられた。

 

「調子はどうだ?」

 

「緊張してる」

 

「それでいい。緊張しないやつは、だいたい死にかける」

 

「励ましてる?」

 

「かなり」

 

 シリウスは真顔で言った。

 

 ウィーズリーおばさんがシリウスを睨んだ。

 

「子どもに言うことですか」

 

「実用的だろう?」

 

「実用的なら何を言ってもいいわけではありません」

 

 ハリーは少し笑った。

 

 笑えたことに、自分で驚いた。

 

 その後、代表選手と家族は少しだけ競技場の説明を受けた。

 

 バグマンもクラウチもいない。

 

 その代わり、魔法省大臣コーネリウス・ファッジと、パーシー・ウィーズリーが審査員席に加わることになったらしい。

 

 ロンがそれを聞いたら、何とも言えない顔をするだろうな、とハリーは思った。

 

 実際、パーシーはとても真面目な顔をしていた。真面目すぎて、顔の筋肉まで規則に従っているみたいだった。

 

 ファッジはいつもの山高帽をかぶり、にこにこと周囲に手を振っている。三校対抗試合の危険性より、自分が大臣として立っている姿を見せることの方が大事そうに見えた。

 

 ハリーは、あまり見ないようにした。

 

 見ると不安になる大人というのはいる。

 

 第三の課題が始まる頃、空はすっかり暗くなっていた。

 

 競技場には、巨大な迷路がそびえていた。

 

 生け垣は高く、黒く、まるで意思を持っているように見えた。入口は口のように開いていて、そこから先は何も見えない。

 

 ハリーは杖を握りしめた。

 

 トム・ジェドゥソール。

 フェルディナンド・ブラック。

 ヴィクトール・クラム。

 そして、ハリー。

 

 四人の代表選手が並んだ。

 

 トムは落ち着いていた。まるで、夜の散歩にでも出るような顔をしている。ボーバトンの生徒たちが名前を呼ぶと、完璧な笑みで応えた。

 

 クラムは無言だった。肩に力が入っているが、それは恐怖というより集中に近い。

 

 フェルディナンドは、いつも通りだった。

 

 いつも通りすぎて、逆に怖い。

 

 ハリーがちらりと見ると、フェルディナンドは気づいたように視線を返した。

 

「無理はするな」

 

「それ、代表選手に言う?」

 

「お前に言っている」

 

 フェルディナンドは淡々と言った。

 

「危なくなったら火花を上げろ」

 

「君は?」

 

「私は火花を上げる必要がある状況にならないようにする」

 

「ずるいな」

 

「準備の差だ」

 

 ハリーは少しだけ笑った。

 

 その笑いは、迷路の入口に立つとすぐに消えた。

 

 合図が鳴った。

 

 選手たちは順に迷路へ入っていった。

 

 ハリーが中へ踏み込むと、外の歓声はすぐに遠くなった。

 

 生け垣が音を吸っている。

 

 足音。

 自分の息。

 杖を握る指の擦れる音。

 

 それだけが妙にはっきり聞こえた。

 

 最初に出てきたのは、尻尾爆破スクリュートだった。

 

 しかも、でかい。

 

 ハリーはそれを見た瞬間、心の中でハグリッドに抗議した。

 

 ハグリッド。

 

 これは教育ではない。

 

 試練でもない。

 

 嫌がらせだ。

 

 スクリュートは尻尾を震わせ、次の瞬間、火花と爆音をまき散らして突進してきた。

 

「タラントアレグラ!」

 

 ハリーは叫んだ。

 

 スクリュートは少しよろめいたが、止まらない。

 

「もちろん止まらないよな!」

 

 ハリーは横へ飛び退いた。

 

 尻尾が爆発し、生け垣の一部が焦げた。嫌な匂いがする。ハリーは地面を転がりながら、なんとか距離を取った。

 

「ステューピファイ!」

 

 効きが悪い。

 

 もう一度。

 

 さらにもう一度。

 

 ようやくスクリュートが横倒しになったとき、ハリーは息を切らしていた。

 

 迷路に入って数分。

 

