本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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73話 時間はもう戻せない

 

 校長室の扉が、鋭く叩かれた。

 

 マクゴナガル先生が扉を開ける。廊下の向こうを一度見てから、先生はいつもより硬い声で言った。

 

「校長。神秘部のソール・クローカーが、こちらに来ています」

 

 わたしは、胸元のタイムターナーに触れた。

 

「通してくれ」

 

 ダンブルドア校長が言うと、マクゴナガル先生は少しだけ口元を引き結び、扉を開けた。

 

 入ってきた男は、灰色のローブを着ていた。

 

 顔に疲れが刻まれているのに、目だけが妙に鋭い。図書館で禁書を探している人の目に少し似ている。つまり、危険な目である。

 ソール・クローカーという名前は本で何度か読んだことがある。

 全て時間魔法に関する本だった。

 

 特に有名なのが時間移動の限界値についての法則、クローカーの法則だった。

 

『時間と時間の旅人に深刻な被害を与えずに安全に時間を遡れる限界は五時間である』

 

 わたしはその法則があったからこそ、五時間以上戻れば、過去を改変できる可能性があると思った。

 実際にフェルディナンド先輩を助けられた。

 

 男は部屋の中を一度だけ見回した。

 

 ダンブルドア校長。

 マクゴナガル先生。

 フェルディナンド先輩。

 トム。

 そして、わたし。

 

「ソール・クローカー」

 

 ダンブルドア校長が静かに言った。

 

「何用かね」

 

「時空の歪みを計測した」

 

 クローカーは、挨拶より先に用件を簡潔に言った。

 

「時間観測室に乱れが出た。五時間を超える遡行反応に近い。ホグワーツでは現在、二名の生徒にタイムターナーが貸与されているな」

 

 わたしは胸元のタイムターナーを握った。

 

 ぎゅっと握った。

 

 握ったところで、証拠品は消えない。むしろ、証拠品を大事に持っている犯人みたいになる。よくない。手を離したい。でも離せない。

 

「マイン、私のタイムターナーはあるか?」

 

 フェルディナンド先輩がクローカーがダンブルドア先生を向いている隙に、小声でたずねてきた。わたしが頷き、右のポケットを示すと、彼はそこからタイムターナーを静かに奪い取った。

 

 クローカーが振り返り、わたしとフェルディナンド先輩の間を行き来した。

 

「君たちがフェルディナンド・ブラックに、ローゼマイン・マルフォイだね。ちょうどいい」

 

 何がちょうどいいの。

 

「君たち二人は、貸与記録に名がある」

 

 クローカーは、わたしとフェルディナンド先輩を見た。

 

「どちらが制限を超えた?」

 

 心臓が止まりかけた。

 息ができない。

 

 答えなければならない。わたしがやった。フェルディナンド先輩を助けるために、タイムターナーを二回使った。五時間制限を超えた。言わなければならない。

 

 口を開きかけた瞬間だった。

 

「私です」

 

 フェルディナンド先輩が言った。

 

 声は静かだった。

 

 静かすぎて、わたしは一瞬、意味が分からなかった。

 

「フェルディナンド先輩?」

 

「私が制限を超えました」

 

 嘘だ。

 

 違う。

 

 違うのに。

 

「違──」

 

 言いかけたわたしの腕を、誰かが掴んだ。

 

 トムだった。

 

 冷たい指が、わたしの手首を押さえている。

 

「黙れ、マイン」

 

 低い声だった。

 

「でも」

 

「今は黙れ」

 

 怖い声だった。

 

 トムがわたしにこんな声を出すのは、たぶん初めてだった。

 

 フェルディナンド先輩はこちらを見なかった。

 

 まっすぐクローカーを見ている。

 

「私のタイムターナーに異常が出ているはずです」

 

 クローカーは、目を細めた。

 

「見せたまえ」

 

 フェルディナンドは胸元から鎖を外した。

 

 砂時計が、銀色の光を受けて揺れる。

 

 その瞬間、フェルディナンドのローブの内側から、もう一つ同じ鎖が滑り落ちた。

 

 同じ砂時計。

 

 同じ傷。

 

 同じ鎖の癖。

 

 まったく同じものが、二つ。

 

 わたしは息を呑んだ。

 

 増えている。

 

 本が増えるなら嬉しい。とても嬉しい。貸出禁止の本が増えたら、たぶん泣いて喜ぶ。

 

 でも、これは嬉しくない。

 これは絶対に、嬉しくない増え方だ。

 クローカー氏の顔から、表情が消えた。

 

「同一個体の重複」

 

 その声だけは、ほんの少し震えていた。

 

 けれど、恐怖ではなかった。

 

 歓喜だった。

 

「素晴らしい」

 

 わたしは耳を疑った。

 

 素晴らしい? 

