本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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72話 校長室の相談会

 

 ヴォルデモートが消えた。死喰い人たちも消えた。空気の悪い黒いローブの死喰い人たちも、全部消えた。

 

 そして、ハリーも消えた。

 

 ついでみたいに。

 

 ついでに消していい人ではない。

 

 わたしは、さっきまでハリーがいた場所を見ていた。秘密の部屋の石床には、何も残っていない。杖もない。ローブの切れ端もない。

 

 ただ、空っぽだった。

 

 空っぽ。

 

 人が一人いなくなった場所というのは、こんなに広く見えるのかと思った。

 

「……ハリー?」

 

 呼んでも、返事はない。

 

 当然だ。ハリーはもうここにいない。

 

 分かっている。分かっているのに、呼ばずにはいられなかった。

 

 秘密の部屋は、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに静まり返っていた。蛇の像も、黒い水面も、石の柱も、全部が何も言わない。いや、石像は普段から何も言わないけれど、今日は特に言わない気がした。

 

「ハリーが……」

 

 わたしの声は、変にかすれた。

 

「ハリーが、連れて行かれた」

 

 言葉にした瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。

 

 連れて行かれた。

 

 人に使う言葉じゃない。人は持っていくものではない。本だって勝手に持っていったら怒られる。貸出記録を書かない持ち出しは重罪である。ましてハリーは本ではない。

 

 いや、本ではないからこそ、もっとだめだ。

 

「わたしのせいだ」

 

 ぽろっと落ちた。

 

 その言葉は、秘密の部屋の床に落ちて、やけに大きく響いた気がした。

 

 フェルディナンド先輩がこちらを見た。

 

 彼は立っていた。

 

 顔色はよくない。よくないけれど、倒れそうというほどではない。むしろ、さっき自分が死ぬ未来を踏み越えてきた人間とは思えないくらい、目が冷静だった。

 

 それが少し怖かった。

 

「何が、君のせいだ」

 

 フェルディナンド先輩が言った。

 

「わたしが……過去を変えたから。フェルディナンド先輩を助けたから。だから、代わりにハリーが」

 

「違う」

 

 即答だった。

 

「でも」

 

「君のせいではない。私のせいだ」

 

 わたしは、思わずフェルディナンド先輩を見た。

 

「なんで?」

 

「私は、代表選手が死ぬ可能性を知っていた。自分なら助かる可能性があることも知っていた。だから第三の課題に出た」

 

 その声は淡々としていた。

 

 けれど、淡々としているからこそ、少しだけ痛かった。

 

「だが、時間を越えた場合に、どこへ影響が出るかまでは考慮できなかった。私が助かることで、別の何かが動く可能性を、軽く見ていた」

 

「フェルディナンド先輩のせいじゃないよ」

 

「君にそう言ったばかりだから、私にも同じ言葉を返すつもりか」

 

「うっ」

 

 正論の返し技。

 

 やめてほしい。フェルディナンド先輩は剣も使えるけど、言葉でも刺してくる。

 

「責任を分けるなら、君だけが背負うものではない」

 

 フェルディナンド先輩は、空っぽの床を見た。

 

「私も背負う。判断したのは私でもある」

 

 胸が、変なふうに痛んだ。

 

 わたしはフェルディナンド先輩を助けた。

 でも、フェルディナンド先輩は助けられた側では終わらない。

 もう次の責任を見ている。

 

 それが頼もしくて、少しだけ腹が立った。

 

 トムが、空っぽの床を見ていた。

 

 でも、その目は笑っていなかった。

 

「あの男は、ハリー・ポッターを殺しはしない」

 

 トムが言った。

 

 わたしは顔を上げた。

 

「ほんと?」

 

「少なくとも、今は」

 

「その“今は”って何? 安心させる気ある?」

 

「事実だ」

 

「事実、だいたい不親切!」

 

 トムは否定しなかった。

 

 否定してほしかった。

 

 フェルディナンド先輩が、少し目を細める。

 

「根拠は」

 

「あの男はハリー・ポッターの中に自分の魂の欠片があると知っている。想定外の八つ目とはいえ、わざわざ自分を殺すような真似はしない」

 

