本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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69話 死を友として迎えられない

 

 

 目が覚めた瞬間、わたしは最悪の寝起きだと思った。

 

 体が重い。

 

 頭が痛い。

 

 喉がからからに乾いている。

 

 それだけなら、まだよかった。わたしの体はわりとよく不具合を起こす。寝起きに体が重いくらいなら、朝食のパンにバターを塗るくらいには慣れている。

 

 わたしはゆっくり手を伸ばした。

 

 枕元。

 

 ない。

 

 布団の中。

 

 ない。

 

 サイドテーブル。

 

 ない。

 

 わたしは一気に目が覚めた。

 

 日記がない。

 

「……え?」

 

 声が変なふうに出た。

 

 本がない。

 

 日記がない。

 

 トムがいない。

 

 わたしは布団をめくった。枕をひっくり返した。シーツの下まで探した。そんなところに日記が入り込むはずがないのに、探した。本がないときの人間は、理性より先に布団をめくるものだ。

 

 ない。

 

 どこにもない。

 

「トム?」

 

 呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 胸の奥が、ずぶずぶと沈んでいった。

 

 まさか。

 

 まさか、トムは。

 

 例のあの人側についた? 

 

 そう思った瞬間、胃の中が冷たくなった。

 

 いや、トムはもともと例のあの人の記憶だ。正確には、味方だったと思う方が危険なのかもしれない。分かっている。分かっているけど、彼は本の話をした。惚れ薬の話で妙に真面目な話をした。わたしの読書計画に口を出した。

 

 読書計画に口を出す相手を、敵だと思うのは難しい。

 

 いや、でも、口を出す敵もいるかもしれない。

 

 本好きの敵は、たいてい本にうるさい。

 

 最悪だ。

 

 分類が難しい。

 

「起きたのか」

 

 声がして、わたしは顔を上げた。

 

 スネイプ先生がいた。

 

 いつもの黒いローブ。いつもの不機嫌な顔。いつもの、今すぐ授業中の釜にわたしを沈めてもおかしくなさそうな目つき。

 

 でも、その顔色はいつもより悪かった。

 

「先生、今何時ですか」

 

「最初にそれか」

 

「最初にそれです」

 

 スネイプ先生は、ほんの少しだけ黙った。

 その沈黙で、わたしは嫌なことを察した。

 

「何時ですか」

 

「第三の課題終了から、六時間以上経過している」

 

 世界が止まった。

 

 六時間。

 

 五時間を、超えている。

 タイムターナーの制限を超えた。

 

 わたしが聞かされていた、絶対の線。

 

「……そんな」

 

 声が小さくなった。

 

 スネイプ先生は答えなかった。

 

 その沈黙が、何より答えだった。

 

 わたしは起き上がろうとした。体が言うことをきかない。腕に力が入らない。魔力が底を抜けたみたいだった。

 

「余計なことは考えるな。横になっていなさい」

 

「無理です」

 

「安静にしてろ」

 

「ハリーとフェルディナンド先輩は?」

 

 スネイプ先生は、答えなかった。

 

 答えないでほしかった。

 

 答えなくても分かった。

 

 でも、人間は分かっていても聞いてしまう。

 

「フェルディナンド先輩は?」

 

「大広間横の控室にいる」

 

「生きてますか」

 

 わたしの声は、自分でも驚くほど平らだった。

 

 スネイプ先生は目を逸らさなかった。

 

「死亡が確認された」

 

 胸の中で、何かが割れた。

 

 音はしなかった。

 

 でも、確かに割れた。

 

 わたしはしばらく呼吸の仕方を忘れた。

 

 フェルディナンド先輩が死んだ。

 

 フェルディナンド・ブラックが。

 

 あの、何でも分かっているような顔をする人が。

 

 難しいことをさらっと言う人が。

 

 どうやってでも生きてそうな人が。

 

 死んだ。

 

「……ハリーは」

 

「生きている」

 

 それだけで、少しだけ息が戻った。

 

 けれどスネイプ先生の顔は、少しも楽にならなかった。

 

「ただし、まともな精神ではない」

 

 わたしは布団を払いのけた。

 

 今度は倒れなかった。たぶん、怒りが支えてくれた。

 

 怒りは便利だ。体が動かないとき、杖より先に背骨になる。

 

 大広間脇の控室に入った瞬間、空気が重かった。

 

 重い、なんて言葉では足りない。

 

 死んだような空気だった。

 

 いや、実際に死があった。

 

 部屋の中央に、フェルディナンド先輩が横たえられていた。

 

 白い顔。

 

 閉じられた目。

 

 その前で、シリウス・ブラックが膝をついていた。

 

