本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
ボートが岸に着いた。
一年生たちが順番に降ろされていく。夜の湖は黒く、ホグワーツ城の灯りだけが水面に揺れている。
近くで見る城は、湖の上から見たよりもさらに大きかった。
大きい、というか、でかい。
城というより、もはや「石でできた魔宮」だった。どこまでが窓でどこまでが壁でどこまでが塔なのか、一瞬よく分からない。人間が住むには少々本気すぎる建物である。建築者に「控えめ」という単語を教えてあげたい。
「すごい……」
思わず呟くと、隣のアストリアが本を抱えたまま小さく頷いた。
「ええ。本で読むのと全然違いますね」
「図書室、どこにあるんだろう」
「まずそこなんですね」
「そこだよ」
ホグワーツ城を前にして最初に図書室の位置を気にする一年生は、たぶん少数派だと思う。
でも少数派で何が悪い。多数決で本の価値は決まらない。
先頭を歩く大男——ハグリッドというらしい——が、大きな木の扉を拳でどんどん叩いた。城のノッカーを使えばいいのに。いや、あの拳ならノッカー自体が壊れるかもしれない。
扉が開く。
中から現れたのは、背筋のぴんと伸びた年配の魔女だった。髪をきっちり結い上げ、表情には一切の隙がない。
あ、この人はたぶん、宿題を出し忘れたら静かに減点してくるタイプだ。しかも後から気づいて自分で提出しに行っても「遅れた分は別途減点です」と言うタイプだ。
「マクゴナガル先生、イッチ年生を連れて来ました」
「ご苦労さま、ハグリッド。ついて来なさい」
声に無駄がなかった。「ついて来なさい」の七文字に込められた威圧感がすごい。逆らえる一年生はこの世にいないと思う。
わたしたちは広い玄関ホールを通って歩いた。
石の床に靴音が響く。壁には松明が灯り、天井は高い。高すぎる。ホグワーツは建築するたびに「もう少し控えめにしよう」という発想が一切なかったらしい。アストリアの建築魔法の本に書いてあったけれど、創設者たちは全員揃って「大は小を兼ねる」派だったのだろう。
やがてわたしたちは大広間の手前にある小部屋に通された。
マクゴナガル先生が寮の説明とこれから組み分けの儀式を行うことを告げ、身だしなみを整えるように言うと部屋を出ていった。
しばらく待機らしい。一年生たちがぎゅうぎゅうに詰められている。みんな緊張していて、ささやき声ばかりが飛び交っていた。
「組み分けって、試験かな」
「呪文を使わされるのかも」
「決闘じゃないよね?」
「えっ、決闘なの?」
あちこちで不穏な予想が始まっている。こういう時、人はすぐ最悪の可能性を盛る。
この体で決闘は絶対に無理だ。三秒で倒れる。魔力の暴走で相手ではなく会場が吹き飛ぶ可能性はあるけれど、それは決闘ではなく災害だ。
「読書感想文とかなら嬉しいんだけど」
思わず言うと、近くにいた男の子がぎょっとした顔でこちらを見た。
なぜ驚くのか。読書感想文なら本を読んで感想を書けばいい。かなり良心的な試験だ。少なくとも決闘よりはマシだろう。
その時、部屋の向こうの壁をするりと何かが通り抜けてきた。半透明の、ふわふわした人影。続いて二人、三人、四人。どんどん増えていく。
「きゃっ」
「な、何!?」
部屋のあちこちで小さな悲鳴が上がる。
ゴーストだ。
本で読んだことがある。ホグワーツにはゴーストが住んでいる。各寮に一人ずつ。図書室にもいるのだろうか。図書室のゴーストがいたら、過去の蔵書について聞けるかもしれない。これは有益な情報源だ。
幽霊たちは一年生を見回してひそひそ話していたが、そのうちの一人——太った修道士らしき幽霊——がこちらを見て首を傾げた。
「おや、今年はずいぶん小さいのがいるね」
「失礼ですよ」
「いや事実でしょう」
「事実ですけど失礼です」
わたしが言い返すと、修道士は楽しそうに笑った。わたしは楽しくない。事実による攻撃は防御が難しい。
「静かに」
マクゴナガル先生が戻ってきた。
空気が一瞬で締まる。幽霊たちもすっと壁際に引いた。幽霊すら委縮させる先生、強い。
「これから諸君を寮に分けます。寮はホグワーツでの生活の基盤となります」
ついに来た。
寮が決まるということは、生活動線が決まるということだ。図書室からの距離、先輩との関係、夜間の行動範囲、同室になる相手。すべてに関わる。重要である。非常に重要である。
大広間に入った。