 空気が、一段冷えた。

 フェルディナンド先輩は、トムを見た。

 

「トム・ジェドゥソール」

 

 その名前で呼ばれて、トムの目が少しだけ動いた。

 

「魂をいくつも裂いた人というのは、君のことか」

 

 トムは、一拍置いてから答えた。

 

「正確には、本体の方だよ」

 

「本体?」

 

「君たちがヴォルデモート卿と呼ぶものだ」

 

 わたしは反射的に言った。

 

「例のあの人」

 

 トムが、嫌そうにわたしを見る。

 

「君までその呼び方をするな」

 

「だって、名前言うの怖いし」

 

「名を避けても実体は消えない」

 

「でも怖いものは怖いよ!」

 

 フェルディナンドは、静かに言った。

 

「つまり、ハリーは生きている可能性が高い。ただし、無事とは限らない」

 

「そうだ」

 

「記憶、精神、忠誠心。そういうものをいじられる可能性があるな」

 

「ある」

 

「磔の呪文で廃人にされる可能性も」

 

「否定はできない」

 

「最悪!」

 

 わたしは叫んだ。

 

「死なないって全然朗報じゃない!」

 

「だから、そう言った」

 

「言い方が冷たい!」

 

「温めても事実は変わらない」

 

 フェルディナンド先輩は、静かに息を吐いた。

 

「ダンブルドアに話すべきだ」

 

 その声は、決定に近かった。

 

 わたしはフェルディナンド先輩を見た。

 

「ダンブルドア先生に?」

 

「他にいるのか」

 

「怒られる」

 

「怒られるだけで済めばいい」

 

「みんな慰めが下手!」

 

 トムが目を細めた。

 

「あの老人に話すつもりはない」

 

「話せ」

 

 フェルディナンド先輩が即座に言った。

 

 トムの顔に、薄い笑みが浮かぶ。

 

「あなたに命じられる筋合いはありません」

 

「命令ではない。必要事項の確認だ」

 

「ずいぶん偉そうだね」

 

「君がどれほどダンブルドアを嫌っていようと、今は話せ。ハリーを取り戻したいなら、情報を抱えたままでは遅れる」

 

 トムは黙った。

 

 秘密の部屋の水音だけが聞こえた。

 

 フェルディナンド先輩は続けた。

 

「君が本体と違うと言うなら、ここで違う選択をしろ」

 

 その言葉で、トムの顔から薄い笑みが消えた。

 

 わたしは、息を止めた。

 

 トムは、本体と違う。

 

 違ってほしい。

 

 でも、それは言葉だけでは足りない。選ばなければならない。

 

 未来の自分と同じように隠すのか。

 それとも、嫌いな相手にでも必要な情報を渡すのか。

 

 トムは、ゆっくりとフェルディナンド先輩を見た。

 

「嫌なところを突くね」

 

「君ほどではない」

 

 トムはわたしを見た。

 

 それから、空っぽの床を見た。

 

「……必要なことは話す」

 

「全部じゃないんだ」

 

 わたしが言うと、トムは当然のように返した。

 

「全部話す馬鹿がどこにいる」

 

「ここにいます」

 

「胸を張るな」

 

 フェルディナンド先輩が歩き出した。

 

「行くぞ。迷路に戻る必要はない。第三の課題は終わった」

 

「でも競技は」

 

「代表選手が拉致され、ヴォルデモートが出てきた時点で、競技ではない」

 

「それはそう」

 

「規約以前の問題だ」

 

「わたしもそう思う。闇の帝王乱入はたぶん規約違反」

 

 秘密の部屋から戻るころには、ホグワーツは大混乱だった。

 

 第三の課題が続いているはずの外から、ざわめきが聞こえる。先生たちの足音が走っていく。誰かが生徒を寮へ戻せと叫んでいる。肖像画たちも騒いでいる。

 

 そして、わたしたちが廊下へ出たところで、ダンブルドア校長と鉢合わせた。

 

 校長先生の後ろには、マクゴナガル先生がいた。顔がとても厳しい。あれはもう、校則違反を見つけた顔ではない。魔法界の終わりを採点している顔である。

 