 もう帰りたい。

 

 でも帰れない。

 

 炎のゴブレットの契約というものは、本当に性格が悪い。

 

 次に現れたのはボガードだった。

 

 曲がり角の先に、冷たい空気が溜まっていた。

 

 ディメンターかと思った。

 

 いや、見た目はどう見てもディメンターだった。

 

 黒いフード。腐ったような手。胸の奥を吸い取るような寒さ。

 

 ハリーの膝が一瞬だけ揺れた。

 

 けれど、すぐに違和感が来た。

 

 本物ほど寒くない。

 本物ほど、絶望が深くない。

 

 ボガードだ。

 

「リディクラス!」

 

 ハリーは叫んだ。

 

 ディメンターは、派手な花柄のエプロン姿になった。

 

 それでも十分に嫌だった。

 

 ボガードはぐにゃりと縮み、逃げるように消えた。

 

「花柄でも嫌なものは嫌だな」

 

 ハリーは息を吐いた。

 

 さらに進むと、巨大な蜘蛛の巣のようなものが道を塞いでいた。アクロマンチュラだ。「怪物的な怪物の本」でしか見たことがない。触れたら巻きつかれそうだったので、焼き切った。次の曲がり角では、床が急にぬかるみになり、足が沈みかけた。そこで思い出したように火を出す呪文を使い、なんとか抜け出した。

 

 迷路は、ただの生け垣ではなかった。

 

 ハリーを押しつぶすつもりで、次々に何かを出してくる。

 ハリーは、生け垣の角を曲がった瞬間、足を止めた。

 

 そこだけ、妙に静かだった。

 

 迷路の中は、どこも嫌な静けさに満ちていたが、ここは違った。音が吸われている。遠くで枝が擦れる音も、誰かが叫ぶ声も、尻尾爆破スクリュートが暴れる鈍い地響きも、まるで厚い布の向こう側に押し込められたみたいだった。

 

 行き止まりではなかった。

 

 けれど、道の真ん中に、それがいた。

 

 女の顔。獅子の体。長い尾。前脚は優雅にそろえられているのに、爪だけが月明かりを受けて白く光っていた。

 

 スフィンクスだ。

 

 ハリーは杖を握り直した。

 

 攻撃していい相手ではない。いや、たぶん攻撃したら終わる。授業で聞いたことがある。スフィンクスは謎を好む。謎に答えられれば通れる。間違えれば──その先は、あまり考えたくなかった。

 

 スフィンクスは、黄金色の目でハリーを見た。

 

「ハリー・ポッター」

 

 名前を呼ばれただけで、背筋が冷えた。

 

「答えよ。正しければ道を開く。誤れば、道はお前を飲む」

 

 ハリーは喉を鳴らした。

 

「分かった」

 

 声が、思ったよりかすれていた。

 

 スフィンクスはまばたきひとつせず、低く、歌うように言った。

 

「前半分は扉を開ける。

 後ろ半分は海の近くにある。

 

 箒より静かに、

 煙突より乱暴に、

 姿くらましより幼い者にも容赦なく、

 触れた手を遠くへ連れていく。

 

 私の名は、

 マグルの船乗りが帰る場所と、

 魔法使いが錠に差すものから成る。

 

 だが気をつけよ。

 鍵は必ずしも、望む扉を開けるとは限らない。

 

 さて、私は何か」

 

 

 

 ハリーは黙った。

 

 扉を開けない鍵。

 

 鍵なのに、扉を開けない。魔法界にはそういうものが多すぎる。空飛ぶ鍵。叫ぶ本。人を噛む教科書。鍵と呼ばれていても、普通の鍵とは限らない。

 

 でも、それだけでは答えにならない。

 

 ハリーは眉を寄せた。

 

 マグルの船乗りが帰る場所。港。port。

 

 そうだ。ポート。

 

 後ろ半分は錠にさすもの、つまり、鍵。key。キー。

 

 ポートキー。

 

 ハリーはすぐに答えそうになって、歯を食いしばった。

 

 早すぎる。スフィンクス相手に、思いつきで答えるのはまずい。間違えたら、たぶん二度目はない。

 