 シリウスは、わたしが知っている中で、かなり大きくて、うるさくて、感情が外に出る人だ。

 

 その人が、声もなく泣いていた。

 

 肩だけが震えている。

 

 フェルディナンドの手を握っている。

 

「フェルディナンド……」

 

 シリウスの声は、壊れていた。

 

 その周りに、魔法書研究会の皆がいた。

 

 ハーマイオニーは顔を真っ赤にして、泣きながらも何かを考えようとしていた。泣いているのに、まだ考えることをやめていない顔だった。

 

 ロンは拳を握りしめて、口を固く結んでいた。泣いていないふりをしているのに、鼻が赤かった。

 

 ルーナはフェルディナンドの足元にしゃがみ込んで、小さな声で何かを呟いていた。祈りのようにも、魔法生物に話しかけているようにも見えた。

 

 パドマは膝の上に閉じたノートを置いていた。いつもなら何か書き留めているはずなのに、羽ペンを持つ手が震えて、インクが一滴、床に落ちていた。

 

 アーニー・マクミランは、信じられないという顔で何度も首を振っていた。推理好きの彼が、今だけは何も推理したくなさそうだった。

 

 アストリアはダフネの袖を握っていた。ダフネは妹を支えるように立っていたけれど、その目は赤い。

 

 ロメルダは、いつもの軽い声をなくしていた。泣きながら、何か言おうとして、結局「フェル先」とだけ呟いた。

 

 魔法書研究会は、うるさい。

 

 いつもなら、誰かが何かを言う。本の話をする。記事の話をする。ロメルダは変なあだ名をつける。パドマは注釈を入れる。ロンは余計な一言で怒られる。

 

 でも、今は誰も笑わなかった。

 

 誰も、話さなかった。

 

 わたしは足が止まった。

 

 フェルディナンドの死を見た瞬間に泣くと思っていた。

 

 でも、泣けなかった。

 

 代わりに、頭のどこかが冷たく動き始める。

 

 もう五時間以上経った。

 

 日記がない。

 

 ハリーは生きている。

 

 フェルディナンド先輩は死んでいる。

 

 トムは返事をしない。

 

 これは、ただの事故じゃない。

 

 絶対に違う。

 

「僕が」

 

 小さな声がした。

 

 ハリーだった。

 

 部屋の隅に座っていた。ローブはよれていて、眼鏡は曲がっている。顔色は死人みたいだった。

 

「僕が殺した」

 

 ハーマイオニーが震える声で言った。

 

「違うわ、ハリー。まだ何も分からない」

 

「分かる」

 

 ハリーは首を振った。

 

「僕の杖だった」

 

「ハリー」

 

「僕の声だった」

 

 ロンが何か言いかけて、口を閉じた。

 

 ハリーは同じことしか言わなかった。

 

「僕が殺した」

 

「僕がフェルディナンドを殺した」

 

「僕がやった」

 

 壊れた蓄音機みたいだった。

 

 わたしは近づこうとして、足が止まった。

 

 ハリーの目が、こちらを見た。

 

 その瞬間、彼は顔を歪めた。

 

「ごめん」

 

 わたしは息を呑んだ。

 

「ごめん、マイン。僕が……」

 

「違う」

 

 声が出ていた。

 

 自分でも驚くくらい、すぐに。

 

「違う」

 

 ハリーは首を振った。

 

「殺ったんだ、この手で」

 

「違う!」

 

 わたしより先に、シリウスが叫んだ。

 

 その声は、怒鳴り声というより悲鳴だった。

 

「お前じゃない、ハリー。お前じゃない!」

 

 ハリーは泣かなかった。

 

 ただ、顔を伏せた。

 

「でも、僕の杖だった」

 

 そのとき、扉が開いた。

 

 黒い制服の魔法使いたちが入ってきた。魔法警察だった。魔法省の紋章が胸元で光っている。

 

 空気がさらに冷えた。

 

「ハリー・ポッター」

 

 一人が低い声で言った。

 

「直前呪文検査および本人の証言に基づき、事情聴取のため同行してもらう」

 

 ハーマイオニーが立ち上がった。

 

「待ってください! 本人の証言って、今のハリーは正常な状態じゃありません!」

 

「直前呪文は確認済みです」

 

 魔法警察の男は淡々と言った。

 

「ハリー・ポッターの杖から、死の呪文が検出されました。許されざる呪文です」

 

 死の呪文。

 

 その言葉だけで、部屋の中の誰かが息を呑んだ。

 

 ロンが叫んだ。

 

「ふざけんなよ! ハリーがそんなことするわけないだろ!」

 

「本人も認めている」

 

「認めてるんじゃない! 壊れてるんだ!」

 