 さらに少し離れたところで、偽クラウチらしき人物が魔法法執行部の職員に拘束されていた。

 

 セオドールが壁際に立っている。表情は相変わらず薄い。

 

 わたしは思った。

 

 セオドール、あとで絶対話を聞く。

 

 ダンブルドア校長は、わたしを見た。フェルディナンド先輩を見た。そして、トムを見た。

 

 青い目が、ほんの少しだけ細くなる。

 

「久しぶりじゃな、トム」

 

 わたしは固まった。

 

 久しぶり。

 

 ダンブルドア先生はトムが誰なのか気づいていたのか。

 

 トムは、少しだけ笑った。

 

「相変わらずダンブルドア先生には、僕の魔法が効かないんですね」

 

「君の魔法は、昔から少々凝りすぎておったからのう」

 

 これは会話ではない。杖を使わない決闘である。

 

 フェルディナンド先輩が、一歩前に出た。

 

「ハリーは連れ去られました」

 

 その一言で、空気が変わった。

 ダンブルドア校長の視線が、フェルディナンドへ移る。

 

「私とハリーは秘密の部屋に転送されました。ハリーは、最後に連れ去られた」

 

 フェルディナンドの声は落ち着いていた。

 

 落ち着きすぎていて、逆に怖い。

 

 今、たぶん一番動揺していないのはフェルディナンド先輩だ。いや、動揺していないわけではないのだろう。でも、動揺を箱に入れて蓋をして、上に「後で開ける」と書いている感じがする。

 

 わたしなら、その箱をもう三回ひっくり返している。

 

 ダンブルドア校長は静かに言った。

 

「すでに会場封鎖と捜索の指示は出しておる。だが、探すためにも、君たちの話が必要じゃ」

 

 校長先生の視線が、トムへ戻った。

 

「校長室へ」

 

 ダンブルドア校長は言った。

 

「話を聞こう」

 

 わたしは思った。

 

 終わった。

 

 いや、終わっていない。ハリーを取り戻すための始まりだ。

 でも、わたし個人としては、かなり終わった。

 

 ダンブルドア校長は机の向こうに座った。

 

 フェルディナンド先輩とトムは、それぞれわたしの隣に座った。

 フェルディナンド先輩の手は膝の上で組まれている。指先に、少しだけ力が入っている。

 

 やっぱり、平気ではないのだ。

 

 当然だ。

 

 死にかけた。

 ハリーが連れ去られた。

 それで平気な方がおかしい。

 

「ローゼマイン、何があったか教えてくれるかのう」

 

 ダンブルドア校長が言った。

 わたしは、日記を抱きしめた。

 

「フェルディナンド先輩も言ったんですけど、ハリーが、連れて行かれました」

 

「誰に」

 

「例のあの人に」

 

 そう言った瞬間、ダンブルドア校長が静かに言った。

 

「マイン、ヴォルデモートじゃよ」

 

 わたしは、喉の奥がきゅっとなるのを感じた。

 

「……ヴォルデモートに」

 

 言い直した。

 

 名前を呼んでも、部屋の空気は爆発しなかった。

 

 でも、肖像画たちが息をひそめたように見えた。

 

 ダンブルドア校長の表情は変わらない。変わらないからこそ、余計に怖い。

 

「わたしが……タイムターナーを使って、規則より遡りすぎたからかもしれません」

 

「規則より」

 

 校長先生の声は静かだった。

 

「どの程度かね」

 

「二回、使いました」

 

「二回」

 

「はい。五時間制限を、合計で越えました」

 

 言った。

 

 言ってしまった。

 

 ダンブルドア校長は、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、ゆっくりと息を吐いた。

 

「ローゼマイン。わしは以前から、君が何かを隠しているような気がしておった」

 

 はい。

 

 隠していました。

 

 日記も、秘密の部屋も、巨大蛇も、時間のことも、読書仲間がトム・リドルだったことも、だいたい隠していました。隠し事の福袋である。開けたくない。

 

「今は、全て包み隠さず教えてほしい」

 

 わたしはトムを見た。

 

