本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:bookworm

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71話 本好きの逆襲

 

「一緒に過去に戻って、死をぶっ倒しに行こう、トム」

 

 わたしはトムに言った。

 

 ページの上に、しばらく何も浮かばなかった。

 

 ものすごく、トムらしい沈黙だった。

 

 わたしが「死をぶっ倒しに行く」と宣言した直後の沈黙としては、かなり冷静である。普通なら「何を言っているんだ」とか「正気か」とか「死はぶっ倒す対象ではないと思う」とか言うところだ。

 

 でもトムは、たぶん言葉を選んでいた。

 

 やがて、黒いインクが白いページに浮かび上がる。

 

『死から逃げずにぶっ倒す、か。予想外すぎる』

 

 わたしは日記を開いたまま、机の上に置いた。

 

「で、行くの? 行かないの?」

 

 また日記は沈黙した。

 

『僕は、もうあの男を未来の自分とは思わない』

 

「あなたはあの人の過去なんでしょ?」

 

『過去であることと、未来を認めることは違う。死から逃げた結果があれなら、僕はその選択を選ばない。君と一緒に死をぶっ倒すことを選ぶ』

 

「トム!」

 

 日記を思わず抱きしめた。

 

『日記を勝手に使われたのも許しがたい』

 

「そもそも、なんで日記を盗む必要があったんだろう? ハリーがフェルディナンド先輩を殺すだけなら、日記はいらないはずだよね?」

 

『ポートキーの代わりになるからだろうね。日記のページを置いておけば、紙がおいてある場所なら移動ができる』

 

「そんな機能があったの? ……そっか、ホグワーツでは姿くらましが使えないから、日記を移動手段に使ったんだね」

 

「でも、どこに?」

 

 わたしが聞くと、トムの返事は早かった。

 

『秘密の部屋だと思う』

 

 心臓が、嫌な音を立てた。

 

「秘密の部屋?」

 

『そうだ。あの男が選びそうな場所だ』

 

「……そういえば」

 

 わたしはそこで、ものすごく重大なことに気づいた。

 

「この一年、わたし、秘密の部屋に全然行こうと思わなかった!」

 

 日記のページが、一瞬白くなった。

 

 それから、ゆっくり文字が浮かぶ。

 

『今気づいたのかい』

 

「だって! おかしいよ! 書庫だよ!? 本棚も置いたよ!? なのに、この一年一回も行ってない!」

 

 自分で言って、自分で信じられなかった。

 

 秘密の部屋を書庫化したのに行っていない。

 

 本棚を置いて、シリウス・ブラックからもらった本も大量に置いたのに行っていない。

 

 これは、間違いなくわたしの怠慢ではない。

 

 絶対に何かの呪いのせいだ。

 

『彼は、秘密の部屋そのものに仕掛けを施した。秘密の部屋を知っていても興味がなくなるようになっていた』

 

「何それ、陰湿!」

 

 わたしは叫んだ。

 

「読書妨害魔法じゃん! 許せない!」

 

 フェルディナンドが死んだ。

 

 ハリーが壊れている。

 

 トムの日記が奪われた。

 

 それだけでも十分許せない。

 

 でも、わたしの書庫に行こうとする気持ちまで邪魔されていた。

 

 これはもう、全面戦争である。

 

 書庫を奪われた恨みは重い。

 

 本好きにとって、書庫の占拠は宣戦布告である。

 

「行くよ、トム」

 

 わたしは日記を閉じた。

 

「フェルディナンド先輩を助けて、わたしの書庫を取り戻す」

 

『並列に扱うことではないね』

 

「大事なことは全部まとめてやるの」

 

 わたしはタイムターナーを握った。

 

 小さな砂時計。

 

 今まで何度も使ってきたもの。

 

 でも、今夜だけは、いつもの授業のためではない。

 

 時間割を調整するためでもない。

 

 死を殴りに行くためだ。

 

「そうだ、セオドールも一緒に行く」

 

 わたしは急に思い出して言った。

 

『聞いてない』

 

「今思い出したんだよ」

 

『セオドール・ノットは秘密の部屋には連れていけない。説明が面倒だ。どうするつもりだ?』

 

「どうしよう?」

 