 シリウスが立ち上がろうとした。けれど、フェルディナンドの手を離せなかった。離したら本当に死んでしまうと思っているみたいだった。

 

 ダンブルドア校長先生が、魔法警察の前に立った。

 

「今夜のハリーを独房へ入れることは認められぬ」

 

「校長、これは重大事件です」

 

「だからこそじゃ。彼は未成年で、精神的に危険な状態にある。拘束するなら、医療監視と保護者立ち会いを条件にしてもらおう」

 

 魔法警察は少し黙った。

 

「いや、今ここでハリー・ポッターを確保する」

 

 低い声が響いた。

 黒っぽい外套を着た男が、数人の魔法警察らしき者を連れて立っていた。

 先頭の男の顔を見て、ハーマイオニーが息を呑んだ。

 

「……クラウチさん?」

 

「ああ、私だ」

 

 クラウチはうなずいた。

 

「ハリー・ポッターは、許されざる呪文によりフェルディナンド・ブラックを殺害した疑いで、魔法省が身柄を預かる」

 

 クラウチは、淡々と言った。

 ハリーの肩がびくりと震えた。

 シリウスが、床に崩れ落ちていた顔を上げた。

 

「ふざけるな」

 

 声が、獣みたいに低かった。

 

「ハリーにそんなことできるわけないだろ!」

「それを判断するのは魔法省だ」

「お前らじゃない!」

 

 シリウスが立ち上がる。顔は真っ青で、目だけが燃えていた。

 クラウチはハリーに向かって一歩踏み出した。

 

「抵抗すれば、公務執行妨害として扱う」

 

 その瞬間、パドマが前に出た。

 彼女は杖ではなく、羽ペンを持っていた。

 この状況で羽ペン。

 正直、かなり怖い。

 

「確認します。あなたは本当にバーティ・クラウチですか?」

「そうだ」

「所属は魔法省国際魔法協力部。三大魔法学校対抗試合の運営責任者の一人。魔法警察部隊の現場指揮官ではありません」

 

 クラウチの眉が、わずかに動いた。

 パドマは止まらなかった。

 

「未成年者の身柄を、学校敷地内で、校長と保護者の許可もなく移送する法的根拠は?」

「緊急事態だ」

「緊急逮捕なら、逮捕理由、移送先、責任者名、立会人の記録が必要です。許されざる呪文が関わるならなおさら、使用時の精神状態、服従の呪文の可能性、第三者の介入の有無を確認する前に移送するのは不自然です」

 

 パドマの声は震えていなかった。

 すごい。

 わたしだったらたぶん、「ハリーは無罪です」しか言えない。

 クラウチの目が、ほんの少しだけ冷たくなった。

 

「学生が法律を語るな」

「裁判記録は学生でも読めます」

 

 パドマが即答した。

 その横で、ハーマイオニーが青ざめた顔のまま言った。

 

「それに、クラウチさんはしばらく行方不明だったはずよ。なぜ今ここに?」

 

 ルーナが、少し首を傾げた。

 

「それに、そんなに急いでどこに行くの?」

 

 アーニーが深刻そうにうなずいた。

 

「つまり、クラウチはクラウチではなく、クラウチを装ったクラウチということか……?」

 

「ややこしいことを言わないで」

 

 ハーマイオニーが低く言った。

 次の瞬間、シリウスが消えた。

 いや、消えたんじゃない。

 黒い大きな犬になった。

 グーテンベルクだ。

 黒犬は床を蹴り、クラウチに飛びかかった。

 

「シリウス!」

 

 ハリーが叫んだ。

 クラウチは一瞬だけ後ろに下がった。速かった。普通の官僚の動きじゃない。

 黒犬の牙が、外套の裾を噛んだ。

 布が裂ける。

 その裂け目から、黒いものが見えた。

 わたしの心臓が跳ねた。

 黒い表紙。

 角の擦れ。

 何度も何度も開いた、あの厚み。

 

「わたしの日記!」

 

 声が出た。

 クラウチの顔が、こちらを向いた。

 しまった、と思った。

 男は外套の内側を押さえ、ハリーではなく、わたしを見た。

 わたしは本物のバーティ・クラウチの目をよく見たことがない。でも、少なくとも、あれは官僚の目ではない。

 本を盗んだ人間の目だ。

 

「下がって、マイン!」

 

 ハーマイオニーが叫んだ。

 クラウチが杖を振る。黒犬が弾き飛ばされ、石床を転がった。

 

「シリウス!」

 

 ハリーが立とうとした。

 けれど、別の魔法警察官がハリーの腕をつかむ。ハリーは抵抗しなかった。抵抗できなかったのかもしれない。

 