 トムは黙っていた。

 

 わたしが視線で「言っていい?」と聞くと、トムはほんの少しだけ目を伏せた。それから、頷いた。

 

 その頷きは、小さかったけれど、大きかった。

 

 トムが、自分の秘密をわたしの言葉に預けたのだ。

 

 本人はあとで「合理的判断だ」と言うだろう。絶対に言う。けれど、合理的判断という言葉は時々、感情の厚着みたいなものだと思う。

 

「分かりました」

 

 わたしは息を吸った。

 

「まず、お父さまの書斎で、日記を見つけました」

 

 そこから話した。

 

 日記の中のトムと話したこと。

 彼が本好きで、友達になったこと。

 ホグワーツで秘密の部屋を見つけたこと。

 魔力を注ぎ込んだら実体化できるようになったこと。

 入口がトイレだったので、衛生面の問題から徹底的に清掃したこと。

 

「清掃?」

 

 ダンブルドア校長が聞いた。

 

「はい。秘密の部屋の入口がトイレなのは、さすがに設計思想を疑います」

 

「そこかね」

 

「そこです。大事です」

 

 トムが横で小さく息を吐いた。

 

「続けろ」

 

「はい」

 

 秘密の部屋に本棚がなかったこと。

 かわりに空腹のバジリスクがいたこと。

 わたしが餌をあげたこと。

 飼育ではなく、元から住んでいた生き物への食事支援であること。

 

 ダンブルドア校長は、こめかみに指を当てた。

 

「その件は、後で詳しく聞かねばならんのう。ニュート・スキャマンダーにも相談する必要がありそうじゃ」

 

 それから、占い学の話をした。

 

 八つに裂かれし王の欠片。

 五つ目の鐘。

 死者が戻るとき。

 王の下を去る欠片。

 

 その占いと、『深い闇の秘術』から、ヴォルデモートが魂を裂いている可能性に思い至ったこと。

 トムに聞いたこと。

 トムが「八つ?」と本気で不思議そうにしたこと。

 

 トムは、未来の自分がそこまで魂を壊しているとは知らなかった。トムがそれを共有したことで、闇の帝王の計画はハリーを殺すから、ハリーにフェルディナンド先輩を殺させるに変わった。

 

 わたしはそこまで話して、少しだけ口ごもった。

 

「それで……フェルディナンド先輩を助けるために、タイムターナーを使いました」

 

 ダンブルドア校長の目が、わたしを見ている。

 

「一度では、届かなかったので」

 

 声が小さくなった。

 

「二回、使いました。トムも協力してくれました」

 

 校長先生の視線が、トムへ移った。

 

「なぜそうしたのかね、トム」

 

 トムは、少しだけ沈黙した。

 

 そして言った。

 

「未来の自分に、がっかりしたからです」

 

 その言い方は、あまりにも静かだった。

 

「がっかり」

 

「ええ」

 

「ヴォルデモート卿に?」

 

「僕は、未来の自分に興味がありました。完成形を見たかった。けれど、実際に見たものは、理想ではなかった」

 

 トムの声が冷える。

 

「支配に寄りかかった、臆病な大人でした」

 

 校長室が静まり返った。

 

「それに、ローゼマインが選んだやり方は、少なくとも退屈ではなかった」

 

「死をぶっ倒す、ですか?」

 

 ダンブルドア校長が聞く。

 

 トムは、ほんの少しだけ口の端を上げた。

 

「ええ。非論理的で、無謀で、規則違反で、まったく推奨できない」

 

「ひどい」

 

「だが、気に入った」

 

 わたしは黙った。

 

 その一言が、変に胸に残った。

 

 ダンブルドア校長は、じっとトムを見ていた。

 

「それは、彼女のためかね」

 

「僕のためです」

 

 トムは即答した。

 

「あの男に勝たせたくなかった。フェルディナンド・ブラックが死ぬ未来も、ポッターがその死を背負う未来も、あの男の予定通りに進む未来も、不愉快でした」

 

「不愉快」

 

「ええ。不愉快です」

 

「君は昔から、誤魔化すのが上手いのう」

 

「あなたは昔から、余計な意味を足すのが上手いですね」

 

 また始まった。

 

 校長室が腹の探り合い会場になっている。

 お腹は誰も出していないのに、ものすごく探られている。

 

 トムは、今度は校長先生を見た。

 

「ところで、ダンブルドア先生」

 

「何かね」

 

「あなたは、ハリー・ポッターがいつか死ななければならないと知っていたのではありませんか」

 

 空気が凍った。

 

 わたしは息を止めた。

 

 ハリーが、死ななければならない? 