想像していたより広い。たくさんの蝋燭が空に浮かんでいる。天井が夜空のように見えるのは魔法のおかげだと『ホグワーツの歴史』に書いてあった。実物は本の記述以上だった。悔しいが、図書室じゃないのにちょっと感動した。かなり良い。
「マイン」
前を歩いていたアストリアが小声で呼んだ。
「うん?」
「見てください。あそこ」
アストリアが視線だけで示した先。スリザリンのテーブル。見知った顔がいくつもあった。ドラコ。クラッブ。ゴイル。ダフネ。そしてその少し奥にフェルディナンド。
フェルディナンドはホームで一瞬挨拶しただけだけれど、妙に存在感がある人だった。銀髪の三つ編み。冷たい目。あの人がいるだけでスリザリンのテーブルの空気が違う。
ドラコと目が合った。ドラコは腕を組んだまま、真剣な顔でこちらを見て頷いた。「スリザリンに来い」の無言版。汽車の中で散々議論したのにまだ諦めていない。しぶとい。
列の先頭が止まる。
広間の中央に小さな四本脚の椅子があり、その上に古びた尖り帽子が置かれていた。
帽子。
帽子?
アストリアと顔を見合わせた。
「……帽子ですね」
「帽子だね」
しかもその帽子が、いきなり口のあたりの裂け目を開いた。
歌い始めた。
歌うんだ。
魔法の帽子が喋るのはまだわかる。でも初手で歌う必要は本当にあるのだろうか。しかも校歌ではなく、自作の寮紹介ソング。韻を踏んでいる。自己表現が強い。
歌の内容は四つの寮の紹介だった。勇気のグリフィンドール。狡猾のスリザリン。勤勉のハッフルパフ。叡智のレイブンクロー。
どうやら組み分けは決闘でも筆記試験でも読書感想文でもなかった。帽子だった。
ホグワーツ、思ったより帽子に権限を持たせている。
歌が終わった。先生が巻物を広げた。
「呼ばれた者は前へ」
一人ずつ名前が呼ばれ、椅子に座り、帽子を被り、数秒の沈黙の後に寮名が叫ばれる。該当するテーブルから歓声と拍手。
なるほど。思ったより公開処刑に近い。心の準備がいる方式だった。
もっとこう、個室でこっそり決めてくれてもよかったのではないだろうか。ホグワーツは全体的に演出が派手だ。
「グリーングラス、アストリア!」
アストリアが呼ばれた。わたしの隣から静かに前へ出ていく。歩き方まで落ち着いている。同い年とは思えない安定感だ。
椅子に座り、帽子を被る。少しの沈黙。
「スリザリン!」
スリザリンのテーブルから拍手。ダフネが嬉しそうに身を乗り出している。アストリアは控えめに微笑みながら姉の隣に向かった。
少し意外だった。歴史好きな彼女ならレイブンクローだと思っていた。まだわたしの知らない部分にスリザリンの素質があるのかもしれない。
名前が次々と呼ばれていく。グリフィンドール。ハッフルパフ。レイブンクロー。スリザリン。どの寮にも拍手する文化はあるらしい。入学早々あからさまな排他性を見せられなくてよかった。
待っている間、少しずつ緊張してきた。組み分け帽子は基本的に処理が速い。人によっては被った瞬間に寮を告げられている。被って即判定。逆に時間がかかっている人もいた。
あれ、結構怖くない?
わたしの頭の中を覗かれたら、本と図書室と禁書の棚のことしか入っていない。帽子がどう判定するか。レイブンクローが有力だと思うけれど、ドラコが言うようにスリザリンの可能性もある。でもやっぱり——
「マルフォイ、ローゼマイン!」
先生の声が大広間に響いた。
来た。
周囲のざわめきが一瞬だけ強くなる。
「マルフォイ?」
「ドラコの妹か」
「小さくない?」
「一年生……だよな?」
失礼である。ただし事実なので反論しづらい。
椅子に向かって歩く。ふらつかないように気をつける。ここで倒れたら全校生徒の前で醜態を晒す。それ自体は恥ずかしいが、それ以上に、倒れたら医務室に連れていかれて組み分けが遅れ、寮の部屋に入るのが遅れ、明日の図書室計画に支障が出る。倒れるわけにはいかない。
椅子によじ登るようにして座った。足がつかない。組み分けの椅子すらサイズが合わない。人生は不条理の連続だ。
古びた帽子が頭にかぶせられた。ずるり、と視界が暗くなった。
『……ふむ、またマルフォイか』
開口一番それだ。少しむっとした。
『またはまただ。お前たちの家は代々わかりやすい。野心家で、執念深くて、欲しいものを前にすると何が何でも手に入れようとする』
帽子の認識があながち間違いとは言えなくて、わたしは黙った。
『……だが、お前は少し違う。これはなかなか面白いな』
面白い?