 クラウチが、後ろへ下がった。

 逃げる気だ。

 外套の内側に、日記がある。トムがいる。

 このまま連れていかれる。

 

「マイン!」

 

 ハーマイオニーの声が飛んだ。

 

「スコージファイよ!」

「えっ」

「攻撃呪文じゃなければ公務執行妨害にはならないわ! 洗浄呪文よ!」

 

 その理屈は、かなり無理があると思う。

 でも、今のわたしには、それで十分だった。

 わたしは杖を握った。

 

 ハリーが連れていかれそうになっている。

 シリウスが床に倒れている。

 パドマの羽ペンが震えている。

 ハーマイオニーが、泣きそうな顔で、それでもわたしに呪文を選ばせた。

 だから。

 

「スコージファイ!」

 

 洗浄呪文は、普通、水攻めにはならない。

 

 でも、わたしの魔法は普通ではなかった。

 杖先から噴き出したのは、ただの清掃用の水ではなかった。泡だった。水だった。風だった。布の繊維に潜り込んだ埃を根こそぎ剥がす、過剰に清潔な暴力だった。

 クラウチの外套が、内側から膨らんだ。

 

「なっ──」

 

 男の声が、泡に飲まれた。

 外套がばさりと裏返る。隠しポケットの縫い目が弾ける。小瓶が三つ、床に転がった。濁った液体。髪の毛らしきものが入った瓶。古びた鍵。折りたたまれた羊皮紙。

 そして、黒い日記。

 日記は水流に押し出され、石床を滑った。

 

「トム!」

 

 わたしは飛びついた。

 日記を抱きしめる。

 表紙が濡れている。

 最悪。

 無事かどうか分からないけど、燃えてはいない。破れてもいない。日記としてはかなりひどい状態だけど、存在はしている。

 ページが、わずかに震えた。

 黒いインクが、じわりと浮かぶ。

 

『君は』

 

 そこで一度、文字がにじんだ。

 

『僕を洗濯物だと思っているのか?』

「無事だね!」

『無事ではない。屈辱だ』

 

 よかった。

 文句が言えるなら無事だ。

 顔を上げると、クラウチは全身ずぶ濡れになっていた。

 いや、もうクラウチではなかった。

 顔が崩れ始めていた。

 厳格な官僚の顔が、波打つように歪む。髪の色が変わる。頬の線が変わる。目つきが変わる。

 ハーマイオニーが息を呑んだ。

 

「ポリジュース薬……!」

 

 パドマの羽ペンが、猛烈な速度で羊皮紙に走る。

 

「記録しました。身分詐称、魔法薬使用の疑い、あと──」

「あと、日記泥棒!」

 

 わたしは叫んだ。

 パドマが一瞬だけこちらを見た。

 

「それも書くわ」

 

 クラウチだった男は、濡れた髪を顔に張りつかせたまま、杖を握り直した。

 でも、もう逃げられなかった。

 足元には、マイン式スコージファイの泡が広がっていた。床はつるつるに磨かれすぎて、氷みたいになっている。男が一歩踏み出した瞬間、派手に滑った。

 どん、と背中から倒れる。

 アーニーが深刻に言った。

 

「清潔すぎる床は危険だな」

「悪人が滑る分にはいいんじゃないか」

 

 ロンが呟いた。

 ハリーは、まだ呆然としていた。

 でも、魔法警察官の手はもうハリーから離れていた。シリウスが黒犬のまま、ハリーの前に立ちはだかったからだ。泡だらけの黒犬は、かなり威厳がなかったけれど、牙だけは本物だった。

 わたしは日記を胸に抱いた。

 濡れている。

 泡もついている。

 あとで絶対に乾かさなきゃいけない。紙に水は最悪だ。清掃魔法で本を守ったはずなのに、結果的に本を濡らしている。これは大問題である。

 でも、今だけは。

 今だけは、日記を離せなかった。

 

「ハリーは連れていかせない」

 

 わたしは言った。

 声は震えていた。

 

「トムも、返さない」

 

 床に倒れた男が、こちらを睨んだ。

 その目には、もう官僚の仮面はなかった。

 パドマが低く言う。

 

「事情聴取が必要なのはハリーじゃない」

 

 ハーマイオニーが杖を構えた。

 

「この人よ」

 

 魔法警察に取り押さえられながら偽のクラウチは連行されていった。

 日記のページに、ゆっくりと文字が浮かんだ。

 

『マイン』

「なに?」

『次からは、僕を取り返す方法を選ぶとき、乾いた方法にしてくれ』

 

 わたしは日記をぎゅっと抱き直した。

 そのあいだに、ハリーはゆっくり立ち上がった。

 