 

 今、素晴らしいって言った? 

 

 ハリーが連れ去られて、タイムターナーが増えて、予言球が割れて、わたしはもう家に帰れないかもしれないのに、素晴らしい? 

 

「時間が物体を一つ返し忘れた。いや、収束に失敗したと言うべきか。五時間制限を超えた遡行の影響がこんなところに出るとは……」

 

 クローカー氏は早口で言った。

 

 完全に楽しそうだった。

 研究者の顔だ。

 

「フェルディナンド・ブラック」

 

 クローカーは、フェルディナンドを見た。

 

「君は今年卒業だったな。神秘部の無言者にならないか」

 

 フェルディナンドは覚悟を決めたように目を閉じた。

 

「時間観測室に来たまえ。君のような事例はめったにない。興味深い。非常に興味深い」

 

「了承します」

 

 フェルディナンドは言った。

 

 あまりにも迷いがなかった。

 

「フェルディナンド先輩!」

 

 今度こそ叫んだ。

 

「だめです! それは、違う、わたしが──」

 

 トムの手が、さらに強くわたしの手首を掴んだ。

 

「黙れ」

 

「でも!」

 

「彼が作った逃げ道を、君が塞ぐな」

 

 トムの声は低かった。

 

 その言葉で、胸が痛くなった。

 

 逃げ道。

 

 フェルディナンドは、わたしのために逃げ道を作っている。

 

 わたしの罪を、自分のものにして。

 

 ダンブルドア校長は、フェルディナンドを見ていた。

 

 彼は全部分かっている。

 

 フェルディナンドが嘘をついていることも。

 わたしが本当の実行者であることも。

 トムがわたしを止めている理由も。

 

 それでも、校長先生は止めなかった。

 

「フェルディナンド」

 

 ダンブルドア校長が静かに言った。

 

「それが、君の選択かね」

 

「はい」

 

「その選択は、君の人生を変える」

 

「もう変わっています」

 

 フェルディナンドは答えた。

 

 クローカーは満足そうに頷いた。

 

「よろしい。君を神秘部に推薦しよう。だが、今夜はポッター失踪の件もある。こういう不可解な事件の謎を解くよう言われるのも神秘部にはよくあることでね……まったく、魔法警察が動けばいいものを」

 

 クローカーはブツブツ文句を言いながら扉の方へ向かった。

 

「ああ、ミス・マルフォイ。君もタイムターナーを使うからには十二科目でよい成績を取ってくれたまえ。期待しているよ」

 

ついでのようにわたしに言い、クローカーは校長室を出ていった。

 

「……そんなの、だめだよ」

 

 声が震えた。

 

「フェルディナンド先輩を助けたのに、フェルディナンド先輩がわたしの代わりに無言者になるなんて、そんなの、助けた意味が──」

 

「意味はある」

 

 フェルディナンド先輩が、初めてわたしを見た。

 

「私は生きている」

 

 その一言で、何も言えなくなった。

 

「生きているから、選べる」

 

 フェルディナンドの声は静かだった。

 

「死んでいたら、何も選べなかった」

 

 わたしは唇を噛んだ。

 

 フェルディナンド先輩は卒業後はシリウスの当主仕事を手伝いつつ研究に没頭すると言っていた。本当なら無言者は望みではないはずだ。

 

「……わたしのせいだ」

 

「ローゼマイン。君はスリザリン生じゃな」

 

「はい」

 

「ならば、分かるはずじゃ。スリザリンは、誰を守るかを自分で選ぶ寮じゃ」

 

 校長先生の声は穏やかだった。けれど、甘くはなかった。

 

「フェルディナンドは、君を守る価値があると判断した。トムもまた、未来の自分より君を選んだ。それは君が命じたからではない。二人が、自分の誇りに従って選んだことじゃ」

 

「でも、わたしがいなければ……」

 

「その言い方は、少し傲慢じゃよ」

 

 息が止まった。

 

「彼らの選択を、君一人の罪にしてしまうのは、彼らの誇りを奪うことでもある」

 

 わたしは何も言えなかった。

 

