本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
引き続きハリー視点です。
「アバダケダブラ」
緑色の閃光が光り、フェルディナンドが崩れ落ちるように倒れた。
ハリーの体から支配が抜けた。膝が折れ、床に手をつく。
「フェルディナンド……?」
返事はない。
フェルディナンドは虚ろな目をしていた。
死んでいる。
ハリーは信じられなかった。
「フェルディナンド!」
声が秘密の部屋に吸い込まれた。
黒いローブの女が、床に爪を立てた。
フェルディナンドが母上と呼んだ女。
彼女は顔を上げなかった。ただ、指先だけが石床を掻いている。爪が割れ、血がにじんでも、声は出さなかった。
いや、出せなかったのかもしれない。
ハリーは這うようにフェルディナンドへ近づき、手に触れた。冷たくなっていた。
そのとき、別の音がした。
かちゃり。
陶器が皿に触れる音。
ハリーは顔を上げた。
本棚の前に、小さな丸テーブルがあった。
銀のティーポット。
白いカップ。
湯気の立つ紅茶。
その向こうに、黒いローブの男が座っていた。
青白い顔。蛇に似た目。赤い瞳。
ヴォルデモートだ。
ヴォルデモートは、ティーカップを持ち上げた。
秘密の部屋に似合わない、薄い陶器のカップだった。
白い磁器に、銀の縁取り。湯気だけが、場違いなほど穏やかに立っている。
ハリーは杖を握り直した。
あいつがいる。
目の前に。
両親を殺した男が。
「エクスペリアームス!」
赤い閃光が走った。
だが、呪文はヴォルデモートに届かなかった。
ヴォルデモートは避けもしなかった。煩わしそうに手を振り払っただけで、呪文は消えた。
「ハリー・ポッター」
ハリーはもう一度杖を上げた。
ヴォルデモートは、静かに笑った。
「落ち着きたまえ。お茶の時間だ」
ハリーは怒りで叫びかけた。
呪文を。
怒りを。
自分の中に残っている全部を。
だが、ヴォルデモートの声が頭の奥へ滑り込んだ。
「座れ」
命令は、今度こそ命令だった。
ハリーの足が、一歩動いた。
「……っ!」
違う。
動くな。
ハリーは全身で逆らった。床に靴底を押しつける。膝に力を入れる。杖を持つ手だけは、絶対に離さない。
それでも足は動いた。
石の椅子へ向かって。
蛇の彫刻が肘掛けに絡みついた、古い椅子だった。
「やめろ……!」
ハリーは息を荒くした。
体が自分のものではない。けれど、完全に奪われたわけでもない。抵抗できる。抵抗している。なのに、命令の一部だけが、体の奥に食い込んでいる。
座るな。
座るな。
座るな。
腰が沈んだ。
冷たい石が背中に触れた瞬間、肘掛けの蛇が動いた。
石の胴が手首に巻きつく。足首を押さえ、胸元を冷たく固定する。
ハリーは杖を握っていた。
けれど、杖先は床へ向いたまま、動かせなかった。
ヴォルデモートは満足そうにカップを置いた。
「よろしい。今度こそ、礼儀正しく話をしよう」
その時、床をすべる音がした。
ハリーは息を止めた。
闇の中から、一匹の蛇が現れた。
秘密の部屋にいたアルドゥスとは違う。
もっと細く、もっと静かで、もっと美しかった。濡れた黒曜石のような鱗が、燭台の光を受けて鈍く光っている。
蛇はテーブルの脚をゆっくりと回り、ヴォルデモートの椅子のそばで頭を持ち上げた。
ヴォルデモートが、愛おしげに指を伸ばす。
「ナギニ」
その名を聞いた瞬間、蛇は赤い舌をちらりと出した。
ハリーの耳に、柔らかな声が届いた。
『あら、お客様ね』
蛇語だった。
ハリーは背筋を凍らせた。
ヴォルデモートが微笑む。
ハリーが動こうとすると、石の蛇が胸を押さえた。
ヴォルデモートはカップを持ち上げた。
「動くな、ハリー。彼女は、無作法な客が嫌いでね」
ハリーは息を荒くした。
ヴォルデモートがいる。
そして自分は、椅子に座っている。
お茶会の客みたいに。
両親を殺した男の話を、聞かされるために。
「良かったな、セラディーナ。息子には会えた」