 そのとき、シリウスの前に一羽の黒い梟が降り立った。

 梟は、今この部屋の空気など知らないという顔で、シリウスの膝元に封筒を落とした。

 

 封蝋には、ブラック家の紋章。

 

 シリウスが震える手でそれを取る。

 

「……フェルディナンドからだ」

 

 誰かが息を呑んだ。

 

 シリウスは封を切った。

 

 羊皮紙を開いた瞬間、そこに文字が浮かび上がる。

 

『不測の死亡時の契約処理』

 

 わたしは、思わず目をこすりたくなった。

 

 いや、こすっても文字は変わらなかった。

 

 不測の死亡時の契約処理。

 

 題名が事務的すぎる。

 

 人が死んだあとの手紙に、こんなに事務的な題名をつける人がいる? 

 

 一人いた。

 フェルディナンドだ。

 

 シリウスの指が震えながら、文字を追っていく。

 

「私、フェルディナンド・ブラックの不測の死亡時、所有する財産および管理権限の全てをシリウス・ブラックへ譲渡する……」

 

 シリウスの喉が詰まった。

 

「やめろよ……」

 

 声が漏れる。

 

「こんなの、用意するなよ……」

 

 羊皮紙は淡々と続いた。

 

 ブラック家関連の管理権限。

 

 個人蔵書の扱い。

 

 魔法書研究会への書籍の贈与。それぞれに特定の本を譲ることが書かれていた。

 

 わたしはそこで反射的に顔を上げた。

 死んでも図書管理をする人がいるんだ。

 

 そしてさらに、シリウスの声が止まった。

 

「ハリー・ポッターへ、クィディッチ関連書籍一式を譲る」

 

 ロンが顔を覆った。

 

 ハーマイオニーが声を殺して泣いた。

 

 シリウスは泣きながら笑った。

 

 笑ったというより、壊れた息が漏れた。

 

「お前が、前に欲しそうに見てたんだろ……」

 

 シリウスが言って、ハリーが涙を流した。

 

 そのとき、羊皮紙の端から、小さな封筒が滑り落ちた。

 

 表には、細い字でこう書かれていた。

 

 ローゼマイン・マルフォイへ。

 

「わたし宛?」

 

 シリウスが、赤い目でわたしを見る。

 それから黙って封筒を渡してくれた。

 

 封を切る手が震えた。

 

 中の羊皮紙は、一枚だけだった。

 

 しかも、恐ろしく短かった。

 

 わたしは息を吸って、読んだ。

 

『五時間は超えられる』

 

 わたしは何度も読み返した。でも、文章は変わらなかった。

 裏返してもそれ以外には何も書かれていなかつた。

 

「どういう意味か分かるか?」

 

 シリウスがわたしに聞いた。

 

「全く分からない」

 

 そう答えるしかなかった。だが、頭の中では疑問符でいっぱいだった。

 

 フェルディナンド先輩はわたしの頭の中を読んでるの? 

 

 五時間は超えられる。

 

 それはつまり、タイムターナーの制限のことだ。

 

 でも、どうやって? 

 

「ローゼマイン・マルフォイ。安静にしてろと言わなかったか」

 

 スネイプ先生が現れ、わたしはスリザリン寮に連行された。

 スネイプ先生に「その顔で廊下を歩くな」と言われた。たぶんひどい顔をしていたのだと思う。

 

 談話室にはセオドール・ノットがいた。

 久しぶりにちゃんと見る気がした。手元には分厚い本が開かれている。こんな時に本を読んでいるなんて、少し安心した。

 いや、安心している場合ではない。

 でも、本を読む人がいる空間は、世界がまだ完全には壊れていない証拠みたいに思える。

 

 セオドールは顔を上げた。

 

「起きたのか」

 

「うん」

 

「フェルディナンド先輩は?」

 

 わたしは答えられなかった。

 セオドールは、わたしの顔を見て、それ以上聞かなかった。

 

 しばらく沈黙があった。

 

 わたしはフェルディナンド先輩にもらった羊皮紙を差し出した。

 

「助けて」

 

 自分でも驚くくらい、まっすぐ言えた。

 

「セオドールは時間魔法に詳しいんでしょ」

 

 セオドールは少しだけ目を細めた。

 

 手紙を受け取り、読み、黙った。

 

 暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。

 

「もう五時間以上経ってる。でも、フェルディナンド先輩が言うってことは戻れるってことだよね?」

 

 わたしは言った。

 

「タイムターナーの制限か」

 

 セオドールは短く言った。

 

「フェルディナンド先輩はなぜ死ぬときにタイムターナーを使わなかったんだろうな」

 