「スリザリンならば、庇われたことをただ泣いて悔いるだけでは足りぬ。守られたなら、その価値を証明しなさい。彼らが選んだものは間違いではなかったと、君自身のこれからで示すのじゃ」

 

 胸が痛かった。

 慰めではなかった。

 けれど、少しだけ息ができた。

 

「君が背負うべきなのは罪ではない。君に置かれた信頼じゃ」

 

 ダンブルドア校長は、静かに言った。

 

「それを、悲しみで汚してはならん」

 

 わたしは何も言えなかった。

 悲しみで汚す。

 その言葉は、胸の奥に重く落ちた。

 フェルディナンド先輩は、わたしに罪を背負わせるために死地へ向かったわけではない。トムも、わたしを泣かせるために未来の自分を裏切ったわけではない。

 それなら、わたしがするべきことは、自分を責め続けることじゃない。

 守られたものを、守り返すことだ。

 

「ヴォルデモートは、ハリーを連れて姿を消した。追跡を避ける手段も用意しておったのじゃろう。通常の探知では、すぐには辿れぬ」

 

 ハリーは、もう秘密の部屋にはいない。

 過去を変える前のハリーは、フェルディナンド先輩を殺したと思い込んでいた。あの光景は、今でも胸に焼き付いている。

 でも、今のハリーは違う。

 フェルディナンド先輩は生きている。

 けれどその代わりに、ハリーが消えた。

 ヴォルデモートと一緒に。

 

「……探さなきゃ」

 

 考えるより先に、言葉が出ていた。

 

「ハリーを探さなきゃ。あの人と一緒にいるなら、何をされるか分かりません」

 

 トムが、低く言った。

 

「間違いなく利用するだろうね。あの男は、使えるものを無駄にはしない」

 

 その言い方が、ひどく冷静で、だからこそ怖かった。

 ハリーは、あの人にとって特別だ。

 ただの人質じゃない。

 ただの敵でもない。

 王の欠片。

 占いで見た言葉が、頭の奥で鈍く響いた。

 

「でも、どこを探せば……」

 

 わたしが呟くと、ダンブルドア校長は静かにわたしを見た。

 

「ローゼマイン。先ほど、わしはスリザリンは守るものを自分で選ぶ寮だと言ったな」

「……はい」

「ならば、選んだものを探すために、使えるものは使わねばならん」

 

 その言い方に、嫌な予感がした。

 ダンブルドア校長は、続けた。

 

「君の占いじゃ」

 

 思わず息を止めた。

 

「わたしの、占い……?」

「君はこれまで、砂時計を見た。五つ目の鐘を見た。死者が戻る未来を見た。八つに裂かれし王の欠片も見ておる。君の目は、ただの偶然を拾っているわけではない」

 

「でも、ちゃんと見えるとは限りません。場所の名前が出るわけでもないし、意味もよく分からないことばかりで」

 

「それでよい」

 

 ダンブルドア校長は言った。

 

「完全な答えである必要はない。象徴でよい。色、音、匂い、建物、動物、言葉。君が見たものを、我々が解く」

 

 フェルディナンド先輩が、静かにうなずいた。

 

「手がかりが一つでもあれば、候補は絞れる」

 

 トムも、不本意そうに口を開いた。 

 

「占いそのものを信用する必要はない。情報として扱えばいい。夢占いの本よりは、君の方がまだ役に立つ」

 

「今、褒めた?」

 

「比較対象を聞いていなかったのかい?」

 

 少しだけ、息ができた。

 怖い。

 また何かを見てしまうのが怖い。

 見たものの意味が分からないまま、誰かの命に関わるのが怖い。

 でも、ハリーは今、もっと怖い場所にいるかもしれない。

 わたしは、拳を握った。

 

「……やります」

 

 声は震えていた。

 でも、言った。

 

「ハリーがどこにいるのか、見ます」

 

 ダンブルドア校長は、静かにうなずいた。

 

「それが、君が悲しみで信頼を汚さぬための、最初の一歩じゃ」

 

 

暖炉の炎が緑に燃え上がった。

 

 次の瞬間、シリウスさんが校長室に飛び込んできた。顔色は悪く、目だけがぎらぎらしている。

 

「ハリーはどこだ」

 

 最初の一言がそれだった。

 

 ダンブルドア校長は、すぐには答えなかった。

 

「シリウス。落ち着いて聞きなさい」

 

「落ち着ける話ならな」

 