 

 何それ。

 

 ダンブルドア校長は、すぐには答えなかった。

 

 トムは逃がさない目をしている。

 

「彼の中に本体の魂の欠片があると、あなたはいつから疑っていたんです」

 

「君は、ずいぶん踏み込むのう」

 

「あなたほどではありません」

 

「わしは、ハリーを死なせたいと思ったことは一度もない」

 

「答えになっていません」

 

「そうじゃな」

 

「はぐらかすのですか」

 

「今は、ハリーを取り戻す話をすべき時じゃ」

 

 トムの目が細くなった。

 

 はぐらかした。

 

 ダンブルドア校長、ものすごく自然にはぐらかした。これは大人の技術である。新聞記者なら絶対に追及するところだ。わたしは新聞記者ではないけれど、読書家として続きが気になる。だめだ、今はハリーだ。

 

「ハリーを見つけるのは、至難の業じゃ」

 

 ダンブルドア校長は言った。

 

「トム、君はハリーが殺されることはないと見るのじゃな」

 

「少なくとも、すぐには」

 

「ならば、死ぬことはないかもしれん。だが、死なないことと無事でいることは違う」

 

 その声は静かだった。

 

「磔の呪文で、心を壊される可能性もある」

 

 わたしの喉が詰まった。

 

 死なない。

 

 殺されない。

 

 それは、安心材料ではなかった。

 

 ハリーが生きていても、ハリーじゃなくなるかもしれない。

 

 そんなの、ひどい。

 

「取り戻します」

 

 わたしは言った。

 

 声は震えていたけれど、言った。

 

「ハリーを取り戻します」

 

 ダンブルドア校長は、わたしを見た。

 

「その前に、君自身の話もしなければならん」

 

「わたし?」

 

「そうじゃ」

 

 いやな予感がした。

 

 とてもいやな予感がした。禁書棚の前で司書さんに見つかった時の三倍くらい、いやな予感がした。

 

「ローゼマイン。君をマルフォイ家に戻すことはできん」

 

「え?」

 

 思わず声が出た。

 

「どうしてですか」

 

「君の家族を疑っているわけではない」

 

 ダンブルドア校長の声は、静かだった。

 

「ルシウスもナルシッサも、君を守ろうとするじゃろう。ドラコも同じじゃ」

「なら」

「だからこそ危うい」

 

 校長先生の青い目が、まっすぐわたしを見ていた。

 

「マルフォイ家では、もう君を守れない」

 

 息が止まった。

 マルフォイ家では、もう守れない。

 その言葉は、ひどく冷たかった。

 

「それは、わたしの家族が弱いってことですか」

「違う」

 

 ダンブルドア校長は、すぐに言った。

 

「弱いからではない。君を愛していないからでもない。むしろ逆じゃ」

「逆?」

「愛しているからこそ、利用される」

 

 トムが、低く言った。

 

「あの男は家族愛を理解しない。だが、利用はするだろうね」

 

 わたしはトムを見た。

 トムは少しも笑っていなかった。

 

「君が戻れば、ルシウス・マルフォイは君を守ろうとする。ナルシッサ・マルフォイも、ドラコ・マルフォイも同じだ。だが彼は、それを弱点として扱う」

「弱点……」

「君を従わせるために家族を使う。家族を従わせるために君を使う。どちらもあり得る」

 

 フェルディナンド先輩が、静かに続けた。

 

「ローゼマイン。君が家に戻れば、君は家族の弱点になる」

 

 何も言えなかった。

 わたしの大事な家。

 そこに帰ることが、家族を危険にする。

 そんなの、あんまりだ。

 