『今回は僕が作戦を考える。セオドール・ノットにも忠実に実行させろ』

 

 日記を持って談話室に行くと、セオドールが本を読みながら待っていた。

 

「わざわざ日記を取りに行ったのか?」

 

「大事だよ。セオドール、わたしの作戦を確実に実行してくれるなら連れて行く。難しいなら」

 

「やる。僕はタイムターナーを使えるなら命だって惜しくない」

 

 そんなにタイムターナーに思い入れがあったのか。

 わたしはセオドールに作戦を伝えた。

 

「まず、五時間」

 

 砂が落ちる。

 

 世界が反転する。

 

 音が遠ざかる。

 

 体が、時間の流れから引き剥がされる。

 

 わたしは顔を上げた。

 

「ちょうど五時間前だよ」

 

 わたしとセオドールはフェルディナンド先輩が安置されている部屋へ向かった。

 

 五時間戻っても、まだ間に合わない。フェルディナンド先輩はもう死んだ後の時間帯だ。

 

 だから、もう一つ必要だ。

 

 フェルディナンド先輩のタイムターナー。

 

 部屋に入ると、そこにはまだフェルディナンドがいた。

 

 一度見たはずなのに、やっぱり息が止まった。

 

 白い顔。

 

 閉じた目。

 

 一度見たはずなのに、やっぱり息が止まった。

 人が多すぎた。

 シリウス・ブラックがいる。ハリーがいる。マダム・ポンフリーがいる。スネイプ先生もいる。誰もがフェルディナンド先輩を見ていて、誰も近づける空気ではない。

 

 そんな中に倒れているはずのわたしが行ったら大混乱だ。

 

「セオドール」

 

 小声で言うと、セオドールは頷いて部屋の中に入っていった。周囲の視線が彼に集まる。

 

「フェルディナンド先輩には……」

 

 声が震えていた。

 

「よくして、いただいて……」

 

 誰。

 誰ですか、この人。

 いつものセオドール・ノットはどこへ行ったのか。

 

「この前も貴重な数占いの資料をいただいて……」

 

 細かい。

 彼は泣きながら具体的な貸借記録を出している。

 泣いているから周囲は止めづらい。

 シリウスが苦しそうに顔を歪めた。

 マダム・ポンフリーも、少しだけ横へずれた。

 セオドールはふらりとフェルディナンド先輩のそばへ近づき、膝をついた。

 

「先輩、なんで僕を置いていくんですか……もっと教えてほしいことがあったのに」

 

 あまりの名演技に、わたしは危うく観客になりかけた。

 だめだ。

 

 今は泥棒である。

 いや、借りるだけだ。

 返す。

 絶対に返す。

 わたしはセオドールのローブの影に隠れるように、フェルディナンド先輩の右手に近づいた。

 

「ごめん、フェルディナンド先輩」

 

 わたしは小さく言った。

 

「借りるね。返すから。絶対に返すから」

 

 首元に手を伸ばす。

 

 見えない。

 

 やっぱり、見えるところにはない。

 

 でも、あるはずだ。

 

 そのとき、フェルディナンド先輩の指先が、かすかに光った。

 

「……あった」

 

 ローブの袖の内側に、細い鎖があった。

 

 その先に、小さな砂時計。

 

 わたしはフェルディナンドのタイムターナーを握りしめた。

 

「フェルディナンドはこんなに後輩にも慕われていたのか」

「ホグワーツに入学してから一番好きな先輩でした」

 

 シリウスが感動したようにセオドールを見つめている。

 セオドールが、泣き真似のままわたしの方へ視線だけを寄こす。

 

 取った? という目だった。

 わたしは小さく頷く。

 セオドールは最後に、完璧なすすり泣きを一つ落として、ゆっくり立ち上がった。

 

「ありがとうございました、フェルディナンド先輩……」

 

 すごい。

 本人が聞いていてもとても親しかったと勘違いしてしまいそうな名演技だった。

 

 わたしたちは部屋を出た。

 廊下の角を曲がった瞬間、セオドールは涙を拭いた。

 そして普通の顔に戻った。

 切り替えが早すぎる。

 

「取れた?」

「取れました」

「なら次」

「演技上手すぎない?」

「母上の葬儀で、大人の前では泣けと言われた」

 