 シリウスさんの声は低かった。

 

 校長先生は、半月形の眼鏡の奥から静かに彼を見た。

 

「ハリーは、ヴォルデモートとともに姿を消した」

 

 部屋の空気が凍った。

 

 シリウスさんの顔から、血の気が引いていく。

 

「……何だと」

 

「第三の課題の終わりに、ヴォルデモートはハリーを連れて消えた。今、居場所は分かっておらん」

 

「だったら今すぐ探しに――」

 

「探す。そのために君を呼んだ」

 

 ダンブルドア校長の声は穏やかだった。けれど、シリウスさんの言葉を遮るだけの重さがあった。

 

「問題はハリーだけではない」

 

 シリウスさんの視線が鋭くなる。

 

 校長先生は続けた。

 

「ルシウス・マルフォイは、ヴォルデモート側についておる」

 

 その言葉に、わたしは息を止めた。

 

 父の顔が浮かんだ。母の顔も、ドラコの顔も。

 

 父はわたしを守ろうとしてくれた。

 でも、校長先生の言葉はたぶん、間違っていない。

 

 事情がどうであれ、マルフォイ家はあの人の側にある。

 

 シリウスさんが苦々しげに舌打ちした。

 

「ルシウスか」

 

「彼個人の感情はどうあれ、あの屋敷はもはや安全とは言えん。ヴォルデモートの手が届きすぎる」

 

 ダンブルドア校長の視線が、わたしに移った。

 

「ローゼマインには、占いの力がある。すでに時間に関わる予兆を見ておる。加えて、彼女は膨大な魔力を持っている」

 

 シリウスさんの目が、今度はわたしを見た。

 

「マインが?」

 

「そうじゃ。ヴォルデモートにとって、彼女は利用価値がある。あるいは、排除すべき危険でもある。だから、君に頼みたい」

 

 シリウスさんは荒い息を吐いた。

 

「何をだ」

 

「ブラック家を、不死鳥の騎士団の拠点として貸してほしい」

 

 シリウスさんの眉が動いた。

 

「騎士団を戻すのか」

 

「必要になるじゃろう。ハリーを探すためにも、ヴォルデモートに対抗するためにも。そしてもう一つ」

 

 校長先生は、少しだけ声を低くした。

 

「ローゼマインの身の安全を保証してほしい」

 

 わたしは思わず顔を上げた。

 

「わたし、ですか」

 

「そうじゃ。君をマルフォイ邸へ戻すわけにはいかん。ホグワーツも、これから先ずっと安全とは限らぬ。君には、ヴォルデモートの手が届きにくく、かつ我々が守れる場所が必要じゃ」

 

 シリウスさんは黙っていた。

 

 怒っているように見えた。

 でも、それはわたしに向けられた怒りではなかった。

 

 たぶん、ハリーを奪われたことへの怒りだ。

 ヴォルデモートへの怒りだ。

 そして、自分がまだ何もできていないことへの怒りだ。

 

「俺の家に、騎士団を入れる。マインも置く」

 

 シリウスさんは確認するように言った。

 

「そうじゃ」

 

「ハリーを取り返すために必要なんだな」

 

「必要じゃ」

 

 シリウスさんは、ほとんど迷わなかった。

 

「いい。使え」

 

 あまりにも早い答えだった。

 

 わたしは息をのんだ。

 

「でも、シリウスさん。わたしがいたら、ブラック家まで危なくなります」

 

「ブラック家の守りは安全だ」

 

 シリウスさんは即答した。

 

「それに、ハリーが連れて行かれた時点で、家が狙われるかどうかなんて今さらだ」

 

 声が詰まった。

 

「お前はハリーを探せるかもしれないんだろ」

 

「……分かりません。手がかりくらいしか、見えないかもしれません」

 

「それでいい」

 

 シリウスさんの声は掠れていた。

 

「手がかりでもいい。ハリーにつながるものなら、何でもいい」

 

 そして、彼はわたしをまっすぐ見た。

 

「頼む。ハリーを見つけてくれ」

 

 その一言で、逃げられなくなった。

 

 でも、不思議と、少しだけ怖くなくなった。

 

 これは、わたし一人の罪滅ぼしじゃない。

 

 ハリーを探したい人がいる。

 ハリーを取り返したい人がいる。

 そのために、わたしが見えるものを使う。

 

「あと、ここにいるトム・ジェドゥソールも家に置いてやってほしい」

「我が家は宿泊所ではないんだが」

 