穏やかな声で、ヴォルデモートは女に言った。
その穏やかさが、死の呪文よりもずっと不気味だった。
女の肩が、びくりと震えた。
「……やめて」
かすれた声だった。
ヴォルデモートは、そちらを見た。
「やめて、か」
赤い目が細くなる。
「この前はもっとはっきり言っていたではないか」
ハリーは息を止めた。
ヴォルデモートは、紅茶の湯気の向こうで、静かに続けた。
「この女は、息子を憎んでいた。自分をアズカバンに入れた息子をな」
「違うわ……」
セラディーナの声は、ほとんど息だった。
「違うか?」
ヴォルデモートは優しく問い返した。
その優しさは、刃物に似ていた。
「お前は言った。あの子が私を捨てた。あの子はシリウスを選んだ。あの子が私を殺したのだ、と」
セラディーナは床に伏せたまま、指先を強張らせた。
「そして、最後にはこう言った」
ヴォルデモートは、ハリーを見た。
まるで、その言葉を聞かせるためにここまで待っていたかのように。
「あの子も死ねばいい、と」
ハリーの胃が沈んだ。
「違う」
思わず言っていた。
ヴォルデモートの赤い目が、今度はハリーへ向く。
「何が違う?」
「そんなの、願いじゃない」
ハリーはフェルディナンドの方を見た。
動かない。
「苦しくて言っただけだ」
「苦しいときに出る言葉ほど、よく本心を映す」
「違う!」
秘密の部屋に声が響いた。
死喰い人たちは誰も動かなかった。顔を上げる者もいない。息を殺し、黒い影のようにひれ伏している。
ヴォルデモートだけが、薄く笑った。
「お前は優しいな、ポッター。だから壊しやすい」
セラディーナが、小さく首を振った。
「私は……」
その先は続かなかった。
愛していた、と言いたかったのか。
憎んでいた、と認めたかったのか。
許してほしかったのか。
ハリーには分からない。
ただ、彼女がフェルディナンドの死を喜んでいないことだけは分かった。
ヴォルデモートは、その矛盾ごと踏みにじっている。
「聞いたか、ポッター」
ヴォルデモートは言った。
「彼は母親に憎まれ、お前の手で殺された」
「違う!」
「違わない」
その声が、耳ではなく頭の奥から響いた。
「あの女は願った。では、彼を殺したのは誰だ?」
ハリーは答えられなかった。
目の前でヴォルデモートが言っていることが信じられなかった。
フェルディナンドは死んだふりをしているだけだ。
自分に言い聞かせようとして、ハリーはフェルディナンドから目を逸らした。
「なんで……」
喉がひりついた。
「なんで、お前がこの部屋にいるんだ」
ヴォルデモートは、赤い目を細めた。
「かつてのスリザリンの継承者がここにいて何が悪い」
ハリーは言葉を失った。
その理屈は、間違っていないように聞こえた。だからこそ、余計に腹立たしかった。
そうか、こいつがマートルを殺したスリザリンの継承者だったのか。
ヴォルデモートは周囲を見回した。清められた床。本棚。ランプ。背表紙の列。
「もっとも、ここはずいぶん様変わりした。サラザール・スリザリンの遺産を、このような閲覧室に変えるとは」
彼は薄く笑った。
「ローゼマイン・マルフォイは、実に奇妙な征服をする」
ハリーは答えなかった。
答えられなかった。
ヴォルデモートの背後には、黒い影がいくつもひれ伏していた。死喰い人たちだった。床に額をつけるようにして、誰一人、顔を上げない。
本棚に囲まれた秘密の部屋に、ティーセット。
異様な光景だった。
恐ろしいはずなのに、その整いすぎた茶会のような配置だけが、ひどく現実離れしていた。
ハリーは必死に立ち上がろうと足掻いていたが、無駄な努力になっていた。
ナギニの細い首が、ハリーの方へ向く。
『落ち着きがない子ね……お茶は座って飲むものだと、ご両親から習わなかったのかしら』
『黙れ!』
ハリーは蛇語で叫んだ。
石の蛇が手首に食い込み、杖を持つ指が震えた。
胸の奥で、怒りが熱く膨れ上がる。
ヴォルデモートの目が、わずかに細くなった。
「……そうだったな」