 事情が重い。

 

「ごめん」

「謝らなくていい。役に立った」

 

 役に立ち方がつらい。

 でも、セオドールはもうタイムターナーを見ていた。

 

「次を回して。ここで止まると、感情が追いついてくる」

 

 その通りだった。

 今止まったら、フェルディナンド先輩の白い顔を思い出して動けなくなる。

 わたしはフェルディナンド先輩のタイムターナーを握った。

 

 わたしは息を吸った。

 吐いた。

 

「もう五時間」

 

 世界が、もう一度ひっくり返る。

 

 胃もひっくり返る。

 

 わたしは時間旅行が嫌いになりそうだった。

 

 遠くで歓声が聞こえる。

 第三の課題が始まった後のわたしがまだ医務室で寝ているときだ。

 実際に戻れたのを確信して、わたしはセオドールに指示する。

 

「セオドールはバーティ・クラウチを探して。見つけたら、ダンブルドアに場所を教えて」

 

「分かった」

 

 セオドールが移動するのを見届けて、わたしはスリザリン寮の入り口に入った。秘密の部屋の入り口がある使われていない浴室の方へと移動する。

 

 入り口の前でわたしは蛇語で言った。

 

『開け』

 

 わたしは日記を抱えたまま、秘密の部屋へ飛び込んだ。

 

 そこは、わたしの書庫だった。

 

 だった。

 

 過去形にしたくない。

 

 でも、そう言いたくなるくらい、ひどい光景だった。

 

 本棚の前に、小さな丸テーブル。

 

 銀のティーポット。

 

 白いカップ。

 

 湯気の立つ紅茶。

 

 そして、その向こうに、黒いローブの男。

 

 マルフォイ家の客人だ。

 

 彼は優雅にお茶を飲んでいた。その近くには黒いローブの集団がひれ伏している。

 

 わたしは一瞬、怒りより先に混乱した。

 

 闇の帝王がわたしの書庫でお茶を飲んでいる。

 

 お茶を飲むなとは言わない。読書とお茶は相性がいい。かなりいい。お茶を飲みながら本を読む時間は尊い。

 

 でも、ここはわたしの書庫である。

 

 しかも無断使用。

 

 しかも死喰い人つき。

 

 しかも本棚の前。

 

 許せない要素が積み重なりすぎて、むしろどこから怒ればいいのか分からない。

 

「……わたしの書庫で」

 

 声が震えた。

 

 怖くてではない。

 

 怒りで。

 

「何してるんですか」

 

 ヴォルデモートが、初めてカップから目を上げた。

 

 赤い目が、わたしを見る。

 

「ローゼマイン・マルフォイ」

 

 その声は静かだった。

 

 けれど、ほんの少しだけ、予想外のものを見た響きがあった。

 

「なぜお前が起きている」

 

「書庫の持ち主なので」

 

 わたしは杖を握った。

 

「書庫荒らしには厳しいです」

 

 周囲で死喰い人たちが動いた。

 床にひれ伏していた者たちが、わずかに顔を上げる。

 

 その中に、痩せた女がいた。

 

 白いものの混じった髪。こけた頬。黒いローブの似合わない細い肩。

 

 前に会ったときとはずいぶん雰囲気が変わっている。

 

 セラディーナ・ロウル。

 

 フェルディナンド先輩の母親。

 フェルディナンド先輩が瞬時に呪文に対抗できなかった理由に違いない。

 

「トム」

 

 日記が、腕の中でかすかに温かくなる。

 

 トムが、わたしの隣に姿を現した。

 

 ヴォルデモートの赤い目が、細くなった。

 

「お前は競技中のはずだ」

 

「ああ」

 

 トムは言った。

 

「君が僕の名前を勝手に使うからね」

 

「なぜ自分に同意を取る必要がある?」

 

「僕はもう君を未来の自分とは認めないことにしたんだ」

 

 ヴォルデモートの表情が、少しだけ冷えた。

 

 そのとき、秘密の部屋の中央で空気が歪んだ。

 ハリーとフェルディナンドが石床の上に現れた。

 

 ハリーは膝をつき、フェルディナンドはすぐに立ち上がろうとした。

 そして、死喰い人たちの列を見た。

 その中の女を見た。

 