 フェルディナンドが不本意そうに呟いた。

 

「ダンブルドア先生が言うなら……」

 

「ボーバトンの生徒じゃよ。来年ホグワーツに勤めることになっている。彼もヴォルデモートに狙われておる」

 

「あいつ狙ってるやつ多くないか? 手当たり次第狙ってるのか?」

 

 また校長室の扉が開いた。今度はスネイプ先生だった。

 

「校長、ドラコ・マルフォイの居場所をクラウチが吐きました。今医務室に連れて行っています」

 

「お兄さま、怪我でもしたの?」

 

「身体には何も問題はない。ドラコ・マルフォイになりすますために薬を盛られていただけだ」

 

 わたしに薬を飲むよう言ったドラコがおかしかったことを思い出す。

 

「あの、ダンブルドア先生、わたし……」

 

「かまわんよ。わしは二人とまだ話すことがある」

 

 スネイプ先生に連れられて医務室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。

 

 ドラコはベッドで寝ていた。マダム・ポンフリーは少し離れたところで薬瓶を並べている。こちらもだいぶ怒っている顔だ。医務室の人は、病人が騒ぐとかなり怖い。 

 

「お兄さま」

 

 わたしが呼ぶと、ドラコは一瞬だけ固まった。

 それから、ものすごい勢いでこちらを見た。

 

「ローゼマイン」

 

 その声を聞いた瞬間、少しだけ泣きそうになった。

 でも泣かなかった。

 泣いたら、お兄さまがもっと怒る気がしたから。

 

「無事なのか」

「うん」

「怪我は」

「してない」

「呪いは」

「たぶん、受けてない」

「たぶん?」

 

 ドラコの眉間に皺が寄った。

 スネイプ先生が横から低く言った。

 

「ローゼマイン。今は余計な不安を増やすな」

「はい」

 

 たぶん、はだめだった。

 

 ドラコはベッドから降りようとした。

 マダム・ポンフリーが即座に振り返る。

 

「ミスター・マルフォイ」

 

 その一言で、ドラコの動きが止まった。

 すごい。

 マダム・ポンフリーの声には、医務室内限定の服従呪文がかかっているのかもしれない。

 

「寝ていろ」

 

 スネイプ先生も言った。

 

「強い昏睡薬を使われた後だ」

「眠っていただけです」

 

「その“だけ”で、お前はポリジュース薬で死喰い人に自分の姿を使われた」

 

 ドラコの顔が歪んだ。

 怒りだ。

 恥でもある。

 そして、たぶん恐怖でもある。

 

「僕のふりをして何をしたんだ」

「マインに睡眠薬を飲ませた」

「何だと」

 

ドラコの声が、医務室の空気を切った。

 

「誰が」

「バーティ・クラウチ・ジュニアだ」

「僕の姿で?」

「そうだ」

「マインに?」

「そうだ」

「睡眠薬を?」

「同じことを何度も聞くな」

 

 ドラコは聞いていなかった。

 顔色が悪い。怒りすぎて白くなっている。

 わたしは慌てて手を振った。

 

「大丈夫。わたしは眠っただけだから」

「大丈夫なわけがないだろう!」

 

 怒られた。

 いや、怒られるだろうとは思ったけど、わたしが悪いわけではない。

 

「お前はもっと危機感を持て! 僕の姿をした死喰い人に薬を飲まされたんだぞ!」

「うん。でも、わたしは本当に眠っていただけで」

「だからその“だけ”がおかしいと言っている!」

 

 

 マダム・ポンフリーが薬瓶を持って近づいてきた。

 

「ミスター・マルフォイ。もう一度眠りたいですか」

 

 ドラコが黙った。

 強い。

 医務室最強はマダム・ポンフリーである。

 

「帰ったら父上に怒られるといい」

 

 わたしは、少しだけ声を落とした。

 

「わたし、家には戻れないの」

 

「何を言ってるんだ」

 

「しばらく、ブラック家に行くことになった」

「ブラック家?」

 

「うん。トムと一緒に」

 

「……なんでそこでトム・ジェドゥソールが出てくるんだ?」

 

 ドラコの言い方の意味が分からずに首を傾げる。

 

「え?」

 

「マイン、まさかと思うが」

 

「うん」

 

「駆け落ちなんて認めないぞ!」

 

「違うよ?!」

 

 スネイプ先生が、ものすごく嫌そうな顔でこめかみを押さえた。

 