「ヴォルデモート卿が求めているものを、君は二つも持っているからじゃ」

 

「二つ?」

 

「一つは、過去を変えられる手段」

 

 タイムターナー。

 

 わたしは胸元に触れた。

 

「もう一つは、未来を知る手段」

 

「未来……」

 

「君の占いは当たった。ならば、これからも当たる可能性がある」

 

「でも、わたし、占いはそんなに……」

 

「才能があるのじゃろう」

 

 占いの才能。

 

 言われても全然うれしくない。才能って、もっと本を速く読めるとか、本の場所を一発で当てられるとか、そういう平和なものがいい。

 

「それだけではない。君は時間の禁じ手を破った」

 

 ダンブルドア校長の声が低くなった。

 

「これは、神秘部に目をつけられる条件でもある」

 

「目をつけられるって……」

 

 わたしは恐る恐る聞いた。

 

「どういう意味ですか」

 

「神秘部は、君を卒業後すぐに無言者として囲い込もうとするじゃろう」

 

「囲い込む」

 

「正式には任意じゃ。だが、君のような者にとって、その任意はほとんど強制に近い」

 

 任意という名の強制。

 

 最悪だ。

 

「え、待ってください。わたし、図書館司書とか、もっとこう、本に近い仕事が……」

 

「神秘部にも本はあるじゃろう」

 

「そういう問題じゃないです!」

 

 ダンブルドア校長は、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

 

「現実的に後ろ盾は多くない。トレローニー先生のように占い学の教師となり、ホグワーツに残りわしの庇護下に入るか。あるいは、神秘部の無言者となり、国家機関の保護と監視を受けるか」

 

「司書でもいいですか?」

 

「司書でも良いが、ピンス先生と相談が必要じゃのう」

 

 フェルディナンド先輩が、ここで静かに口を開いた。

 

「神秘部は、彼女を研究対象として扱う可能性があります」

 

 ダンブルドア校長は、フェルディナンド先輩を見た。

 

「君はそう見るかね」

 

「時間の禁じ手を破り、未来予知の兆候もある。無言者としてではなく、研究対象の方が向いていると考えるかもしれません」

 

 フェルディナンド先輩の声は冷静だった。

 

「だが、彼女を神秘部に渡せば、ヴォルデモートに奪われる危険とは別の危険が生まれる」

 

 わたしはフェルディナンド先輩を見た。

 

 フェルディナンド先輩は淡々としている。

 

 でも、それは無関心ではない。

 むしろ、ちゃんと怒っている時の静けさだった。

 

 トムが低く言った。

 

「彼女を神秘部に渡すつもりですか」

 

「そうならぬよう、話しておる」

 

 ダンブルドア校長は言った。

 

「どちらの後ろ盾も得られなければ、君はヴォルデモート卿に取り込まれる可能性が高い」

 

 取り込まれる。

 

 その言葉が、冷たく落ちた。

 

 わたしは何も言えなかった。

 

「いずれにせよ、神秘部を納得させる材料が必要じゃ」

 

 トムの目が細まった。

 

「嫌な言い方をしますね」

 

「君なら、その意味が分かるじゃろう」

 

 トムはため息をついた。

 

「代わりに僕の情報を差し出せばいい」

 

「トム?」

 

 わたしは顔を上げた。

 

 トムは、ダンブルドア校長を見ていた。

 

「僕があなたの下につきます。あなたの管理下でかまわない。僕を情報源として神秘部に提示すればいい」

 

 校長室が、静まり返った。

 

「ホグワーツで働かせてください」

 

 わたしは目を瞬いた。

 

 トムが、ダンブルドア校長の下につくと言った。

 

 あのトムが。

 さっきまで「ダンブルドア先生には僕の魔法が効かないんですね」と嫌そうに言っていたトムが。

 

 ダンブルドア校長は、じっとトムを見た。

 

「実は、君は前にも同じことを言った」

 

 トムが、わずかに首を傾げた。

 

「僕が?」

 

「卒業後のことじゃよ」

 

 トムは黙った。

 

 その沈黙は、さっきまでの沈黙とは少し違った。

 