ゆっくりと、彼はカップを皿に戻した。
『お前も蛇語が話せるんだったな、ハリー・ポッター』
ヴォルデモートが蛇語で言った。
ハリーの傷痕が、ずきりと痛んだ。
「考えたことはあるか。なぜ自分に蛇語が話せるのか。なぜ私とお前には、奇妙な繋がりがあるのか」
「黙れ」
考えたことがないわけがない。
「いや、確実に考えたことがあるはずだ。私ですらあるのだから」
ヴォルデモートは、ひれ伏す死喰い人たちなど見もせず言った。
「最初はお前を殺そうと思った。だが、お前は私の敵ではない」
「何を言っているんだ?」
「ある娘が予言を見た」
ハリーは息を止めた。
「予言?」
『そうだ。五つ目の鐘を越えたとき、死者が戻ったとき、八つに裂かれし王の欠片の一つが、永遠に王の下を去る』
ヴォルデモートは、まるで古い詩を読み上げるように蛇語で言った。
ハリーには、意味が分からなかった。
分からないのに、背筋だけが冷えた。
「王……?」
『無論、私だ』
ヴォルデモートは、当然のように蛇語で言った。
『八つに裂かれし王。実に不愉快な表現だが、そうだとすれば全て納得がいく』
ハリーの傷痕が、ずきりと痛んだ。
『ハリー・ポッター、生き残った男の子よ。お前の中には、私の魂の一部がある』
ハリーは息を止めた。
「嘘だ」
「嘘であれば、どれほどよかっただろうな」
ヴォルデモートは笑った。
「意図して作ったものではない。不完全で、不安定で、扱いにくい。失敗作だ」
ハリーはフェルディナンドのそばに手を伸ばした。
指先が白い手袋に触れる。冷たかった。
「だが、失敗作にも用途はある」
ヴォルデモートの声が近づいたわけではないのに、ハリーの頭の奥で響いた。
「だから、お前を殺す必要はない」
一拍置いて、彼は付け加えた。
「少なくとも、今はな」
ハリーは息ができなかった。
秘密の部屋の湿った石床に、死喰い人たちがずらりとひれ伏している。
異様だった。
邪悪な儀式のようだった。
ただし、その中央にティーセットがあるせいで、何かが決定的におかしかった。
「私は、より崇高な目的を思い出した」
ハリーはフェルディナンドのそばに膝をついたまま、ヴォルデモートをにらんだ。
「崇高?」
「知識だ」
ヴォルデモートの声が、少しだけ深くなった。
「血ではない。恐怖でもない。殺戮でもない。知識を持つ者がすべてを手にする。知識を扱える者が世界を導く。無知な者は従う。それこそが理想の世界だ」
ハリーは、ぞっとした。
言っていることは、少しだけ整っている。
だからこそ、余計に危ない。
ただの憎悪ではない。
ただの純血主義でもない。
もっと冷たくて、もっと広くて、もっと嫌なものになっている。
「誰がそんなことを……」
「ローゼマイン・マルフォイだ」
ハリーは一瞬、言葉を失った。
ヴォルデモートが彼女の名前を出したのが信じられなかった。
「マイン?」
「そうだ」
ヴォルデモートは、まるで面白い本の感想を語るように言った。
「知識とは力だ。読む者は奪う者よりも強い。理解する者は支配する者に等しい」
「マインはそんな意味で言ってない!」
「意味など、受け取った者が決める」
最悪だった。
マインが聞いたら怒るだろう。
いや、怒る前に「本の解釈が雑」と言うかもしれない。
それから怒る。
「お前は、トムに会ったことがあるな」
ヴォルデモートが言った。
ハリーの背筋が冷えた。
「トム……ジェドゥソール?」
その名を口にした瞬間、ヴォルデモートの唇が愉快そうに歪んだ。
「ジェドゥソール。そう呼ばれていたな」
「呼ばれていた?」
「名は便利だ。国が変われば、綴りも変わる。言葉が変われば、意味の見え方も変わる。本の題名が翻訳されるように、人の名もまた、都合よく訳される」
ヴォルデモートは、白い指でカップの縁をなぞった。
「トム・ジェドゥソール。ボーバトンの代表選手。礼儀正しく、優秀で、少しばかり謎の多い少年。三校対抗試合に現れた異国の俊英」
「彼がどうしたっていうんだ」