「ドラコ。落ち着け」

 

「落ち着けません、スネイプ先生!」

「その結論に至る速度は、落ち着いていない証拠だ」

 

「妹が家に帰らず、男とブラック家に行くんです! 落ち着いていられますか?!」

「状況の説明が悪質に圧縮されている」

「事実です!」

「日刊予言者新聞よりひどいぞ」

 

 わたしは慌てて手を振った。

 

「違うから! トムは友達で、えっと、元日記で、今は実体化して人になってて、ダンブルドア先生に従うって誓って、ハリーを取り戻すために必要で、ヴォルデモート本体とはちゃんと決裂してて」

 

「待て」

 

 ドラコの目が据わった。

 

 しまった。

 言わなくていいことまで言った。

 

 スネイプ先生の眉間の皺がさらに深くなった。もう渓谷である。

 

「元日記?」

「うん」

「実体化?」

「うん」

「ダンブルドアに従う?」

「うん」

「ハリーを取り戻す?」

「うん」

「ヴォルデモート本体と決裂?」

「うん」

 

 ドラコは深く息を吸った。

 

「マイン」

「はい」

「お前は、どうして一文ごとに事件を増やすんだ」

 

 そんなつもりはない。

 ないけれど、言い返せなかった。

 スネイプ先生が、低い声で言った。

 

「私が簡潔に言おう。要するに、ローゼマインは当面マルフォイ邸には戻らない。ブラック家は不死鳥の騎士団の拠点となり、彼女の保護先にもなる。トム・ジェドゥソールは監視対象であり、協力者でもある。以上だ」

 

 すごい。

 ものすごく分かりやすい。

 最初から先生が説明してくれればよかったのでは?

 ドラコはまだ納得していない顔だった。

 

「なぜマルフォイ邸に戻れないんです」 

 

 その問いに、スネイプ先生はすぐ答えなかった。

 代わりに、静かに言った。

 

「君の家族が彼女を大切にしていることと、あの屋敷が安全であることは別の話だ」

 

 ドラコの顔から、怒りが少しだけ消えた。

 代わりに、もっと痛そうな表情になった。

 

「……父上は」

「後でダンブルドアが連絡する」

 

 スネイプ先生は短く言った。

 

「あの方がいる限り、マルフォイ邸はマインにとって安全な場所ではない」

 

 ドラコは何も言わなかった。

 拳を握って、白くなるまで力を込めている。

 わたしは、そっと言った。

 

「お兄さま。わたし、逃げるわけじゃないよ」

「いや、逃げろ」

 

 即答だった。

 

「え?」

「逃げろ。むしろちゃんと逃げろ。父上と母上には僕から伝える」

「でも」

「でもじゃない」

 

 ドラコは顔を上げた。

 怒っている。

 でも、さっきとは違う怒りだった。

 

「お前が戻って捕まったら、父上も母上も悲しむ。僕も悲しい。だから行け。騎士団だろうが、犬小屋だろうが、今は安全な場所にいろ」

「犬小屋ではないと思う」

「ブラック家なら黒犬がいる犬小屋だろう」

 

 スネイプ先生が、ものすごく小さくため息をついた。

 

「……そこは否定しきれんな」

 

 いいんだ。

 否定しないんだ。

 ドラコはもう一度、わたしを見た。

 

「ローゼマイン」

「はい」

「ジェドゥソールと二人きりになるな」

「たぶんならないよ。シリウスさんもいるし、フェルディナンド先輩もいるし」

「あと、ブラック家の本を読むな」

「えっなんで?」

「えっなんで、じゃない」

「でも、ブラック家だよ? 古い名家だよ? 書庫あるよ?」

「だから読むなと言っている!」

「目録だけなら」

「目録から始まって本文に行くのが君だ!」

 

 なぜ分かるのか。

 兄だからか。

 

「あと、ジェドゥソールに本を勧められても読むな」

「それは難しい」

「難しいじゃない!」

 

 ドラコは本当に怒っていた。

 でも、その怒りの底にあるのは、たぶん心配だった。

 ドラコは、ぎゅっとシーツを握った。

 

「……はやく帰ってこい」

「帰るよ」

「いつ」

「分からない」

「分からないのに約束するな」

「でも、必ず帰る」

 

 ドラコは苦しそうに顔を歪めた。

 

「トム・ジェドゥソールとではなく?」

「だから駆け落ちじゃないってば!」

 