 箒より静かに。

 

 ポートキーは箒みたいに飛ぶわけではない。空を切る音もない。けれど、一瞬で遠くへ運ばれる。

 

 煙突より乱暴に。

 

 ハリーは、煙突飛行粉でダイアゴン横丁へ行こうとして、ノクターン横丁に放り出されたことを思い出した。あれも十分乱暴だったが、ポートキーはもっとひどい。へその裏を鉤で引っかけられたような、あの不快な感覚。

 

 姿くらましより幼い者にも容赦なく。

 

 姿くらましは未成年にはできない。けれど、ポートキーは違う。触れれば連れていかれる。本人が望んでいようが、いまいが。

 

 クィディッチ・ワールドカップへ行った朝のことが、急に鮮明によみがえった。

 

 古びたブーツ。丘の上。みんなで指先を伸ばして、それに触れた瞬間、地面が消えた。胃が置き去りにされ、世界がぐるぐる回って、次の瞬間には別の場所に叩きつけられていた。

 

 触れた手を遠くへ連れていく。

 

 間違いない。

 

 だが、最後の一文が嫌だった。

 

 鍵は必ずしも、望む扉を開けるとは限らない。

 

 ハリーは、迷路の奥を見た。

 

 なぜ今、スフィンクスはこんな謎を出す? 

 

 なぜ、ポートキーなんて答えを、ここで言わせる? 

 

 ハリーの手の中で、杖が少し汗ばんだ。

 

「答えを」

 

 スフィンクスが言った。

 

 その声には、急かす響きはなかった。だからこそ怖かった。いくらでも待つ。間違えるまで待つ。そんな声だった。

 

 ハリーは息を吸った。

 

「ポートキー」

 

 スフィンクスの尾が、ゆっくりと揺れた。

 

「理由を」

 

 やっぱりそれだけでは済まないのか。

 

 ハリーは唇を湿らせた。

 

「ポートは港。キーは鍵。だから、港と鍵でポートキー。扉を開ける鍵じゃないけど、触れた人間を別の場所へ運ぶ。箒でも、煙突飛行粉でも、姿くらましでもない。でも、魔法使いを遠くへ連れていく道具だ」

 

 スフィンクスは、金色の目を細めた。

 

「そして、鍵は?」

 

 ハリーは嫌な感じがした。

 

「……必ずしも、行きたい場所へ連れていくとは限らない」

 

 口にした瞬間、その言葉が妙に重くなった。

 

 スフィンクスは立ち上がった。

 

 巨大な体が動いたのに、音はほとんどしなかった。爪が土をかすめる音だけが、ひどく近くで聞こえた。

 

「通れ、ハリー・ポッター」

 

 生け垣が、音もなく左右に割れた。

 

 その先には、さらに暗い道が続いていた。

 

 ハリーは一歩踏み出しかけて、振り返った。

 

 スフィンクスはもう座っていた。先ほどと同じ姿勢で、まるで最初からそこにいて、これからもずっとそこにいるかのように。

 

「覚えておけ」

 

 スフィンクスが言った。

 

「鍵の名を知る者は多い。鍵の行き先を疑う者は少ない」

 

 ハリーは返事をしなかった。

 

 できなかった。

 

 ただ杖を握り直し、迷路の奥へ進んだ。

 

 優勝杯は近い。

 

 そう思った。

 

 けれど、さっきまで胸を押していた焦りは、少し形を変えていた。

 

 早くたどり着かなければならない。

 

 でも、触れる前に考えなければならない。

 

 ハリーは暗い道を走りながら、スフィンクスの声を頭の中で何度も聞いていた。

 

 鍵は必ずしも、望む扉を開けるとは限らない。

 

 曲がり角の向こうから、足音がする。

 

 ハリーは杖を構えた。

 

 現れたのは、クラムだった。

 

「クラム!」

 

 ハリーは少しほっとした。

 

 けれど、その安堵はすぐに消えた。

 

 クラムの目が、おかしかった。

 

 焦点が合っていない。

 

 顔はクラムなのに、目だけが別の誰かに動かされているみたいだった。

 