『知識欲が強い。かなり強い。新しい本、新しい知識、知らないこと。そういうものを前にすると目の輝きが危険水域に入る。学ぶことが好き。考えることも好き。知らないことを知るのが楽しい。うむ、レイブンクローはよく合うぞ』
やっぱり?
少し安心した。本が好きで、知識が好きで、図書室に住めるなら真剣に前向きに検討したいくらいなのだから。
だが帽子は、そこで妙な間を置いた。
『……だが』
だが?
『お前、本を読めれば、知識を得られればそれで満足するタイプではないだろう』
本を読めれば満足だけど?
意味が分からずに首を傾げると、帽子は続ける。
『気に入った本は何度も読み返したい。別版があるなら比べたい。引用元があるなら遡りたい。注釈が違えば両方見たい。持ち主がいるなら仲良くなって貸してほしい。貸してくれないなら別の方法を考えたい』
最後ちょっと言い方が悪くない?
『事実だろう』
交渉の余地を探す、と言ってほしい。
『言い換えても本質は変わらん』
ひどい。
『レイブンクローに行っても本は読めるだろう。勉強もできる。おそらく居心地もいい』
『だが、それでいいのか?』
帽子の声が少し低くなった。
『読みたい本が閉じた棚の向こうにある。持ち主は渋る。規則も邪魔をする。——その時、お前はどうする?』
そんなの、決まっている。
絶対に開けて読む。
『だろうな』
帽子が深々とため息をついた気配がした。
『知識を得るのが好きなだけならレイブンクローでもよかった。だが、お前は欲しい本があれば手段を選ばないだろう。引き下がるより先に届く道を探す……やれやれ、結局こうなるのか。実にマルフォイ家らしい』
一拍置いて、帽子は叫んだ。
「スリザリン!」
大広間に声が響き渡った。
帽子の分析に少し驚いた。でも嫌ではなかった。むしろ胸の奥に妙にすとんと落ちる感じがした。
そっか、わたしってマルフォイ家らしかったんだ。
スリザリンのテーブルから拍手が起こった。
帽子を外して立ち上がる。蝋燭の光がまぶしい。
スリザリンのテーブルに向かう。アストリアが隣の席をぽんぽん叩いている。ダフネが微笑んでいる。
ドラコは、ものすごく平然とした顔をしていた。いかにも「最初から分かっていましたが?」という顔だ。ただし口元がちょっと上がっていた。本人は隠せているつもりなのだろうが、残念ながら全然隠せていない。
「マイン、こっちです」
「やった、同じ寮だね!」
「ええ」
席に着いた瞬間、ドラコが当然のような顔で言った。
「だから言っただろう」
得意そうにふんと鼻を鳴らした。
本当に来るか不安だったくせに。
少し離れた席から、フェルディナンドが静かに口を開いた。
「入寮おめでとう、マイン」
「ありがとうございます、フェルディナンド先輩」
「意外そうな顔をしているな」
「少しだけ」
フェルディナンドはそれ以上何も言わなかった。この人は言葉が少ない。少ないけれど、一言一言がやけに的確だ。研究者タイプだ。
テーブルの上に料理がどっと現れた。パン、ローストビーフ、スープ、シェパーズパイ、野菜料理。香りがふわっと広がった。
「先に薬を飲め」
ドラコが即座に言った。料理が出て感動するより先に薬の指示が飛んでくる。さすがだ。
「今?」
「今だ。食前に飲む分があるだろう」
「……はい」
薬瓶を取り出して一口飲んだ。苦い。今日何杯目だろう。数えるのをやめた。
「毎回そんなに苦いんですか?」
アストリアが少し心配そうに聞いた。
「苦いよ。世界で二番目に嫌いな味」
「一番は?」
「絶版の味」
「絶版に味があるんですか」
「あるよ。もう二度と手に入らないって知った時の、あの口の中がからっぽになる感じ。あれが一番苦い」
「……比喩が独特ですね」
思い出しただけで口の中が苦くなってしまった。
「そういえば、マイン。スリザリンの寮には共有蔵書があるらしいですよ」
アストリアが教えてくれた。
「共有蔵書?」