 思わず叫ぶと、ドラコはようやく少しだけ息を吐いた。

 

「なら、手紙を毎日書け」

「うん」

「あと、ジェドゥソールと二人きりになっていないかの報告」

「それも?」

「当然だ」

「お兄さま、過保護すぎるよ」

 

 わたしは思わずため息を吐いた。

 

「お前が無防備すぎる」

「そんなことないよ」

 

 スネイプ先生とマダム・ポンフリーが同時にこちらを見た。

 やめてほしい。

 二人同時の無言は強い。

 

「……そんなこと、少しはあるのかも」

「少しではないぞ」

 

 ドラコが即答した。

 わたしは頬を膨らませた。

 

 医務室の白い光の中で、ドラコはまだ怒っていた。

 でも、怒っているドラコの顔を見て、わたしは少しだけ安心してしまった。

 家には帰れない。

 でも、帰る場所がなくなったわけじゃない。

 だから、まだ大丈夫だと。

 そう思いたかった。

 

 

 *

 

 羽ペン通信 ホグワーツ

 

 クラム優勝も深まる謎 迷路内で重大事案か

 記者:パドマ・パチル

 

 三大魔法学校対抗試合の第三の課題が昨夜、ホグワーツ魔法魔術学校で行われ、ダームストラング代表のヴィクトール・クラム氏が最終優勝者となった。一方で、ホグワーツ代表のハリー・ポッター氏が競技後から所在不明となっており、関係者の間には強い不安が広がっている。

 

 第三の課題は、校庭に設けられた巨大迷路内で行われた。代表選手は、ヴィクトール・クラム氏、フェルディナンド・ブラック氏、ハリー・ポッター氏、トム・ジェドゥソール氏の四名。競技は当初予定通り始まったが、終盤にかけて運営側の想定を超える事態が発生したとみられる。

 

 関係者によると、迷路内では代表選手の動きが一時確認できなくなり、不正な魔法が仕掛けられていた疑いがある。競技後、ポッター氏の所在は確認されていない。ホグワーツ側は生徒の安全確認を進めており、魔法省関係者も調査に入っている。

 

 正式な競技結果としては、クラム氏が優勝者とされた。だが、表彰時に大きな歓声は起きなかった。ポッター氏の失踪に加え、競技中に発生した不審な魔法など通常の競技結果として処理するには疑問が多すぎるためだ。

 

 ボーバトン代表として出場していたトム・ジェドゥソール氏は、競技上の不正があったとして失格となった。ただし、失格理由の詳細は公表されていない。ジェドゥソール氏の突然の失格処分について、生徒の間では困惑の声も上がっている。

 

 ホグワーツ関係者は本紙の取材に対し、「現時点で公表できることは限られている」とした。一方で、第三の課題中またはその直後に、死喰い人とみられる人物が拘束されたことも確認されている。バーティ・クラウチ・ジュニアがバーティ・クラウチ・シニアに化けていたのを本紙は確認している。

 

 アーニー注:僕とパドマ、セオドール・ノットで追い詰めて正体を突き止めたんだ。

 

 パドマ注:正確にはセオドール・ノットが狂言被害で追い詰めて、アーニーが推理をいくつか外して動揺させて、最後に私が正体を突き詰めました。

 

 ローゼマイン注:連携プレーが見事すぎる。

 

 三大魔法学校対抗試合は、過去にも危険性が指摘されてきた競技である。今回の復活開催にあたっては安全対策が強調されていたが、実際には第一の課題でドラゴン、第二の課題で水中救出、第三の課題で巨大迷路と、代表選手には極めて高い危険が課されてきた。そこへ不正な魔法が入り込んだのであれば、「危険な競技」では済まされない。

 

 優勝したクラム氏本人も、表彰後に晴れやかな表情は見せなかった。近くにいた生徒によると、同氏はポッター氏の失踪を強く気にしていたという。優勝者が決まっても、競技そのものが終わったとは言いがたい空気が残っている。

 

 ホグワーツでは現在、生徒の寮への誘導、代表選手の安否確認、迷路の魔法痕跡の調査が進められている。神秘部の職員が校長室を訪れたとの情報もあり、時間魔法や予言に関わる異常が確認された可能性もある。ただし、この点について魔法省は公式な回答を避けている。

 

 第三の課題は、クラム氏の優勝で幕を閉じた。

 しかし、ポッター氏が戻らない限り、この大会が終わったとは言えない。

 