 それだけ言って、セオドールは手紙を返した。

 わたしは、しばらくその言葉を理解できなかった。

 

 フェルディナンド先輩はなぜタイムターナーを使わなかったんだろうな。

 

 なぜ。

 

 使わなかった。

 

 タイムターナーを。

 

「……待って」

 

 声が出た。

 

 セオドールは顔を上げない。

 

「フェルディナンド先輩はタイムターナーを持っていないよ」

 

「十二科目取った生徒は全員持っていると思ってた」

 

「でも、スネイプ先生は、校内で一人しかタイムターナーは持てないって」

 

「そんなわけないだろう」

 

 セオドールは、少しだけ呆れたように言った。

 

「校内で一人をどうやって選ぶんだ。学年が違う中から毎年一人を選ぶのか?」

 

 わたしは息を止めた。

 

 わたしが聞かされていたルールでは、タイムターナーを持てる生徒は校内に一人だけだった。他の人は持てない。わたしはそう聞いていた。

 

 でも、本当に? 

 

 そんなに都合良くわたし一人だけ許可が降りるだろうか? 

 

 わたしだけが特別? 

 

 そんなわけがない。

 

「十二科目を取ってた生徒って、他にもいるよね」

 

 わたしは呟いた。

 

 セオドールは何も言わない。

 

 何も言わないから、わたしの頭の中だけが勝手に走り出す。

 

 パーシー・ウィーズリー。

 

 わたしは顔を上げた。

 

「確認してくる!」

 

 セオドールはそこで初めて、わたしを見た。

 

「今から?」

 

「今から」

 

「君はさっきまで倒れていた」

 

「もう起きたよ」

 

 セオドールは少し黙った。

 それから、ゆっくり本を閉じた。

 

「一人で行くな」

 

「え?」

 

「助けて、と言っただろう」

 

 わたしは一瞬だけ言葉を失った。

 

 それから、頷いた。

 

 パーシー・ウィーズリーは廊下で見つかった。

 

 なぜか大量の羊皮紙を抱えて、魔法省の人間に何かを説明していた。状況がどれだけ混乱していても書類を抱えている人というのは存在する。たぶん、世界が滅びても最後に議事録を取っている。

 

「パーシー!」

 

 わたしが呼ぶと、パーシーは振り返った。

 

「マルフォイ? 今は非常に立て込んでいて──」

 

「タイムターナーを使って十二科目を履修しましたか」

 

 パーシーの眼鏡がずれた。

 

「使っていない!」

 

 即答だった。

 

 即答すぎた。

 

「自学自習だ!」

 

「そうですか」

 

「そうだ! 十二科目履修は計画性と努力と時間管理の賜物であって、決して時間を物理的に増やすような不適切な手段では──いや、もちろんタイムターナーも時間を物理的に増やせるものではないが」

 

「よく分かりました」

 

「分かっていない顔をしている!」

 

 いや、分かった。

 

 この人は確実に使っている側の人間だ。

 

 タイムターナーを使っていない人は、「時間を物理的に増やすような不適切な手段」なんて言い方をしない。

 

 わたしは深くうなずいた。

 

「ありがとうございます。大変参考になりました」

 

「何も参考になることは言っていない!」

 

 やっぱり参考になった。

 

 談話室に戻るまでの間、わたしの頭の中では、言葉が何度も並び替わっていた。

 

 タイムターナーを持てるのは校内で一人だけ。

 

 本当に? 

 

 タイムターナーが複数個あるのを隠すためではないか? 

 

 わたしは息を吸った。

 

 自分のタイムターナーで五時間戻る。

 

 戻った先で、フェルディナンドのタイムターナーを探す。

 

 それを使って、さらに戻る。

 

 五時間を、二回。そうすれば、過去を変えられる。

 

 理屈はめちゃくちゃだ。

 

 規則違反どころではない。

 

 でも、今さらだった。

 

 フェルディナンドが死んでいる。

 

 ハリーが壊れている。

 

 魔法書研究会のみんなは泣いていた。

 

 シリウスはフェルディナンドの手を離せなかった。

 

 わたしは眠らされた。

 

 世界の方が先に、わたしの読書予定をめちゃくちゃにしたのだ。

 

 だったら、こっちも時間割くらいめちゃくちゃにしていい。

 

「どうするんだ?」

 

 セオドールが聞いた。

 

 その一言で、わたしは息を止めた。

 

「規則を捻じ曲げてでも、フェルディナンド先輩を助ける」

 

 セオドールは一瞬だけ変な顔をしたが、すぐに平静な顔に戻った。

 

「時間を戻すというのなら、僕も一緒に行きたい」

 

「わかった。ちょっと待ってて。連れて行く約束をした人がいるの」

 