「ハリー・ポッター」

 

 クラムは低く言った。

 

 そして、杖を上げた。

 

「クラム?」

 

 呪文が飛んできた。

 

 ハリーは反射的に横へ転がった。赤い光が生け垣に当たり、葉が焦げる。

 

「何するんだ!」

 

 返事はなかった。

 

 クラムは無言で次の呪文を放ってきた。

 

 ハリーは盾の呪文で受けたが、腕が痺れた。

 

 強い。

 

 まともに戦ったら危ない。

 

「クラム、やめろ!」

 

 叫んでも、クラムは止まらなかった。

 

 そいつを殺せ。

 

 頭の中で声がしてハリーは自然とクラムに杖を向けていた。

 

 そのとき、別の方向から鋭い呪文が飛んだ。

 

 クラムの杖先が弾かれる。

 

「そこまでだ」

 

 フェルディナンドの声だった。

 

 ハリーは振り向いた。

 

 フェルディナンドが迷路の通路に立っていた。ローブには少し泥がついていたが、息は乱れていない。こういうところが腹立たしい。ハリーはかなり息切れしているのに。

 

 クラムは地面に倒れていた。フェルディナンドの呪文が直撃したのだろう。

 

「操られている」

 

 フェルディナンドは短く言った。

 

「服従の呪文か?」

 

「可能性は高い」

 

 ハリーの背筋が冷えた。

 

 誰かが、迷路の中で代表選手を操っている。

 

 それはもう、競技ではない。

 

 フェルディナンドはハリーを見た。

 

「確認する」

 

「何を?」

 

「お前が本物かどうかだ」

 

 ハリーは一瞬言葉に詰まった。

 

 けれど、すぐに分かった。

 

 ポリジュース薬。

 

 変身。

 

 なりすまし。

 

 バグマンとクラウチの失踪。

 

 今この状況で、相手が本物か確認するのは正しい。

 

「夏にハニーデュークスで、シリウスが買いすぎたものは?」

 

 フェルディナンドが言った。

 

 ハリーは反射的に答えた。

 

「犬用じゃない骨型ヌガー。君が、犬に戻ってから食べろって言った」

 

 フェルディナンドは一拍置いて、うなずいた。

 

「本物だな」

 

「君も確認させて」

 

「どうぞ」

 

「シリウスが怒ったとき、君がつけたあだ名は?」

 

「黒犬閣下。怒ってないときはパッドフット」

 

 ハリーは息を吐いた。

 

「本物だ」

 

「不本意な合言葉だが、精度は高い」

 

「シリウスには絶対言うなよ」

 

「本人の前で言った」

 

「言ったのかよ」

 

「怒っていた」

 

 こんな状況なのに、ハリーは少しだけ笑いそうになった。

 

 それが救いだった。

 

 フェルディナンドはクラムへ視線を戻した。

 クラムはまだ意識がぼんやりしているようだった。ハリーは心配になったが、フェルディナンドが先を見た。

 

「進むぞ」

 

「クラムを置いて?」

 

「放っておけばそのうち目を覚ます」

 

 ハリーはうなずいた。

 

 二人は迷路の奥へ進んだ。

 

 そこから先の道は、妙に静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 スクリュートも、罠も、奇妙な植物も出てこない。迷路が息をひそめているようだった。

 

「おかしい」

 

 フェルディナンドが言った。

 

「静かすぎる」

 

「迷路が親切になったとか?」

 

「迷路に親切心を期待するな」

 

「だよね」

 

 道を曲がった先に、それはあった。

 

 テーブルの上に、黒い日記が置かれていた。

 

 何の変哲もない、古びた日記。

 

 けれど、ハリーは足を止めた。

 

 胸の奥が、ひやりとした。

 

 見覚えがある。

 

 なぜか分からない。

 

 確かに見たことがある。

 

 黒い表紙。

 何も書かれていない表面。

 妙にそこだけ、迷路の中で浮いているように見える。

 

「どうした?」

 

 フェルディナンドが聞いた。

 

「それ……見たことがある気がする」

 

「どこで?」

 