 ドラコ注:ポッターが戻ったら一発殴る。その後で、何があったか聞く。

 

 ローゼマイン注:それ、心配してるって言うんだよ。

 

 

 恋の脚注

 ハリポ不在でも動く恋模様

 記者:ロメルダ・ベイン

 

 第三の課題ではヴィク様が優勝した。でも、表彰の時の顔が全然「優勝しました!」じゃなかった。あれは「勝ったけど、何も勝っていない」顔だった。ハリポがいないのに喜べるわけがない。そこをちゃんと分かってるの、かなり良い。

 でもその後、ハーみょんに「夏休みに遊びに来てくれるか」と聞いたらしい。

 この状況で? と思う人もいるかもしれない。

 でも、逆に思う。

 この状況だからだ。

 明日が普通に来るか分からない時、人は案外、今言わないと消えてしまう言葉を言う。ヴィク様は無口系大型犬っぽいのに、そういうところでちゃんと一歩踏み込む。ずるい。これはロンロンが荒れる。荒れるけど、ロンロンもそろそろ自分の気持ちに名前をつけた方がいい。脚注ではなく本記で言う。ロンロン、がんばれ。

 

 ロンロン注:今の話、僕何か関係あった?? 

 

 次に、チョウ先輩。

 泣いていた。

 そりゃ泣く。ハリポがいなくなって、泣かない方が無理。

 その隣にいたのが、セド王子だった。

 ここ、大事。

 泣いている人に「泣くな」と言う男子は多い。

「大丈夫」と雑に言う男子も多い。

 でも、本当に必要なのは、泣いている人の隣にいて、泣く時間を奪わないことだったりする。

 セド王子にはそれができる。

 ハッフルパフの良心。発光してる。まぶしい。廊下の照明いらない。

 チョウ先輩が誰を好きか、今どう思っているか、そんなのは本人にしか分からない。でも、あの時そばにいた人のことは、たぶん忘れない。恋になるかは知らない。けど、支えにはなる。記者はそういうのもちゃんと見ている。

 そしてフラ様。

 トム様からロンロン兄でホグワーツOBのビル兄貴へ興味が移ったかもしれないらしい。

 早い。

 早いけど、分かる。

 ビル兄貴、職業が呪い破り。まず職業が強い。長髪、ピアス、余裕、危険職。属性の盛り合わせ。フラ様、さすが見る目がある。トム様は美貌と謎で殴ってくるタイプだけど、ビル兄貴は経験値と色気で殴ってくるタイプ。ジャンルが違う。

 意外なことにトム様はもうフラ様の恋愛戦線には参加していない。参加していないのに顔面だけで周囲をかき乱す。大変迷惑である。

 そのトム様。

 今回本紙は、ダンブルドア校長に「愛じゃな」と言われて、即座に「違います」と否定したという情報を入手した。恋を通り越して愛の予感ってこと? 

 フォイ君が「駆け落ちなんて認めないぞ!」と言ったらしいのも聞いたけど、まさかブクマちゃんとトム様絡み? これは要観察必須!

 

 途中リタイアしたフェル先はびっくりするほど恋の噂一つない。卒業後は神秘部の無言者になるってよ。

 

 アストリア注:歴代の無言者は閉心術に優れていることが必須だったと言われています。フェルディナンド先輩の恋心が掴めない理由かもしれませんね。

 

 迷路の中で何があったのかは、まだ全部分からない。

 でも、迷路の外で誰が誰を大事にしていたのかは、少しだけ見えた。

 

 ハリポ、早く戻ってこい。

 戻ってきたら、みんなに怒られて。

 それから、ちゃんと誰かの隣に座って。

 英雄じゃなくていいから。

 物語の真ん中じゃなくていいから。

 ただ、帰ってきて。

 

 ロンロン注:ハリーはほんとに戻ってこいよ! みんな待ってるぞ! 

 

 ルーナ注:なくしたものはいつも最後には戻ってくるんだ。たぶん少し意外なところから。

 

 アーニー注:このコラムだけ異様に明るいのは何かの暗号か? 隠された真実がこのコラムに隠れているのかもしれない。

 

 ハーマイオニー注:ロメルダ・ベインがこの状況でもロメルダ・ベインしているだけです。

 





残りあと1話で炎のゴブレット編完結です。そのほか番外編2話(リータ・スキーターの魔法書研究会回、マルフォイ家の家族会議)が控えています。

よろしくお願いします。
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