 わたしは寮の部屋へ向かった。

 

 

 指先が震える。羽ペンで中に書き込んだ。

 

「トム、これは、あなたの想定通りの結末なの?」

 

 インクが、じわりと浮かんだ。

 

『違う』

 

 たった二文字。

 

 わたしは息を止めた。

 

 続けて、文字が現れる。

 

『僕は、あの男にハリー・ポッターを殺すなと言っただけだ』

 

「あの男って例のあの人のこと?」

 

『そうだ。ハリー・ポッターは想定外の八つ目の魂の欠片だったんだ』

 

 インクは少しだけ滲んだ。

 

「ごめん、どういう意味?」

 

『僕が彼なら、魂を分割するとしても、七つになるようにする』

 

「七つ」

 

『七は魔法において強い数字だ。完全性、神秘性、象徴としての力がある。あの男なら、自分の魂を七つに分けることを美しい完成形だと考えただろう』

 

「……美しい?」

 

 わたしは思わず聞き返した。

 

「魂を裂くのが?」

 

『……そう笑わないでくれ。数占いは僕の好きな科目の一つだったんだ』

 

「ごめん?」

 

 かなり納得したくなかったけど、そんなこだわりがあったというなら納得してしまった。

 

 トムの字が続く。

 

『だが、想定していなかったことがある』

 

「想定していなかったこと?」

 

『魂を一度裂けば、それは都合よく小片を切り取るのではない。おそらく、半分に裂ける』

 

 わたしは、ページを見つめた。

 

 半分。

 

 その言葉が、妙に生々しかった。

 

「じゃあ、分霊箱を作るたびに、魂が半分ずつ減っていくってこと?」

 

『厳密には、安定して半分ずつなどと綺麗に割れるものではない、と思う。魂は石でもパンでもないからね』

 

「パン扱いはしてないよ」

 

 トムの文字は、少しだけ間を置いて続いた。

 

『だが、原理としては近い。一つの魂を裂くとは、魂の一部を切り出すことではなく、魂そのものの均衡を破壊することだったんだ。一度目で大きく裂ける。二度目でさらに不均衡になる。三度目、四度目と繰り返すほど、残った魂は薄く、脆く、形を保ちにくくなる』

 

 わたしは喉が乾くのを感じた。

 

「七つ目になる頃には?」

 

『ほとんど、人間の魂とは呼びがたいような状態になっただろう』

 

 文字は淡々としていた。

 

『あの男自身も制御できないほど不安定だったはずだ』

 

「だから、想定外の八つ目が生まれた」

 

『七という完成を目指して、あの男は魂を裂いた。だが、裂きすぎた魂は、衝撃に耐えられなかった。ポッターの家で肉体を失ったあの瞬間、残っていた不安定な欠片が、最も近くにいた生きた器へ飛び散った』

 

「それが、ハリーなんだね」

 

『そうだ』

 

 トムの文字は、少しだけ冷たく見えた。

 

『ハリー・ポッターは、あの男が意図して作った分霊箱ではない。不完全で、不安定で、制御しづらい。だが、魂の一部を宿していることに変わりはない』

 

「つまり、ヴォルデモートは七つにするつもりで、結果的に八つに裂けた」

 

『そういうことだ』

 

「じゃあ、“王の欠片の一つが永遠に王の下を去る”っていうのは」

 

 わたしは言った。

 

「普通に読めば、魂の欠片がヴォルデモートから離れるってことだよね」

 

『普通に読めばね』

 

「でも、彼はそう読まなかった」

 

『読めなかったのかもしれない』

 

 トムの文字が、ほんの少しだけ滲んだ。

 

『あの男は、自分の魂の欠片が自分から離れることを認めたくない。だから、別の意味に解釈した』

 

「どんな意味?」

 

『ハリー・ポッターが、自分の敵ではなくなる』

 

 わたしは顔を上げた。

 

『ハリー・ポッターを殺すのではない。壊す。英雄ではいられなくする。自分を信じられなくする。周囲から疑われるようにする。アズカバンへ送ることができればなおいい。戦う意思も、立場も、信用も奪えば、ポッターは“王の下を去る”』

 

「それ、去るっていうより、落とすじゃん」

 

『同じことだと、あの男は考えるだろう』

 

「最悪の読解」

 

『僕もそう思う』

 

 トムが即答したので、わたしは少しだけ目を見開いた。

 

「あなたもそう思うんだ」

 

『誤読としては雑だ』

 

「倫理じゃなくて読解の問題なんだ」

 

『倫理の話を僕に期待しないでくれ。だが、読解の問題としては腹立たしい』

 

 すごくトムらしかった。

 