胸の奥が、嫌な予感で冷えていく。
「そして、トム・リドル」
その名を聞いた瞬間、秘密の部屋の空気が変わった気がした。
ハリーは、あの古い日記を思い出した。
なぜ今まで忘れていたのか分からない。だが、急に思い出した。
ハリーの悩みを聞いてくれたこと。
ハリーと同じように蛇語を話せること。
マインの魔法道具のような存在だということ。
秘密の部屋で司書のように本の管理をしていたこと。
「日記の……」
「そうだ」
ヴォルデモートは満足げに言った。
「日記のトム・リドル。ホグワーツに残された記憶。過去の私。未完成で、理想ばかり高く、まだ自分が何になるのかを知らなかった頃の私だ」
「嘘だ!」
ハリーは思わず言った。
「トムは……」
何と言えばいいのか分からなかった。
トムはいい人だ、と言うには知らなすぎた。
敵じゃない、と言うにも、確信はなかった。
でも、目の前で紅茶を飲んでいるこの男と、日記の中のトムが同じだとは思いたくなかった。
ヴォルデモートは、その迷いごと楽しむように笑った。
「同じではない、と言いたいのか」
ハリーは答えなかった。
「正しい。完全には同じではない。だが、別物でもない」
ヴォルデモートは杖をわずかに動かした。
空中に、銀色の文字が浮かび上がる。
TOM MARVOLO RIDDLE
ハリーは息を止めた。
文字がゆっくりとほどけ、並び替わっていく。
I AM LORD VOLDEMORT
その下に、もうひとつ別の綴りが浮かんだ。
TOM ELVIS JEDUSOR
ヴォルデモートは薄く笑った。
「フランス語に合わせて整えた名だ。ジェドゥソール。耳心地は悪くない。異国の代表選手には、ちょうどよい」
文字がさらに歪む。
JE SUIS VOLDEMORT
ハリーは、喉が乾くのを感じた。
トム・リドル。
トム・ジェドゥソール。
ヴォルデモート。
別々に見えていた名前が、同じ赤い目の下へ引きずり込まれていく。
「つまり……」
ハリーの声はかすれていた。
「トム・ジェドゥソールも、日記のトム・リドルも……」
「ヴォルデモート卿その者だ」
ヴォルデモートは、静かに言い切った。
秘密の部屋の壁に、声が沈んだ。
トム・ジェドゥソールは代表選手だった。
ハリーと同じ課題に挑んでいた。
ハーマイオニーやマインたちと話していた。
日記のトムは、友人のようにそこにいた。
その全部が、この男へつながっている。
「そんなこと……」
ハリーは言った。
「そんなことを、僕に話してどうする」
ヴォルデモートは、紅茶を一口飲んだ。
「僕が誰かに話すとは思わないのか」
「話せる記憶が残っていればな」
ハリーの胃が冷たくなった。
ヴォルデモートは、カップを置いた。陶器の音が、秘密の部屋に小さく響いた。
「だが、話さないのはお前だけではない」
「どういう意味だ」
「世間もまた、真実など話さない。世間が話すのは物語だ。分かりやすく、美しく、都合のいい物語だ」
ヴォルデモートの赤い目が、ハリーを見た。
「かつて、お前がそうだったようにな」
ハリーは息を呑んだ。
「生き残った男の子。闇の帝王を退けた赤子。魔法界の希望。英雄ハリー・ポッター」
ヴォルデモートは、薄く笑った。
「実際には、母親の犠牲と偶然と、私の失敗でしかない。だが、魔法界は物語を欲しがった。だから、お前は英雄になった」
「違う」
「違わない」
ヴォルデモートの声は静かだった。
「英雄とは、事実から生まれるのではない。語られた物語から生まれる」
ハリーはフェルディナンドを見た。
動かない。
「今度は、私が物語を作る」
ヴォルデモートは言った。
「トム・ジェドゥソールという名でな」
ハリーは顔を上げた。
「何をするつもりだ」
「新しい英雄を誕生させる」
死喰い人たちは、床にひれ伏したまま動かない。
その沈黙の中で、ヴォルデモートだけが穏やかに続けた。
「三校対抗試合で起きた悲劇。迷路の中で倒れたフェルディナンド・ブラック。混乱したハリー・ポッター。そんな中で闇の残滓から生還したボーバトン代表、トム・ジェドゥソール」