 フェルディナンドが息を止める。

 

「インペリオ」

 

 呟いたのはトムだった。

 

「ハリー、誰も殺すな。後は自由に動いていい」

 

 ヴォルデモートの顔から、余裕が少し消えた。なぜ先回りされたのかという顔をしている。

 

「僕ならそうすると思った」

 

 トムが言った。

 

「服従の呪文だけで、ハリー・ポッターに死の呪文を使わせるのは難しい。魂のつながりも使うつもりだったんだろう?」

 

 ハリーが、息を詰めた。

 フェルディナンド先輩の顔も強張る。

 わたしも固まった。

 魂のつながり。

 ハリーの中にある、あの人の欠片。

 分かっていたはずなのに、言葉にされると嫌だった。

 ヴォルデモートは笑わなかった。

 

「お前は、よく喋るようになったな」

 

「もう少し丁寧に筋書きを書くべきだったね」

 

 トムが言った。

 

「トム」

 

 ヴォルデモートが低く言った。

 

「お前は私のはずだ」

 

 トムは、ハリーの横に立ったまま、少しだけ首を傾げた。

 

「そうだね」

 

「ならば、なぜ裏切る」

 

 秘密の部屋が静まり返った。

 

 死喰い人たちも誰一人動かない。

 

 トムは、少し考えるような顔をした。

 

 そして言った。

 

「本に対する解釈の違いかな」

 

 わたしは思わず吹き出しそうになった。

 

 いや、吹き出してはいけない。

 

 本好きとしては、かなり深刻な問題である。

 

 ヴォルデモートの目が、冷たくなる。

 

「くだらない」

 

「くだらなくはない」

 

 トムの声も、少しだけ低くなった。

 

「死は遠ざけるものじゃない。ぶっ倒すものなんだよ」

 

 ヴォルデモートの杖がこちらを向いた。死の呪文ではないが、攻撃呪文には間違いなさそうだった。

 

「プロテゴ!」

 

 わたしは叫んだ。

 

 透明な盾が広がる。

 

 広がりすぎた。

 秘密の部屋の天井近くまで、どん、と広がった。

 本当に、わたしの魔力は加減というものを知らない。こういうときは少し助かるけれど、普段は本棚を倒すので困る。

 

 ヴォルデモートの呪文が盾にぶつかる。

 

 ひびが走り、盾が砕けた。

 

 ヴォルデモートの赤い目が、わたしから後ろへ移った。

 

「ルシウス」

 

 わたしは息を呑んだ。

 

「お前の娘だろう。言って聞かせろ」

 

 その一言で、秘密の部屋の空気が冷えた。

 死喰い人たちの中に、たしかに父はいた。

 父はすぐには答えなかった。

 杖を持つ指が、白くなる。

 それから、ゆっくりとわたしを見た。

 

「ローゼマイン」

 

 声は硬かった。

 家で聞く声ではなかった。

 食卓でわたしに薬を飲めと言う声でも、書斎に入るなと釘を刺す声でもない。

 死喰い人のルシウス・マルフォイの声だった。

 

「杖を下ろしなさい。今すぐ、そこから離れなさい」

 

 胸が、ぎゅっと痛くなった。

 父はやっぱり死喰い人だったんだ。

 でも。

 わたしは、杖を下ろさなかった。

 

「嫌です」

 

 自分でも驚くくらい、声ははっきりしていた。

 父の目が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「ローゼマイン」

「ごめんなさい、お父さま」

 

 わたしは杖を握り直した。

 手が震えていた。

 でも、下ろさなかった。

 

「お父さまの言うことは聞きたいです。でも、ここで杖を下ろしたら、フェルディナンド先輩が死にます。ハリーが壊れます。わたしの書庫で人が殺されてしまいます」

 

 そこまで言って、喉が詰まった。

 

「だから、お父さまの言うことは聞けません」

 

 ヴォルデモートが、低く笑った。

 

「しつけが悪いな、ルシウス」

 

 父の顔が、さらに白くなった。

 

 ヴォルデモートの側にいた死喰い人たちが立ち上がり、わたしたちに杖を向ける。わたしの前をトムとフェルディナンドが塞いだ。

 トムは、自分たちに飛んできた呪文を全部軌道が反れるように逸らした。

 黒い影が、刃のように伸びる。

 呪文を放った死喰い人の足元に絡みつき、石床へ引き倒した。

 