 自分の知らない未来の自分。

 自分がまだ持っていない記憶。

 自分が行き着いたはずの場所。

 

 それを、ダンブルドア校長だけが知っている。

 

「その時、あなたは断ったんですね」

 

「そうじゃ」

 

「賢明だったのかもしれませんね」

 

「今も、賢明でありたいと思っておる」

 

 ダンブルドア校長は静かに言った。

 

「トム。わしに全て従うと誓えるか」

 

 校長室が静かになった。

 

 わたしは、トムを見た。

 

 全て従う。

 

 その言葉は重い。

 

 トムにとっては、たぶん、とても重い。

 

 誰かの下につく。

 誰かの命令を受ける。

 誰かに制限される。

 

 トムが一番嫌いそうなことばかりだった。

 

 それでも、トムは頷いた。

 

「誓います」

 

 声は静かだった。

 

 けれど、震えてはいなかった。

 

 ダンブルドア校長の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 

「それは、マインのためかね」

 

「僕のためです」

 

 トムは即答した。

 

 即答しすぎだった。

 

「マインの魔力が必要だ。彼女がヴォルデモートに取り込まれれば、あの男の力になる。彼女が神秘部に奪われても、魔力を失う。僕がホグワーツにいれば、あの男の思考も、分霊箱の知識も、防衛術も提供できる」

 

「愛じゃな」

 

「違います」

 

 否定が早かった。

 

「合理的判断です」

 

「彼女を守りたいのじゃろう」

 

「違います」

 

「失いたくない」

 

「違います」

 

「では、なぜ自分の自由を差し出すのかね」

 

 トムは黙った。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 その一瞬を、ダンブルドア校長は見逃さなかった。

 

「君は、ヴォルデモート卿と同じように彼女を所有するのではなく、彼女が彼女でいるために、自分が制限の中へ入ることを選んだ」

 

 トムの顔から表情が消えた。

 

「……不愉快な解釈です。僕は彼女のために犠牲になるつもりはありません」

 

「犠牲ではない。選択じゃ」

 

「なお悪い」

 

「そうかね」

 

 ダンブルドア校長は、レモンキャンディの器を少し押した。

 

「一つ食べるかね」

 

「不要です」

 

「甘いものは嫌いかね」

 

「あなたから差し出されるものが嫌いです」

 

「正直じゃな」

 

 わたしは、そっと手を挙げた。

 

「あの」

 

 全員がこちらを見た。

 

「トムがホグワーツで働くなら、推薦図書リストは作ってくれますか?」

 

 トムが目を閉じた。

 

「君は今、その話をするのか」

 

「大事だよ。先生には推薦図書が必要だよ」

 

「僕は先生になるとは言っていない」

 

「働くんでしょ?」

 

「今はそれを詰める段階ではないよ」

 

 ダンブルドア校長が、楽しそうに目を細めた。

 

 フェルディナンドが、静かに言った。

 

「いずれにせよ、彼をホグワーツ側に置くなら、制限と監視は必要になる」

 

 トムが嫌そうにフェルディナンドを見た。

 

「本当に不愉快なほど現実的だね」

 

「君ほどではない」

 

 わたしは、日記を抱きしめたまま、少しだけ笑った。

 

 ハリーはまだ戻っていない。

 マルフォイ家にも戻れない。

 神秘部にも目をつけられるかもしれない。

 未来は、びっくりするほど真っ暗だ。

 

 でも、フェルディナンド先輩は隣にいる。

 トムもここにいる。

 

 嫌いなダンブルドア校長の前で、嫌いな言葉を浴びせられて、嫌いな制限を受け入れようとしている。

 

 トム・リドルは、未来の自分とは違う選択をしたのだ。

 

 その時だった。

 

 校長室の扉が、鋭く叩かれた。

 

 マクゴナガル先生が扉を開ける。

 

 廊下の向こうを一度見てから、先生はいつもより硬い声で言った。

 

「校長。神秘部のソール・クローカーが、こちらに来ています」

 

 わたしは、胸元のタイムターナーに触れた。

 

 ソール・クローカー。時間旅行の専門家だ。

 





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