ハリーはぞっとした。
「嘘だ」
「物語だ」
「嘘だ!」
ヴォルデモートは笑った。
「同じことだ、ポッター。信じる者が十分にいればな」
ハリーの手が震えた。
「誰も信じない」
「信じるさ。人々は新しい英雄を欲しがっている。お前はもう古い。傷つき、疑われ、疲れた英雄だ。しかも今夜、お前はフェルディナンド・ブラックを殺した少年になる」
「違う!」
「そしてトム・ジェドゥソールは、その悲劇の中で冷静に行動した若き魔法使いになる」
ヴォルデモートは淡々と言った。
「異国から来た、血筋に縛られぬ才能。知性。礼節。勇気。過去を持たない新しい名。魔法界が好む要素はそろっている」
ハリーは言葉を失った。
ヴォルデモートの言葉は、あまりに整っていた。
だからこそ、恐ろしかった。
「お前は……」
ハリーはかすれた声で言った。
「自分を英雄にするつもりなのか」
「私ではない」
ヴォルデモートは訂正した。
「トム・ジェドゥソールだ」
その言い方が、ひどく冷たかった。
「ヴォルデモート卿は恐怖の名だ。闇の名だ。いずれ必要になる。だが、表に出すにはまだ早い」
彼は、ひれ伏す死喰い人たちを振り返りもしなかった。
「人々は恐怖だけでは動かない。まず希望を与える。尊敬させる。憧れさせる。疑わぬ顔を覚えさせる」
「トム・ジェドゥソールを……」
ハリーは言った。
「作るのか」
「すでに作り始めている」
ヴォルデモートは微笑んだ。
「代表選手として。読書家として。知識を重んじる者として。魔法省に入っても不自然ではない者として。お前たちの近くにいても、誰も疑わない名として」
ハリーは、マインを思い出した。
日記に向かって話しかけるマイン。
トム・ジェドゥソールと本の話をするマイン。
魔法書研究会で、誰かの発言にすぐ突っ込むマイン。
そこに、この男の手が伸びていた。
「マインは……知っているのか」
「いいや」
ヴォルデモートの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「彼女は日記の私を友人として扱っている」
「トム・リドルはマインの魔法道具だったはずだ」
「魔法道具?」
ヴォルデモートは小さく笑った。
「違うぞ、ハリー。あの娘こそが魔力タンクなのだよ」
ハリーは息を呑んだ。
「あの娘が日記に魔力を注ぎ込まなければ、あの記憶はあれほど鮮明に形を持たなかった。あの娘が読み、問い、怒り、信じたからこそ、日記の私は再び思考した」
ヴォルデモートの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「そして、その繋がりは、私にも届いた」
ハリーはぞっとした。
マインが日記に話しかけていた時間。
本の話をしていた時間。
怒ったり、笑ったり、議論したりしていた時間。
それが、全部この男に届いていたのか。
「だから、マインの日記を持ち出したのか」
「正確には、日記を取り戻した」
ヴォルデモートは、訂正するように言った。
「私のものだ。私の記憶であり、私の名前であり、私の過去だ。ルシウスの娘が本棚に並べてよいものではない」
「トムは物じゃない」
ハリーは反射的に言った。
言ってから、自分でも驚いた。
ヴォルデモートの赤い目が、わずかに細くなる。
「ほう」
ハリーは口を閉じた。
だが、もう遅かった。
ヴォルデモートは、面白いものを見つけたようにハリーを見ていた。
「ポッター。お前まで、あいつを人のように扱うのか」
「未完成品じゃない」
「では何だ」
ハリーは答えられなかった。
友達、と言うには怖すぎる。
敵、と言うには割り切れない。
ヴォルデモート、と言うには、目の前の男と違いすぎる。
その沈黙を、ヴォルデモートは楽しんだ。
「面白い。ローゼマイン・マルフォイだけではない。お前たちまで、私の過去に名前を与える」
彼はカップを持ち上げた。
「ならば、私も名前を与えよう」