「分からない。でも、どこか懐かしいような」

 

 フェルディナンドは日記を見下ろした。

 

 不思議そうな顔だった。

 

 警戒している。

 

 けれど、同時に興味を持っている。ハリーにも分かる気がした。

 

 なぜか分からないが触れたくなる魅力があった。

 何も変哲がない日記なのにだ。

 

「触るな」

 

 フェルディナンドは言った。

 

 ハリーはもう手を伸ばしていた。

 

「待て、ハリー!」

 

 ハリーの指が、黒い表紙に触れる。

 

 フェルディナンドはそれを止めようとして、反射的にハリーを掴んだ。

 

 指先が、日記に触れた。

 

 次の瞬間、足元が消えた。

 

 迷路の壁も、夜空も、湿った土の匂いも、すべてが引き裂かれるように遠ざかった。

 

 体が落ちる。

 

 いや、落ちているのか、引っ張られているのか分からない。

 

 耳元で、何かが囁いた気がした。

 

 冷たい水のような闇が、ハリーの全身を包んだ。

 

 そして、唐突に足が床についた。

 

 ハリーはよろめき、膝をつきそうになった。

 

 石の床。

 

 湿った空気。

 

 暗い空間。

 

 どこかで水の落ちる音がする。

 

 フェルディナンドもすぐそばに立っていた。珍しく、完全には平静ではない顔をしている。

 

「ここは……どこだ?」

 

 フェルディナンドが言った。

 

 ハリーはすぐに答えなかった。

 

 けれど、知っていた。なぜ今まで忘れていたのか不思議なくらいだった。

 

 長い石の通路。

 

 蛇の意匠。

 

 重く湿った空気。

 

 ハリーは杖を握りしめた。

 

 喉が乾いていた。

 

「知ってる」

 

 ハリーはかすれた声で言った。

 

「ここは、秘密の部屋だ」

 

 ハリーの胸が一瞬で冷えた。

 

 ただ、記憶の中とは違っていた。床は不自然なほど清められていて、壁際には本棚が並んでいる。青白いランプの光が、背表紙の列を照らしていた。

 

 マインが置いた本だ。

 でも、どこか雰囲気が異なる。

 

「ハリー」

 

 隣でフェルディナンドが立ち上がった。

 

 彼は一瞬で周囲を見た。柱。床。像。本棚。日記。ハリー。

 

 そして、息を止めた。

 

 ハリーは、フェルディナンドの視線を追った。

 

 黒いローブの影が、壁際にいくつも伏せている。最初は石像の影かと思った。違った。人間だった。床に額をつけるようにして、何人もの人間がひれ伏している。

 

 その中に、ひとりだけ顔を上げかけた女がいた。

 

 ひどく痩せていた。頬はこけ、髪には白いものが混じっている。黒いローブは体に合っておらず、まるで誰かから無理やり着せられたようだった。

 

 フェルディナンドの表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。

 

「……母上」

 

 その声は、ハリーが今まで聞いたことのないほど小さかった。

 

 女の唇が震えた。

 

「フェル……」

 

 その先は、続かなかった。

 

 ハリーの傷痕が焼けた。

 

「インペリオ」

 

 声はどこから聞こえたのか分からなかった。

 

 耳からではない。

 頭の内側がそう告げたようだった。

 

 ハリーの体が、自分のものではなくなった。

 

 足が立つ。

 腕が上がる。

 杖先が、フェルディナンドを指す。

 

 違う。

 

 違う。

 

 ハリーは全身で抵抗した。

 

 ムーディの授業で味わった服従の呪文とは違う。あのときは、頭の中に甘い霧がかかった。何も考えず、従ってしまえばいいという誘惑があった。

 

 今は違った。

 

 霧ではない。鎖だった。

 

 冷たい鎖が、骨の内側から体を引いている。

 

 フェルディナンドが振り返り、ハリーを見た。

 

 自分の声が言った。

 

「アバダ・ケダブラ」

 

 緑の光が走った。

 

 それだけだった。

 

 フェルディナンドは、何かを言う暇もなく崩れ落ちた。

 

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