「君たちは本当に、同じような動きでしか動かないね」

 

 トムは冷たく言った。

 

「退屈だ。ヴォルデモート卿は戦い方も教えなかったのか?」

 

 その横で、フェルディナンド先輩が動いた。

 セラディーナの肩を掴んで盾にしようとした男へ、迷いなく杖を向ける。

 男の杖が宙を舞った。

 続けて縄が蛇のように走り、男の腕を縛る。

 一拍も空けず、フェルディナンド先輩は別の死喰い人の呪文を防いだ。

 

「プロテゴ」

 

 盾が小さい。

 正確。

 無駄がない。

 わたしの盾が壁なら、フェルディナンド先輩の盾は薄い刃みたいだった。

 かっこいい。

 いや、見惚れている場合ではない。

 死喰い人の一人が、フェルディナンド先輩の背後を狙う。

 わたしは杖を振った。

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い光が飛ぶ。

 飛んだ。

 飛びすぎた。

 死喰い人の脇を通り過ぎ、後ろの柱にぶつかって爆ぜた。

 

「狙いが大きすぎる!」

 

 フェルディナンド先輩が叫ぶ。

 

「わたしも知ってます!」

「知っているなら直せ!」

「今は勢いで!」

「勢いで呪文を撃つな!」

 

 正論だった。

 正論だけど、今は死喰い人が多い。

 一人ずつ丁寧に狙うより、全体を遠ざけた方が早い。

 そう思った瞬間、本棚の近くで呪文を唱える死喰い人が見えた。

 その杖先に、火花が灯る。

 

 わたしの本棚。

 シリウスからもらった本もある。

 アストリアと一緒に読む約束をした本もある。

 パドマやアーニーに貸す約束をしていた本はまだ貸せていない。

 

「本棚に杖を向けないで!」

 

 叫んだ瞬間、自分の中で何かが切れた。

 いつもの暴走のように、魔力があふれるように出た。

 でも、今回はわざとだ。

 胸の奥から、魔力を本棚へ、床へ、壁へ、秘密の部屋全体へ流す。

 

「本を守って!」

 

 叫んだ瞬間、本棚に刻んでいたルーンが光った。

 前にトムが教えてくれた本を守る魔法だ。

 

 防火。

 防水。

 防虫。

 防湿。

 防盗。

 その最後に、やけに長い術式があった。

 本に害意を持つ者を、本棚から遠ざける魔法。

 あの時のわたしは、便利だと思った。

 本を盗まれないようにする魔法だと思った。

 本棚の付近にいた死喰い人が途端に弾かれて体勢を崩した。

 

「な、なんだ、これは!」

 

 死喰い人の一人が驚いたように言った。

 

「トム!」

 

 わたしは叫んだ。

 

「これ、敵を弾いてる!」

「本を守る魔法だと言っただろう」

 

 トムは涼しい顔で言った。

 

「本の全ての敵から守る魔法だ」

「屁理屈!」

 

 まさか、害意ある者を本棚から遠ざける魔法だとは思わなかった。

 本棚の前に、透明な壁が立ち上がる。

 死喰い人の放った呪文が弾かれ、火花が石床に散った。

 本棚へ向かっていた男が、見えない手に押されたように後ずさる。

 

「小娘が」

 

 ヴォルデモートの声が低くなる。

 ヴォルデモートの杖から魔法が放たれる。

 

 本棚から少し離れたところにいたハリーも杖を構えて、呪文を放った。

 ほとんど同時だった。

 

 赤い光と、緑がかった光がぶつかる。

 

 その瞬間、杖と杖の間に、まばゆい糸のようなものが生まれた。

 

 光がつながった。

 

 音が鳴る。

 高く、細く、耳の奥を震わせる音。

 

「何あれ!?」

 

 わたしは叫んだ。

 トムが目を見開いていた。

 

「あんなもの見たことがない」

 

「トムが見たことないものがあるの!?」

 

「あるに決まっているだろう。僕を何だと思っているんだ」

 

「歩く禁書目録」

 

「失礼だね」

 