「何に」
「未来に」
ヴォルデモートは言った。
「ハリー・ポッターの時代は終わる。新しい英雄が必要だ。知識を重んじ、秩序を語り、恐怖ではなく尊敬によって人を従わせる顔が」
赤い目が、ハリーを射抜いた。
「トム・ジェドゥソール。魔法界はその名を覚える」
ハリーは、フェルディナンドの冷たい手袋を握りしめた。
「そんな英雄、偽物だ」
「構わない」
ヴォルデモートは言った。
「本物の英雄など、最初からどこにもいない。いるのは、語られた者だけだ」
ハリーの傷痕が、ずきりと痛んだ。
「記憶を奪う前提だと、少し喋りすぎてしまうものだな」
ヴォルデモートは、ようやく楽しげに言った。
「だが安心しろ。お前はこの会話を覚えていない。覚えているのは、緑の光だけだ」
背後の死喰い人の一人が動いた。
その陰から、金色の髪の男が進み出る。
ハリーは一瞬、理解できなかった。
それから、嫌でも分かった。
「ロックハート先生……?」
ギルデロイ・ロックハートは、以前と同じ笑顔を浮かべていた。だが、その笑顔にはかつての軽薄さだけでなく、何か怯えたような硬さが混じっていた。
黒いローブの胸元には、死喰い人の印。
ハリーの胃が沈んだ。
「あなたまで……」
「私は、必要とされる場所にいるだけだよ、ハリー」
ロックハートは穏やかに言った。
その声は、昔の授業で聞いたものと同じだった。だからこそ、余計におぞましかった。
ヴォルデモートは退屈そうに言った。
「記憶を整えろ」
「もちろんです、我が君」
ロックハートが杖を上げる。
「やめろ」
「つらい記憶は、人を壊す」
ロックハートは言った。
「君には、少し違う記憶を持ち帰ってもらう」
「違う記憶?」
「迷路の中でフェルディナンド・ブラックは死んだ。君は──」
ロックハートは少し言葉を選んだ。
「君は、自分のせいだと思い込む」
ハリーの胸が冷たくなった。
「やめろ!」
ヴォルデモートが静かに言った。
「思い込む、ではない。彼は事実を持ち帰る」
赤い目がハリーを見た。
「殺したのはお前の手だ。お前の声だ。お前の杖だ。そして、お前の中にある私の魂だ」
「違う、お前が殺したんだ!」
「その通り。私が殺した。だが、ポッター」
声が、耳ではなく頭の内側から響いた。
「私がお前の内側から殺したのなら、それはお前が殺したのと何が違う?」
ハリーは息ができなかった。
忘れない。
忘れるものか。
この部屋を。
紅茶の匂いを。
死喰い人たちの黒い影を。
ヴォルデモートの声を。
セラディーナの声を。
ロックハートの杖を。
フェルディナンドが倒れた音を。
忘れるものか。
ロックハートの杖先が光った。
「オブリビエイト」
白い光が視界を満たした。
秘密の部屋が遠ざかる。
本棚が滲む。
紅茶の湯気が消える。
死喰い人の影がほどける。
セラディーナの伏せた背中が見えなくなる。
ヴォルデモートの赤い目だけが、最後まで残った。
そして、別の記憶が流れ込んでくる。
迷路で、混乱した自分が杖をフェルディナンドに向け、闇の魔術に対する防衛術で知った禁じられた呪文を口にする。
自分が、フェルディナンドを殺した。
違う。
そう思った。
けれど、その「違う」さえ、霧の向こうへ押し流されていった。
次にハリーが目を開けたとき、そこは迷路の中だった。手から黒い日記が落ちた。
濡れた土の匂いがした。遠くで歓声が聞こえた。空気は重く、生け垣は高くそびえていた。
目の前に、フェルディナンドが倒れていた。
ハリーの手には杖があった。
「フェルディナンド……?」
返事はない。
ハリーは震える手で彼に触れた。
冷たい。
その瞬間、頭の奥で声がした。
お前がやった。
誰の声かは分からなかった。
けれど、緑の光だけは、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
編集部注:本来ならトム・リドル・シニアの墓が担当するはずの業務を、今回は秘密の部屋が代行しました。