「スリザリンの歴代の卒業生や先生が寄贈した本があるそうです。寮の談話室に」
「談話室に本棚があるの!?」
「あるらしいです。ダフネお姉様から聞きました」
レイブンクローじゃなくても本棚がある。スリザリンにも本棚がある。なんて素晴らしい学校だ。
「しかもスリザリンの蔵書は、他の寮にはない古書や貴重本が混ざってるとか」
ドラコと同じ学年のブレーズ・ザビニがにやりと笑った。禁書の棚とはまた違う方向の貴重な蔵書。
「フェルディナンド先輩もいくつか研究資料を寄付してましたよね?」
ドラコが話を振り、フェルディナンドは頷いた。
「1年生が好みそうな内容ではないが」
「本なら何でも読みたいです」
「スリザリンに入って正解だったな」
「正解かもしれない。帽子に感謝しないと」
ドラコが少し驚いた顔をした。
「今のは本心か?」
「うん。スリザリンの貴重な蔵書が読めるなら、レイブンクローじゃなくても大丈夫かもしれない。あとお兄さまが同じ寮にいるから薬を忘れても安心」
「最後の理由は安心じゃなくて甘えだ」
来てほしかったくせに素直じゃないね。
「そういえば」
ダフネが会話に入ってきた。
「マイン、さっき組み分け帽子にかなり長く話しかけられてたでしょう。そういうの組分け困難者って言うのよ」
「たしかに随分長かったな。なんて言われたんだ?」
「えっと——マルフォイ家らしいって」
「ぷっ」
ブレーズが吹き出した。ドラコが睨んだ。
「何がおかしい」
「いや、図書室のことしか考えてない子が『マルフォイ家らしい』って言われるのが面白くて」
「マルフォイ家は図書室のことしか考えない家系ではないが」
「お兄さまの部屋の魔法薬学の本棚、付箋が三百枚貼ってあるよ」
「関係ない話をするな!」
テーブルの周囲がくすくす笑い始めた。ドラコの耳がさらに赤くなった。
レイブンクローに行けなかったのは少しだけ残念だ。でもスリザリンには、ドラコがいる。アストリアがいる。特別な共有蔵書がある。
そして何より——図書室は全寮共通だ。どの寮にいても使える。階段を上る体力の問題はあるけれど、きっと何とかなる。
「マインさん、行きましょう」
アストリアが手を差し出した。
「うん。アストリア、明日——」
「図書室の確認ですね」
「わかってるね」
「もうなんとなくわかります」
スリザリンの寮は地下にあった。
湖の底だ。談話室の窓から、緑がかった水中の光が差し込んでいる。不思議な空間だった。石造りの壁、革張りの椅子、暖炉の炎。そして——壁際に、本棚があった。
大きな本棚ではない。レイブンクローの蔵書には及ばないかもしれない。でも、古い背表紙が並んでいる。革の装丁。金の箔押し。年月を経た本特有の、重たい存在感。
「……本だ」
「ありますね」
「明日、全部確認する」
「はい。一緒に」
寝室はアストリアと一緒の部屋だった。天蓋付きのベッド。地下なので窓の外は湖の底だ。魚の影が通り過ぎた。
トランクを開けて、まず本の無事を確認した。全冊無事。
「本が先なんですね」
アストリアが呟いた。
「本の無事を確認しないと着替える気力が出ないの」
ベッドに座って、薬を飲んだ。やっぱり苦い。今日最後の一杯。
ポケットから日記帳を取り出した。
『トム、スリザリンになったよ』
数秒後、返事が浮かぶ。
『スリザリンか。意外だが——いや、意外ではないかもしれないな。君は欲しい本のためなら手段を選ばないだろう?』
『帽子にも同じことを言われた。「実にマルフォイ家らしい」って』
『帽子は正しい。では、スリザリンの談話室の蔵書に興味深いものはあったか? あそこは意外と宝の山だよ』
『まだ確認してない。明日の朝一番に全部見る。古書があるらしいよ』
『僕が残した本もまだあるかもしれないな。後で教えるからぜひ読んでみて』
トムの返事がいつもより少しだけ熱を帯びていた。きっと談話室の本には思い入れがあるのだろう。
日記帳を閉じて、わたしは明日の図書室のために早々とベッドに入った。