 会話している場合ではない。

 

 でも、会話していないと怖かった。

 杖と杖がつながっている。

 ハリーは必死に耐えている。

 

 ヴォルデモートの顔から、余裕が消えていた。

 トムが舌打ちした。

 

「時間をかけすぎた」

「え?」

「彼はもう、この場で誰かを殺すことに固執しない」

 

 その意味を理解するより早く、ヴォルデモートがつながっている杖を見ながら言った。

 

「ルシウス」

 

 父がゆっくり顔を上げる。

 杖を握る手が震えていた。

 

「撤退だ」

 

 父の唇が、わずかに動いた。

 

「……ドビー」

 

 小さな音がした。

 ぱん。

 秘密の部屋の端に、小さな影が現れる。

 

「ドビー!」

 

 わたしは叫んだ。

 ドビーは、今にも泣きそうな顔でこちらを見た。

 

「なんでここにいるの!?」

「ドビーは、マルフォイ家のハウスエルフですので……!」

 

「あの方と我々を全員移動させろ。皆つながれ!」

 

 父の言葉で、死喰い人たちは訓練された動きでお互いの袖や腕を掴んだ。父は最後に、ヴォルデモートのローブの袖へ手を伸ばす。

 

「だめ!」

 

 わたしは叫んだ。

 

「ドビー、だめ! 移しちゃだめ!」

 

 ドビーの大きな目から、涙がこぼれた。

 

「ドビーは……ドビーは、お嬢さまに申し訳ないです……!」

 

 ドビーが指を鳴らした。

 ぱん。

 空気が裂けた。

 その瞬間、ハリーとヴォルデモートを結んでいた光の糸が、びん、と震えた。

 ただ震えたのではない。

 引っかかった。

 ドビーの魔法が、黒いローブの鎖をたどる。

 ドビーから父、父からヴォルデモートや死喰い人たちへ。

 ヴォルデモートから──杖の光へ。

 光の糸が、まるで本の栞紐みたいに、強く引かれた。

 

「え」

 

 ハリーが小さく声を漏らした。

 ハリーの体が、前へ引かれる。

 自分の足で動いたのではない。

 誰かに腕を掴まれたわけでもない。

 杖だ。

 杖の先から伸びた光が、ハリー自身を引っ張っている。

 

「ハリー!」

 

 ハリーは必死に踏みとどまろうとした。

 石床に靴がこすれる。

 杖を握る手に力が入る。

 でも、ヴォルデモートへつながった光の糸は切れなかった。

 むしろ、ドビーの姿くらましの魔法に巻き込まれて、ぎゅっと縮んでいく。 

 ドビーが消えるのと同時にヴォルデモートや死喰い人たちも姿を消した。

 

 ハリーもその場から消えた。

 秘密の部屋に、光の残滓だけが散った。

 赤と緑がかった光の粒が、湿った石床に落ちる。

 それはすぐに消えた。

 火の粉みたいに、跡だけを残して。

 

「……ハリー?」

 

 返事はなかった。

 黒いローブの列もない。

 ヴォルデモートもいない。

 父もいない。

 ドビーもいない。

 

 でも、失神した死喰い人の何人かは転がったままだった。

 

 放心した状態でいたセラディーナはその場にいた。

 つながっていた者だけが、連れていかれた。

 

 でも、ハリーも? 

 

「そんなの……」

 

 わたしの声は震えた。

 

「そんなことってある?」

 

 秘密の部屋は静かになった。

 

 フェルディナンド先輩は生きている。

 でも、ハリーが消えた。

 

 わたしたちはフェルディナンド先輩の死を殴り倒した。

 そのかわりみたいに、別のものを奪われた。

 そんな交換を、わたしは認めたくなかった。

 





いつもたくさん読んでいただけて、感想や評価、ここすきなど大変励みになっています。このタイミングで日間ランキングにも入りありがたい限りです。

フェルディナンドが死んだ回で思った以上にみなさんが心配してくださって、作者もありがたいやら申し訳ないやらでヒヤヒヤしながら書き進めてきました。なんとかここまで書けて少しホッとしています(なお、ハリーはどこかへ行きました)
炎のゴブレット編はまだもう少し話が続きます。

引き続きよろしくお願いします。
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