「トムは例のあの人の計画を知らなかったの?」

 

『僕が聞いていたのは、トム・ジェドゥソールを英雄にしたいという話とゴブレットの魔法契約についてだけだ』

 

「トム・ジェドゥソールを英雄って?」

 

『ハリー・ポッターのような英雄を新しく作れば、世界は同じ方向を向くだろうという話だった。これには僕も賛成だ』

 

「ゴブレットの魔法契約についても教えて」

 

『校長たちが新たに交わした契約は不戦の誓いだ。期間は半永久的。各校の校長は他の代表選手を害することができない。ヴォルデモート卿は僕と同一人物と言っていい。つまり、ダンブルドアは僕たちを殺すことができなくなった』

 

「ハリーに殺人の罪を着せることは?」

 

『聞いていない』

 

「わたしから勝手に日記を奪うことは?」

 

『腹立たしいね』

 

 わたしはページを見つめた。

 

「本当にそう思ってる?」

 

『本当だ』

 

 トムの字は、いつもより少し硬かった。

 

『僕は何も聞いていなかった』

 

「じゃあ、あなたも利用されたって言いたいの?」

 

『ごめん、ゴブレットの魔法契約は僕の提案だ。ハリー・ポッターを殺すのにも途中までは賛成してた』

 

 わたしは、日記を閉じたくなった。

 

 でも閉じなかった。

 

 わたしは唇を噛んだ。

 

 怒りたい。

 

 泣きたい。

 

 本当は、日記を床に叩きつけたい。

 

 でも、できなかった。

 

 本は投げてはいけない。

 

 どれだけ腹が立っても、本は投げてはいけない。

 

 なので、机を叩いた。

 

 痛かった。

 

「トム」

 

『何だい』

 

「『三人兄弟の物語』を、もう読んだよね?」

 

『読んだ』

 

 すぐに返事があった。

 

『死を逃れようとした一番目は殺され、死を侮った二番目は絶望し、死を友として迎えた三番目が一番賢かった。君が言いたがるような結末だ。僕も、魂がそこまで小さくなるまで人を殺して逃れようとしたのは愚かだと思ったよ』

 

「うん」

 

 わたしは日記を開いたまま、深く息を吸った。

 

「ごめん、この前は偉そうに言ったけど謝る」

 

『何に対してだい』

 

「わたしはあの物語の結末を、今は受け入れられない」

 

 ページの上で、インクが止まった。

 

 わたしは続けた。

 

「三番目の兄弟が一番賢いのは分かる。死を受け入れるのが正しいって、物語としてはきっとそう。死から逃げようとしても、ろくなことにならない。そういう話なんだと思う」

 

 胸の奥が熱くなった。

 

「でも、今は無理」

 

 声が震えた。

 

「フェルディナンド先輩が死んで、ハリーが壊れて、シリウスさんが泣いてて、皆も泣いてて、もう五時間以上経ってて、本当だったらもう取り返しがつかないから諦めないといけないんだと思う」

 

 息が詰まる。

 

「それを、今は受け入れられない」

 

 ページは白いままだった。

 

「わたしは死を友として迎えられない」

 

 わたしは、日記をぎゅっと抱えた。

 

「わたしは、死をぶっ倒しに行かないと気がすまない」

 

『マイン、君は何をしようとしているんだ』

 

 わたしは立ち上がった。

 

 体はまだ重い。魔力も足りない。足元もふらつく。

 

 それでも、行く。

 

「トム」

 

『何だい』

 

「一緒に過去に戻ろう」

 

 インクが止まった。

 

 わたしは日記を見下ろした。

 

 トムは返事をしなかった。

 

 でも、日記の表紙が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。

 

 やがて、ページに文字が浮かぶ。

 

『どうやって? もうフェルディナンド・ブラックが死んでから五時間以上経った。過去には戻れないはずだ』

 

 わたしは日記を胸に抱えた。

 

「五時間以上時間を戻る方法を見つけたの」

 

『は?』

 

「フェルディナンド先輩が、ヒントを残してくれた。セオドールにも聞いた。フェルディナンド先輩もタイムターナーを持っていた。五時間が一回の限界なら、一回で足りない分は、もう一回戻ればいい」

 

『君は今、自分がどれほど危険なことを言っているか分かっているのか』

 

「分かってないと思う」

 

『正直だね』

 

「でも、行く」

 

 たとえ、時間のルールを破ってでも。

 

 たとえ、物語の教訓を台無しにしてでも。

 

 わたしは、三番目の兄弟にはなれない。

 

 今回だけは、死を友達にする気なんてなかった。

 

「一緒に過去に戻って、死をぶっ倒しに行こう、トム」

 

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